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はるけきひと
−As it is through−

著作 早坂由紀夫



 去年のクリスマスの日にお母さんが死んだ。


 それも、雨と雪の混じった最悪の天気で、
            凍える様な寒さの日に。



 大好きだったお母さん。
 優しい笑顔ばかりだったお母さん。

 いつも朝起きると台所で朝食を作っていた。

 白味噌で作ったお味噌汁が日課だった。
 たまにしょっぱかった。
 見つめるほどに大好きだった背中。


 喧嘩なんて、殆どした事無い。

 よく一緒に服を買いに行ったりした。
 恋の相談に乗ってくれたりした。


 私の前でお父さんの事をちゃんと誉めた事はなかった。

 でも私にはいつの間にかちゃんと解っていた。
 その瞳がお父さんを映す時、他とは少し違うんだって。


 なにより私はお父さんとお母さんが大好きだった。


 大好きだった。




 …………



 私の家は緩やかな坂の途中にある。


 寝起きの悪いお父さんと私にはキツイ条件の家だ。


 お父さんはお母さんが居なくなってから、
 何ヶ月かずっとふさぎ込んでいた。

 お母さんが居なくなった事を認めるのに時間がかかったのだろう。
 私も結構な時間がかかった。

 きっと、お父さんは私の事なんて気にもかけてない。

 あの日からそれは仕方ないと割り切る事にした。

    逆にそう思い知らされたんだから。



 でも私は……お父さんが、大好きだ。


「お父さん、行ってらっしゃい」

「……ああ。っていうか、お前も学校だろ」

「良いんだよ。出かけるのはお父さんが先でしょ?」

「あほくさ……」
「え〜? ひっど〜いっ」


 まるで親子の会話にはきこえない。

 お父さんは傘を手に持つと靴べらを使って、
 25.5cmの革靴を履く。

 普通の男の人より小さいサイズの靴。
 下手したら私の同年代の男の子より小さい。
 まあ、背は180cm近くあるんだけど。

 私もそれにならってローファーに足を伸ばした。


「こら、踵を踏んで履くんじゃあない」
「いいじゃん。こっちの方が早いし」

「そう言う問題じゃない。危ないだろ」

 仕方なく私も靴べらを使ってちゃんと履く。
 別に大した問題じゃないと思うんだけどなぁ……。

 晴れた空の下。

 私とお父さんはゆっくりと日差しに向かって歩いていく。
 気持ちが温かいせいか、少し気温も温かい気がした。

 それでも息をすれば出てくるのは白い吐息。

 私達の歩く後ろへとそれは流れていく。

「……そうそう、お前香水なんて付けてるみたいだけど、
 高校生は皆そんなもの付けてるのか?」
「悪いの?」

「まだ早い」

「ちぇ〜、けち〜」
「ケチで結構。若いんだから素材の魅力で勝負しろよ」

「え……」

 なんか微妙に誉められた気分がした。
 それに……香水付けてる事、気付いてくれてる。

「安物の香水なんて付けてると、安っぽいと思われるぞ」

「ふんだ。お父さんこそ、そろそろ何か付けたら?
 親父の匂いって奴で周りに毛嫌いされるよ〜」

「ばかヤロっ……俺はまだ若いっつ〜の!
 そういうのは30代後半になってから考えりゃ良いんだよ」

 隣のお父さんは日傘というわけでもなく、
             ずっと傘を差し続けている。

 理由をはっきりと聞いた事は無かった。


 でも……何となく解る。解っちゃう。


 その事には一切触れず、関せずに私は隣を歩く。
 周りの人から少しばかり奇異の視線を浴びても、だ。

 ふいにお父さんの顔をチラッと見てみる。

 大丈夫。視線に気付いてない。


 本当、すぐにでも結婚できそうな容姿をしている。

 バツイチで子持ちだとしても、
 お父さんに群がる人は多いだろう。
 ただお父さんは今でも左手の薬指に指輪をはめている。

 シンプルだけど綺麗な銀色の指輪。

 それがお父さんの女除けになっていた。

「それじゃな」

 言葉少なに駅へと歩いていくお父さん。


 なんかなぁ……遠い高校を受験すれば良かった。


 友達と学校の校門で落ち合うと、
 私は友達に尋ねてみる。

「ねえ、お父さんって……どう思う?」

「お父さん? そうだなぁ〜。
 強いて言えばウザくてたるい金の湧く泉?」
「うわ……えげつな……」

「なによぉ、掛け替えのないパパよ。
 とでも言って欲しかったわけぇ?」

「や、そーいうんじゃないけど、さぁ……」
「もしかしてあんたファザコン?」

 うわ。相変わらず痛い所を付いてくる。

「なっ……ち、違うわよっ!」

 私は頬が紅潮するのを怒りに紛らわせた。


「いや解るよ〜。あんたんちのお父さんは格好良いもんね。
 私なんか素でちょっと好きだもん」

「そ……そうなの?」

「くっく……あんた、やっぱファザコンだわ」

「こ、こいつ……」
「まあでも、格好良いのは確かよね。
 最初会った時はお兄さんかと思ったもの」

「それは誉めすぎ……」

 お父さんは格好良い。それは間違いない。
 昔から欠点を隠したがるのか、弱みを見せない人だった。
 あの時までは。

 ……或いは、お母さんだけには見せてたのかな。

 私の前ではまるでアイドルみたいなお父さんだった。
 ずっと、今でもずっと……。



 子供の頃に書かされたお父さんについての作文。

  「私は将来、お父さんのお嫁さんになりたいです」


 今じゃ恥ずかしくて見る事も出来やしない。







「お父さん、酔ってるの……?」

「紗恵里っ……!」

 涙を流していた。
 あの、決して弱みを見せないお父さんが。

 呼んでいたのは私の名前じゃない。

  ――――――――お母さんの名前だ。

 圧倒的にお父さんの力は強かった。
 けど私も抵抗するつもりはなかった。

 間違えて良いよ。それでお父さんの辛さが減るんなら。

  夜を通してお父さんは泣き続けた。

            シンジラレナイ……。

   あれだけクールだったお父さんが。

 それを見ていた私は、なんとなく辛かった。

 なんだか、お父さんが可哀相だったから。


 どうしてお母さんは、私達を残して居なくなってしまったのだろう。






 がばっと身体を起こして辺りを見まわした。
 午後の授業が終わる寸前だった。

 未だにあの時の夢を見てしまう。

 一年前の、あの出来事の夢。

 お父さんはあの時の事を覚えてない。
 だから私は忘れられなかった。

  それでいて、おくびにも出せなかった。


 丁度あれから一年。
 お母さん、また巡ってきたよ。

 貴方の命日になったクリスマスが……。



 お母さんはいつも言っていた。

  「くすっ……お父さんはね、私が居なくちゃ何も出来ないのよ」

 本当に、その通りだと思う。
 でもお父さんは立ち直ろうとしてるよ。

 私が支えになれてるのかは解らないけど、
 あれからこうして社会生活には復帰できた。



 ……もうお母さんが居なくても、たぶん平気。



 ああ、心配しなくても大丈夫。

 お母さんへの気持ちは今も変わらないみたいだから。

 重い腰を上げると私は帰り道を辿っていく。
 私には付き合って半年になる彼氏が居た。
 だからいつもは彼と一緒に帰っている。

「な、今日はどうする? ベタだけど表参道とか行くか?」
「ん〜ん。今日は先約があるから駄目」


「マジで? 彼氏より大事な用ッスか?」

「まあね〜。今日、ウチのお母さんの命日なんだ」

 軽く彼氏の顔に緊張が走る。
 多分、言っちゃマズい事を言ったと思ってるんだな。

「あ……そう、なんだ。じゃ、仕方ない……よな」
「くよくよしなくても、その内ヤラせてあげるから」

「ばっ、そんな不純な目的で誘ったワケじゃねえよ!」

 ちょっと怒ったみたいだけど、照れと半々だ。
 こいつをからかうのは本当に楽しい。

 そう……私は多分、彼の事が好きだ。


 ただ、これでも私って秘密の多い女だからなぁ……。
 君の意に添う様な都合の良い女ではいてあげられない。

 ごめんね、彼氏。




 帰ってくると私は一足先に準備を始めた。
 小さなクリスマスツリーを飾り付ける。
 お母さんの写真立てをテーブルに置く。

 それからちょこっとだけお洒落もしてみた。


 一応、昔やってた蝋燭を立てて電気を消してみる。

「うはぁー……辛気くさいから蝋燭は止めとこ」


 電気を付けると蝋燭を片付けた。



 この日は、今年からワインを開ける事になっている。


 シャブリ・グランクリュ「ムートンヌ」。


 祝い事の時によく両親が飲んでいたワインで、
 お母さんが大好きだったらしい。

 今年は、私が飲んだっていいと思う。

 ワイングラスをテーブルの上に二つ並べた。


 見方によれば、家族の行事には見えない。

 黙って私はお父さんの帰りを待つ。
 すると、意外と早くお父さんは帰ってきた。

「この二つのワイングラスは……なんだ?」

「私も飲むから」

「やれやれ……あいつに似て育っちまったなぁ」
「え……?」

「いや、母さんも昔は良くそうやって俺を困らせたんだよ。
 貴方が飲むなら私も飲むわって言ってさ」

 ふと会話が途切れた。
 お父さんは黙ってワインのコルクを抜いていた。

 景気の良い音がしてワインが開けられる。

「さてと……メリークリスマス」

「うん。メリークリスマス」

 どうしていいか解らずに、私は言葉を返した。

 お父さんは二つのグラスへ上手にワインを注いでいく。
 なんだかその光景も少しだけ懐かしい気がした。

 ワインの一杯目をすぐに開けると、
 すぐさま次を注ぐ。
 その隣にはいつの間にかケンタッキーが置かれていた。
 前はお母さんが作った料理だったのになぁ……。


 こういう所で、お母さんがいない事は堪える。

 私はワインを一口飲んだ後で少し涙ぐんでしまった。


「あれからもう一年か……早いもんだな」

 お父さんはそうやってお母さんを懐かしむフリをした。
 そう、フリだよ。

 あの傘だって、結婚指輪だってそう……。



  この人はお母さんを過去にしてはいない――――。



 あおる様にワインを口の中へと流し込んだ。

「うぇえ……まずい」

 苦くて酸っぱい。
 ビールとかよりずっと飲めなさそうな味だった。

「やっぱりお前にワインは早いな……。
 ほら、ケンタッキー買ってきたから食え」

 そう言ってお父さんは私の手前にそれをずらす。
 どこか子供扱いされてる気がした。

 確かにいつまでたっても子供なのかも知れない。
 私は思いきってワイングラスにつがれたワインを飲み干す。

「おい……大丈夫かよ」
「大丈夫。ぜんっぜんヘーキよ」

「無茶して吐くなよ……?」


 私だって酒の飲み方ぐらい知ってる。

 いつも私は、そうやって護られてるんだ。
 悔しくてもう一度ワインを一気に飲み干す。

 少し、頭の中で色んな事が駆けめぐった。

  うん。お母さんに似てるって言うのは良く言われる。
  でもお母さんみたいに綺麗じゃない。


  御飯だってまだまだ上手く作れない。
  お父さんの心を支える事だって、全然出来てない。

 けど、けど……気持ちなら同じくらいだよ。

 お母さんもお父さんも、大好きだよ。


 隠れて、とても辛そうな顔をするお父さんを見てられないんだ。

 気付くと結構な時間が過ぎてる事に気付く。

 色々な話をしてたはずなのに、頭からどんどんすり抜けてた。
 酔いすぎてるみたいだなぁ。


「お〜い。ぼ〜っとしてんじゃねえぞ。
 寝るなら今日は風呂に入らなくて良いから。
 歯を磨いてさっさと寝ろよ」

「うぅ〜……ちょっとだけ頭がフラフラする」


「仕方ねえなあ。水飲むか?」
「……うん」

 ああ、ちょっとお父さんも酔ってるみたいだ。
 でもさすがにあの時みたいな事はない、か。

 へへ……私、ちょっと期待しちゃってるみたい。


 私はふざけてお父さんに言ってみた。

「ねぇ、口移しで飲ませてよ〜」

「はぁ? 意識あるんだから自分で飲みなさい」
「なんだよぉ……けちぃ」

「意識不明になるほど飲んだ時は、
 俺が口移しで飲ませてやるよ」


「ふ〜ん」


 私はワインの瓶を抱えてそれを飲み干そうとした。

 ふふ……思った通り慌ててこっちに走ってくる。

 このくらいで慌ててくれるなら、
 私は幾らだってお酒飲んじゃうよ。

「馬鹿野郎、急性アル中とか起こしたらどうするんだ!」


 持ってきた水をお父さんは口の中に含む。

 そして、  ……ゆっくりと水を私に口移しした。

 唇の感触が、ほんのり温かい。

「コレで良いんだろ?
 ったく、下らないコトしやがって」

「えと……お父さん、大好き」

 真っ赤な顔が余計にぼわっと赤くなる。


 けどお父さんは顔色一つ変えずに答えた。

「はいはい」
「おとーさんは?」

「ばーか。自分の娘が嫌いな父親が何処に居るんだよ。
 愛してるに決まってるだろうが。最愛だっつーの」

「へへ……えへへっ……そっか、そだよねー」
「うわ、気持ち悪いにへら笑いしてるんじゃねえ」

 そんな事言われたって笑顔を消せるはず無い。
 娘として、最愛だって。


       ……愛してるんだって。


 うわぁ〜、ちょっと娘に言うには過激なコトバだよ。

 私だから……そう思うのかな。

 嬉しい半分、少しだけは辛い部分もある。
 私の『大好き』が家族愛にすり替えられちゃったから。


 でも、きっと後悔するから……この事は心にしまっておこう。

 お父さんの気持ちが聴けただけでも、今は嬉しい。



 床に座ってるお父さんの膝に頭を乗っけて、
 そっと私は目を閉じた。

「このファザコン娘。ちったあ父離れしろ」

「うるさいなぁ〜、人の勝手でしょ」

「歯も磨かないで寝る気か?」
「うへぇ〜……お父さん、磨いてよ〜」


「お前、俺をナメてるだろ……」

「嘘だよっ。起きるってば」


 手でげんこつしようとしたので私は慌てて飛び起きた。



  ずっとこの生活が続けばいいと思う。

 留まることなく、移ろうことなく。

   私の気持ちは何処へも向かってないけれど……。

  戸惑うばかりで 八方が塞がれてるけれど……。

 やっぱり私は、この気持ちのままで良い。




 歯を磨き終わった頃にお父さんの声が聞こえてきた。

「おい、ちょっと来て見ろよ」

「なに?」

「雪が……」

「えっ! 雪が降ってるの?」
「降りそうだな、と」

「あ、あのねえ……」


 まだ軽く酔ってるのかな。

 折角ロマンチックな気分になるかと思ったら……。


 お父さんは庭へ出るガラス戸を開けて空を見ている。
 ふと思い立って、私はその酔い覚ましに付き合うコトにした。

 小走りで隣に行くとお父さんの右腕を掴む。


「おぁっ、なにすんだよ」

「寒いから親子で団欒しようと思って」
「まあ……寒くはあるかも、な」

 ほうけた様に空を見つめながら、
 お父さんは私の頭を撫でている。


    そう、  今はコレで良いの。

 そしてこれからも、ずっとこのままで良い。

 変わらずにお父さんと一緒にいられれば、それで……。

END

 

 

 

 

 

〜後書き〜

執筆時間は一日程度、って所でしょうか。

今回、物語に関する事を語るのは止めておきます。

考える余地を作るのが書く時のテーマの一つだったので。

例えば主人公の立場の様なものも、実は結構入り組んでます。

こんなタイプの主人公を書くのは初めてに近いので疲れました。

なんというか、どんな感情かが解りづらいというか。

テーマの一つがクリスマスだったのですけど、

どうしてもこういう話は続きが書きたくなります。

クリスマス短編3作の1作目でした。