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紫苑の夜

著作 早坂由紀夫

Chapter28
「アスモデウス(U)」

7月29日(火) PM19:36 快晴
旅館・『十六夜』一階・食神の間

俺は這い蹲りながらもなんとか紫齊の所へ辿り着いた。
気絶してる様なので頬を軽く叩いてみる。
ぺちぺちと叩いていると紫齊はゆっくりと目を覚ました。
よかった、そんなに重傷じゃないみたいだな。
「うっく・・・いた、痛いよ」
「大丈夫?」
「・・・ん、凪・・・凪っ・・・!」
物凄い勢いで起きあがるが立ち上がる事は出来無さそうだった。
俺はなんとか紫齊を壁に座らせる。
「ごめん、私・・・」
紫齊はそんな事を言って何かを謝ろうとしてきた。
だから俺はそれを止める。
「紫齊、ありがとね」
「あ・・・うん」
こいつがやってくれた事は謝られるような事じゃない。
それどころか感謝するべきだと思ったんだ。
そして俺はイヴの方を流し見た。
両者は硬直状態が続いている。
闘いのゴングを待っているかのように。
だが俺にはなんとなく解っていた。
・・・この勝負、後少しでケリが付く。
さっきから見た感じだとイヴの分が悪かった。
もしイヴが負けたら、俺達は・・・。
辺りには身動き一つせずに佇んでいる食人鬼達がいた。
多分、イヴの炎を警戒しているんだろう。
今あいつらに襲われたらどうしようもない。
ゆりきさんは気を失っていたので、
紫齊の隣に寝かせていた。
甍ちゃんもその隣で気を失っている。
頼むぞイヴ・・・お前を信じるからな。
どんな時でもイヴは黒い炎で悪魔を葬ってきた。
だからきっと今度だって大丈夫。大丈夫さ。
その時、イヴ達の時間が急速に時を刻み始める。
「てめぇは、死刑だっ!」
アスモデウスが物凄いスピードで右拳を振り下ろす。
イヴはインパクトの寸前に飛び退いてかわした。
拳はそのまま畳ごと旅館の床を叩き砕く。
まるで小隕石が落ちたような衝撃だった。
俺と紫齊はいつの間にか抱き合ってそれを見ていた。
イヴはその直後アスモデウスの右へと走る。
奴の腕が引くのと同じスピードで懐に飛び込んでいった。
「貴様の炎を見せて見ろ、アスモデウスッ!」
「・・・お前の炎と比べようってのか?
 俺様の炎を甘く見るなっ!」
左腕がフックの形でイヴを捉える。
だがイヴは上手くそれをいなした。
そうやって紙一重で交わしたかと思うと、
イヴはその腕を伝いアスモデウスの肩口へと昇っていく。
「この至近距離では他に手も無かろう。
 炎を吐かないならその口、叩き壊してやるぞ・・・!」
「ふん、面白い・・・貴様の手に乗ってやるよ!!」
三つの頭が一斉にイヴへと口を開く。
それはさながら戦艦の一斉射撃の様だった。
イヴは目を閉じて炎の気配を感じてるようだ。
先の会話から時間にして3秒もない。
すぐさま物凄い圧力の炎がアスモデウスから放射された。
イヴもそれに呼応するように黒い炎で応戦する。
炎同士の衝突。
まるであり得ないような光景だった。
黒と赤の炎がその色を濁すようにぶつかり合っていく。
光り輝き、互いの距離の中心で燃え上がっていた。
だが徐々にイヴの方へと火は向かっていく。
・・・押されてるのか?
「どうした? 随分とひ弱な炎だな。
 そんなんじゃ掻き消しちまうぜ?」
そんな事を言うアスモデウスだが、
言葉ほど余裕があるわけではなさそうだ。
しかしイヴの劣勢に代わりはない。
あいつはただ黙ってその手をアスモデウスに向けていた。
このままだとイヴは負けるだろう。
・・・俺の力が1にでもなればよかった。
イヴ達の闘いに些細な影響でも与えられればよかった。
だけど・・・アスモデウスを前にして俺はあまりに無力。
この闘いにおいて俺の力は・・・ゼロ。
あのイヴだって苦戦しているのに、
俺なんか何も出来るはず・・・ない。
ただイヴが勝つ事を祈って目を瞑るしかなかった。
そうしているとアスモデウスがイヴに言う。
「終わりだっ・・・!
 貴様も、この旅館にいる人間も全てな!」
アスモデウスの口からさらに炎が勢いよく吐き出された。
だが俺の頭にそれは認識されていない。
イヴと・・・旅館にいる人間全て。
アスモデウスによって殺されてしまう。
いや、あるいは食人鬼の手によって。
真白ちゃんに、紫齊に、甍ちゃんに、ゆりきさん。

  そして、紅音――――――――!

 

7月29日(火) PM19:37 快晴
旅館・『十六夜』三階・十夜の間

あれから少しの時間が過ぎていた。
ドアの向こうの人達は依然として、
ぬいぐるみごとドアを壊そうとしている。
怖い・・・怖いよ、凪さんっ・・・!
「真白ちゃん・・・安心して大丈夫だよ。
 凪ちゃんは私達を助けてくれる」
「・・・はい、そうですね」
「解るんだ。凪ちゃんの事なら、何でも・・・ね」
「え・・・?」
そういう紅音さんの顔は微笑んですらいた。
ドアの向こうに十数人の食人鬼達。
壊れかけたぬいぐるみ。
・・・なのに紅音さんは笑ってる。
どうして?
そこまで、凪さんを信じられるの?
私は凪さんへの想いなら絶対に、
紅音さんにもひけはとらないと思っていた。
だけど紅音さんは、何か違う。
凪さんとお互いに何か強く結ばれてる気がする。
まるで、運命の赤い糸で結ばれているかのように。
・・・それだけじゃなかった。
何か紅音さんは確信みたいな物がある気がする。
その時、ドアにあったぬいぐるみが真っ二つに裂けていった。
「あっ・・・!」
すぐさまぬいぐるみは床に崩れ落ちてしまう。
そしてドアがガタガタと震えだした。
次の瞬間、目の前に物凄い形相をした食人鬼の群れが現れる。

――――――もう駄目だっ・・・!

 

7月29日(火) PM19:38 快晴
旅館・『十六夜』一階・食神の間

まるでスローモーションだった。
炎同士のぶつかり合いの拮抗が破れ、
イヴの黒い炎が押し返されて直撃を受ける瞬間。
凪の身体からエメラルドグリーンの光が放たれる。
あまりに強い輝きで、イヴとアスモデウスは視界を塞がれた。
そしてその光はアスモデウスごと上空へと迸る。
アスモデウスの身体に異変は見あたらなかった。
だがその光に重症を負っている。
それは精神体、いわゆる魂への攻撃だった。
しかしイヴもアスモデウスもそれが解らない。
イヴに解っていたのはただ、
アスモデウスの力が弱まったという事だった。
その機会を逃さずにイヴは力業で黒い炎を押し込んでいく。
「な、なにっ!? 馬鹿な・・・!」
「貴様の炎・・・何故かは知らんが弱くなっているぞ。
 どうやら終わるのは貴様の魂のようだな・・・!」
言うが早いかアスモデウスの身体は、
黒い炎に焼かれていく。
身体が塵へと変わっていく感覚。
魂がバラバラにされる感覚をアスモデウスは味わう。
「いやだっ・・・死ぬのは嫌だっ!
 俺様が、どうして・・・どうしてだっ!」
断末魔の叫びをあげるアスモデウスに、
イヴは淡々と黒い炎を浴びせ続ける。
「・・・貴様が悪魔だからだ」
そんな一言を告げながら。
その内に光で全てが見えなくなっていく。
アスモデウスの身体が強く輝き始めていたのだ。
「うぉおおおっ! 俺が、消える・・・消えて、しま・・・」
弾けるようにアスモデウスの身体が砕け散る。
物凄い爆発にそこに居た全員が目を閉じてしまった。
それは圧倒的な質量である悪魔の完全体から、
内包するエネルギーが放出しているのだった。
イヴは手を翳してそれを見つめる。
「喰らってきた人達への懺悔の華、か・・・やりきれないな」
それはイヴ自身にとって意外な言葉だった。
人間を助けに来たわけではない。
悪魔を滅しに来たのだ。
そうイヴは考えていたはずだった。
だが今この瞬間、イヴは感情を揺さぶられていた。
目の前で死んでいった人々。
陵辱されてしまった女性。
少しだけその人達に報いたい、そう思っていた。
(私は・・・まあ、こんな気分も悪くない・・・)

7月29日(火) PM19:42 快晴
旅館・『十六夜』一階・食神の間

自分でも何をしたのかよく解らない。
ただ、アスモデウスは消え去った。
イヴは勝った。それだけが解った。
紫齊は目の前を呆然として見つめている。
現実感がないんだと思う。
俺だってこんな出来事が現実だとは信じがたい。
と、そんな俺にイヴが駆け寄ってきた。
「凪・・・大丈夫か?」
「ああ、うん。私って頑丈だからさ」
そう言う俺に軽く手を触れるイヴ。
すると少しだけ身体の痛みが取れた気がした。
「しかしお前は一体・・・いや、今は先にやる事がある」
「やる事?」
いきなりイヴは紫齊に当て身を入れて気絶させる。
「ちょ、な・・・何やってるの!?」
「知らない方が良い事もある。
 今起きた事だけは夢だと思わせるのだ」
「今起きたって・・・イヴがあいつを倒した事?」
「そうだ。あまり大勢の人間に知られても困るしな」
そういうとイヴは紫齊を背負って歩き出す。
そして呆然と見ている私に言った。
「凪、傷はほぼ癒えたはずだ。
 その二人を部屋に連れて行ってくれ」
「・・・え? う、うん・・・」
危険は去ったみたいだった。
けれど謎は残っている。
俺の身体から出た光。
あれは一体・・・俺は、何者なんだ?
普通の人間じゃ・・・無かったのか?
ただ、エメラルド色した光が・・・空へ舞っていった。
まるで天国へでも届くかの様に。

7月29日(火) PM19:50 快晴
旅館・『十六夜』三階・十夜の間

俺は急いでゆりきさんたちを背負って九夜の間に運んだ。
身体は少し痛かったけど、大して辛い作業じゃない。
紫齊も九夜の間に転がされていた。
ついでだったので布団を出して寝かせておく。
そして俺は十夜の間に帰ってきた。
しかしドアが破壊されている。
それを見て慌てて飛び込んでいくと、
俺めがけて何かが襲いかかってきた。
「う、うわっ!?」
「凪さぁ〜〜んっ!」
「凪ちゃ〜〜〜んっ!」
物凄い重みで倒れ込みそうになってしまう。
真白ちゃんと紅音が抱きついてきたのだ。
二人とも無事だったのか・・・良かった。
「この人達が襲ってくる前、咄嗟に押入に隠れたんです。
 で、なんとか襲われずにすんだんですよ〜」
真白ちゃんはほっとした様にそんな事を言う。
床には沢山の人達が転がっていた。
気絶して倒れているようだが、
全く目覚める気配がない。
イヴは疲れているのか倒れるように寝ている。
まるでさっきまでの緊張が嘘のようだった。
でも、俺はなんだか今までとは違う気がしていた。
全ての人を守れたワケじゃない。
俺達が生きているのは何人もの人が
犠牲になったからかもしれない。
けれど俺は自分の知り合いだけは守れた。
甍ちゃんやゆりきさん、紅音達、紫齊。
俺達は死なずに助かったんだ。
「・・・今日は、九夜の間で寝ようか」
「そ、そうですね」
この部屋はさすがに使えそうにない。
ドアは破壊されてるし、人は倒れてるし。
お爺さん達は後始末をしておく、と言って去っていった。
動じてないワケじゃないと思う。
親しかった従業員は殺され、旅館は酷い有様だ。
多分、何かしてないと辛いんだろうな。
「じゃあ、先に言ってて。
 私は葉月を起こしてからいくから」
「・・・はい」
「凪ちゃん、今日は一緒に寝ようね・・・」
妙な事をか弱い顔して言う紅音。
とりあえず二人を九夜の間にやると、
俺は葉月の隣に座っていた。
辺りには食人鬼だった人達が居る。
それも今はぐっすりと眠っていた。
葉月の表情は凄く安らかに見える。
闘ってる時とは違って張りつめてない顔。
まあ寝てるんだから当たり前だ。
「それにしても・・・すぐ寝ちゃう程疲れてたのか・・・」
イヴの心配、葉月の心配。
俺は一体どっちの心配をしてるんだろう。
でも、なんだか俺は少しだけイヴが不思議だった。
闘って闘って、安らかな時間は葉月に預けて。
全てを悪魔との闘いにつぎ込んでいる。
それが神の為だと聞いた事はあった。
でもそれだけじゃない。
前にも聞いた事があったな・・・。
何故・・・悪魔と闘うのか。
あれ以来なんとなく聞きそびれていたけど、
ここまでして闘う理由はいったい何なんだ?
罪を贖う為・・・。
俺にはまだイヴの事は何も解らない。
こいつが何を背負って、何の為に闘うのか。
なるべくイヴを起こさないように俺はイヴを抱き上げた。
そして背中に背負うと九夜の間へ運んでいく。

7月30日(水) AM09:03 快晴
旅館・『十六夜』ロビー

その日、違う街の警察が来て俺達は軽く事情聴取を受けた。
だが本当の事なんて信じて貰えない事は知ってる。
だから俺達は良く解らないと答えた。
事件の異常性からして倒れていた街の人間を疑ったのか、
俺達はそこまで詳しく調べられない内に解放された。
多分、女ばかりだったのもあると思う。
それに死体に多量の唾液が付着していた為に、
犯人はすぐに特定できたのだ。
結果、街の人間が殆ど逮捕される事になる。
街ぐるみで起きた異常過ぎる猟奇殺人事件。
そんな風にしてこの事件は幕を閉じていった。

7月30日(水) AM09:46 快晴
旅館・『十六夜』旅館前

俺達とゆりきさん達はここでお別れだった。
ゆりきさん達はバスではなく、
ゆりきさんの車で帰るのだそうだ。
「今度、また・・・会えると良いね」
甍ちゃんは精一杯笑いながらそう言う。
皆、どこかぎくしゃくとしていた。
そんな時にゆりきさんが言う。
「またこの旅館に泊まりに来たいな、私・・・」
「ゆ、ゆりきさん・・・?」
「だってそうでしょ?
 悲しい思い出だけじゃ、ここが嫌になっちゃう。
 私はここには楽しい事もあったと思うの。
 だから悲しい場所にはしたくないよ」
ゆりきさんはやっぱり強い。
多分、ずっとこの人は憧れなんだと思う。
それでいいんだと思う。
ふと隣にいる紫齊が言った。
「・・・そうだよね。ゆりきさんって、強いな。
 そういうのってなんか、憧れちゃうよ」
「そ、そんな事ないよぉ〜〜」
照れるように甍ちゃんを叩くゆりきさん。
なんか・・・空気が暖かくなった気がした。
そしてしばらく話した後で、
ゆりきさん達は4WDに乗りこむ。
俺はどうしても一言だけ言いたくてそこへ走った。
「どうしたの、凪ちゃん」
「さよなら・・・ありがとう、ゆり姉ちゃん」
「え・・・?」
恥ずかしくなって俺はすぐそこから離れていく。
頬を撫でる風は少し俺を感傷的にさせた。
でも悲しいとかじゃなくて、
胸の奥が暖かくなる感じがした。

「凪ちゃん、どうしてその呼び方・・・」
「どうしたの? お姉ちゃん」
「ううん、懐かしい子にあった気がしたの。
 家族みたいに大事だった子で、
 ずっとずっと・・・どうしてるか気になってた。
 でも・・・気のせい、だよね」

7月30日(水) AM11:43 快晴
新幹線内

俺は彼女の事をお姉さんみたいに思ってた。
今でもあの人は姉の様に強かった。
それがなんだか、凄く嬉しかった。
「どうしたんだよ凪、微笑んじゃって」
「・・・なんか少し吹っ切れた気がしてね」
「私の方は昨日の記憶が無くて困ってんのにさ。
 凪が変な化け物に襲われた所までは記憶あるんだけど・・・」
そんな事を言う物だから俺は少し焦ってしまう。
だが俺の代わりに葉月が代弁してくれた。
「化け物って・・・夢でも見たんじゃないですか?」
「な・・・でも、確かに現実味は無かったなぁ」
いまいち納得がいかない様子の紫齊。
こういう時は方法は一つ。
「紫齊、お酒でも飲んで忘れましょ」
「あっ! いいね〜」
そういうとバッグから小さなウィスキーを取り出す。
んで、俺達に配っていった。
「んじゃ、とりあえず飲も〜っ」
しかし紫齊と俺以外ははさりげなくジュースだ。
なんかやられた気分だが、すぐに俺もジュースを飲む。
やっぱり新幹線で飲酒はまずいだろう。
「・・・凪、あんたって裏切り者だね」
「そ、それはまあ・・・だって酔ったら困るし」
紫齊は俺がそう言うと少し俯く。
そしてウィスキーのキャップをゆっくりと締めると言った。
「ふぅ・・・そうかも。お酒はちょっと控えるよ」
「え?」
「少しずつ、少しずつ・・・ね」
そんな風に笑う紫齊は少し大人びている気がした。
紫齊にとってこの旅は無駄じゃなかったのかもしれない。
そう思えた。

車窓から移り変わっていく景色達。
誰にでも平等に接してくれるそれは、
皆の心を少しだけ癒してくれる気がしていた。
少しだけ感傷に浸る事を許してくれる気がしていた。

一夏の記憶を胸に、凪の受難はまだまだ続く・・・。

 

Chapter29へ続く