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黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫


「届かない距離の先」



 夢姫が消える数日前、私は冬子先生のマンションに訪れる。
 前から先生とは色々悩みを相談しあう仲だったからだ。
 ドア前のチャイムを鳴らしてしばし待つ。
 少しして先生の低い声が聞こえてきた。
「今、留守にしてる」
「そんな居留守は役に立たへんよ」
「……夏芽か。どうしたんだ」
「様子を見に来たんや」
「そうか。解った……少し待っててくれ」
 珍しく弱弱しい声で先生は私にそう言う。
 普段、先生は滅多に弱い所を見せないだけに、
 今日の彼女の姿は貴重であり心配だった。
 扉が開くと私は先生の顔を見て軽く驚かされる。
 ノーメイクと言うのはまだ問題なかった。
 素肌が取り立てて酷いなんてことはないし、
 気になるのは腫れぼったい瞼くらいだ。
 それよりも、なんだか生気が無いように見える。
 いつもやる気は無さそうだけど、
 今日はそういうレベルじゃなかった。
「どうしたん、先生」
「いや……うむ。ちょっと飲みすぎてな」
 先生はそう言うと頭を抱えて部屋の中へ入って行く。
 私は思わずアホか、と突っ込みを入れたくなった。
 生気が無いのは当たり前。二日酔いなんだから。
 弱弱しいのだってそりゃ当たり前だ。
 心配をして損をした気がする。
 半ば呆れながら私は先生の部屋へと入っていった。
 すると私はまた驚かされる事になる。
 それはキッチンに詰まれた空瓶の山を見た所為だ。
 幾らなんでも、一人で飲むような量じゃない。
 ビールに日本酒に焼酎。ワインやブランデーもあった。
 まるで数人で宴会でもやったあとのように見える。
「物凄い量やなあ……」
「まあ、一人で酒盛りするには多いかもな」
「……先生がこんなに飲むなんて珍しいやんか」
「色々とあったんだ。色々と……」
 普段のトーンよりも低めの声で彼女はそう答える。
 大人の女性に見えて、意外と先生は解りやすい。
 性格的なものだろうけど、私には少しそれが羨ましかった。
 辛い時があると私は逆に明るく振舞ってしまう。
 過剰なくらい、普段通りであろうとしてしまうんだ。
「相談だったら幾らでも乗るで〜。ウチは聞き上手やから」
「教え子に深刻な相談する教師なんて変だろう?」
「またまた〜。知らない仲やあらへんし」
 考える仕草でテーブルの椅子に座る冬子先生。
 どうやら思ったより深刻な問題を抱えてるみたいだ。
 私も椅子に腰掛けると、先生の言葉を待つ。
 幾ばくかして先生は私の方をチラッと見た。
「まあ夏芽とは色々と話し合ったしな。
 確かに今更、隠し事なんて意味ないか」
「……せやな」
 冬子先生は私の秘密を知っている。
 きっと誰かに話したかっただけで、
 先生に話したことに特別な意味は無かった。
 それでも事実として、彼女は私の重要な部分を知っている。
 初恋の人が誰だったのか。何故、初恋を諦めたのか。
 恐らく他人からすれば理解できない理由だろうけど、
 それを私の一部なのだと先生は言ってくれた。
 そう。思い出せばそれは中学生の話になる。
 私はまだ男の子が好きな普通の女の子だった。
 あの頃は、今の自分なんて想像つかなくて、
 なのにいつも先のことばかり想像している人間だった。



 休み時間。私は廊下で時間を潰す。
 すると一緒にタケが廊下へと出てきた。
「タケ〜。ウチ、今日は何か違わへん?」
 同級生でクラスメイトの大沢武人。
 何気ない会話で私は彼に髪を切った事をアピールする。
 彼は少しだけ考えて、首をかしげた。
「う〜ん。相変わらずだけど」
「アホかッ。髪をよく見てみいや」
「……髪切ったのか」
「せや」
「解らなかった」
 これだらタケは鈍感と言われるんだろう。
 あれだけ桜ちゃんが積極的に出してる好き好き光線に、
 欠片も気付かないわけだから。
 それはそれで、ありがたいわけなんだけど。
「つーか、そんなに切ってないだろ?」
 急にタケは私の髪に触れて長さを確かめてきた。
 顔が近づいた事に動揺して私はビクッとしてしまう。
 でも、平然を装ってなんでもないフリをした。
「やっぱりタケに聞いたのが間違いやったわ」
 軽口を叩いて私はさりげなくそっぽを向く。
 嬉しいけど、顔が近すぎて心臓が持たない。
 下手したら頬が赤くなってしまうところだった。
 こんな態度は桜ちゃんの前じゃ絶対に出来ない。
 あの子とは仲のいい友達なんだ。
 出来るだけ波風を立てたくない。
 それに桜ちゃんは女の子から見ても可愛い子だ。
 私がタケなら間違いなく彼女を選ぶだろう。
 ……ただ、私に度胸が無いだけなのかもしれない。
 この関係を続けたいだけなんだ、きっと。
 心地よくて、もどかしいこの距離で。



 学校帰りはいつも4人だ。
 私とタケ、それに桜ちゃんと淳弘。
 夕焼け空の下を皆で揃って歩く。
 下らない事で笑ったり怒ったり、それが当たり前だった。
「馬鹿だよねえ〜、タケは」
「お、お前の方が馬鹿だろっ」
 桜ちゃんの言葉にタケは冗談交じりで怒る。
 いつも息がピッタリで兄妹らしいものだ。
 だけど私は二人が本当は義理の兄妹だと知っている。
 中学に上がる時、桜ちゃんは私に言った。
 タケとは血が繋がっていない。私はタケが好きだ、と。
 今思えばそれは私への警戒だったのかもしれない。
 仲のいい男女は常に恋愛と結び付けられる。
 小学生や中学生ではそれが当たり前だった。
 だから桜ちゃんも不安になったのだろう。
 彼女の気持ちは解り過ぎるくらいに解っていた。
「なっちゃん?」
 淳弘が私の顔を覗き込んでくる。
 普段鈍感そうに見えて淳弘は意外と鋭い人間だ。
 気をつけないと私の気持ちなんてすぐに気付かれてしまう。
「タ、タケの馬鹿さ加減を見て驚いてただけや」
「あ〜。そっかあ」
 にこっと笑って淳弘は手をぽんと叩いた。
「そっかあ。じゃねえっ! 納得するな!」
 怒ったタケに淳弘はヘッドロックをかけられる。
 私と桜ちゃんはおかしくて二人して笑っていた。
 それはきっといつまでも続くような光景で……。
 何かが変わるなんて私には考えも及ばなかったのだ。
 ただその毎日が楽しくて、楽しくて。



 ある日の事。私は図書委員会の活動で、
 三人とは別に帰る事になった。
 本の整理を終えて帰ろうとする私に誰かが声をかける。
「ねえ、嵯峨さん」
 眼鏡の向こうには、同じ図書委員で一年上の先輩の姿があった。
 彼女は薄く笑いながら私の隣に腰掛ける。
 河野晶(こうの あきら)先輩は、ボーイッシュな外見なのに
 おしとやかな中身というギャップが特徴的な人だ。
 見た目はそこそこ、と男子は言うけど、私には凄く魅力的に見える。
 明るく見せている私とは違い、実に彼女は自然体なのだ。
 それは多分、人が抱くイメージに踊らされず、
 しっかりした自分を持っているからだと思う。
「前から思ってたんだけど、その眼鏡外した方が可愛いよ」
「そ、そうですか?」
 急にそんな事を言われて私は困ってしまった。
 自分は可愛いとか、そういうのとは無縁だと思ってたから。
 少し強引に先輩は私の眼鏡を外す。
「ほらっ。やっぱり可愛いじゃない」
「ウチが可愛いなんて、ありえないですよ」
「そんなことないよ。貴女はすごく素敵だもの。
 その少しわざとらしい関西弁だって、魅力だって思わないの?」
 先輩の言葉に、私は少しドキッとしてしまう。
 冷やかすようなニュアンスで言ってくれれば、笑って受け流せるのに。
 どうしてこんな真剣な目で、私を見つめながら言うんだろうか。
 眼鏡を手に持ったまま、彼女は私の顔を覗き込んできた。
「河野先輩?」
 顔が近くて、私は固まったように動けなくなってしまう。
 もしかしてこの人、ソッチの人なのでは?
 そう思ったときには、彼女の右手が私のスカートに伸びていた。
「ちょ、せんぱいっ」
「大声出しちゃ駄目でしょ、ここは図書室なのよ」
「せ、せやけど……っ」
 すべすべの手がスカートの下、太腿にそっと触れる。
 声にならない声をあげ、私は先輩を止めようと手を掴んだ。
 けれど、彼女は笑いながら私の首筋にぴたりと左手を添える。
「拒まないで。貴女は絶対に素質があるんだから」
「素質って、なんの……ですか」
「ふふ……まあ、本当に嫌ならもっと拒むはずよね」
 くすくすと笑うだけで、彼女は答えてはくれなかった。
 そんなやり取りの間にも、彼女の手はすでに私の下着を捉えている。
 下着の上から鋸の刃を引くように、先輩の手が愛撫を始めた。
 単純にも思えるその一息で、私の身体はびくん、と跳ねる。
 誰かの手が与える感触など知るはずもなく、
 未知なる快感がただ、身体の芯を突き抜けた。
 そして、私は僅かながら理解していた。
 確かに自分が彼女を拒んでいないということを。
 この状態が嫌なら、きっと逃れる術はあっただろうし、
 触れられたところで不快感しかないはずだ。
 私は……先輩を受け入れようとしている。
 なぜ? 同性だというのに。私は、好きな男の子がいるのに。
 先輩は優しく、本当に優しく深奥をなぞっていた。
「勘違いしないでね、別に私は女の子が好きってわけじゃないのよ。
 貴女だけよ。夏芽ちゃんだから、私はこんなことしちゃうの」
「はっ、あ……」
 力が抜けるような感覚に、抗う気持ちも起きない。
 唇を求めてくる先輩を、両腕で抱きしめているくらいだ。
 唾液の卑猥な音と、先輩の優しい目と。
 それと私への言葉が、抗う気をなくしていく。
 嬉しかったんだ。私と云う存在を求めてくれたことが。
 これでも人はレズと呼ぶのかもしれない。
 けれど、私はそれほどこの行為に抵抗を感じてはいなかった。

――――これはただのきっかけに過ぎなかったのかもしれない。

 もともとこういう気持ちは私の中にあったんだ。
 きっかけがなかったから、表面にでてこなかっただけ。
 先輩が私を愛してくれたから、私も応えようとした。それだけなんだ。
 不思議なもので、それから逢瀬を重ねるたび、私は変わっていった。
 もどかしい先輩との交じり合いを続け、タケたちと接する内に、
 いつしか私は奇妙な境界線を認識するようになっていたのだ。
 男子を好きでいる気持ちと、先輩に抱く感情の境界線。
 酷く曖昧なもので、それがどう違うのかは解らない。
 ただ、はっきり違うことだけは解っていた。
 その境界に立つたび、私は自分の気持ちがわからなくなっていく。
 相手をスキとか、キライとか、そんな二元で語れる気がしなかった。
 逃げ出すように私は自分をレズビアンだと公言し、
 冗談めかして誤魔化す事で色々なことを有耶無耶にしようとした。

 

 それからしばらくして、大沢桜ちゃんが亡くなった。
 どうしてだろう、と当時はよく思ったものだ。
 何故彼女はタケを残して、亡くなってしまったのだろう。
 皆が幾ら泣いても彼女が蘇るはずはなく、
 日が経つにつれ死を認識するだけだった。
 ぼやけた輪郭が徐々にはっきりしてくるみたいに。
 彼女が死んだことで、私はタケに近づくことは出来なくなった。
 なにがあろうと、決して。
 卑怯だという気持ちもあったし、何より曖昧な気持ちで
 桜ちゃんとタケの仲に入りたくなかったからだ。
 ずっと、その考えはずっと続いている。
 私以外の誰かがタケに近づくことを止めたりしない。
 歓迎したっていい。でも私は駄目だ。
 いつまでも、私だけはタケに近づきすぎてはいけない。
 タケがいなくても、私には誰か別の……先輩だったり、誰かがいる。
 けれど――――ふと考えるときもある。
 それなら、この気持ちはどうなるのだろう。
 いつかタケを好きだという気持ちは、消えてしまうのだろうか。
 そもそも私はタケを本当に好きだったんだろうか。
 初恋という熱に浮かされていただけなのかもしれない。
 でも、だとしても……その気持ちを失うのは悲しいことだった。
 両方を残すことが出来ず、どちらかを失うことは、酷く悲しい。
 曖昧なままのタケへの気持ちもまた、私の本質なのだから。
 どうしたって、私自身が変質していくのは変えられない。
 だったら、せめて気持ちくらい上手に、
 悩まず変われるようシフトできればよかったのに。



 結局、あのとき消えかけた気持ちを引きずったままで、
 今こうして私という人間は生きている。
 ゼロにはなってくれないのに、強くもならない。
 どうにもならない中途半端な気持ちが残っていた。
 それは私を形作るものだから無理に消すことは出来ない。
 けれど、時々考えることもある。
 あのとき、先輩に出会っていなかったら――――。
 もし今の私という可能性を知らないままでいられたら――――。
 私はそんな別の未来で、どういう風に生きているだろうか。
 今更、想像もつかなくて私は笑ってしまう。
「どうした夏芽」
「や、人間って面白いもんやなって……な。
 振り返る過去があって、ウチらは今を再確認しとる。
 もう一度自分に向き合えるわけやな」
「どうしたんだ、突然」
「せやから……まあ、細かいこと考えるより、解りやすいやろ?
 黒澤せんせーのこと、諦められへんならそれでええやん。
 騙されてたいうても、酷いこと言われたいうても、やっぱり好きや。
 そう思うなら、もうそれでええやん」
「……そうかもしれないな」
「怒りたかったら会って怒ったらええねんて。
 ここでウジウジしとるより、ずっと先生らしいで」
「あのな、私は別に恨んだりしてるわけじゃないんだぞ」
「わーっとる。先生は、まだ黒澤先生にラブなだけや」
 そう言うと、冬子先生は何か言おうとしたが呆れたように口をつぐんだ。
 今の気持ちがどれだけ続くかなんて、私も先生も死ぬまで解らない。
 解るはずがない。そんなの当たり前だ。
 なら、今感じたことを信じなきゃ、生きていけないじゃないか。
 刹那主義とまではいかなくても、現在は必ず未来の自分に
 繋がっていくのだから、今の気持ちを信じるしかないんだ。