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黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫


君を見つけるまでの間


 レイノスは屋敷を手放す事にした。
 それから次の就職口を手配してやった上で、
 使用人達を全員解雇する。
 幸いにして今までの仕事である程度の財産はあった。
 それでしばらくの間、生活の心配はない。
 気がかりは姉の存在だった。
 彼女は自分の姉であるが故に、粛正対象に加わる。
 神を裏切った者は、一番大切な人と共に殺されるのだ。
 ベッドから起きあがると彼は荷物を整理し始める。
 この先、ずっと彼は追われる事になるだろう。
 だから荷物も入念にチェックする必要があった。
 そんな時に、ドアをノックする音が聞こえてくる。
「レイノス様。入っても宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 シュリアが静かに部屋へと入ってきた。
「千李さんの、事ですか」
 レイノスは深くため息をつく。
 彼の死を伝えてからシュリアは塞ぎ込んでいた。
 何処か虚ろな瞳で仕事もままならない。
 それはあまりに痛々しいものだった。
「一つ……これをレイノス様にお尋ねするべきかは
 解りませんが、聞きたい事があります」
「ええ。どうぞ」
「彼は私の事を愛するが故に、抱けないと言いました。
 ですが私にはそれが解らないのです。
 男の方でその様な事を言う方は……
 その、今まで居ませんでした」
 赤面しながらシュリアはそんな事を話す。
 さすがにそれをレイノスに話すのは変だと解っていた。
 しかし、他に誰に相談して良いか解らない。
 それでレイノスの元へやってきたのだ。
「千李さんは、嘘をついていないと思いますよ」
「恐れ入りますが、気休めなら……」
「いえ、僕は彼がそういう人であると知っているんです。
 彼が女性を愛する事に怯えるようになって、
 偽りの気持ちで人と接するようになった理由。
 シュリアさんには話しておきます」
 そう言ってレイノスはある話を始める。

***

 会社から定時に出て時間を確認する。
 いつも通りのデートの時間だった。
 夕暮れも落ちかけた、暗い街頭を歩いていく。
 それで、交差点に出るとそこを真っ直ぐ直進した。
 目の前に立って待ってるのは平田那帆(ひらた なほ)。
 取り立てて美人ではないが、性格が好きだから構わない。
 少し時間に遅れたので俺は両手で謝る意志を伝えてみた。
 すると那帆は笑顔で俺の事を許してくれる。
 ……かに見えた。
「いっぺん……死んでこい、この馬鹿千李っ」
 近づいた瞬間、勢いの良いラリアットが首に直撃した。
 俺はまるで気孔でも喰らった様に真後ろにぶっ倒れる。
「ぐふっ……」
「ホントいつも遅刻ばっかなんだから。
 社会人としての自覚あんの?」
「い、一応ありまふ……」
 脳しんとうを起こしてもおかしくない一撃だった。
 これでも俺達はちゃんとした恋人の一種ではある。
 中学生からずっと馬鹿やってて、
 気付いたら付き合ってたというベタなパターンだ。
 綺麗と言うより可愛いというタイプの那帆。
 短い髪を揺らして俺を怒る姿を見ると実にそう思う。
 ただ、死んでもこんなコトは言えないワケだが。
「さってと。んじゃ、映画見に行こっか」
「ああ」
 今日は新作の映画を見に行くという事になっていた。
 恋愛モノの映画はあまり見たくないが、仕方ない。
 那帆は映画マニアと呼べる程の映画好きなのだ。
 なにしろ、こいつは映画の事を喋らせると止まらない。
 中学の頃なんかシックスセンスの話をされて、
 何も知らない俺は映画を見る前にネタを知ってしまった。
 腹いせに俺はポートピア殺人事件の犯人を教えたけど。
 実は俺は今日、那帆に重要な事を言うつもりだった。
 その所為で多少緊張している。
 気取られてないよな……。
 俺達は交差点を抜けて、ビルの中へと入っていく。
 さりげなく腕を組んでいるのが不思議だった。
 いつも、俺が気付くとすでに腕を組んでいる。
 そんでもって隣の那帆が笑顔だから何も言えないわけだ。
 エレベーターに入ると、四階のボタンを押す。
 ゴトンと音がしてエレベーターは上へと移動していった。
 四階に付くと、俺達は前売り券を見せて館内へと入る。


「ふわぁ〜。面白かったぁ〜」
「そですねー」
 映画が終わった後、俺達は近くのバーに来ていた。
 仕事帰りに映画見てバーで酒を飲む。
 意外とハードだと身体が言っていた。
 恐らくさっきの映画が不発だったせいだろう。
 那帆はご満悦だが、俺としては納得が行かなかった。
「ああいうのをご都合主義って言うんだよな」
「……人が折角面白いって言ってるのを、
 横であからさまに罵倒しないでよね」
 そう言いながら那帆は手刀で突きを喰らわしてくる。
 上手く首に当たって、俺はむせ返ってしまった。
「くっ、このヤロォ……」
 平気な顔してダイキリを飲んでやがる。
 仕方ないので諦めて俺もスコッチを一口、口に含んだ。
 その横顔はいつも側にいた俺には変化がよく解らない。
 大人っぽくなった様に見えない事もなかった。
「ふふ……中学生の頃が懐かしいね」
 俺の方を向いて那帆が微笑む。
 特に笑うわけでもなく、俺は聴いてみた。
「戻りたいのか?」
「別に」
 俺は戻りたいとは思わない。
 あの頃は確かに楽しかった。
 けど、今この瞬間が俺には一番愛おしい。
 那帆と恋人同士でいる今が。
「たださ、あの頃はなんにも考えなくても一日は過ぎて、
 次の日を適当にやり過ごしていられたじゃん?
 その分じゃ今より楽だったのかなぁ……って」
「へぇ。なら、もし中学生に戻れるとしたらどうする?」
 そう問いかけると那帆はくすっと笑った。
「多分、今と大きく変わってないよ」
 安心しなさいと言わんばかりに微笑む。
 なんとなく俺は照れくさくなってスコッチをあおった。
 少し酔いが回ってきたような気がする。
 これならどうにか言えるかも知れなかった。
 やっぱ、緊張するからな。
 付き合って数年、そろそろ頃合いだ。
 そう考えて心音を落ち着かせようとする。
 うあ〜……落ち着かねえな。
 よし、上手い切り返しは考えたぞ。
「俺も今みたいにお前が隣にいて欲しい。
 んで……その、あれだ。もしもの話じゃなくて、
 これからもずっと側に居て欲しいわけだ」
「はい?」
 ちょっと声が上擦っちまった。
 こういう時は気合いで乗り切るしかない。
 真っ直ぐ那帆の方を向くと、手を握って箱を渡した。
「こ、これってもしかして」
「ああ。婚約指輪って奴」
 那帆は驚きながら俺と指輪を交互に見る。
 それから少し涙ぐんで、そっと肯いた。
 どうにもこういう雰囲気は苦手なんだが、
 照れくさいながらも那帆の肩を抱きしめる。
「おほん。結婚するか」
「……うん」
 その瞬間、静かなバーの店内に拍手が巻き起こった。
 あまりの恥ずかしさに俺と那帆は俯くしかない。
 那帆は両手でしっかりと、箱を握りしめていた。


 それから俺達は少しして店を出る。
 バイク通勤だった俺はほろ酔いだが、
 構わずバイクで帰るつもりだった。
 検問に掛かるほど家は遠くない。
「乗ってくか?」
 那帆にそう聞いてみた。
 無論、乗ったら俺の家まで連れて行くわけだが。
 すると那帆は首を横に振って微笑んだ。
「今日は良いや。ちょっと歩きたい気分なんだ。
 それに、電車もまだあるし」
「……そか」
 ちょっと期待した俺の気分は一気に下降していく。
 久しぶりのチャンスが逃げていったか……。
 顔が思わず落胆の色に染まる。
 那帆と手を軽く振って別れると、
 俺はバイクを置いた場所へと歩いていった。
 駐車場に着くとバイクの鍵を取り出す。
 750SSに鍵を回すと速攻でエンジンをかけた。
 右折ランプを出すとクラッチを開けて走り出す。
 と、その瞬間だった。
 バイブにしていた携帯が震える。
 なんとなく気になって750SSを止めると、
 すぐにポケットから携帯を取り出した。
 那帆……だ。
 俺はすぐに電話に出てみる。
 すると奇妙な音が聞こえてきた。
 べちゃべちゃとか、ぐちゅぐちゅという……変な音。
 すぐにガタッと言う音がして、
 誰かの声が聞こえてきた。
「もしもしぃ?」
 俺が知らない男の声。
 なんで那帆の携帯から?
 嫌な予感がしながらも俺は応答する。
「誰だ、あんた」
「さっきのバーでお前らの幸せ話を聞かせて貰った者だよ」
「……バーで?」
 後ろの方から那帆の声が聞こえている気がした。
「クックッ……今、那帆ちゃんの身体を味わってる」
「な、に?」
 何を言ってるのか良く解らない。
 後ろからくぐもった那帆の声が聞こえていた。
「あっ……うぅ……せん、りぃ……」
 口から何も言葉が出てこない。
 那帆が、犯されてるって……事か?
「てめぇ……何処にいるっ!」
 解れば吹き上がってくるのは怒りだった。
 こんな電話をしてくるなんて、ナメやがって……。
 そんな怒りは那帆の声でかき消された。
「やめ、あっ……だめっ……ああぁぁあぁっ」
 それはいわば絶望に近い。
 聞きたくもない喘ぎ声が電話越しに俺の耳に響いてきた。
 膝から崩れそうになるのを必至で堪える。
 頭の中が真っ白になって、眩暈がしてきた。
 甲高い那帆の声の後で低い男の声が耳元で喋る。
「こんなに感度が良いのは俺との相性が良いのかな?
 それともあんたが調教でもしたか?」
「……今、何処に居るんだよっ!」
「彼氏よぉ、俺らはさっきのバーの路地裏でやってる。
 もうすぐ終わっちまうから早く……な。ヒヒッ」
 聴けば聴く程ムカつく声だった。
 すぐに電話は切れる。
 750SSのエンジンをふかすと、
 俺は全速力でさっきのバーへとバイクを走らせた。


 探すのに手間取った所為もあるかもしれない。
 結局、犯人はそこからすでに逃げていた。
 残っていたのは服を破かれて倒れている那帆だけ。
 彼女は息を荒くしていた。
 その太腿を白濁液が伝っている。
 太腿の辺りはナイフか何かで傷ついた後があり、
 様々な場所から出血していた。
 それから首筋や乳首に至るまで、唾液が残っている。
 俺は立っている事なんて出来なかった。
 汚い路地裏の地面に膝をついて那帆を見つめる。
「那帆……」
 ほうけた表情をしていた彼女は、
 そう呼ぶと俺の方を向いてビクッとした。
 彼女は手を顔にやると涙をこぼす。
「うぐっ……うぅ……」
 自分のコートを掛けると彼女を立ちあがらせた。
 太腿から零れる精液は血と混ざって桃色に変色している。
 思わず彼女を掴む手の力が強くなってしまった。
 どうして那帆がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。
 俺はやるせなさに打ち震える事しか出来なかった。
「せん、り……ごめ、ん」


 それからしばらく俺と那帆はギクシャクしていた。
 どうする事も出来ない。
 あれ以来、彼女は性行為を怖がるようになっていた。
 男自体も怖がるようになり、
 彼女は家から出なくなってしまう。
 俺は毎日のように那帆の家へ行っていた。
 でも以前みたいな関係はもうない。
 結婚の事も話を切り出せない。
 あの出来事の所為で、那帆という人間は崩れてしまった。
 心配した彼女の母親は那帆を入院させる。
 すると怖ろしい事実が浮き上がってきてしまった。


「那帆、妊娠してるんですって!」
 何も知らない母親が、戸惑いながら俺に電話してくる。
 けどそれは、俺にとってとても喜べるものじゃなかった。
 最悪なのはそれを母親がすでに那帆に話している事。
 俺は急いで病院へバイクを走らせた。
 病院に着くと俺は急いで3階にある彼女の病室へ走る。
 そこに彼女は居なかった。
 窓からの風が俺に当たるだけ。
 カーテンが午後の日差しと共にぱたぱたと揺れていた。
 とりあえず俺は那帆の行方を看護婦に尋ねてみる。
「……え?」
 それは看護婦さんにとっても予想外だったらしく、
 看護婦さんの顔が蒼白になっていた。
 人数を集めて皆で那帆を捜す事になる。
 あの野郎、ホント世話かけやがるな……。
 病室を一つずつ回っていった。
 何処にも居ない。
 待合室にもその姿は無い。
 一体何処へ行ったって言うんだ?
「あ……」
 その時、俺はある事を思い出した。
 あの病室の窓、空いてた……。
 馬鹿な。だって俺に何も言わずにか?
 考えろ……それ以外の可能性を。
 だが、思いつくのは子供の存在。
 生まれてくる子供が果たして俺の子供なのか。
 もしもそれをあの男の子供だと思ったとしたら……。
 違う可能性を模索しながらも、
 身体は勝手に病院の外へと走っていく。
 病人にぶつかりながらも自動ドアから外へと出てきた。
 全速力であの病室の窓がある辺りへと向かう。

  そこには、血まみれの婚約指輪をはめた那帆が、
  静かに横たわっていた。

 数日後、俺はあの男を探して初めての殺人を犯す。
 不思議な能力のおかげで苦労はしなかった。
 それから、俺は恋をしていない。
 恋をしなければ女を抱く事も出来た。
 けど本気で好きになったら、
 きっともうその子を抱けない。
 セックスで全てを失ってしまうのが怖いから。

***

 支度を済ませるとレイノスは立ちあがる。
 玄関に降りていくと、そこには使用人達が居た。
 辺りは片づけが済まされていて売り家同然になっている。
 レイノスに後悔は無かった。
 逆に何処か吹っ切れた感もある。
「皆さん、今までご苦労さまでした」
 後ろからシュリアとリフィリアがやってくる。
 二人の顔は澄み切ったものだった。
 笑顔のままでリフィリアはレイノスに言う。
「私……きっと今はレイの事を、
 ちゃんと一人の女性として好きだって言える」
 先日、レイノスはリフィリアに全てをうち明けた。
 全てが崩れてしまうかも知れない、と考えながら。
 すると彼女はその時にレイノスへ最高の笑顔を向けた。
 自分を愛してくれてありがとう。
 そうリフィリアは言った。
「姉さん……」
「違うでしょ。これからは呼び捨て」
「……うん。リフィー」
 車椅子を押していたシュリアはレイノス達に微笑む。
 シュリアはあれから少し明るくなった。
 自分が愛されていたという事を知ったからかもしれない。
 願わくば、彼女には千李と幸せになって欲しかった。
 そうレイノスは思う。
 現実は残酷で、全てが上手くはいかなかった。
 それでもシュリアはそれを受け止めていくだろう。
 日は昇ったばかり。
 陰りなどは何処にも見えていないのだから。
 そんな眩しいばかりの日差しにレイノスは手を翳した。
 果たして彼は何処まで逃げられるのか。
 不安が無いと言えば嘘になるのかもしれない。
 だが彼の眼差しに迷いは無かった。
(S−ハウンドの奴らはすぐに僕らを見つけるだろう。
 でも……僕は絶対に負けない。
 リフィーが隣に居てくれる限り、絶対に)
 彼はリフィリアに向かってにっこりと微笑んだ。
「レイ、何処へ行く?」
「そうだな……海へ行こうか、リフィー」