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黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫

断章.持たざる者、その終幕
−Schwanengesang−


第二十二話
「数年越しのニアミス(U)」


11月14日(土) AM10:49 雨
白鴎学園・校舎内・一階廊下

 エントランスに凪がやってきた頃。
 夢姫は一階の廊下を当てもなく歩いていた。
 そしてポケットに忍ばせてあるチェッカーを取り出す。
 反応が幾つかあった。
「悪魔、天使、悪魔。反応は沢山あるけど、冥典じゃない」
 そんな風に夢姫はぼそぼそ独り言を呟きながら歩く。
 後ろには武人と淳弘の二人がいた。
 二人は夢姫に声をかけようか迷いつつ付き添っている。
「なんか話しかけにくいムードだな」
「僕もそう思う」
 淳弘が思うなら相当だ、と言いかける武人。
 そうやって夢姫に話しかけようか迷っている内、
 彼は唐突に尿意を催した。
「すまん淳弘、トイレ行ってくる」
「じゃあ僕は夢姫ちゃんに付いてるよ」
「おっけ」
 武人がいなくなると淳弘は少し考え、
 声をかけてみる事にした。
 彼女は何かに集中している。
 それを邪魔しない様に隣へさりげなく寄ってみた。
「さっきから何やってるの?」
「探し物」
「どこかに落としたの? 手伝おうか?」
「いい」
 つっけんどんにそう言われ少し淳弘は戸惑う。
 迂闊に話す雰囲気でもなくなったので、
 彼は夢姫の隣を歩く事にした。
 淳弘が眺めるその横顔は普段よりも魅力的に見える。
 恐らくは真剣な表情の為だろうか。
 淳弘はなんとなく、その横顔を見続けていた。
 そんな彼の考えている事など解るはずもなく、
 冥典を探して夢姫は学園内を闊歩する。
 と、夢姫の携帯がなり始めた。
 彼女の携帯が普段鳴る事はない。
 その番号を知っている人間がごく僅かだからだ。
 ポケットから出して着信を確かめる。
 電話をかけてきたのはロフォケイルだった。
「華月さん、冥典の場所がおおよそ特定できましたぜ」
「・・・ホント?」
「というよりは冥典という物がなんなのか、
 おおよその検討が付いたんですよ」
「よく解んない。会って話そ」
 電話を切ると夢姫は歩く方向を変える。
 その不可解な行動に困惑した淳弘が彼女に聞いた。
「ど、どうしたの?」
「探し物が見つかるかも知れない」
「そうなんだ・・・ねえ、それが見つかったらどうするの?」
 夢姫はどこか機嫌が良さそうに見える。
 その表情は自然と綻んでいた。
 彼女が笑うのはその想い人の為だけ。
 だからそれはその人との出会いが近づいたという事だ。
 それが何となく淳弘は解ってしまう。
 淳弘の顔を見ないまま、夢姫は微笑んだ。
「そしたらなぁ君に会うんだよ。
 お母さんもお父さんも、お友達もいらない。
 ず〜っとず〜っと、なぁ君の側に居るんだ」
「そ、それって僕達の側からいなくなっちゃうって事?」
「うん」
 あっさりと答える夢姫。
 淳弘は愕然とした表情でその微笑みを見つめていた。
 あまりにもやるせない。
 側で彼女を密かに思う事すら出来ないのだから。
 だから淳弘は変な事を考えてしまう。
(このまま彼女の探し物が見つからなければ、
 ずっと夢姫ちゃんは僕達の、僕の側に居てくれるのに・・・)
 だがそれが自分勝手だというのは解っていた。
 変な考えを振り払おうと淳弘は辺りを見回してみる。
 そこで彼は気が付いた。
「夢姫ちゃん」
「なに?」
「ここ、どこか解る?」
「・・・知らない」

11月14日(土) AM10:51 雨
白鴎学園・校舎外周

 樹が落葉と共に冬の準備を始める。
 風は何処か日々の憂いを乗せているようだった。
 白のイメージで綴られる風景が瞳に入っていく。
 息は雨で気温が低いせいか白くなっていた。
 黒澤が傘を持ち冬子と一緒に入っている。
 履いている靴の表面は濡れていた。
 雨の中で散歩というのは少しばかり奇妙な光景ではある。
 夢姫達が校舎内を彷徨っている頃、
 黒澤達は本当に散歩をしていた。
 二人は特に話すわけでもなく校舎の周りを歩く。
 生徒達に見とがめられる事を気にする風でもなかった。
 その為、逆に仲を勘ぐられる事もない。
 気まずいわけではない沈黙の中、
 黒澤はふと自分の得た肉体の持ち主の事を考えていた。
 そう。いわば、本物の黒澤霧生の事だ。

 彼がアシュタロスを呼び出したのは、
 今から数年ほど前になる。
 黒澤霧生は当時、若くして身体を腫瘍におかされていた。
 転移が広く及んでいた為に手のつけようもない。
 それで彼は最後の手段として魔術に頼った。
 魔法陣を結び、悪魔を召喚した。
 悪魔という物は本来、人間の身体を奪う事はない。
 何らかの代償と引き替えに人間の願いを叶えるのだ。
 ただ、常人は召喚の儀式の過程を間違えたり、
 召喚した悪魔に精神を掌握されてしまう事が多い。
 そうすれば自らの身体を奪われ取り憑かれてしまう。
 特に高等な悪魔になればその魔法陣は複雑になり、
 儀式の過程や呪法などもかなりの難度だ。
 まず一般人が成功する可能性はゼロに近い。
 当然だが黒澤の召喚術も素人のそれと同等の物だった。
 さらに相手は悪魔のヒエラルキー第五階級の大悪魔。
 召喚できただけでも奇跡と呼べる物だ。
 眼があった瞬間に黒澤は身体が動かなくなる。
 その時に彼はアシュタロスに言った。
「私の身体は腫瘍に犯されてる。
 このままなら私は死ぬだろう・・・。
 だから私は貴方と取引をしたい!」
「愚かな。君と取引をする必要などはない。
 なぜならすでに君の身体は私のモノ同然だからだ」
「・・・頼む! 妹がいるんだ! この身体は貴方にあげよう!
 代わりにその子を・・・その子を貴方が守ってあげて欲しい!」
 彼はアシュタロスを恐れもせずに願いを告げる。
 ただその願いはアシュタロスにとって意外な物だった。
 自らの為の願いばかりを聞かされてきた彼にとって、
 自分以外の誰かへ向けた願いは実に久しい。
 それに黒澤は自分の身体を差し出すと言った。
 そんな事もアシュタロスにしては珍しくて仕方がない。
「宜しい。君の願いは聞き入れました。
 ただ、私の気紛れで約束を破るかも知れませんよ?」
「私は自分が死ぬ事で美玖を泣かせたりしたくないんだ。
 だからもしもあの子を泣かせたりしたら、
 きっと私は貴方を許さないだろう」
「・・・ほう」

 実に面白い願い。そして約束だった。
 そんな事を考えていると、彼らの元に美玖がやってくる。
 彼女は赤い傘を差しながら軽く黒澤に手を振った。
 だがその後で美玖は少し表情を暗くする。
 冬子が隣にいる事に些か戸惑いを抱いているようだった。
 今の所、アシュタロスが約束を反故にした事はない。
 逆に過剰とも言えるほどにその約束を守り続けた。
 何故かアシュタロスは美玖の事を他人だと思えないのだ。
 黒澤霧生という人間の怨念にも近い願いが、
 彼の肉体に宿っているのかも知れない。
 それに引きずられる様な気分だった。
「冬子さん、お久しぶりですわ」
「ああ・・・うん。久しぶり」
「いつの間にか姿を見かけなくなりましたが、
 お兄さまと何かあったんですか?」
 その口調はどこか皮肉めいている。
 冬子はどうにも苦笑いするしかなかった。
 その隣から真剣な口調で黒澤が美玖に言う。
「彼女を侮辱するのは止めなさい」
「お兄さま、だって・・・」
「私の大切な人なのですから」
 美玖はその言葉を聞くと口を開いて何かを言おうとした。
 だが何も言葉が出てこない。
 意味を頭の中で噛み砕いているようだった。
「それでは私はどうなるのですかっ・・・?」
「恋人が出来たからと言って、
 美玖の事を邪険にするつもりはありません」
「そういう事ではなくて・・・もう、良いですっ」
 失敗したという顔で美玖はそっぽを向く。
 よく意味が理解できずに黒澤は冬子の方を見た。
「・・・思春期によくある、兄への憧れじゃない?」
 小声で冬子は黒澤にそう耳打ちする。
 言葉は聞こえなかった物の、二人の親密さが
 気に入らないのか美玖は冬子に怒鳴りかかった。
「気安くお兄さまに耳打ちなどされないで下さいっ。
 幾ら冬子さんでも許せませんわ!」
 怒ったまま美玖は何処かへと消えてしまう。
 半ばあきれ顔で黒澤はそれを見ていた。
 確かにそんな彼女の嫉妬深さは可愛らしくも見える。
 ただ、この場では冬子を認めて欲しかった。
 そうする事で冬子との繋がりが深くなる。
 故にこの後の仕事がやりやすくなるのだ。
「仕方ない。あの子の事は時間をかけていきましょう」
「なんかまるで結婚するみたいだよ、その言い方」
「ふむ。それも悪くないですがね」
「・・・な、何をいきなり」
「いきなり? 私は軽い気持ちで
 貴方に会いに行ったわけではありませんよ」
 その黒澤の言葉は暗にその後の行為の事を言っていた。
 冬子は少しそっぽを向いて俯く。
 そこまで本気で自分との事を考えているとは、
 さすがに彼女も思っていなかったからだ。
 なぜなら冬子はまだ何処かで不安を抱えている。
 あの日、黒澤に別れを告げられた時からずっとだった。
 以前も決して仲違いをしたという記憶はない。
 丁度良い距離で長い間付き合っていた。
 だが黒澤はそんな時間に突然終止符を打ったのだ。
 それを思い出すと冬子は黒澤を信用しきれない。
 まだ何処かで黒澤がふいに別れを告げる気がしていた。
 だから彼女にとってその言葉は意外すぎる物だった。
「これから起こる一件が終わった後、
 貴方さえよければ・・・ずっと私の側に居て下さい」
「ば、馬鹿・・・ここ、学園内だぞ。
 それなのに、そんな事言って・・・」
「解っています」
 心臓が高鳴っていくのが解る。
 自分の返事を考える事が出来なかった。
 それが現実に起こっていると信じ切れない。
 遠くの方に公園の跡の様な場所があった。
 そこではブランコがギィギィと揺れている。
 冬子のいる場所までは聞こえてこないが、
 その動きにあわせて心臓の鼓動が早くなっていく気がした。
「私は・・・お前が本気だっていうんなら、それなら・・・」
「ただし、一つだけ条件があります」
「・・・男が条件提示というのは珍しいな」
「私の条件は、貴方が結婚しても教師を続ける事です。
 そうですね・・・家事は二人で分担しましょう」
 あまりにも先の事を条件として提示する黒澤。
 それが何処か冬子にとっては夢物語に聞こえていた。
 まるで叶う事のない、幻の様に。
「どうしてかな。嬉しいのに、変な感じなんだ。
 全ては夢で、良い所で覚めて一人になるみたい、な・・・」
 言葉の途中でふいに冬子は涙を流す。
 本人にも何故泣いてるのかはっきりと解らなかった。
 ただ、黒澤の言葉が嬉しくて・・・悲しい。
 そう感じていた。
 そんな冬子を包み込むように黒澤は抱きしめる。
 彼は出来るだけ優しい声で冬子に囁いた。
「子供は何人だとか、希望はありますか?」
「・・・そうだな。男の子と、女の子、一人ずつかな」
「家は一軒家ですね」
「ああ。幸せな・・・幸せな家庭が、良い」
 話をすればするほど彼女は涙ぐんでしまう。
 その未来にいる自分が見えなかったからだ。
 黒澤と結婚し、笑い、泣き、
 乗り越えていく自分の姿が想像できない。
 それが言いようもなく彼女を悲しませた。

11月14日(土) AM10:53 雨
白鴎学園・校舎内エントランス

 夢姫と淳弘を見失った俺は、
 エントランスに戻る事にする。
 人がトイレに行く時くらい待っててほしかったな。
 大した時間かけたわけでもないのに。
 俺がエントランスへ向かうと夏芽達は楽しく喋っていた。
 それも女オンリーで。
 ・・・なんか凄く入りづらい雰囲気だ。
 夏芽が俺に気付いて手を振る。
「こっちやで〜」
「おう」
 なんとなく返事して言ってみるが、少し恥ずかしかった。
 淳弘が居ないと男は俺一人じゃないかよ。
 そこで女の子二人に目がいく。
「・・・っと、この子が・・・なぎ、さん?」
 その子は俺に軽く会釈した。
 や、やばすぎる。
 俺は速攻で禊の隣、つまり端っこに座った。
 顔が赤くなりそうだったからだ。
 一瞬しか顔を見てない。
 それなのにマジで惚れそうになった。
「凪は罪やなぁ。たっつーみたいな小市民に笑顔見せたら、
 あんな風に照れまくって喋れなくなるやろ」
「・・・しかも、私には挨拶もないよ」
「あ、古雪・・・久しぶり」
 とりあえず古雪に挨拶しておく。
 だがそんな適当なのが駄目なのは当たり前だった。
「ったく、凪と会う男は皆これだ。あんた、夏芽と同列だよ」
「うっ・・・」
 なんかさりげなく責められてる。
 しかも隣の禊が酷く怒り始めていた。
 俺の方をドスの利いた顔で睨んでくる。
「このエロだぬきがぁ〜〜っ」
 肩に頭突きをかましてきやがった。
 これがまた普通に痛い。
「そ、それよりさ、夢姫と淳弘は来なかったか?」
「来てへんで」
「もしかして・・・迷ってるんじゃないかな。
 この学園の校舎って結構広いから」
 凪という子が初めてまともに喋った。
 それも聴き惚れそうな可愛い声で。
 ここまで完璧に可愛い子って見た事がない。
 しかもちょっと大人しい雰囲気があって、
 またそれが男心をくすぐってくるわけだ。
「たっつーが凪の声に聴き惚れとる」
「え、ちょっと夏芽・・・」
 少し照れたのか凪さんは軽く笑ってみせる。
 やばい。マジでこのままじゃ危険だ。
「あの二人探してくる」
「待ちぃや」
「え?」
 立ちあがろうとした俺を夏芽が声で制止する。
「あんたが行っても意味ないやろ」
「あ、言われれば・・・確かに」
 部外者の俺が歩き回ってもミイラ取りがミイラになる。
 そこで夏芽が立ちあがった。
 怪しい笑顔で眼鏡をくぃっと動かすと、
 夏芽は凪さんの手を取って彼女を立ちあがらせる。
「せやからウチと凪が探しに行けば解決や〜」
「え、と、わあっ・・・」
 凪さんと手を繋いだままで走り出す夏芽。
 そのまま凄い勢いでどこかへと消えてしまった。
 後には禊と古雪と俺が残される。
 微妙な雰囲気が三人を包んでいた。

11月14日(土) AM10:58 雨
白鴎学園・校舎内・一階廊下

 夏芽はしばらく走ると凪の手を離して立ち止まる。
 何故か彼女は躊躇いがちに笑っていた。
 その奇妙な態度をみて凪が訪ねる。
「どうしたの、夏芽。なんか変だよ?」
 その様子は凪でもなんとなく解るものだった。
 彼女はどこか困ったような顔で笑う。
「さっきのたっつーの姿見てたら、
 なんか個人的にくるモンがあってな。
 ウチなぁ・・・昔、女である事を止めたんや」
「え?」
「凪はあいつらと違って長い付き合いやあらへん。
 せやからこんな事を話せるんやと思う」
 夏芽は突然に真剣な顔を見せた。
 それは普段の夏芽とは違う顔だった。
 ただ凪からすればその話を興味本位でしか聞けない。
 だから少し聞くのが悪い気もしていた。
 しかし逆にそれだから良いのだと気付く。
 親友には話せない事なのだ。
 同情される事が耐え難く辛い時もある。
 せめて興味本位で聞いてくれた方が気が楽なのだ。
「夏芽、ちゃんと聞いてるから、話してみて」
「時々思うんや。あの時にあんな事が無かったら、
 今居る自分は普通の女やったかも知れへん、てな」
「それって・・・夏芽の本質に迫る事なんだ」
「せや」
 何かの原因があって夏芽は今の自分になっている。
 そう言った。
 だがふいに凪はそれを自分に重ねる。
(そういえば俺、俺も何か昔にあったような・・・)
 凪は自分の記憶を辿ってみた。
 子供の頃はすぐに思い出せる。
 自分はゆりきと二人で遊んでいた。
 彼女が小学生になって遊ぶ回数が減った事で、
 酷く寂しいと思ったのも覚えている。
 いつも二人だったから。
 でも何かが間違っているような感覚に囚われた。
 明瞭な何かではない。漠然とした物だ。
 その為に凪は何が違うのか解らずに、
 胸に何かつかえているような気分にさせられる。
 そんな答えのでない彼の思考は夏芽の声で止まった。
「実はな、ウチ・・・」
 そこまで言いかけたが、夏芽はすぐ隣に目を向ける。
 そこには淳弘が立っていた。
「なっちゃん、探しに来てくれたの?」
「お、おお・・・淳弘か。紹介せな。
 こちら高天原凪、例の凪や」
「うん。こんにちは。僕は尭月淳弘です」
「どうも。私は高天原凪って言います」
 二人が普通に自己紹介をしている隣を、
 ぼけっとした顔で夢姫が通り過ぎていく。
 凪は淳弘を見ていた為にその顔までは見えなかった。
 淳弘と夏芽が呼び止めようとする。
 だが振り向きもせずに歩いていってしまった。
「なんや仕方ないなぁ。あの子はいつもあれや。
 ま、そこがええんやけどな」
「ふ〜ん・・・後ろ姿見てる限り、可愛らしい子だね」
 そんな感想を凪が漏らす。
 すると夏芽がその背後から抱きつこうとした。
 慌ててよける凪。
「な、なにするのよっ」
「凪だって充分可愛らしいやないか〜。
 ささ、どーんと全てをウチに任せや〜」
 夏芽と凪は必至の攻防を繰り返しながら、
 エントランスへと歩いていった。
 それを淳弘は横目に見て、ため息をつく。
 彼はさっきとった行為を恥じていた。
 夢姫にしてしまった行為を。
 だから凪達の会話にも参加する気力がない。

11月14日(土) AM10:57 雨
白鴎学園・校舎内・一階廊下

 数分前の夢姫と淳弘は、ひたすら廊下を歩き続けていた。
 会話もなく微妙な空気のまま。
 ふいに夢姫の唇が淳弘の目にとまる。
「夢姫ちゃん、キスした事ってある?」
 なんとなく淳弘はそんな事を聞いていた。
 その唇に触れたいと思ったのだ。
 叶わない事は解っている。
 なのにその言葉が口をついて出た。
「・・・よく解んない」
「じゃ、してみようか」
 辺りに人の姿はあまりない。
 それでも夢姫が嫌だと言えば止めようと思った。
 ただ彼女はなんでもなさそうに言う。
「うん」
 淳弘は夢姫の肩に触れ足を止めた。
 お互いに向き合って黙り込む。
「目、瞑って」
「うん」
 抵抗するどころか言われるがままにする夢姫。
 そんな様子に淳弘は何かが違う気がしていた。
 まるで凄くずるい事をしてる様な感じ。
 彼女を騙しているかのような雰囲気。
 でもちゃんと了承はとった。
 そう淳弘は自分に言い聞かせる。
 顔を傾けてそっと唇を重ねた。
 瞬間。夢姫は眼を見開いて淳弘の身体を手でどかす。
「やだ・・・やだよ。なんかやだ」
「ごめん、夢姫ちゃん」
 彼女は小刻みに震えだした。
 それはこれ以上ないほどに淳弘を動揺させる。
「・・・解んない。全然解んない」
 ぶつぶつと何かを言いながら夢姫はどこかへ歩き出した。
「あ、ま・・・待って!」
 淳弘の言葉は夢姫に届いていない。
 ただひたすらに彼女は何事かを呟き続けていた。
 どうしようもなく淳弘は夢姫の後ろを歩く。
 いけない事をしたと解っていた。
 だが淳弘はそれを止める事が出来ない所まで、
 夢姫の事を思うようになっていた。
 後悔してもすでに遅い。
 その行為は夢姫を変革へと押しやってしまったのだから。

11月14日(土) AM11:02 雨
白鴎学園・校舎内エントランス

 気まずい空気のままで俺達は黙ってしまう。
 禊は俺の事を睨んだままだ。
 逆に古雪は俺達に気を使って微笑んでいる。
「えっと、私は二人を応援するよ」
「別にたっつーと付き合ってるワケじゃないっ」
「たっつー」
 急に目の前から呼ばれた。
 そこには夢姫がぼ〜っとした顔で立っている。
 彼女は俺の手を掴むと歩き出そうとした。
「ちょ、ちょっとどうしたんだよっ」
「帰る」
 どこか夢姫の表情が弱々しく見える。
 口調は相変わらず力の無い物だった。
 その状況ではさすがに禊も何も言えない。
「・・・なんか夢姫の様子が変だから、先に帰ってるよ。
 ごめんな古雪、慌ただしくて」
「ううん。久しぶりに会えて良かったよ。
 色々あったから、大沢の事少し心配だったし」
「ああ・・・もう大丈夫。いつまでも落ち込んでられないだろ」
「あはは、強くなったんだな、大沢って」
 今日は俺も変なのだろうか。
 強くなんてない。そう言いたくなった。
 けど敢えて古雪を心配させても仕方ない。
 俺は夢姫に手を引かれるまま歩き出した。

11月14日(土) PM16:35 雨
自宅・二階・大沢桜の部屋の前

 帰って来るなり夢姫は桜の部屋に閉じこもってしまう。
 俺は何故なのか理由が解らず途方に暮れていた。
 それからすぐに淳弘から電話がかかってくる。
 淳弘は酷く疲れた声をしていた。
「僕、あの子に酷い事をしちゃったんだ・・・」
「・・・淳弘?」
 その声からは今にも泣きそうな淳弘の顔が浮かぶ。
「あの子が帰ったのは、僕のせいなんだよ。
 今日の午前中に夢姫ちゃんにキスしちゃったんだ」
「え、ま・・・マジで?」
 冗談を言ってるような声じゃないし、
 言えるような奴でもなかった。
 部屋の向こうにいる夢姫は何を考えてるんだろうか。
 淳弘にキスされて、何を思ったんだ?
 嫌だったんだろうか。
 帰る時はそういう顔をしてはいなかった。
 どちらかといえば、何かに戸惑ってるように見えた。
「その時の状況を詳しく教えてくれないか?」
「うん・・・」
 苦しそうに淳弘は話し始める。
 夢姫の仕草に違和感を感じたという事。
 構わずに自分がキスしてしまったという事。
 どれもが淳弘を責めるようなものではない。
 第三者から見ればある程度、仕方がないと思える物だった。
 だがそれは夢姫や淳弘の間では違う。
「もう僕、夢姫ちゃんに合わせる顔がないよ・・・」
「気にすんな。お前はそんなに悪くない。
 っていうかお前が落ち込んでどうするんだ」
「で、でも」
「あ〜うるせえ! お前は落ち込むな!
 夢姫には俺が後腐れない様に言っておくから。良いな?」
「・・・ありがとう、タケ」
 少し強引だが淳弘はその方が良い。
 慰めると余計に落ち込むタイプだからな。
 俺は電話を終えると桜の部屋を向いた。
「夢姫、聞こえてるか?」
 返事はない。
 外は風が出てきたらしく、軽い物音がした。
 ガタガタと風が些細な何かを揺らす。
「キスがお前にとってはそんなに嫌だったのか?
 それともさ、なぁ君としたかったって事かな」
 やはり返事はなかった。
 仕方ないのでドアの鍵を持ってくると、
 桜の部屋に無理矢理入る事にする。
 中に入ると夢姫は窓際に立っていた。
 まさか、帰ってきてからそこにずっと立ってたのか?
 後ろまで行っても夢姫は反応さえしない。
 彼女は黙りこんで何かを考えているようだった。
 窓際に立って何かを考える仕草は実に大人びている。
 肩を軽く揺すってみた。
「夢姫?」
「ッ・・・」
 急にその表情が酷い怯えに変わる。
 俺の伸ばした手を払うと、すぐさま俺の首を掴んだ。
 そして近くにあるベッドへと俺を押し倒す。
 彼女は泣きそうな顔で俺を睨んでいた。
「がっ・・・あ、ぐ」
 首に掛かる力は強く、息する事も出来ない。
 どうにも女の子の力じゃなかった。
「ゆ、め・・・」
 名前を呼ぶと微かに腕の力が緩む。
 このままじゃ下手をすれば、死んでもおかしくなかった。
 夢姫の腕を掴むとなんとかベッドの端へと逃げる。
「・・・一体、どうしたんだ」
 何も言わずに夢姫は手前のベッドを睨みつけていた。
 その表情は恨みというよりは、悲しみに近い。
 彼女は誰に言うわけでもなく独り言のように呟いた。
「解んないのに・・・苦しい。憎い。全てが、憎い」
「全てが、憎い?」
 降る雨はさらに強く窓を打ち付ける。
 ざあざあと聞こえる雨音が彼女の存在を希薄に思わせた。
 それこそ何処かへ消えてしまうかのように。
 か細い声なのに、その表情は不自然だった。
 本当に何も解っていないという様な表情で、
 彼女はただ黙って窓の先を見つめる。


    何かが狂いだしていく。
       何かが崩れ始めていく。

 そんな妙な予感が、俺の鼓動を急かしていた。

第二十三話へ続く