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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

In The Crimson

Chapter124
紅に染まる空

 口に出すのも嫌だった友情って言葉に、今は助けられている。

 其処は、ルシエに奪われた精神の深層に残された微かな領域――――。
 登る方法も無い、暗く淀んだ奥底で宿る最後の意識潮流。
 考えることだけを辛うじて許される場所で、
 鴇斗はぼんやりと凪の姿を見ているしかない。
(俺だけは、お前をただの友達として扱うべきだったのにな・・・。
 どうして感情って奴は、こうも身勝手なんだろう)

 自分はごく普通の高校生で、女が好きなノーマルな男だと思ってた。
 いや・・・今だってそれに変わりないと思っている。
 だから、凪の存在が此処まで大きなものになるとは考えてもなかった。
 多少は同性愛の類に近い奇妙なものなのかもしれないが、
 大切な友人に向けられる感情としては間違ってないと思う。
 女顔なんてレベルじゃない凪の風貌が、そもそも間違っているのだ。
 あれに加えて、親友になれるようなタイプでなければ、
 きっとこんな感情を抱き苦しむことなどなかったのだろう。
 近くで接しているときは、決して表に出すことはなかった。
 なにしろあいつは自分の顔に、僅かだがコンプレックスを持っている。
 男としてちゃんと扱って貰えないことに苛立ちを感じている。
 だから俺は、俺だけは凪を普通の男友達として見なきゃいけないんだ。
 意識しなければ気にするほどでもない、勘違いみたいなもの。
 そう考えることで俺は、逆に深みへとはまっていったのかもしれない。
 高校で離れたとき、全くの音信不通になって初めてわかった。
 その空白が変えがたいほど大きなものであることに。

 連絡を取る方法は多分、ほかに幾らでもあった。
 なぜ魔術などという不確かでオカルトなものに頼ったのか。
 ルシエが鴇斗に呼びかけていたのかもしれない。
 或いはアザゼルがそう仕向けたのかもしれない。
 結果として、鴇斗は魔術の儀式に望みを託した。
 悪魔を呼び出し、凪の居所を知りその心を掴みたい、と。
 呼び出した相手はベヘモトと呼ばれる七大罪を司る大悪魔。
 高度な術式でもないのに呼び出せた理由はただ一つ、
 鴇斗という存在に最初からルシエが目をつけていたからだ。
 無論、不完全な術式で呼び出した相手と契約出来るはずもない。
 易々と意識を奪われ、身体をルシエにのっとられてしまった。
 以降彼が許されたのは、ルシエと同じ景色を見聞きし、考えることだけ。
 自分の身体が凪を傷つける光景を見ても、指一つ自由にはならない。
 ただ身体の所有権を握る悪魔の所業を、
 黙って見ていることしか出来なかった。
 狂ってしまいたくなるほど絶望的な状況だ。
 だから今は、凪が自分を殺す瞬間を待ち望む。
 別れの言葉を告げるなんて贅沢は考えない。
 これ以上、凪や誰かを傷つけてしまう前に死ぬことを渇望する。
 もう自分が自分として生きられないことは、解っているから。

――――お願いだ。早く、俺を殺してくれ。

 その言葉を呟くたび、ルシエは心の中で充足感を得る。
 鴇斗の苦痛がルシエにとって、至福の瞬間なのだ。



 凪は精神を一つのことへと集中させようとする。
 その中で、鴇斗を考えないわけにはいかなかった。
 躊躇わないと心に決めても、人間に感情を殺すことは出来ない。
 どんな人間だろうと、大切なものを前にして非情を貫くことは困難だ。
(俺はこれから・・・あいつを殺すんだ。いつか、大切な親友だった鴇斗を。
 救う方法が解らないのに、鴇斗を救おうとするのは偽善だから。
 紅音を危険に曝すだけの偽善でしかないから。
 けど・・・だけどさ、鴇斗。それでも俺は、お前を殺したくない。
 生まれて初めて俺を・・・俺自身を見てくれたお前を、
 この手で傷つけたくなんてないんだよ・・・!)
 また選び取らなければならない。
 紅音と鴇斗のどちらかを、自分の意思で切り捨てなければならない。
 親友だった男を、殺さなくてはならない。迷うなと言うほうが無理だ。
 どうしても鴇斗と過ごした頃を思い出して、凪の手が震える。
 なぜ、鴇斗がこんな目にあわなければならないのか。
 ただ悪魔に身体を奪われてしまっただけ。何の罪も無い。
(・・・駄目だ、迷ったりしたら駄目だ。そんなこと何の意味も持たない。
 俺が迷ったところで、鴇斗を助けることは出来ないんだ。
 だったら・・・せめて俺の手で、俺の・・・手で)
 凪が迷いを押し殺し集中を高めている最中、
 その眼前ではルシエとリヴィーアサンが一進一退の攻防を続けていた。
 手に宿る光弾を警戒して、ルシエは乱暴に飛び込んでこない。
 対するリヴィーアサンも切り札の使いどころを間違えぬよう、
 慎重にルシエの動きを見定めていた。
(空間ごと私と凪を攻撃されたら、もうどうしようもないわ。
 先手を打つか、ボイド・オーバードライブを防がないと・・・)
「フフッ・・・お前を喰った後どうするかな。奴に協力する義理は無ぇし、
 やがて来るであろう天使と悪魔の戦争でも待つとするかね」
「・・・奴? 誰のことを言っている」
「それは言えねぇな。俺も悪魔である以上、契約を違えることは出来ない」
 契約、という言葉にリヴィーアサンは違和感を覚える。
 誰と契約を交わしたのか。何を契約したのか。
 相手が神鏡鴇斗でないのは、奪われた身体を見れば明らかだ。
 今回ルシエが此処にやってきた経緯を考えると、
 不鮮明な何者かが彼女の想像に浮かびあがってくる。
(まさか、今回の一件・・・誰かがルシエに荷担していた?
 奴は誰かと行動するようなタイプじゃないだろうけど、
 落ち着いて考えてみれば今の状況はおかしいわね。
 ルシエの性格なら、紅音を連れさらうなんて真似はせず、
 凪を殺しかけたあの場で紅音ごと私を食い殺していたはず)
 疑問が浮かびはするものの、その答えは見当もつかなかった。
 これ以上推理するには、紅音として彼女が得ている情報が足らない。
 ただ、不意に自分が何かに動かされているような、
 嫌な感覚に襲われるだけだった。
「さて・・・面倒だしな、ごり押しでやらせてもらうぜ」
 膝をゆっくりと曲げると、ルシエは思い切り跳躍する。
 目で追うことを許さぬ速度に対し、リヴィーアサンはあえて目を閉じた。
 闇雲に動きを追ったところで捉えられる速度ではない。
 動き全てを見るのではなく、攻撃に転じる瞬間を感じようとした。
 しかしルシエはリヴィーアサンから離れた場所に着地し、
 その際に床の鉄くずを拾い上げて彼女に投げ放つ。
 突然のことに回避もままならなかった。
 鉄くずが直線を描いて、リヴィーアサンの左腕に直撃する。
「ぐうっ・・・!」
 彼女は顔を歪ませ、被弾した左腕が折れたことを理解した。
 イメージによる強固な防御を行っているにも関わらず、
 何の変哲も無い鉄くずがそれを易々と突き破ってくる。
 まさしく、ルシエの圧倒的な力が成せる芸当だ。
「ビンゴォ・・・」
 さすがのリヴィーアサンも、この一撃で顔色を変える。
 間髪入れず、再びルシエが辺りにあるものを拾っては投げてきた。
 目を開いたところで回避できる速度ではない。
 常に移動しながらの全方位攻撃では、どうすることも出来なかった。
 一つのところに留まらず、集中砲火を避けるしかない。
 それでも彼女の首筋を何かが高速で斬り付け、動脈を傷つけた。
「紅音ッ!」
 思わず凪がリヴィーアサンの元へ駆け寄ろうとする。
 だが彼女は右手を上げてそれを制止した。
「任せなさい。凪は集中を途切らせないで」
「で、でもっ・・・」
「情に流されちゃ駄目。勝つことが、私と紅音を助けることになるのよ」
 首筋を押さえ、止血しながらリヴィーアサンはそう告げた。
 何故、助けようとしている相手が傷ついていくのか。
 あまりに不条理だ。そう考えながらも、凪は耐えるしかない。
 そんな凪の心情を感じたのか、リヴィーアサンは挑発的な笑みを零した。
「ねえ凪、私を誰だと思ってるの? 我が名は世界に終末を告げる獣。
 誰かに心配されるほど落ちぶれたつもりはないわ」
 不思議なほどに、リヴィーアサンは負けることを考えていない。
 いや、正確には紅音が考えていないのだ。
 紅音の強い意志が、表立って闘う彼女の気持ちを支えている。
 リヴィーアサンの心を、紅音が後押ししているのだ。
(ルシエ相手にこうも強い気持ちでいられるなんて、ね。
 一年前は手を焼かされた紅音の一途な思いが・・・今は心強い)
 気持ちの面で負けていなくとも、現状は実に厳しい。
 ルシエには見えないほどの移動速度に加え、
 ボイド・オーバードライブという決定打がある。
 出来るのは的を散らす為に一所に留まらないということだけだ。
(けど、これじゃ嬲り殺しにされるだけだわ。
 どうにか・・・ルシエの動きを捉えないと)
 ちらりとリヴィーアサンは背後の凪に目を向ける。
 奥底から溢れてくる紅音の気持ちに引きずられるように。
 そんな彼女をあざ笑うがごとく、ルシエが二人の間に着地した。
「ククッ・・・これが人間の限界・・・そしてフィスティア、お前の限界だ。
 知恵なんて実用性の無いものに頼ったところで何が出来る?
 俺の速度について来ることはおろか、認識さえ出来ない。
 力という絶対性の前では、足掻き苦しむことしか出来ないじゃねえか。
 さあ、早く俺を出し抜いてみろよ・・・その浅薄な思考で、
 この状況を打開する策を講じて見せろ!」
「ルシエッ――――!」
 腕を動かしルシエに向けるより速く、彼の姿が眼前から消える。
 上げ損ねた拳を握り締め、リヴィーアサンは焦燥するしかなかった。
(速度、空間・・・奴の力による防壁を砕くには、理論による槌がいる)
 出鱈目な軌道で工場内を飛び跳ねるルシエと言えど、
 思考ある者ならば自然と動きにパターンが生まれてくる。
 移動速度が速ければ尚更、滞空中の思考時間は減るはずだ。
 出来る限り出鱈目を装ったところで、無意識に法則性は生まれる。
(見えない速度で移動しようとも、動きが単調なら予測は不可能じゃない。
 落ち着いて・・・目ではなく、頭で奴の動きとその軌道を読む)
 とはいえ相手は思考能力を持つ生物なので、
 完璧に動きを読みきることは当然不可能だ。
 あくまで予測は予測。必勝の方法などではない。
 重要なのは最良の策を練り、少しでも完璧に近づけるということだ。
 ただの一撃。手中に込めた光弾をルシエに当て、
 一瞬でも動きを止められればそれでいい。
「おっ? 何か・・・考え出したって顔だな」
 ルシエは目ざとくリヴィーアサンの微妙な表情の変化を見て取った。
 小馬鹿にするような表情は変えずに、リヴィーアサンの行動を観察する。
「昔から俺と闘う奴は、やけに頭を使って捻った行動を取る。
 不意を狙ったりとか、心理戦を仕掛けて来たりだとかな。
 そのたび、俺はそいつらにこう言って来たよ。
 怖がりが暗闇に手を伸ばすような真似は止めろ、とな」
 そう口にするとルシエは近くにあった鉄屑を彼女へ投げつけた。
 鉄屑は紅音の左胸に直撃し、その勢いで身体ごと弾き飛ばされる。
 衝撃でバランスを崩し、紅音の身体は地面へと倒れた。
「紅、音ッ・・・」
 口から血を吐きうめく紅音の姿を見て、集中などできるはずがない。
 咄嗟に凪は紅音のもとへ駆け寄ろうとするが、
 身体を起こした彼女がそれを止めた。
「大丈夫、あと少しの辛抱よ、凪。もうすぐ・・・終わるわ」
「え?」
 この戦いがもうじき最終局面を迎えると、リヴィーアサンは凪に告げる。
 それはつまり、彼女が攻撃に転じることを意味していた。
 同じくルシエもこの闘いを終わらせようと考える。
 焦らされた末のリヴィーアサンとの闘いは、心躍らせる遊びだった。
 遊び終えた獣が次に望むは食事だ。
「そう、もう闘いは終わりだ。トドメは一人ずつ、確実に行くぜ。
 まずは邪魔なルシード・・・お前からだ」
 ゆっくり食事をとるには、まず邪魔者を消しておく必要がある。
 ルシエは一直線に凪へと飛び掛かった。
 先んじて身体を動かすことで辛うじて反応できる、そんな速度で。
 凪がそれに反応したのはルシエが動いたあとだ。
 だがリヴィーアサンは、その行動を予測している。
 少し考えれば解ることだ。リヴィーアサンを食事として考えるならば。
「待ってたわ、ルシエ。お前が凪を狙う瞬間を――――」
 一手、遂にリヴィーアサンがルシエの先を行く。
 即ちそれはルシエの速度を補足出来るということだ。
「チッ・・・動きを読んだのかッ! だが、それがどうした!」
 凪の前に立ちはだかったリヴィーアサンに対し、
 ルシエは蹴り足に力を入れ猛スピードで突進する。
 さらに右の拳を振り上げ、彼女に照準をあわせた。
 どれだけ速く突撃してこようと、リヴィーアサンに焦りの色は無い。
 重要なのは目ではなく頭で行うタイミングの調整。
 彼女は半身の姿勢に右手を突き出す格好で、
 確実にインパクトの場所とその瞬間を逃さぬよう狙う。
 室内を震わす雄叫びを上げ、ルシエが拳を振り下ろした。
 拳がリヴィーアサンにあたる瞬間、彼女は右腕を前へ伸ばす。
 その刹那、右掌に浮かぶ光弾が激しい発光でルシエを包み込んだ。
「これが貴様の奥の手かッ・・・ぐ、おおおおぉぉおおっ」
 リヴィーアサンが放つ光弾で、初めてルシエの顔に焦りが見え始める。
 この闘いにおいて常に一枚上手、余裕を見せていた男が、だ。
 言わば霧のかかった山に、うっすらと到達点が見えたようなものだろう。
 ルシエの拳に直撃した光弾は発光したあと、光線を吐き出し弾けとんだ。
 至近距離で光弾の爆発に巻き込まれたルシエは、
 左足の先と右腕半分を吹き飛ばされる。
「こんなモンで、俺の腕がッ・・・この俺様の腕がッ・・・!
 よくも・・・ちっぽけな羽虫にも劣るクソ食料の分際で――――!」
 致命傷には至らないものの、ルシエの戦力をそぐ事には成功した。
 ただし、代償として紅音は左腕に加え右腕を粉砕骨折している。
 もはやリヴィーアサンは、ルシエに決定打を入れる余力は無かった。
「ルシエの動きは封じた・・・最後は凪、貴方が決めるのよ」
「最後だ? 終わるのはテメェらだよ! 依然変わりなくッ!
 勝利を彩る美辞麗句はこの俺にこそ相応しい!」
 激昂するルシエに先ほどまでのような余裕はない。
 恐ろしいまでの形相でリヴィーアサンと凪を睨みつけていた。
 勝機は徐々にだが高まってきている。
 冷静さを欠いたルシエに後一手、決定打さえあれば勝てるのだ。
 しかしその決定打である凪に、決め手となるイメージが湧いてこない。
(駄目だ、これじゃ多分ただのエメラルド・グリーンにしかならない。
 あのときマルコシアスに放った光、あの感覚が・・・)
 先ほどからずっと集中し、感覚を取り戻そうとしていた。
 にも関わらず、凪はいまいちそれを感じ取ることが出来ない。
(くそっ・・・どうしてこんな曖昧なイメージしか湧かないんだ!)
 酷く抽象的なイメージしか湧かない為に、
 赤を含む緑色の光を具現することが出来ないのだ。
 ボイド・オーバードライブは、発動に少しの時間を要する。
 それまでに凪は赤い光を具体的にイメージする必要があった。
 恐らく次の一撃は、ルシエの全力と呼べるものになる。
 全力のボイド・オーバードライブを堪えるのは不可能だろう。
 リヴィーアサンや凪の精神が幾ら攻撃を堪えようと、
 肉体が限界を超え損壊すれば誰だろうと死を迎える。
(せめて何か、イメージを補強するものがあれば・・・)
 イメージを補強するのに最適な方法は、名前を付けるという儀式だ。
 名前を付けることによって、イメージを素早く形にすることが出来る。
 複雑な呪式に詠唱が必要なのと同じ理由だ。
 ただし、どんな名前でもいいというわけではない。
 高度な具現には、二つと無い相応の名前が必要だ。
 いい加減な名前では、いい加減なイメージしか湧きはしない。
 これ以上は無いというほどの、相応しい名前をつけることが重要なのだ。
 自らの内より名前を探す儀式だと考える者もいる。
 だがこの状況では、悠長に名前を考える時間などありはしなかった。
 ルシエはこと戦闘に関してだけは、何が起ころうと気を散らさない。
 幾ら目に見えて怒りを露わにしていようが、
 それで油断を見せるような男ではなかった。
(やれるだけのことをやるしか、ない)
 そんな意思と呼応するかのように、何かが内側から湧き上がってくる。
 凪の内に存在するルシードの意思だ。
 言葉を発することなく、何か凪の心に訴えかけてくる。
 知らないことを知っているように錯覚するような、
 既視感のような奇妙な感覚に凪はとらわれた。
「逃げ場はねえぜルシード。てめぇの周囲は既に歪曲を始めた」
 湾曲空間内に捕捉された凪は、同時に身体の奥から光を発する。
 鮮やかな緑色の光が、歪んだ空間内を駆け巡った。
「ぐっ・・・!」
「手加減は無しだ。空間ごとてめぇの存在を消してやる・・・」
 一瞬でも光の放出が遅れていれば、凪の勝機はなくなっていた。
 周囲の時間が相対的に停滞し、歪曲の流れに飲み込まれていく。
 そこで凪の時間は空間と共に切り取られ、歪曲するのだ。
 緑色の光はその空間が歪曲する前にルシエへと放たれる。
「無駄だッ! こんな貧弱な光が純然たる力の奔流を止められるか!」
 光を全身に浴びながらも、ルシエは少しも怯まなかった。
 このまま凪が負ければ、もう彼を止めるものは誰もいない。
 黒澤やラファエルらは倒れたまま、立ち上がることも困難な状態だ。
 リヴィーアサンも全身が激痛に悲鳴をあげている上、
 両腕はだらんと垂れ下がったまま動かない。
「さあ、ルシードはもう終わりだ。次はお前の番だぜ・・・フィスティア」
「・・・まだよ。まだ、凪は・・・」
「無駄だと言っただろう。こんな安物の光に、俺を倒す力は無――――」
 光をかき消そうとしたルシエが、顔色をぴたりと硬直させる。
 何がおきているのか解らず、リヴィーアサンは怪訝な顔をした。
「な、んだ・・・? この力、さっきの光と違う・・・光が消えねえ!」
 緑色の光がルシエの身体を突き抜けることが出来ず消える中、
 光は緑色を脱ぎ捨てるように朱色へと変化していく。
 力強く映えていく鮮やかな朱が、ルシエを押し始めていた。
 空間歪曲をイメージしている余裕はない。
 全力を持ってルシエはその光を掻き消そうとした。
 同時に、開放された凪が倒れていた身体を起こす。
「創生の光、ヴァーミリオン――――」
「ぐ、おおおおおっ」
 全力で押さえ込んでいた光が、ルシエの腕を逆に押さえ込み始めた。
 上限のないようにさえ思える光の出力に、彼は初めて戦慄する。
 徐々にルシエが持つ力の限界が近づいていた。
 僅かだがその絶対量で、光の迸りが彼の限界を超え始める。
「馬鹿なッ! この質量・・・これが力だって、いうのか?
 いや、違う・・・! これはもっと異質な、そうだ・・・まるで、運命・・・」
 朱の光が吼え、ルシエの身体を飲み込んでいく。
 するとルシエを起点にして、凄まじい光が辺りを包み始めた。
 あまりの光とそれに伴う熱量で、視界は完全な白で塞がれる。
 白い世界の中で凪は手をかざしルシエのほうを睨んだ。
 光の強さで目を開けていることも難しい。
(あれ、は・・・)
 何も見えない筈の視界に、微笑みを浮かべる天使の姿が見えた。
 それは一瞬の出来事で、すぐにまた何も見えなくなる。
(・・・気のせい、か? 少年の姿をした天使が、
 鴇斗の身体を抱えて飛び立ったように見えたのは・・・)



 やがて工場内を覆い尽くしていた光の放出は止み、
 辺りの様子が窺えるようになったが、そこにルシエの姿は無かった。
 リヴィーアサンは注意深く何度も周囲の気配を探る。
 それでも闘うべきルシエの存在はどこにも見当たらなかった。
「倒した・・・のか?」
「解らないわ、ただ・・・ここには居ないみたいね」
 凪とリヴィーアサンは警戒しながらも、身体から緊張が抜け始める。
 少しの時間が流れ、ルシエが室内に居ないと理解したのだろう。
 二人は戦闘態勢を止めて床に座り込んだ。
「・・・どうやら私たちの勝ちのようね」
 問いかけには答えず、凪はルシエの居た辺りを見つめる。
 鴇斗の姿がまだそこにあるような気がしたのだ。
 自然と凪は自分の身体を抱き、一筋の涙を零す。
 割り切れない気持ちが心をかきむしるようだった。
 決して凪は、鴇斗のことを考えずにルシエと闘ったわけではなかった。
 ただ、紅音の肉体に封印されたリヴィーアサンとは違う。
 ルシエは鴇斗の身体を完全に乗っ取ったのだ。
 相手がルシエである以上、助ける方法はゼロに等しい。
「ごめん、鴇斗・・・俺、ごめん・・・こんな、こんなことしか、出来なくて」
「相手はルシエだったのよ。凪が苦しむことなんて無いわ」
「そうかもしれないけど、それでも・・・俺は割り切れない。
 割り切って冷酷になんてなれないよ」
「冷酷になれない、か。生憎、私はそんな奴を慰めるつもりはないわ。
 紅音と代わるからあの脳みそが温い女にでも慰めてもらうのね」
「え、ちょ、ちょっと」
 ウィンクをしてみせるとリヴィーアサンは仰向けで床に横たわった。
 突然そんな気を利かされても、凪はどうすればいいか困ってしまう。
 紅音とのことは、闘い続きで頭の隅に追いやられていたのだ。
 とはいっても嬉しくないわけではない。
 予想外のことで凪はおたおたと慌てるしかなかった。
「ん、うぅっ・・・」
「・・・紅、音?」
「なぎ・・・ちゃん」
 ぱちぱちと紅音は目を開けて、凪のことをじっと見つめる。
 目を逸らすわけにもいかず、凪も同じように紅音のことを見つめた。
「無事でよかった」
「うん。凪ちゃんも無事で、よかった」
 まともな会話をするのは一年ぶりになる。
 それなのに以前のような会話をしようにも、
 凪は上手く言葉が出てこなかった。
 見つめあったまま、口を動かしながら何かを喋ろうとする。
「・・・その、えっと」
「凪ちゃん?」
「正直さ・・・俺は紅音を救えれば、それでよかったんだ。
 だから、こうやって面と向き合うと・・・なんだか、言葉が出てこないや」
 照れながら、凪は半ば自嘲気味にそう言った。
「おれ、かぁ・・・あのとき、私が男の子の凪ちゃんを受け入れてたら、
 今はどういう関係だったんだろうね」
「え・・・」
「おかしいよね。男の子の凪ちゃんも女の子の凪ちゃんも、
 同じ凪ちゃんならきっと私は好きになれるはずだったのに。
 だってどっちも同じ、私が大好きな凪ちゃんだもん」
 真正面から紅音は自分の素直な気持ちを口にする。
 あまりの直球っぷりに、凪はみるみる顔を赤面させていった。
 必死に頭で考えていた紅音への言葉も、全て吹き飛んでいってしまう。
「・・・もう一度、友達に戻れない・・・かなぁ」
「紅音・・・」
「なんて、ごめんね・・・彼女いるのに、そんなの駄目だよね」
 そこで凪は、紅音がまだ自分とカシスが付き合っていると
 考えていることに気づいた。当然だ。紅音が知っているはずはない。
 二人が別れたのは、この工場跡にやってくる前の事なのだから。
「あいつとは、別れたんだ」
「――――え?」
「俺が、紅音のことを好きだから。だから、別れたんだ」
 言葉にすると、それはなんと残酷なものなのだろう。
 どれだけ取り繕っても、誤魔化そうとしても、
 凪には自分自身を許すことなど出来なかった。
 結局は気持ちが離れたから、それだけのことに過ぎない。
 だが言うまでもなく、それが最も重要だ。
 最も大切な部分を理由にして、凪はカシスと別れた。
 それを知った紅音は胸の奥に鈍い痛みを感じる。
「そんな、どうしてそんなこと」
「紅音を好きなまま、誰かと付き合うことなんて・・・出来なかったんだ。
 紅音の所為じゃないよ。ただ、俺が紅音を好きなだけ。
 此処に来たのも、あいつと別れたのも、全部俺が決めたことだから」
「・・・そっか」
 驚きと共に、紅音はほっと安堵している自分に気がついた。
 彼女にとってそれは、知りたくない一面の一つと言える。
 それでも気持ちを偽ること、隠すことは彼女に出来なかった。
「わたし、すごく嫌な女だなぁ。凪ちゃんが一人になったこと、
 嬉しいって思ってる自分がいるんだよ? 酷いよね、最悪・・・」
 自分への戒めを込めて、ありのままを紅音は凪に話す。
 言葉が途切れたあと、そっと紅音は凪の胸にもたれかかった。
 決して紅音は凪のことを責めようとはしない。
 辛いのはカシスも凪も同じなのだと、理解していたからだ。
 俯いた彼女の身体は小刻みに震えている。
 凪は手を伸ばし、黙って紅音の身体を抱きしめていた。
「わたし・・・凪ちゃんを好きで、いいのかな。好きでも、いいのかな」
「それが紅音の気持ちなら、それでいいと思う。それに・・・俺は嬉しいよ」
「うん。私も・・・凪ちゃんの気持ち、嬉しい」
 気づけば外から差し込む光は、西日の茜色に変わり始めている。
 そのせいなのか、紅音の頬もほんのり赤く見えた。
 自然と凪はその頬に手を当てて、顔を近づけていく。
 鼓動を早める胸を押さえると、紅音はそっと瞳を閉じた。



 悪魔ベヘモトとの壮絶なる闘いは、ひとまずの終結をみる。
 だが彼が死ぬわけもなく、また鴇斗の身体も死んではいなかった。
 重症を負ってはいるが、アザゼルに抱えられ上空へと離脱している。
「お疲れ様。調律の鎖は理のままに君を敗北に導いてくれたようだね」
「・・・俺が負けることは、てめぇのシナリオ通りだってのか?」
「勿論さ。言っただろう? まだルシードは死なないってさ」
「クソが・・・フィスティアを前にして、まさかこんな・・・」
「いいんだよ、君と彼女の決着はまだ先で良いんだ。
 それがアーカーシャの理だからね」
 アーカーシャという言葉を聞くと、ルシエは不機嫌そうな顔をした。
「下らねぇ、何がアーカーシャだ。そんなもん信じるかよ。
 それよりもお前は一体何を企んでやがる」
「ただボクはルシードを一つ先の段階へと進めたかったのさ。
 あれが進化することで、また一方も進化を遂げる」
「・・・対になる者のことか」
「そう、ルシードに呼応してディアボロスの力は解き放たれる。
 全生物の求める美しき涅槃のときは、すぐそこまでやってきてるんだ」
「涅槃ねぇ・・・まあいい。今回は甘く見たとしておいてやる」
「うん。次は君の勝利を約束するよ」
 少しの嫌味も無い笑顔でアザゼルはそう言った。
 確信があるという口ぶりに、ルシエは声もなく笑みを零す。
「なら今回は黙って引いておくさ。正直、傷は浅くない。
 精々・・・一時の勝利に安堵していろ、フィスティア」



 エリュシオンにある神殿に形成された巨大な繭。
 一人の少女を包み込んだそれが、ゆっくりと剥がれ落ちていく。
「これは・・・!」
 驚きの声をあげ、インサニティは繭へと近づこうとした。
 それを神の静かな声が止める。
「いいのだよ。これは産声、新たな世界へ飛び立つ彼女の産声なのだ」
 かさかさという音を立てて繭の外壁が崩れ落ちる。
 何重にも重なったそれらは、内部からの光で崩壊していった。
 中から輝くのは、どこまでも落ちていくような暗黒の光。
 背に完璧な黒色で彩られた巨大な翼を携え、少女が床へと舞い降りる。
 両の翼は最も黒らしい真の黒で、長さは十数メートルほどにも及ぶ。
 服を纏っていない彼女は、両翼のサイズを調節して身体を覆い隠した。
「随分、長い間・・・そう、永遠のような時間を眠っていた気がする」
「お目覚めのようだね、ディアボロス」
「ええ。やっと私自身が私を認識した気分。すごく晴やかよ」
 インサニティはその少女に明らかな違和感を感じる。
 まるで以前の彼女とは別人のような性格だ。
 というよりも、幼さが消え成熟した女性という印象を受ける。
「繭の中で一体何があったというのだ。
 俺が知っている華月夢姫とは別人に思えるが」
「それは当然よ。無知だった頃と同一のはずがないでしょう。
 あれこそが本来の私とは別人、気色悪い幼女の幻影に過ぎない。
 男を求めるということがどういうことかも知らない、
 なぁ君という存在をただ追い求めるだけの愚鈍な少女。
 そう、あの幼稚さを脱ぎ捨てるために私は今まで眠っていたのよ」
 誰も見たことのない妖艶な笑みを浮かべ、少女は自らの過去を語った。
 すると表情の読めぬ顔で見ていた神が、ふいにその手をかざす。
「さあ、君の自由はもう手を伸ばせば届くのだと解るだろう?
 ディアボロスよ、急く必要は無いが・・・自由にやるといい」
「そうね・・・身を委ねてみましょうか。アーカーシャの調律する世界へ」

4thSeasonへ続く