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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Ebony Visitor

Chapter128
「漆黒の来訪者-02-」
 


「ほう・・・これは、随分と興味深い」
 早朝、黒澤はインフィニティから送られてきたメールを閲覧していた。
 どのような方法でかは不明だが、彼のパソコンにデータは届いている。
 其処には、彼が目を見張るような情報が書かれていた。
(差出人の名前はルキフグ=ロフォケイル。
 冥典の一件以来、探してはいたが・・・
 まさか彼からコンタクトを取ってくるとは)
 彼が閲覧しているテキストにはこう書かれている。
 まず、現在ロフォケイルはインフィニティの最深部にいた。
 そこで回収した冥典のデータを解析していると言う。
(既に冥典をインフィニティに持ち込んでいる、だと・・・?)
 ミカエルに対し有効なカードを探していた黒澤は、
 降って沸いたようなチャンスを前にして、口元に笑みを浮かべる。
 黒澤にとって今重要なのは、ガブリエルの情報が得られるかだ。
 そのためならば、同胞に対する背信行為も厭わない。
(だが、気になるな・・・最後の文章)
 テキストは最後に、アシュタロスの力を借りたいと書かれていた。
 恐らくはデータ解析のために人手が居るのだろう。
 にしても、疑問が残った。
 データ解析? 冥典とは、膨大な記録ではなかったのか、と。
「まあ良いでしょう。彼がメールで全容を話すわけもない。
 今日の予定はキャンセルして彼に会いに行くとしますか」

04月05日(日) AM07:08 晴れ
寮内・自室

 酷く冴えない気分で、俺は朝の目覚めを迎える。
 まるで頭にフィルターを通しているようだ。
 華月夢姫という女の子のことを思い出そうとしても、
 記憶の何処にも彼女を見つけられない。
 あの子が嘘をついてるようには思えなかった。
 だとすると、俺は彼女のことを忘れてることになる。
 紅音の話からすると、俺をずっと探していたと言う。
 それだけ関わりが深いであろう彼女を、
 何故俺は思い出すことが出来ないんだ。
 朝日が照らす布団をぼけっと眺めながら、俺はそんなことを考える。
 幾ら人間の記憶が曖昧だといっても、
 本人を前にして少しも思い出せないってのは・・・最低だよな。
 あれだけ怒るのも納得できる。
 彼女は俺と殺しあう定め・・・そうアザゼルは言っていた。
 それが本当なら、俺はもうじき死ぬってことだろう。
 あの子の力を感じたとき、それだけは・・・はっきりと理解できた。
 勝てない。夢姫って子と闘ったら、勝負にすらならない。
 ルシードの力を完全に扱えたとしても、勝てるわけがない。
 あれは違うんだ。次元が違う。
 例えどんな有利な状況だとしても勝てる気がしない。
 死ぬ・・・か。考えただけで嫌な汗が背中の辺りをなぞる。
 痛いのや死ってものも怖いけど、紅音と逢えなくなることも怖い。
 それに紅音を悲しませることも怖かった。
 考えながら、少し恥ずかしくなって布団を掴んで悶えてみる。
「凪ちゃん、なにやってるの?」
「うぇっ!?」
 呼ばれた方を見てみると、不思議そうな顔で紅音が立っている。
 寝巻きのままで、ぼさぼさの髪を櫛で梳かしていた。
 そうか、もう紅音が起きる時間になってたのか。
「お、おはよ、紅音」
「うんっ。おはよー」
 挨拶と同時に綻ぶ紅音の顔を見てると、なんだか安心させられるな。
 死とか、そういうものを考えるのが馬鹿らしくなってくる。
 俺はベッドから起き上がると、着替えを手に取った。
「さてと・・・私、先に着替えるね」
「わかった。じゃ、私も着替えよっかな〜」
 当然だが前とは違い、お互い別の場所で着替えることにしている。
 大体は紅音が洗面所で、俺は此処でそのまま着替えていた。
 逆だと俺が着替え終わって洗面所から戻ったら、
 のんびりと紅音がまだ着替え中だったりするので危ない。
 それにしても、紅音は俺が女装するのを見て
 気持ち悪いとか思わないのだろうか。
 あまり気にしてない風だけど、絶対俺なら気持ち悪いと思う。
 あ、女装の方が見慣れてるから気にならないのかも。
 けど、それだと男として認識されてるのか疑いたくなるな。
 両思いになったはいいが、そこら辺は結構気になったりする。
「はぁ・・・」
 もっと普通のことで悩みたい。
 こんなこと考えながらも女装三年目だけあって、
 制服に袖を通すことに違和感は全くなくなっていた。
 今では、男物のほうが似合わないんじゃないかと不安になる。
 女装生活も残り一年、早いところ男らしさを取り戻したい。
 卒業してからのことは、それ以外まだ考えようが無かった。
 進学のこと。ここで生まれた友達関係のこと。
 たった一年でそれはやってくるっていうのに、
 俺には明確なビジョンが無かった。
 そりゃあ、進学のために準備は進めている。
 そうしなければならないから、必要に差し迫られてだ。
 けどそれ以外は、どれも全く考えられない。
 卒業後、俺は葉月や紫齊や皆と・・・どの面さげて会えばいい?
 逢う度女装するのか? それとも、正直に男の姿で会うのか?
 どちらにせよ、気が重いな・・・。
 そんなことを考えてると、紅音が着替えを済ませて戻ってきた。
「そういえば聞くの忘れてたけど、凪ちゃんの性別知ってる人って、
 この学園だと私のほかに誰が居るの?」
「え? えっと、真白ちゃんと、カシス・・・公野来栖と、そのくらいかな。
 あとは多分紅音は知らない人だと思うよ」
 黒澤とラファエルのことは、説明が面倒なので省いておく。
 確か男の天使や悪魔は、性別を見極める能力持ってたはず。
 だから、普通に考えれば俺の性別は解ってると思う。
 正直、あの二人は性別関係ない態度取るから解らなくもあった。
「むぅ〜・・・公野さんはともかく、
 真白ちゃんも凪ちゃんのこと知ってたんだ」
「ああ。だからさ、夏休みに海行ったときとかは助かったよ・・・と」
 しまった。うっかりさんな発言をしてしまった。
 色々考えたらしく、紅音の顔が見る見る真っ赤になっていく。
「わ、わ〜っ、そっか! 凪ちゃんってそういうこと出来るんだよねっ」
「いやそれは・・・ちが」
「ちょっと色々と考え直した方がいいのかなぁ・・・」
 頬を赤く染めながら、紅音はジト目で俺の方を睨んでいた。
 けど流石は紅音。今までこういうこと考えなかったのか。
「着替え覗いたりとか、そういうのはしてないよっ。
 一応、そういうのは悪いって思ってたし・・・」
 信じてくれないと思いつつ、そう釈明してみた。
「う〜ん・・・だけどぉ、私って結構凪ちゃんに下着とか見せてたよね」
「そ、それはまあ・・・ごめん」
「うぅ〜、なんか色々と恥ずかしいことしてたかも・・・」
 確かに下着姿で自分の体型がどうのって聞いたりしてたっけ。
 やはり隠し事のツケが回りまわってきた。
 謝るしかないだろうな、と俺が考えていると紅音がためいきをつく。
「でも、どんな凪ちゃんもやっぱり凪ちゃんだもんね。
 うん。恥ずかしいけど、私は受け入れなくちゃいけないよね」
「紅音・・・」
 うんうんと頷くと、紅音は俺の方を見てはにかむ。
 どんな俺も受け入れるって、本気で言ってるんだろうか。
 本気だろうなぁ。なんていうか、凄い奴・・・改めてそう思う。
 口に出せることも凄いが、本当に受け止めてくれそうな包容力がある。
「全部受け止めてくれなくたっていいよ。
 嫌な所はどんどん言ってくれれば、直せるところは直すしさ」
 俺はなんだか嬉しくなって、そんな気障なことを言っていた。
 すると、紅音はうーんと頭を悩ませる。
「それじゃ、言葉遣いもっと女の子っぽくしてほしいなあ」
「・・・却下」
「ええぇ〜っ、今直すって言ったのに」
「直せるところは、って言ったろ。これ以上女っぽい喋りに慣れたくない」
「えぇ〜」
 なんか全然受け入れてない。
 前言撤回だ、こいつに包容力なんてねぇ。

04月05日(日) PM13:12 晴れ
学園内・食堂

 数時間後。
 あっという間に昼が訪れ、俺たちは久しぶりに
 一年のときと同じメンバーで集まっていた。
 短い春休みに帰省する奴は少なく、葉月たちも学園に残っている。
 真白ちゃん、葉月、紫齊・・・皆揃うのは久しぶりだ。
「もうすぐ私たち三年なんですよね。実感ないなぁ」
 そう口にしたのは真白ちゃんだが、
 彼女は一年の頃より大人になった気がする。
 顔つきも、雰囲気も少しずつ変わってるんだろう。
「私なんかさー、不思議だよ。同じ学年繰り返してないのが」
「そうだね・・・紫齊と紅音は、凄く不思議だね・・・」
 この二人は追試のたびに顔あわせてるんだろうな。
 少なくとも高校一年のときは、そうだった気がする。
 今年は、大学入試に向けて勉強してくれるといいけど。
「私は紫齊ちゃんより勉強できるよっ。ちょっとだけだけど」
「いーや、私の方が出来るね。ちょっとだけ」
 どんぐりの背比べとはこのことか。
 実際、二人の答案見たとき俺は眩暈がしたな。
 本当にちょっとだけだから、両方追試になるわけで大差ない。
「ふふ・・・やっぱりこのメンバーだと楽しいですね」
「確かに」
 二年のときはあまり会えなかったけど、
 一年間で育んだ友情は伊達じゃなかったってことか。
 皆、相変わらずのところもあれば変わったところもある。
 少しは変化に戸惑いもするけど、この顔合わせは落ち着く。
「このメンバーは初めてなの」
「そっか、カシスは初めてだったね・・・って、うわぁっ!」
 不意に隣から声がしたと思ったら、カシスが座っていた。
 突然のことだったので、大げさなくらいに驚いてしまう。
「そんな反応は要らないの。凪を見かけたから挨拶に来てやっただけなの」
「そ、そうなんだ。久しぶりだね」
 部屋を別にしてから会ってなかったが、
 お互い気持ちの整理は既についている。
 俺はかつてのルームメイトとして、カシスを皆に紹介した。
 といっても、既に全員が一応の顔見知りではある。
 まともに話したことが無いのは、多分葉月だけだ。
「なんていうか、面白い喋り方ですね、公野さんって」
 さりげなく葉月が一言目にそんなことをたずねる。
 気にはなっていたが、あえて聞かなかったことを・・・。
「ん? ああ、これは癖じゃなくて男受けを狙ってるの」
 カシスが当たり前のようにそんなことを言う。
 飲み物を口に含んでいたら、間違いなく噴出していた。
 そうか。これって口癖じゃなかったのか・・・。
 けど男受けって、どういう男に受けるんだろうか。よく解らない。
「あははっ、面白いよな〜公野って」
 はっきりとものを言うカシスを、紫齊がそう言って笑った。
 まあ、こういうことは自分から言わないよな、普通。
「あとは、真白より胸があったら完全無欠のはずなの」
「な・・・なな、なに言うんですかっ」
「私が真白に負けてるのは胸だけだって言ったの」
「人のこと胸だけみたいに言わないでくださいっ」
 うー。これまた妙な会話になってきた。
 つい気になって真白ちゃんの胸に目が行きそうになる。
 いかん、俺はそろそろそういうベタなパターンを卒業するんだ。
 真白ちゃんのほうを見ないように、紅音のほうを向いてみる。
 うむ、相変わらず成長の無い・・・って、やっぱ胸に意識が行ってるな。
 心なしか紅音は俺のほうをジト目で睨んでいた。
「私だってそのうち、真白ちゃんみたいに大きくなるもんっ」
「や、その・・・そう、かな」
「お世辞はよくないの、凪。
 紅音は、貧相なまま一生を終えるに決まってるの」
「そんなことないよっ・・・えと、たぶん」
 自信なさげだ。恐らくはカシスの言うとおりの気はする。
 幾らなんでも、真白ちゃんの域に到達するのは不可能だろう。
 ていうか、そろそろこの話題から離れないと危険だ。
 どこから俺に飛び火してこないとも限らない。
「さてと、ちょっとトイレに行こうかな」
「ちょっと待つの、凪。
 あんた、自分が大きいからって勝ち組の顔してるの」
「してないわよ・・・って、わぁあああっ!」
 大声を上げて俺はその場を離脱しようとした。
 カシスが人の胸を思い切り鷲掴みにしてきたからだ。
 この野郎、偽者だと解ってて思い切り掴みやがって。
 パットがズレたらどうするんだ。
 畜生、カシスは相変わらずいい性格してやがる。

04月05日(日) PM14:43 曇り
学園内・廊下

 しばらくして、俺はなんとなく学園内を散歩していた。
 別に何かあるわけじゃないんだが、気晴らしと言う奴だ。
 腹ごなしってのもあるけど、暇つぶしってのも大きい。
 街まで出て行く気分じゃなくて、
 ちょっと散歩ってときによく学園内をうろついている。
 今更、人からどう見られようと気にすることもなかった。
 二年間色々な視線を浴びてきたので、いい加減慣れもする。
 そうしていると、前から一人の知人が歩いてきた。
 後輩の音古維月ちゃんだ。
 俺に対する目つきは、以前と同様にちょっと厳しい。
 紅音とのことは別にしても、何故か嫌われてるんだよな。
「あの・・・」
 意外なことに彼女の方から俺に声を掛けてくる。
 普段だったら、素通りされるのに。
「どうしたの?」
「・・・いえ、少し気になることがあって」
「気になること?」
 珍しく話しかけられたと思えば、
 なにやら維月ちゃんは神妙な顔をしている。
 また、紅音のことで何か言われるのかもしれない。
 そう思っていた俺に、彼女は意外な言葉を口にした。
「天使・・・って、信じます?」
「は?」
 いきなり何を言うのかと思えば、天使?
 唐突過ぎて、驚けばいいのかうろたえればいいのかも解らない。
 信じるというか、見たことはあるけど・・・。
「いえ、変なことを聞いてしまいました。忘れてください」
「えっと・・・」
 一方的過ぎてまともに返答が出来なかった。
 どういう意図で彼女は、天使を信じるかなんて聞くのだろう。
 それも、やけに真剣な顔で。
 維月ちゃんの性格からして、冗談とかでもなさそうだ。
「よかったら、もう少し詳しく話してくれないかな」
「・・・別に大したことじゃないんです。ただ、あれが先輩なら・・・」
「え?」
「あ、いえ。本当に何でもないんです。気にしないで下さい」
 彼女にしては珍しく愛想笑いを覗かせる。
 こんなの、余計気になるじゃないか。
 人の気を揉んでおいて、彼女は足早に廊下を歩いていった。
 う〜む。新手の嫌がらせ・・・ってわけでもなさそうだ。
 一体、維月ちゃんは俺に何を話そうとしてたのだろうか。

04月05日(日) PM22:23 曇り
学園内・音古維月の部屋

 維月は自室に戻った後、先日の夢のことを考えていた。
 とはいえ新しい発見があるわけもなく、次第にぼーっとし始める。
 そんなことをしているうちに、彼女はいつしかうたた寝をしていた。

 夢の中、彼女は何か黒いものをただ見つめている。
 辺りは何も見えないような暗黒で、
 それは決して彼女に友好的なものではなかった。
 思わず暗闇から逃げようとする。けれど、足が動かない。
 もがく彼女の前に、ゆっくりと一人の女性が姿を現した。
 その女性は、周囲に明らかな死の臭いを撒き散らしている。
 彼女は危険だ。そう維月は悟った。
 人が人に発することの出来る殺意とは違う。
 維月を見つめる女性は、維月を無感情に殺そうとしていた。
 なぜ? 理由が全く思い当たらない。
 それでも女性は行動を中止などしなかった。
 手に握る刀が、そっと、そして確実に維月の身体を抉る。

「ひぃっ・・・」
 か細い悲鳴を上げ、維月はうたた寝から覚めた。
 背中にはびっしょりと汗を欠いている。
 そのせいか、少し身体は体温を奪われていた。
「今の、まさか・・・今のも、夢見?
 そんな馬鹿な、私が殺されるなんて、どうして」
 理不尽さと共に、一つだけ彼女は心当たりを思い出す。
 幼い頃、そして今に至るまで、彼女は母に言われていた。
 私たち一族に隔世遺伝するこの能力は、
 人の外側にある神をも恐れぬ能力。
 故に能力を得た者は、それを悟られてはならないのだと。
(まさかこの能力が理由で?
 そんな、だけど・・・誰もこのことは知らないはず)
 狙われる理由は考えても仕方が無かった。
 現代においても、魔女狩りに似たものは未だ行われている。
 特異な力を持つ人間が居れば、疎外されるのは当然で、
 過激な考えの人間ならば、それ以上のことも考えうるからだ。
 だから維月は今まで、出来うる限り自らの能力を隠してきた。
 知人が危機にある場合を除いて。
(全く・・・昨日から変な夢ばかり。
 きっと昨日のもこれも、ただの悪夢に決まってる)
 夢の中で見た女性とは一度も面識が無い。
 そんな相手が自分を殺しに来るなど、信じられるはずもなかった。

04月05日(日) PM22:32 曇り
学園内・自室

 あれから数時間。
 もう寝床につくような時間になってきた。
 俺は横にもならず、座って昼間のことを考えている。
 やはり、維月ちゃんの様子はどう見てもおかしかった。
 内容は全然聞けなかったけど、とにかく妙な予感がする。
 普段なら俺と話そうともしない維月ちゃんが、
 何故か今日に限って・・・それも何か大事なことを話そうとしていた。
 気にはなるが、こんな時間に彼女の部屋を訪ねるわけにもいかない。
 天使という言葉に反応してるってだけじゃなかった。
 単語自体ならそこまで変なわけじゃない。
 それが維月ちゃんの口から真剣な表情で出てきたから、
 俺の関わっているものとの関連を疑ってしまう。
 そこで俺は単純な見落としに気がついた。
「紅音、ちょっといい?」
 寝る準備をしてる紅音に俺は声を掛ける。
 考えてみれば、維月ちゃんのことなら紅音の方が詳しいはずだ。
「どうしたの、凪ちゃん」
「維月ちゃんが昼間に、天使を信じるかって聞いてきたんだけど・・・
 あの子ってそういうのに興味あったの?」
 そう聞いてみると、紅音は不思議そうに首を傾げる。
「うーん、維月ちゃんは・・・あんまりそういう話信じてないと思うよ。
 でも、珍しいねぇ。いつも凪ちゃんと話さないのに」
「そうなんだよ。だから余計に気になっちゃって」
 天使や悪魔といったものを信じてるわけじゃない。
 だとしたら、どうしてそんなことを俺に聞いたんだろう。
 何となくってことなら、それで納得はいく。
 ただそれはあの子が俺に話す内容としては奇妙だ。
「もしかして維月ちゃんも天使とか悪魔を見たのかなぁ」
 確信がもてずにいた俺の考えを、紅音はのん気な顔で代弁する。
 そう。そう考えると、彼女の様子にも説明はつく。
 問題は、そう頻繁に天使やらが人前に姿を現すのか、ということだ。
 それもこの学園の人間ばっかり。
 学園内に天使と悪魔が居るんだから、
 ここへ彼らが頻繁に来る可能性も否めない。
 しかし、だ。
 俺を除いて、周囲でそんな目撃談は聞いたことが無い。
 そもそも、天使や悪魔が人の姿をしている以上、
 例え戦闘現場を見たとしても、それが彼らだと解るのか?
「凪ちゃん?」
「うん・・・やっぱり、維月ちゃんから聞いたのは一言だけだったから、
 どうも確信が持てないっていうか、根拠が薄いっていうか」
「だったら今から維月ちゃんに聞きに行こうよ」
「は? こんな夜遅くに?」
「多分起きてるよっ。このくらいの時間なら、
 たまに電話したり会ったりしたことあるし」
「・・・あ、そお」
 まあ普通の高校生はこんな時間に寝ないか。
 俺が昔から早寝早起きなだけですよ、畜生。
 だって母さんが夜更かしは美容に良くないとか言って、
 寝ないと色々と後が怖かったからな。
 美容とか見た目に関わることだと、実力行使するのが俺の母親だ。
 この学園に入ってから、ようやく自由な生活って奴に出会えた気がする。
 徹夜なんて、ここに来てからが初めてだったしな。
「じゃ、行こっか」
「なんで紅音も?」
 いつのまにか紅音は、上着を羽織って外へ出る準備をしていた。
「だって・・・凪ちゃん一人で女の子の部屋に行くのは駄目だよっ」
「・・・そりゃあ、そうだ」

04月05日(日) PM22:32 曇り
白鳳学園・外庭

 すっかりと周囲は闇に包まれている。
 欠けた月が一つ、雲と戯れながらその姿を輝かせていた。
 雲の流れはやや速く、風が辺りをざわざわと揺らす。
 注意しなければ足音さえも、その音にかき消されてしまう。
 一人は走っていた。もう一方は、優雅に歩を進めていた。
 それでも互いの距離は少しずつ縮まっていく。
(夢の中で見たあの女性・・・何故? 何故、追いかけてくるの?)
 維月は困惑しながら、ただ走り続けていた。
 最初は、後方を歩く女性が自分を狙っているのかは解らなかった。
 たまたま廊下に出たとき、遠くに姿を確認しただけだった。
 それなのに維月は走り出していた。近づきたくなかったからだ。
 正確には、彼女を自分に接近させたくない。
 遠目からでも、何か危険な感じがしたからだろう。
 そして、その予感は確かに当たっていた。
 廊下を出て靴も履かずに外へと飛び出した維月を、
 いつでも捕まえられるとでもいうように後方から追ってくる。
 無関係な他人ならば、外へまでは追ってこない。
 何らかの理由で、維月に接近しようとしているのだ。
 暗いせいか、辺りは普段見慣れた学園とは少し違う。
 後方から追跡する女性のせいもあって、不気味なものに見えていた。
(きっと気のせいよ。偶然か、私に何か用があってついてきてるだけ)
 そう考えても、足は止まらない。身体が理解しているのだ。
 決してあの女性に追いつかれてはならない、と。
 肺は酸素を吸収し、二酸化炭素を吐き出す。
 太腿を振り上げ腕を前後に動かし、心臓は全開で鼓動を速めていった。
 それを繰り返し続けるうち、口腔からは呻くような吐息が漏れる。
 二酸化炭素を充分に吐き出せない。苦しい。
 チラッと後ろを向くと、女性との距離は変わっていなかった。
 焦りと共に、心音は余計に急ぎはじめ、足を止めてしまう。
 そのとき――――背後の女性が腕を高く振り上げた。
「さあ、下らぬ自己満足は終わりか?
 ならば、私もこの刃を振りかざすとしよう」
 女性がそう言うと、その手から大きな黒い炎が燃え上がる。
 炎は形を変え、女性の手に刀の形を成して収まった。
 刀はまるで汚れた血のように黒く、おぞましい光を帯びている。
「ど、どうして・・・どうして、何なの貴女はっ」
「それを聞いてどうする? お前はもうじき、耳も、目も、
 喉も、胸も、腹も、性器も、全て使い物にならなくなるというのに」
 三日月のように曲がった女性の唇から、そんな言葉が漏れた。
 形容するならば、それは死。死が背後から迫っている。
 ゆっくりと背中を上り、肩を叩き、首筋に手を伸ばしているのだ。
 こんなときほど自らの無力を呪うことはない。
(半端な能力が身についたから、こんな目に合うんだ。
 はっきりとした確信もなく、曖昧な能力だから。
 何の役にも立ちはしないのに・・・)
 女性との距離はじわじわと詰まっていく。
 足元にある石につまづき、維月はバランスを崩しそうになった。
「慌てなくてもいいだろう。ゆっくりすればいい。
 逃げることなど出来はしないのだからな」
「っ・・・」
 近づいてくる女性は、あくまで優雅に歩いている。
 それなのに、感じるのは針を刺すような身の危険だ。
 こういう場合、相手は人に見られるのを嫌うはず。
 咄嗟に維月はそんなことを考えていた。
 だが、走り出そうとしたそのとき、女性は維月の目の前に立っていた。
「言っただろう。逃げることは出来ない」

Chapter129へ続く