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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Ebony Visitor

Chapter131
「熱帯夜−A sultry night−」
 


04月06日(月) PM21:16 曇り
白鳳学園内

 昨日の今日で、続けてイヴが学園に現れるという保証は無い。
 凪が気を張って維月を守っているなら尚更だ。
 遠目にそれを監視し、気が緩んだところを狙うことは容易い。
 今日この時間に来る必要など、何処にもなかった。
 おまけに、殺人者が行動するにはやや早過ぎる時間帯だ。
 寮内の生徒は大半がまだ起きている。
 だというのに、彼女は今を選びやってきた。
 バーバリーの黒いコートに身を包み、堂々と正門から侵入する。
 以前この学園で生徒として活動していたこともあり、
 警備システムは把握していたし、それを抜ける術も知っていた。
 更にイヴにとって幸運だったのは、凪以外の邪魔者がいないことだ。
 普段であればアシュタロスとラファエル、ガープがこの学園には居る。
 それが現在アシュタロスは無理を言って休暇を取りインフィニティに、
 ラファエルは一時身体を返却してアルカデイアに滞在していた。
 残るガープだが、彼も以前マルコシアス、
 リベサルから受けた傷がまだ完治していないらしく、
 あれからずっと療養目的でインフィニティに帰っている。
 本来なら、ルシードの力で治癒して貰ってもいいのだろう。
 ただ、そうすることをガープが佳しとしなかった。
 相手が大悪魔でほぼ二対一だったとはいえ、
 一方的にやられたなどとは凪に知られたくなかったのだろう。
 かくいう状況をイヴが理解していたかは不明だ。
 結果的に、今日という日において、維月を狙う上での障害は凪一人のみ。
 厳密にはカシスが出張ってくる可能性はあるのだが、
 それでも普段に比べ学園が手薄なのは確かだ。
 偶然の状況とはいえ、イヴと凪の闘いに向け舞台演出は整っていく。
 遠くから、厚い雲の層が学園へと近づいてきていた。
 足を前へと進めるうち、自然とイヴの唇は釣りあがっていく。
 彼女の存在に気づき、凪がその場へとやってきたからだ。
 長く美しい黒髪をなびかせ、凪はゆっくりと歩いてくる。
 イヴはあえて、凪に自分の存在を気づかせていた。
 維月を狙うにあたって、凪はどうあっても障害になるからだ。
「来たんだね、イヴ・・・」
「ああ・・・再会の挨拶は、昨日済ませたな。
 今日は、お別れの挨拶を済ませる番か」
 右手の平から黒い刀がマテリアライズされる。
 凪はその刀を見て、ぐっと身体を緊張させた。
 先日の闘いから具現されたものを透過する刀、
 ということまでは理解している。
 それ以外は全て未知数。どうしても凪は受身にならざるを得ない。
「イヴ、もう私たちの道は交わらないの?
 リヴィーアサンを追いかけてインフィニティへ行ったとき、
 あのときは同じ方へ向かってるって思えたのに・・・!」
「・・・お前は昨日、私を助けたいと抜かしたな」
「今だって、そう思ってるよ!」
 必死にそう訴える凪を他所に、イヴの表情は険しくなっていく。
 動揺しているわけではない。明らかな怒りを抱いているのだ。
 予想外の反応に、思わず凪はたじろいであとずさる。
「ならば知人友人恋人全てと手を切り・・・私にお前の全てを捧げてくれ。
 お前が全てを捨てて、命を賭して私に尽くすのなら、私はお前を信じる」
「それは・・・っ・・・そんなことっ・・・」
 理不尽に聞こえるイヴの言葉だが、彼女にとってそれは事実だった。
 そんなことは不可能だと、そう解っているから言っている。
 凪が紅音や友人を大切に思っているのを承知しているからこそ、
 あえてイヴはこんな意地の悪い提案をするのだ。
 だが、それは確かに彼女を救う一つの選択肢でもあった。
 返答に詰まる凪に、満足げな顔でイヴは嘲りの笑みを浮かべる。
「フフッ、あははははッ・・・! お前はやはり最低の偽善者だったな。
 私とお前の道がもう交わらないか、だと? 交わるはずがないだろう。
 お前が本気で私を助けようなどとはしていないのだからな」
「違う、私は・・・本気でっ・・・」
「ならば全てを捨てて、私のためだけに生きられるか?
 本気で私を助けたいなら、そうすればいい。
 難しいことじゃないだろう? お前に無いものを求めてるわけじゃない」
「・・・できないよ。それは、できない」
「そうだ。お前が私に出来ることなど・・・何もない」
 イヴは黒い刀を下方に構え、凪に向かって走ってきた。
 その表情に手加減という文字は何処にもない。
 ひとまず、直線に向かってくるイヴに対し、凪は右へと走り出した。
 与えられた情報だけで、イヴの攻撃特性を見極めるのは困難。
 そこで凪は、刀が物質透過能力を持つと仮定して行動する。
(なら・・・刀の斬撃を全て避けて、イヴの動きを封じるしかない。
 或いは真剣白刃取り・・・は間違いなく無理な選択だな。
 どっちにしろ、このまま逃げてるのはまずい。
 俺を無視して維月ちゃんを狙いかねないもんな)
 互いの距離はおよそ五メートルほどというところだろう。
 刀は凪の目測では一メートル超、すなわち間合いは二メートル近い。
 半径二メートルの間合い。これは素手の凪にとって脅威だ。
 言わば、それは結界にも似た殺傷空間。
 立体楕円状に築かれた空間を侵すのは、並大抵ではない。
 狙うのはイヴが凪の動きに合わせ、首を捻る瞬間だ。
 視点を移動している最中、そこを狙い凪はイヴへと方向転換する。
 瞬きをするほどの時間、両者の距離は限りなく近づいた。
 イヴは焦点を合わせるのと同時に、刀を横一閃する。
 此処が、凪にとって最も危険な一瞬だった。
 当然のことながら、刀の斬撃は他の武器に比べ圧倒的な速度を誇る。
 半ば偶然の所業ではあるが、凪はこの一撃を身を屈めてかわした。
 これは実に合理的かつ、奇跡的な反応と言えるだろう。
 何故なら、次の瞬間に凪はイヴの下半身へとタックルしたからだ。
「ぐっ・・・」
 あっさりとイヴは地面に尻餅をつく。
 だが、凪はまだマウントポジションを取ろうとはしなかった。
 刀を無効化させなければ、マウントを取っても意味が無い。
 すかさず凪はイヴの手首に手刀を打つことで、手から刀を放させた。
 間を置かず、即座に両手を押さえつけ、イヴを押し倒す。
 無論、ここで油断するなどという愚を犯すわけにはいかない。
 圧倒的有利な体勢に持ち込んでも、凪はあくまで気を抜かずにいた。
「・・・闘い慣れた動きだ。この一年で成長したようだな」
 冷めた瞳でイヴは凪のことを誉める。
「まあ、色々あったからね」
 凪が今、予想外に巧く行動できた理由は簡単なものだ。
 場数を踏んだことによる慣れ。
 特にルシエとの闘いが、凪を精神的に成長させたと言える。
 その成長をイヴが知らなかったことも、大きな要因だ。
 油断がなければ、こうも簡単に凪を懐に入れはしなかっただろう。
「さて・・・ここからお前はどうする、凪。
 私がこのまま退かないと言ったら、お前はどうするんだ?」
「それは・・・」
「ずっとこの状態でいるわけにもいかないだろう。
 解っているはずだ。さっさと――――私を殺せ」
 その言葉が彼女の口から出てきた時、気づけば凪は手を振り上げていた。
 小気味のいい音がして、イヴの頬に平手の跡が残る。
 思わず空いた手で頬を押さえ、イヴは凪を睨み付けた。
 睨み付けたのだが、その表情を見るなり怪訝な顔をする。
「なぜ、そんな顔をする・・・叩いたのはお前の方だろう」
「俺を助けてくれたときに、お前はなんて言ったんだよ!
 可能性が少しでもあるなら諦めるなって、そう言ったんだろ!
 そのお前が、簡単に自分の命を諦めたりするなよ・・・」
 頬を張った凪のほうが、イヴよりも辛そうな顔をしていた。
 凪の顔を見ている内、イヴは心の奥に追いやっていたものを思い出す。
 それを吐き出してしまうと、もう戻れなくなる気がした。
 だから、彼女はそれをずっと胸の内に仕舞っていたのだ。
 決してそれが瞳を伝うことなど無いように、固く心を閉ざして。
 だというのに。目の前の男は、それを溢れさせようとしている。
「俺は絶対にお前の命を諦めたりなんかしないからな!
 何があろうと、簡単に命を捨てさせてたまるか・・・!」
「・・・しかし、私にはもう何も無い。
 役割も果たせない駒など、あの人は必要としないだろう。
 拠り所、縋る存在、また・・・何も無くなってしまう」
 淡々と語るイヴの瞳には、僅かに涙が滲んでいた。
 思わず彼女は、横を向いて顔ごと凪から視線を逸らす。
 それから、ぼそっと呟くようにして言った。
「お前が・・・私の拠り所になってくれるとでも言うのか?」
「え? え、えっと・・・それって」
「気持ちが伴っていなくても構わない。
 ただ・・・この孤独感を紛らわすことが出来れば、それでいい」
 その言葉は、凪が反論できないほど絶望的に吐き出される。
 本人が間違っていると理解しているからだ。
 間違っているが、他にどうすることも出来ない。
 だから、凪は反論せず仮定の話をするしかなかった。
「もし俺がそれを断ったら、どうするんだ」
「悪いがもう我慢する事が出来そうにない。
 お前が出来ないのなら、神を拠り所とするだけ・・・
 また、神にあだなす者を始末するだけだ」
「駄目だ! それは・・・駄目だ」
 イヴが何をして拠り所と口にしているのか。
 何となくだが凪は理解していた。
 恐らく、それが紅音に対する裏切りになるということも。
「っ・・・私はずるいのかもしれないな。
 結局、お前に選ぶ権利を与えたくないんだ。
 私の事を・・・見捨ててほしくないんだ」
 彼女の言うとおり、そもそも凪に選択肢は無い。
 紅音を裏切るか、イヴを殺す、又はこのまま放り出すか。
 放り出すというのは、何の解決にもならない。
 イヴを殺すことなど出来るはずもなかった。
 ならば、選択肢はやはり一つしか残されていない。
「まあどちらにせよ、いい加減退いてもらえないか?
 理性を抑えているのが辛い体勢で、その・・・困る」
「え?」
「・・・一年前、私はあの人にそういう風にされてしまったんだ。
 身体が常に疼くような、何かのタガが外れたような状態に。
 我慢が出来ないといったのは・・・これのことでもある」
 少し頬を朱色に染めながら、イヴはぼそぼそとそう言った。
 そんな事情を聞かされた凪は、一瞬頭が真っ白になってしまう。
 更にタイミング悪く、寮の方からカシスが走ってきた。
 凪とイヴに気づいてやってきたのだろう。
 そのまま、カシスは凪へと飛び膝蹴りを直撃させた。
 想定外の攻撃を受けて、凪は横に転がって倒れる。
「な、何するのよ、あんたは・・・」
「それはこっちの台詞なの! 何で凪がルージュを押し倒してるの!
 しかもルージュは泣いてるし、明らかに凪に襲われてるっぽいの!」
 そう言うと、カシスはイヴの身体を起こして抱きしめた。
 先ほどまでの展開が全て吹き飛ばされたようで、
 思わず凪とイヴは互いを見つめて呆然とする。

04月06日(月) PM21:28 曇り
寮内・自室

 それからすぐ、誤解はとけて凪たちは寮に戻ってきた。
 維月には、大雑把に身の危険が去ったことを凪が説明したが、
 念のため今夜は紅音が泊まっていくという流れになる。
「ま、多分あのあと凪はルージュを襲ってたから私は間違ってないの」
 テーブルを囲むカシスと凪とイヴ。
 やけに偉そうな顔で、カシスはそう言って胸を張った。
 それを呆れ顔で凪は見ている。
「人を犯罪者みたいに言わないでくれる?」
「えっと・・・まあともかくルージュ、久しぶりなの〜」
 カシスは満面の笑みで、イヴ目掛けて抱きついた。
 相変わらずのカシスにどこか安堵しながら、イヴはそれを抱きとめる。
 凪に対する暴言は、さりげなく誤魔化されていた。
「ああ、久しぶりだな」
「元気そうでよかったの」
 イヴの胸に埋もれながら、カシスは家族のことを思い出す。
 クリアやクランベリーのことを思うと、少しだけ胸が締め付けられた。
 それを感じ取ったのか、イヴは優しい顔を覗かせる。
 先刻、殺意に満ちた目で凪を見ていた女性だとは思えない表情の変化だ。
「今日は色々と積もる話があるから、私の部屋に来るといいの」
「・・・すまないが、今日は凪と大事な話をしなければならない」
「じゃあ私も・・・」
 引き下がろうとしないカシスの言葉を途中で切って、
 イヴはカシスに辛そうな顔で話しかける。
 その面持ちで、カシスは事情を自分には話してくれないのだと理解した。
「カシス、決してお前を軽んじているわけではないんだが・・・。
 ただ、出来ればその話は・・・家族であるお前には、聞かれたくない」
「・・・家族。いい言葉なの。その響きに免じて、理解してあげる」
 納得いかないという顔をしながらも、
 渋々とカシスはそう言って立ち上がる。
 ついでに、凪の頬を指で軽くつねってみせた。
「凪がルージュに何かするはずないから、私は安心して寝ることにするの」
「言葉と行動が、一致して無いんだけど・・・」
 苦笑いを浮かべ、凪はつねられた頬を手でさする。

04月06日(月) PM21:45 曇り
寮内・自室

 それから数分ほど談笑すると、カシスは自室へと帰っていく。
 カシスが去った後で、イヴは大きくため息をついた。
「家族か。確かにいい響きだな・・・言い訳に使いたくはない言葉だったよ」
 そう自嘲する彼女に対し、凪はかける言葉が見つからない。
 どんな言葉も重みを持たせられず、うそ臭く聞こえそうだからだ。
 何気なくイヴは窓のカーテンを開き、外をぼんやりと覗いてみる。
 空は雲に覆われ、月の姿は何処にも見えなかった。
 微かに風が吹いている所為か、雲はゆっくりと形を変えていく。
「・・・凪、先にシャワーを浴びさせて貰っていいか?」
「え、あ・・・うん」
 シャワーという言葉に反応したのか、凪の声は情けなく裏返った。
「緊張した面持ちを見せるな。私にまで伝染するだろうっ」
「あは、はは・・・」
 イヴの声も少しだけ震えている。すでに緊張が伝わっているのだろう。
 それに気づいたせいか、凪の緊張は少し解けていた。
 浴室へと向かうイヴを目で追いながら、凪は紅音のことを考える。
(俺は一体、何をしてるんだろう・・・本当に。
 紅音は許してくれないだろうな。普通、ダメだよなぁ。
 でも・・・やっぱり、イヴを見捨てるなんて出来ない)
 テーブルに肘を置いて、凪は頭を抱え込む。
 落ち着けば、何度もそのことがぐるぐると脳裏をよぎった。
 それともう一つ。イヴが神と呼ぶ存在のことだ。
 凪は「神が」と口にされても、いまいちピンと来ない。
 一部の人間と同じように、神という言葉自体に具体性を感じられないのだ。
 神と言われても、神という存在を想像することが出来ない。
 どんな姿なのか。どこに居るというのか。本当に全能なのか。
 疑問は多々あれど、恐らく答えを得ても信じられないだろう。
 それほど偶像化され具体性と信頼性を失ったのが、神という言葉だ。
 神と出会った、という言葉も凪には未だ信じきれない。
 何を定義として神と呼ぶのかも、湧き上がる疑問の一つだ。
 全知全能、創世の主であるものをそう呼ぶのか。
 或いはただ高次の存在であるだけなのか。
 呼ぶ者にとって全てであるから「神」なのか。
 人によって神とは様々に定義される。
 思考がそうやって迷宮へ迷い込んだところで、イヴが風呂から戻ってきた。
 同時に、凪の頭は真っ白に飛びそうになる。
 イヴがバスタオルを巻いただけの姿で戻ってきたからだ。
 片手には綺麗にたたまれた衣服。
 もう片方はタオルが落ちないように掴んでいる。
 ほんのり湯気が立ち、赤みがかった肌が凪には眩しかった。
「あ、あまりじろじろ見るなよ? 着替えがないことを忘れていたんだ」
「うん、そ、そうだね」
 そうして狼狽するイヴは、かつての彼女自身を彷彿とさせる。
「後で服を洗濯させて貰いたいのと、
 一時寝巻きを貸してもらいたいのだが」
「わかった。えっと・・・サイズ的に私のパジャマがいいかな」
「すまないな」
 凪はタンスから青色の寝間着を取り出すと、イヴに手渡す。
 それから浴室へと向かい、彼女は服を着替えて戻ってきた。
 衣服の洗濯も終えたらしく、背後からは乾燥機の音が聞こえている。
 自分が普段着ている寝間着を女性が着ているというのは、
 少なからず凪にとって気恥ずかしいものだった。
 それほど大きくはないようだが、やはり手足の裾はだぶついている。
 多くの男子と同じように、凪はその姿に心奪われそうになった。
「さて、凪・・・覚悟は決まっているな?」
「うん」
「そうか」
 イヴの声は先ほどより落ち着いている。
 だが表情は強張ったままだ。緊張しているのだろうか。
 凪も自分の心臓が高鳴るのを感じた。
 同時に、腹部からは鈍痛を感じる。罪悪感のせいだろう。
 おもむろに、イヴはすっと手を上げて電気を消した。
 ぷつっと辺りが暗闇に包まれ、視界が利かなくなる。
 無言でイヴは体重を凪へ任せて、二人でベッドへと倒れこんだ。
「こうせずに済むのなら、そうしたかったが・・・私は怖い。
 生きていることも、死ぬことも耐え難い恐怖なんだ。
 だから、少しでも・・・全てを忘れて快楽に溺れていたいんだと思う」
「そういう風に、神が造り替えたっていうの?」
「理不尽かもしれないが・・・そうすることで、
 私はまた・・・敵を躊躇わず殺せるようになったんだ」
「なら、イヴは抗ってるんじゃないか。
 だから今、こうして苦しんでるんでしょ?」
「わからない。私には、もう・・・何も解らないよ」
 そう言った後、イヴは顔を上げて凪に口付けをする。
 何度も、存在を確かめるように。
 凪もイヴの身体を強く抱きしめ、それを受け入れた。
「んっ・・・くはぁっ・・・」
 熱を帯びた吐息が、凪の耳をくすぐる。
 感覚的に、お互いはもう引き返せないことを理解していた。
 男女の関係には、スイッチが入る瞬間、というものがある。
 ある地点を越えてしまうと、もはや互いを求めるしかなくなるのだ。
 引き返せない空気というものが生まれる。
 まず、これを無視して行為を中断することなど不可能。
 唇を求め、凪はイヴの顔を片手で引き寄せた。
 背徳感から来る高揚が、異常な興奮と快感を二人に与える。
 胸は際限なく高鳴り始め、互いの性器は既に十分なほどに昂ぶっていた。
「も、もう・・・して、くれないか?」
「え? でも」
「既に準備は、出来てしまってる。だから、早くッ・・・」
 イヴは凪の手をとると、身体を浮かせて自分の股間へと導く。
 指先から伝わるのは、ねばねばとした粘液と湿った陰毛の感触だ。
 服を脱ぐ間も惜しいのか、イヴは膝まで寝間着を下ろすと凪に背を向ける。
 それから四つん這いになって、おずおずと尻を突き出した。
 暗闇とはいえ、そんな格好をされては凪も本能を抑えきれない。
「じゃ、じゃあ・・・行くよ」
 凪もその顔に似合わぬ一物を取り出すと、そっと彼女の尻にあてがう。
 初めての体位に挿入箇所を見失うが、すぐに入り口は発見できた。
 愛撫もしていないのに、よくここまで濡れるものだと凪は感心する。
 同時に、それが神によって仕込まれたということに軽い嫉妬を覚えた。
 ゆっくりと互いの身体が重なっていく。
「んっ・・・くぅ、うぁあぁっ・・・」
 まるで待ちわびていた恋人を受け入れるように、
 イヴは凪の性器をきゅうきゅうと締め付けた。
 身体を動かす前に搾り取られそうで、慌てて凪は一端分身を引き抜く。
「あ、はぁっ・・・もっと、激しくして・・・構わない」
「・・・わかった」
 要望に答える形で、凪はもう一度ペニスを挿入した。
 締め付けを堪え彼女の腰を掴むと、思い切り奥までペニスを押し込む。
 思わず、イヴは身体をしならせて快感に震えた。
「あぁ、奥まで・・・熱、くて、すごいぃ・・・」
 気づけば凪は夢中で身体を前後させ、
 イヴはそれに合わせ腰をくねらせている。
 互いの動きを感じ取り、上手く快感を引き出そうとしていた。
 やがて凪の限界が訪れると、イヴは期待した眼差しで彼を見つめる。
「中で、中でそのまま、出してっ・・・」
「わ、かった・・・!」
 一瞬、ペニスは膨張してから膣内へとその全てをぶちまけた。
「くぅ・・・ん、あっああぁぁっ・・・!」
 びくびくと痙攣したように震えると、イヴは顔をベッドに埋める。
 しばし、二人は絶頂の快感とその余韻に身体を預けた。
 荒い吐息と上下する胸が、並々ならぬ快楽を思わせる。
「はあ、はぁっ・・・凪、まだいけるか?」
「・・・え?」
「ひとまず充足は得たが、まだ満足には程遠い」
「冗談だろ? しばらく無理だよ、幾らなんでも」
「そうか・・・それなら、仕方ない」
 しなびた凪の性器から身体を引き抜くと、イヴはそのペニスを握った。
 ふふ、と口元で笑うと彼女は唇をそれへと近づける。
 達したばかりのペニスには、口内や舌による刺激は強烈過ぎた。
「どうだ、自慢ではないが・・・お前のを復活させる自信はあるぞ」
「ひっ・・・あ、うぅっ」
 イヴは舌先で玉を舐め、裏筋にキスをして、亀頭を口に含む。
 過剰な刺激だというのに、優しく這い回る舌は再び気持ちを昂ぶらせた。
 口内でむくむくと起き上がる欲望に、イヴは口元に笑みを浮かべる。
 それは悦びではなく、どこか自嘲のこもったものだった。
「・・・軽蔑したか? こんなにいやらしく・・・浅ましい女だったのかと」
「まさか。まあ、驚いてはいるけど・・・ね」
 凪の返答を聞いたイヴは、それ以上何も訊ねようとはしない。
 唇だけで微笑を浮かべると、俯いて一言、「そうか」と呟いた。

04月06日(月) PM22:30 曇り
白鳳学園内

 その頃、ヘプドマスたちは遠方から凪たちの監視を続けていた。
 彼らの情事も、樹の上から彼らに覗かれている。
「ったく・・・いい加減馬鹿らしくなってきたわね」
 顔を真っ赤にさせて、サバオトはそっぽを向いていた。
 ただ、文句を言いながらもチラチラと凪の部屋を見てはいる。
 他の面々は興味の無いという表情で、周囲の太い枝に座っていた。
「まるで恋人のようだね・・・一夜だけの刹那だって言うのに」
 ヤオートはプロノイアの人格が引っ込み、本来の人格に戻っている。
 彼は凪たちを同情するように、そんなことを口にした。
 すると、それにアスタファオスが反論する。
「あんたまだまだ若いわね・・・あれが恋人のように見えるって?」
「僕にはそう見えるけど、アスタファイオスにはそう見えないの?」
 くすくすと笑いながら彼女は唇に手を当てた。
「見えないわねぇ。私には、ただ親密なだけの友人にしか見えない。
 愛したり、恋したりっていう感情は・・・多分、あの二人には無いわ」
「そんな、まさか。だって、あんな風に互いを求め合っているのに」
「身体を重ねただけで、恋人になれるはずがないでしょう」
「そういう・・・ものなのかな」
「そういうものよ」
 何故なのかアスタファイオスは、確信を持った顔でそう断言する。
 そう言われて、ヤオートは妙に納得してしまった。
 ヤオートたちと違い、黙して待つのはヤオとアドーニとサバタイオスだ。
 彼らは必要以上に喋ることをあまり好まない。
 とは言っても、ヤオとサバタイオスは無口なタイプでもなかった。
 ただ、お喋りなタイプではないというだけのことだ。
 それに無口なアドーニが居ると、自然と会話も少なくなる。
 このようにヘプドマスには二つのグループが存在していた。
 会話好きなアスタファイオスたちと、アドーニやサバタイオス。
 反発しあってはいないが、無理に迎合もしない。
 そしてただ一人、その両者に等しく交わるのがエルゥ=アイオスだ。
 掴めず、両面性を持ち、異常性も等しく持つ男。
 基本的には一人を好むが、ずっと一人でいたいほど強くもない。
 全感覚が無い故に、彼は人よりも精神的に弱い面があった。
 それを埋めて、強力な能力へと進化させたのがアザゼルだ。
 彼を妄信するからこそ、エルゥは誰よりも強固な精神力を持つ。
 全ては、アザゼルという天使が彼に安心を与えているからなのだ。
 樹のてっぺんまでゆっくりと浮き上がり、あぐらをかいて座する。
 身体を動かすのは、筋肉ではなくイメージによる能力だ。
 不意に彼は奇妙な感覚につられて、辺りを見回す素振りを見せる。
(いや、そんなはずはない。だが・・・微かに感じた気がした。
 あの方が、アザゼル様がここに来られる理由などないというのに・・・)



 開かれた世界。閉じた世界。有限と無限。表と裏。
 相反する者を神は愛する。完全なる一へと回帰する者を、神は愛する。

 窓。窓は常に何かを呼び込む入り口となる。
 悪いもの、良いものに関わらず何かはやってくる。
 白鳳学園の学生寮へと静かに降り立った翼。
 その四枚羽根を折りたたむと、一人の天使は窓へと足をかけた。
 天使に気づいた部屋の主は、窓のほうを向いてびくっと震える。
「ごきげんよう、美しき混濁を招く者よ。裏切りを断罪する者よ」
 透き通った声で天使は静かにそう言った。
 意味の通らぬ天使の言葉に、明らかに部屋の主は不信感を抱く。
 そもそも相手は人の部屋に無断で上がり込む不審者だ。
 だが、次の瞬間に天使は一言で部屋の主に興味を抱かせる。
「君は何故、偽りの世界で閉じこもっているんだい?」
「何なのよあんたは・・・いきなり窓から入ってきて、一体何?」
 部屋の主――――古雪紫齊は、その一言で思わず声を上げた。
 不信感は残っている。それでも僅かな期待が彼女の脳裏をよぎる。
 自分の人生に、一つ魅力的な選択肢が現れたのではないか、と。
 彼があえて見せた背中の翼、それが彼女の期待に僅かな現実味を与える。
「僕は本来の君を必要として、やってきたんだよ」
「本来の、私?」
「君は不幸にも日本と言う不自由な国に生まれ、厳格な家で育ち、
 内に秘めていた本来の君を封じ込められていた。
 一方向にのみ向けられた君の可能性は、もはや可能性とは呼べない。
 本当の名前と本当の力を得たとき、君は自分の運命を選び取るんだ」
 紫齊は興奮と期待で、ゾクゾクと身体が震えるのを感じる。
 天使、アザゼルは実に彼女が求めている言葉を巧く利用した。
 欲しがっている言葉を端々に散りばめることで、
 彼女の不信感をアザゼルへの興味へと誘導する。
 さも当然のように、彼女の境遇を語って見せたのも効果的だった。
「・・・本当の力って、まるで真実味が無いじゃん。
 今時、そんな言葉を間に受けるとでも思う?」
 口ではそう言いながら、彼女は少しアザゼルの言葉に期待している。
 社会に出ていないが故の精神的な甘さ。
 窓から上がりこんできた不審者の言葉に、
 耳を傾けてしまうというその甘さもアザゼルに味方した。
 もし本当であれば。そうであったらという考えを持たせる。
 そこで、アザゼルはこともなげに言った。
「論より証拠、君に力を与えてあげよう。
 君が持つ新しい名前と共に、ね」
「え?」
 一歩、アザゼルは無造作に紫齊の側へ近づく。
「この役目は誰でもいいが、故に君は選ばれたと誇りを持っていい。
 古雪紫齊、其の名は今日でお別れだ。代わりに君が名乗るのは、
 僕やルシフェルが呼ばれることもある名誉ある名前だ。
 そして――――その気高き名に相応しい力を」
 アザゼルは紫齊の頭に手を乗せると、そっと手を左右に動かす。
 抵抗するどころか、紫齊は反応することすらできなかった。
 彼の手からは、少しして鮮やかな赤の光が零れだす。
 同時に紫齊の身体は、ゆっくりと宙に浮き上がっていった。
「さて、今の君には世界の裏側を知る力と権利がある。
 かつて君が親しくしていた、高天原凪と言う男のこともね」
「凪・・・が、男?」
 呆然とした紫齊の耳に、アザゼルは優しく語りかけた。
 彼は出来るだけ中立的であるように、ありのままの事実を語る。
 なぜならば、それこそが彼女にとって残酷だと知っているからだ。
 終始穏やかな笑みを見せるアザゼルの言葉を、
 紫齊は黙ったまま両の耳に入れていく。
 やがて、彼女の背から不気味な紫色の翼がぼこぼこと姿を現し――――
 古雪紫齊は、完全なる悪魔へと変貌していった。

「目覚めよイブリース。人間として生きた十数年、君は夢を見ていたんだ。
 いつも感じていた齟齬も、今より全て噛み合っていくことだろう」

Chapter132へ続く