Back

黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter139
「蝶の罠」
 


04月09日(木)  PM20:40
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 アニエルは火傷の痛みを忘れるほどに、傷に対する衝撃を受けていた。
 傷を恐れてはいない。傷痕が残ることこそ恐ろしい。
 もしも、酷い跡が残ってしまったら。そう考えると震えさえ覚える。
「いいか・・・貴様ら醜き者には理解など求めてはいない。
 だが宣言しておこう。私の身体は芸術だ。神の造りし芸術の一つだ。
 それを汚そうとした報い、神に対する背徳と同義! 死に値する!」
 彼の言葉にあきれた様子で黒澤が答える。
「・・・そうは言っても、我々は元より敵対者ですしねぇ」
「神がそう言ったのなら、私がそれを否定する。それだけのことよ」
 リヴィーアサンはそう言って、アニエルに中指を立てて見せた。
 彼の感情に呼応したのか、蝶の具現体ズィーベルンが咆哮をあげる。
 甲高い鳴き声は、超音波のように辺りへ木霊した。
 思わず黒澤たちは反射的に目を閉じ、両耳をふさぐ。
「行くぞズィーベルン。悪魔どもに美の鉄槌を下すのだ!」
 アニエルが背に乗ると、蝶は音もなく大きな羽根をはばたかせる。
 その羽根から、綺麗な紫色の鱗粉が辺りにまき散らされた。
 それを見た黒澤とリヴィーアサンは、鱗粉に危険なものを感じ取る。
「アシュタロス、奴から離れるわよ」
「ええ。あれは何か・・・危険です」
 二人は即座にズィーベルンから走って距離を取った。
 身体をひねって顎に手を当てると、アニエルは唇をつりあげて笑う。
「追え。お前に恐れをなしたというのなら、我々の勝利だ」
 彼は直立不動で目を閉じ、ズィーベルンの動きに身を任せた。
 ズィーベルンは独特の円を描くような動きで、
 獣のような叫びとともにリヴィーアサン達を追いかける。
 辺りは一面砂漠、この状況では隠れる場所がなかった。
(このまま単調に追いかけてくるようなら・・・仕掛けてみますか)
 黒澤は鱗粉に注意を払いつつ、攻撃のイメージを固め始める。
 その様子を見ると、リヴィーアサンは辺りを注意深く観察した。
 背後のズィーベルンに加え、新手がいつ現れるとも限らない。
 攻撃は黒澤に任せて、自分は守る側に回ることにしたのだ。
 少なくとも先ほど交戦したザドキエルは、
 二人に用心しているのかまだ姿を見せていない。
(敵はどこにいるとも限らない。そう、すぐ傍にいるかもしれない)
 リヴィーアサンは黒澤にも隙を見せてはいなかった。
 最初から彼の行動には不審な点がある。
 天使の牙城を崩す、などと言う理由でここに来たことだ。
 戦力を見れば、それが戯言にすぎないのは解りきっている。
 彼が裏切るような理由は今のところ思いつかないとが、
 それが確実だともリヴィーアサンは考えていない。
 そのときの状況次第で、何が起こるかなど解らないからだ。
 だからか、彼女は積極的に攻撃しようとしない。
 攻撃時はどうしても隙ができる。その隙を黒澤に見せたくなかった。
 凪たちから遠ざかるように、二人はズィーベルンから逃げ続ける。
 しばらくの間、敵の様子を見ていた黒澤が攻撃に転じた。
「追う動きが単調、攻撃する様子もなし・・・。
 それならば、こちらからいかせてもらいますよ」
 黒澤がズィーベルンに狙いをつけて、数本ガラスの刃を投射する。
 全てが蝶の頭へ直撃したように思われた。
 直後、ガラスの刃は蝶をすり抜けてしまう。
「攻撃? フフン、今・・・攻撃といったか? 攻撃なら、既に完了している」
「な・・・これは、一体・・・」
 様子がおかしいことに気づき、黒澤はリヴィーアサンの方を向いた。
 彼女はそこで彼の行動に疑問符を浮かべる。
「どこを向いているの、アシュタロス」
「は? 貴方の方を向いて・・・」
 二人は互いの顔を見合せて、思わず手を伸ばした。
 手は、相手の身体をすり抜けて空を切る。
 その意味を理解すると、二人は顔色を変えてアニエルの方を見た。
 正確には、アニエルの見えている方向を見ていた。
「ズィーベルンと相対した者の多くは、まず鱗粉に注意を払う。
 それは間違いではないが・・・大きなミステイクなのだよ」
 アニエルという天使にとって、闘いとは美学の一つである。
 圧倒的な破壊もまた美と認めてはいるが、
 スマートな闘いとスマートな勝利こそが彼の信条だ。
 故に、彼が具現したズィーベルンも破壊行動は取らない。
 蝶は鳴き声を上げて空を舞うだけでいい。
(鳴き声には私以外の視覚を惑わす衝撃と音がある。
 目に見えるもの全ての位置がズレて映るだけでなく、
 やがては、時間とともに上下の感覚すら失うことになる)
 恐るべきは、虎視眈々とこの瞬間を待っていたアニエルだろう。
 余裕を見せて攻撃してこないのは不審に見えていたが、
 それは攻撃すれば相手が異常に気付くのを速めるからだ。
 彼からすれば、鳴き声を聞かせた時点で後はただ待つだけでいい。
 黒澤とリヴィーアサンは、立っていることが出来なくなっていた。
 二人は、上下の感覚を失い倒れるようにその場で座り込む。
「・・・これは、油断したわ」
「深く酔ったような感覚ですね。実に、まずい」
 両手をついて黒澤が立ち上がろうとするが、上手く身体が動かない。
 リヴィーアサンは身じろぎせず、ただ一点を見つめていた。
 そんな二人の様子を、アニエルは顎を触りながら見つめる。
「フフ、これこそスマートな戦い・・・引いては闘いの美学というものだ。
 悪魔どもには辿り着けぬ美の高み、最後に感じるがいい」
「偉そうなことを言うじゃない」
「ンム? そうではない。君たちが話す言葉はもう命乞いだけでいい。
 これから君たちは、鱗粉を吸いこんで窒息死することになるのだから。
 さあ、空を舞うズィーベルンとこの私に対し、畏怖を持って叫びたまえ。
 醜く涎や糞尿を垂らして死ぬまで、神と私に慈悲を請うのだ!」

04月09日(木)  PM21:18
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 両手を高くあげ、アニエルは満足げな顔で目を見開いた。
 恐怖を演出でもしているのだろうか。
 ズィーベルンは少しずつ黒澤たちに近づいてくる。
 諦めたかのような顔で微笑むと、リヴィーアサンは目を閉じた。
「全く・・・よほど力の差でもない限り、確かにこの戦法は有用ね」
「・・・同感です。油断していたつもりはありませんでした。
 にも関わらず、こうもしてやられるとは・・・プライドが傷つきましたよ」
 鱗粉を少し吸い込んだのか、黒澤は大きく咳をする。
 それを見て、リヴィーアサンはふふっと笑った。
「ずいぶんと余裕があるじゃない。死ぬのは怖くないのかしら?」
「まさか。貴方と同じです」
 鱗粉が二人のすぐ傍に舞い落ちる。
 ズィーベルンは近くの上空を飛んでいるようだ。
 そんな蝶の背から、アニエルが顎をさすりながら二人を見下ろす。
「命乞いをしないか・・・美しき死に様を求めるならば、それもよかろう。
 君たちの死に憐れみを抱けるというものだ」
「一つ教えてあげましょうか」
 彼の陶酔した口調を遮るように、リヴィーアサンが口を開いた。
「私にも美学はある。それは、勝利すること。
 必ず勝つということが、私の美学。どんな手を使ってもね」
 そう言うとリヴィーアサンは、集中して掌に黒い炎を具現する。
 黒澤も膝をついた体勢で、数多くガラスの刃を具現する。
 アニエルはそんな二人を見て、蔑むような笑みを見せた。
「馬鹿め・・・そのザマで何ができる!」
 彼がそう言い終わるかどうかというときに、
 構わずリヴィーアサンと黒澤がアニエル目掛けて攻撃を開始する。
 無数のガラスの刃が、アニエルの方向に向かって放たれた。
 一瞬困惑するアニエルだが、即座にズィーベルンが回避行動を取る。
 素早い動作でガラスの刃が幾つか避けられるが、
 二本程度がズィーベルンの羽根に突き刺さった。
「喋りすぎなんですよ、貴方は」
 音だけを頼りに、黒澤はアニエルの位置を予測して攻撃していた。
 それは決定打とはならなかったが、大きくアニエルを驚かせる。
 更に彼が驚かされたのは、黒澤が次の刃を既に用意していたことだ。
 幾ら慣れたイメージとはいえ、あまりに具現化が早すぎる。
 大悪魔アシュタロスだからこそ成せる早業だ。
「ぐっ・・・」
 一旦距離を取ろうとして、アニエルはズィーベルンごと後退する。
 だが、そこで突然彼の眼前に黒い炎の竜巻が現れた。
 黒澤に対し、リヴィーアサンは声から大まかな位置を予測すると、
 後は炎の竜巻で周囲全てを焼き払おうと考える。
「具現された蝶の羽ばたきは無音。流石に位置なんて探れないわ。
 お喋りなところを直せば、完璧な戦法だったのに・・・残念ね」
 遥か上空へ飛ばされたガラスの刃が、アニエルの周囲へと降り注ぐ。
 上からの攻撃を羽根で吹き飛ばすには、姿勢を変える必要がある。
 その間に、ズィーベルンの身体をガラスの刃が貫いた。
 巨体がよろめき、姿勢が崩れる。そこへ黒い炎の竜巻が迫った。
「美が失われることがあってはならないんだ! 私が消えてはならない!
 神より授かりしこの肉体、決して滅びてはならないのだ!」
 アニエルの身体が炎の竜巻に包まれる。
 今度はまともに直撃したせいか、逃げることもできないようだった。
 のたうちまわるアニエルに、黒澤は冷めた顔でつぶやく。
「よかったですね、美とは滅びるからこそ、美たりえるもの。
 まあ・・・貴方が美しいかは、さておいてですが」

04月09日(木)  PM23:25
アルカデイア・辺境・クローバー砂漠

 ひとまずアニエルを倒したリヴィーアサン達だが、
 まだしばらく身体の自由は戻りそうもなかった。
 この状態で新手に襲われては、流石に勝ち目が薄いだろう。
 手傷さえ負わなかったが、二人は大きな危機に直面していた。
 そこへ、当然のように遠くから一人の天使が飛んでくる。
 黒澤とリヴィーアサンの前に現れたのはザドキエルだ。
 二人にとってはあまりにタイミングが悪い登場。
 恐らく彼は、アニエルと二人の闘いを傍観していたのだろう。
 顔には余裕の笑みが浮かんでいた。
(アニエルは実にいい仕事をしてくれたものだ。
 敵の動きを封じた挙句、無様にやられてくれるとはな・・・。
 ズィーベルンのことを聞いた時、欠点を指摘しなかったのは正解だった)
 両手を広げると、ザドキエルは周囲に幾つかの頭蓋骨を具現する。
 その開いた口の中にあるのは、骨で形作られた矢だ。
 思わず黒澤は、ザドキエルから距離を取ろうとする。
 すると、それに反応して頭蓋骨から矢が放たれた。
「ぐっ・・・!」
 想像だにしない方向からの矢が、黒澤の肩を貫く。
 矢が放たれると頭蓋骨は消え、ザドキエルは別の位置に移動した。
 位置を悟られぬよう注意を払っているのだろう。
 肩からの出血を手で押さえ、黒澤は苦い顔をした。
「これは、いよいよまずいですね」
「ええ。この状況下に置かれた時点で、ある程度覚悟はしていたわ」
 普段冷静なリヴィーアサンも、流石に表情から焦りの色が見えている。
 動けない二人を尻目に、ザドキエルは周囲に頭蓋骨を具現し続けた。
 全方位からの攻撃ができるよう配置を済ませると、
 少し距離を取って二人の姿を眺める。
「さあ、私が神に代わって公正に裁きを下してやろう」
 彼の具現した頭蓋骨の矢は、動きに反応して照準を合わせ矢を放つ。
 僅かな動きならば感知しきれないが、それは身じろぎ程度の動きまでだ。
 また、ザドキエルの意志によって、自由に矢を射ることもできる。
 それを察すると、黒澤はリヴィーアサンに話しかけた。
「どちらかが囮になれば、一度だけは一斉射撃を防ぐことができます。
 これは二人共死ぬよりは賢い判断だと思いますが」
「・・・私にその囮をやれと?」
「まさか。教師たるもの、生徒に見本を見せずしてどうしますか」
「何をふざけたこと・・・」
 リヴィーアサンが言い終わる前に、黒澤が無理やりに身体を起こした。
 まだふらつき、立っているのもやっとという状態だが、
 構わず黒澤は適当な方向へと走っていく。
 その行動に反応した頭蓋骨が、一斉に口から矢を射出した。
 矢が放たれたその瞬間、黒澤は全力で地面に拳を振りおろす。
 数メートルほど砂が巻き上げられて、辺りが砂で何も見えなくなる。
 矢の勢いを殺そうという算段なのだろうか。
 そう判断したザドキエルは、黒澤に音を立てず拍手を送った。
(面白い考えだ。しかし・・・所詮は焦りからの浅知恵だったな。
 頭蓋骨も矢も私が具現した事象。現実の理は通用しないのだよ)
 巻きあがった砂煙を物ともせずに、矢はその先へと突き抜けていく。
 まず一人。そう思い、ザドキエルはリヴィーアサンに視線を戻した。
 すると、彼女は手で望遠鏡の形を作り周りを眺めている。
(なんだあれは――フフフ、気でも触れたのか?)
 リヴィーアサンの様子を見て、失笑を堪えるザドキエル。
 彼女の視線がザドキエルの方を向くと、
 空いた片手が真っすぐ彼の方向へ伸ばされた。
 ザドキエルは、その奇妙な行動に疑問符を浮かべる。
 次の瞬間、彼の身体は黒い炎で燃え上がっていた。
「なっ・・・これは・・・!」
 身体だけではない。前後周囲の砂さえもが燃えていた。
 まるで、絨毯を敷いたように二人の間を黒い炎が包む。
 驚きと苦痛にザドキエルが顔を歪めた。
「どうやら当たったみたいね」
「何故だ・・・! なぜ、私の正確な位置が・・・!」
「簡単なことよ。視野を狭めて位置を絞り、
 後は出来るだけ遠くまで攻撃しただけ」
「そうか、あの奇妙な行動は・・・」
 あえて彼女は手で可視範囲を狭めることで、
 視認のズレを最小限に抑えていた。
 ズレさえカバー出来れば、後は目の前の全てを燃やし尽くせばいい。
「・・・こんな規模の大きい炎のイメージを、この短時間で行ったというのか」
「今の状況に置かれたときから、ずっとイメージしていたわ」
 黒い炎に焦がされ、ザドキエルは地面へと倒れこんだ。
 それを見るとリヴィーアサンは辺りの様子を確認する。
 砂煙はとうに晴れているが、黒澤の姿がない。
(この程度で死ぬ男じゃないと思うけど・・・)
 未だ視野と上下の感覚を奪われたままで、黒澤を探す余裕はなかった。
 ひとまず黒澤を探すのは止めて、よろけながら彼女は立ち上がる。
 同じ場所に留まるのは危険だと判断したのだろう。
 歩こうとすると、上手く足が動かず膝をついてしまった。
 それでも少しずつ、砂漠を這うように進んでいく。
「全く・・・無様なものね。この私ともあろうものが」
 独り言のようにそう呟くと、リヴィーアサンは手の砂を払った。
 すると、不意に彼女の意識へと紅音が語りかけてくる。
「リヴィーアサン、大丈夫? えっと、私と代わる?」
「大丈夫よ。貴方こそ大丈夫なの? これからは、血生臭いことばかりよ」
「・・・私なら大丈夫。だって、凪ちゃんの隣にいたいから」
 それを聞いて、思わずリヴィーアサンはきょとんとした顔をした。
 もっと紅音が怯えたり、不安にしていると考えていたからだ。
(気付かない間に、紅音も少しずつ変わっていってるのね)
 同じ身体に意識を置いていても、互いの全てが解るわけではない。
 変わりつつある紅音の心に、リヴィーアサンは軽い驚きを覚えた。
 昔から紅音をずっと見てきただけに、母のような気分も湧いてくる。
 不思議な感覚をリヴィーアサンは味わっていた。
 それが原因なのかはわからない。
 だが、そのとき確実に彼女は周囲へ気を配ってはいなかった。
 リヴィーアサンの立っている場所に、何かが移動してくる。
 その物体に気づくと、リヴィーアサンは目を見開いた。
 数時間前に見た爆発する小さな目が、空中を移動していたのだ。
 即座に彼女は遠くへ跳躍しつつ、身体をイメージの膜で防御する。
 脚がふらついて思ったより飛べず、方向も見当違いだったが、
 その場にとどまるよりはずっとましだと考えた。
 眼はリヴィーアサンがその場を離れてすぐに爆発する。
 彼女は爆発に巻き込まれ、煙の中に姿を消した。
「レスタティーバの直撃だけは避けたか・・・」
 目が爆発した場所から少し遠くの空。
 レミエルは観察するようにその様子を眺める。
 

Chapter140へ続く