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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Eden's Blue

Chapter151
「Miserere meae Deus -01-」
 



 吹きあげる風がざわざわと草木を揺らす。
 空からは、アルカデイアよりずっと強い日差しが照りつけていた。
 辺り一面に広がる草原には、人の気配は微塵も感じられない。
 ふと、凪は世界に二人きりしかいないような感覚に囚われる。
 のんびりとした風景が、その気持ちに拍車をかけるようだった。
 しばらく彼が辺りを眺めていると、目を覚ましたイヴが身体を起こす。
「ん――」
 ゆっくりと起き上がり凪の顔を見ると、
 イヴは辺りを見回して現状を把握しようとした。
 その様子を凪は座った状態で黙って見ている。
「そうか、私たちはあの景色に飛び込んだのだったな」
「うん」
 この場所に来る前、何が起こったのかをイヴは思い出していた。
 メタトロンと遭遇して、セフィロトの樹から外に放り出されたこと。
 カシスと別れてこの場所にやってきたということを。
 彼女が目を覚ましたので、凪は何気なく疑問を口にしてみる。
「ここってどこなんだろう」
「――ここは恐らく、エデンのふもと。現象世界とは異なる世界だ。
 名の通り、楽園のふもとに位置している」
 周囲を観察しながら、浮かない顔でイヴはそう言った。
 エデンのふもと。その言葉に、凪は何か引っかかりを覚える。
 どこかで聞いたことがあるような気がしていた。
 考えても思い出せないので、ひとまず凪は辺りを探索しようと立ち上がる。
「帰る手段を探さないとね」
 付近にセフィロトの樹は見当たらなかった。
 現象世界と同じく、見えないようにしているのかもしれない。
 セフィロトの樹を探すか、他の手段を探す必要があった。
 近くに見えているのは何かの神殿と、小さな小屋だけだ。
 ここからでは、それ以外に気になるものは見当たらない。
「あの神殿にとりあえず行ってみようか」
 そんな凪の提案に、逡巡してイヴは頷く。
 あまり気乗りしないようにも見えたが、彼女は何も言わなかった。
 イヴを背負うと、凪は立ち上がって神殿へと歩き始める。

04月10日(金)  PM13:46
エデンのふもと・世界母の神殿

 時間にすると数分ほどで、二人は神殿の傍までやってきた。
 神殿自体の入口は、奇妙なオブジェに挟まれた昇り階段の先にある。
 一段一段確かめるように凪は階段を上っていく。
「ここ、どこかで見たことあるような――気がする」
 辺りの様子を見て凪はそんなことを言った。
 それに対して何も答えず、イヴはただ黙って神殿の入口を見つめる。
 階段を登りきると、そこから奥の様子が少しだけ窺えた。
 薄暗くてはっきりとは分からないが、二つの台座がうっすらと見える。
 何かが置いてあったのかと想像できるものだ。
 神殿の中へと歩きながら、ふと凪はイヴに訊ねる。
「もしかしてイヴは、ここが何か知っているの?」
 彼女はゆっくりと頷いてから、少し間を置いて話し始めた。
「――聞いたことがある。ここはローカ・マターの神殿。
 ルシードとディアボロスの転生体が安置されていた場所だ」
「それって――」
 さんざん聞かされてきた、ルシードとディアボロスという言葉。
 それらの転生体、というものがここに安置されていたと聞いて、
 凪は若干の驚きを覚えるが、同時に納得したような気持ちにもなる。
「お前は間違いなくここに来ている。
 そして、ここでお前はその身体にルシードの転生体を宿したんだ」
 イヴが語るそれらの情報は、神や様々なところから得たものだった。
 本当ならば、彼女はその話をしたくはなかった。
 ルシードと凪を、出来るだけ遠ざけていたいと思っていたからだ。
 運命という名の鎖の前で、それが無意味な抵抗だと知りながら。
「ここが、私の中にルシードが宿った場所――。
 それじゃあ夢姫って子もここに?」
「ああ。経緯は知らないが、お前たちはそうして宿命を背負った」
 何気なく、凪は台座の一つに触れてみる。
 全ては過ぎてしまったことであり、もう戻ることはできないのだろう。
 静寂に包まれた神殿の中、凪はそんなことを思った。

04月10日(金)  PM14:04
エデンのふもと・小屋

 神殿の探索を終えると、凪たちは近くにぽつんと佇む小屋へとやってくる。
 それほど大きくはないが、人が住めるような作りになっていた。
 原始的ではあるが、人間が暮らすための設備も最低限揃っている。
 長い年月が過ぎているように見えるが、ほこりやゴミは見当たらなかった。
 それどころか、清潔なままのテーブルやベッドが置かれている。
 まるでつい最近まで人が住んでいたように感じられた。
「――運命という奴は、皮肉で人をおちょくるのが得意らしい」
 小屋の様子をあらかた確かめると、イヴはそう呟いて苦笑いする。
 エデンのふもとへ来てから、彼女の様子は明らかにおかしかった。
 凪はイヴをテーブル傍の椅子に座らせ、自分も椅子に腰かける。
 テーブルに腕を乗せると、イヴは黙して凪の言葉を待った。
「この、エデンのふもとってところに、イヴは来たことがあるの?」
「――ああ。私は遥か昔、そう――遠い昔に、な」
 蘇るのは懐かしさと、当時の彼女に存在した様々な感情たちの残り香。
 思い出すだけで、イヴは少し胸が苦しくなるのを感じる。
 彼女の様子を察したのか、凪はそれ以上何も聞けなかった。
 何を言おうか凪が迷っていると、不意にどこからか腹の音が聞こえてくる。
 どこからか、とはいってもこの場にいるのは二人だけだ。
 非現実から現実に引き戻されたようで、思わず凪は笑いそうになる。
 イヴは照れくさそうに頬を染め、慌てて腹を押さえた。
「笑うなっ。こ、これは仕方ないだろうっ」
「そうだね。とりあえず食料を探そうか」
 何気なく提案した凪だが、言ってみてからそれが現状最優先だと気付く。
 すぐ現象世界に帰れるとは限らない以上、食料の確保は生命線だ。
 のんびり探索しているような余裕はどこにもない。
 外へ出て食料を探す前に、凪は念のため小屋の中を漁ることにした。
 いつから放棄された小屋かは解らないが、
 もし保存食があれば食べられるかもしれない。
 キッチンとして使われていた形跡のある場所を、凪はくまなく探してみる。
 そこには、調味料や調理道具が原始的な管理で保管されていた。
(塩に、鉄板――フライパンみたいなもんか。食糧自体は見当たらないな)
 仕方なく小屋を探すのを止めて、外で食料を調達することに決める。
「じゃあ私ちょっと食べ物見つけてくるから、イヴはここで待っていて」
「――そうだな。待っているよ」
 自分も行く、と言おうとしてイヴはそれを言わずにおいた。
 足が動かない彼女がついていったところで、ただ邪魔をするだけになる。
 凪に悟られないよう、イヴは穏やかな口調で心の内を隠した。

04月10日(金)  PM15:48
エデンのふもと・小屋

 それから一時間ほどの時が流れ、凪が小屋へと戻ってくる。
 彼は北東に流れていた川から、魚を数匹捕まえて帰ってきた。
 魚は生きた状態で、具現したクーラーボックスに似た箱の中に入っている。
 疲れた様子で椅子に座ると、凪は戦果をテーブルに置いて見せた。
 箱の中で、ぴちぴちと魚が跳ねる。
「栄養面はともかく、餓死する心配は無くなったかな」
「ああ、そうだな――よし、調理は私に任せてくれ」
「え?」
 イヴの申し出を聞いて、凪は思わずそんな風に返事をしてしまった。
 不満そうな顔で彼女は凪をじっと見つめる。
「――なんだ、その意外そうな顔は」
「う、ううん。イヴって、料理するんだ」
 料理とイヴに接点を見いだせず、凪が作った様な笑いを見せた。
 明らかに料理の腕を信用していない。
「失礼な奴だ――簡単なことくらいは、私にだって出来るっ」
 簡単、という言葉をさりげなく強調しながらイヴはそう言った。
 実際のところ、彼女は凝った料理を作ったことがない。
 とはいっても目の前にあるのは川魚。
 器具や調味料を考えると、丸焼きにするのが無難だ。
 流石にそれを失敗するようなことはないだろう、と彼女は考える。
「じゃあ」
 イヴを背負うために立ちあがろうとする凪。
 すると彼女は手でそれを制止する。
「お前の手を煩わせるつもりはない。料理くらい一人で出来る」
「でも、イヴ」
「いつまでも、お前に甘えているわけにはいかないだろう」
 強気にそう言うイヴだが、その実歩ける自信はどこにもなかった。
 先ほども、凪がいない間ずっと歩く為にリハビリをしていたが、
 一時間少々を費やして何も成果は得られていない。
 不安を抱えながら、彼女は魚の入った箱を抱えると椅子から離れた。
 足は立ち上がろうとするのだが、歩き方を忘れたように折れ曲がる。
「イヴ――!」
「来るな。頼む――私一人でやらせてくれ」
 自分の情けなさにイヴは腹が立っていた。
 闘いで役に立つどころか、歩くことすらできず、助けてもらってばかり。
 この行為自体が凪にとって迷惑なのかもしれないと思いながらも、
 少しの苦労をすることで自分の気持ちを紛らわそうとした。
 足を引きずりながら彼女は這うように外へと進んでいく。
 小屋の傍で火を起こし、魚の調理をするつもりらしい。
 複雑そうな表情で凪はその姿を見つめていた。

04月10日(金)  PM19:12
エデンのふもと・小屋

 それから幾らかの時間が流れ、辺りは夜に包まれる。
 苦戦しながらも、イヴはなんとか魚を調理することに成功した。
 当座の空腹を満たすことは十二分に出来たと言える。
 食事の後で、凪は小屋を中心に広範囲を歩き回っていた。
 結果は骨折り損のくたびれ儲けという言葉の示す通りで、
 何の進展もなく、凪とイヴは小屋で一日の終わりを迎える。
 暗くなっては何も出来ないので、二人は早々に睡眠をとることにした。
 木製のベッドが一つ。凪はそのベッドとイヴを交互に見つめる。
「うん、私は床で寝るよ」
「そうか――」
 遠慮した凪に何も言わず、イヴはすぐベッドで横になった。
 少しは引き留めてほしいという男心を燻らせ、凪も床に寝転がる。
 床の寝心地は決してまともなものではなかったが、
 気温が適度なおかげか寝られないほどではなかった。
 腕をまくら代わりに、凪は丸まって目を閉じる。
 一日分の疲れが、心地よい眠りへと誘おうとしていた。
 色んな考えが渦巻きながらも、次第にその意識を薄れさせていく。
 やがて眠りについた凪は、夢うつつに紅音の姿を見た。
 彼女はいつもの表情でにっこりと笑っている。
 夢の中で、凪は紅音のほうへ向かおうとして立ち止まった。
 反対側にはイヴが穏やかな表情で凪のことを見ている。
 その顔は何処か寂しげで悲しそうなものだった。
 イヴの様子を見たとたんに身動きが取れなくなり、
 沼のような地面へと凪は沈んでいってしまう。
 紅音が大事なのは確かだ。それでもイヴを放っておけなかった。
 ともすれば自暴自棄になりかねない彼女は酷く危うく、
 一人にしておくわけにはいかないと強く感じさせる。
 気持ちが両方を向いていて、凪はどこへも行くことが出来ない。
 彼が息もできない地面の中へと沈み切ったころ、夢は終わりを迎えた。
「う――」
 ゆっくりと瞼を開くと、凪はゆっくりと深呼吸をする。
 どれくらい眠ったのだろうか。
 夢というには現在を如実に表しすぎている。
 現状を整理するための夢、凪にはそんな風に思えた。
 寝るには気分が落ち着かなくてどうしようか考えていると、
 横向きで寝ている彼の背中に、そっと温かい何かが触れる。
 うっすらと目を開けて、彼は振り返らずに口を開いた。
「イヴ――?」
「すまない、起こしてしまったか」
 彼女は凪の下半身へと手を伸ばしながら、耳元でそう囁く。
 以前に彼女が語った、どうしようもない性欲というものなのだろう。
 天使の羽根を失い具現する力を失っても、
 未だそれはイヴの中に根深く残っていた。
 イヴを止めようとして、凪は彼女が震えていることに気づく。
 背中に感じる胸の鼓動も、心なしか不安げに思えた。
 以前言っていた生と死への恐怖が、彼女を動かしているのかもしれない。
「どうして――何が、イヴをそこまで追い詰めているの?」
 知らなければいけない。そんな気がして凪は彼女にそう聞く。
 かつて神の先兵として働いていた彼女は、
 ここまで思い詰めた顔をする女性ではなかった。
 あれから約一年、一体何が彼女を変えたのだろうか。
 

Chapter152へ続く