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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Eden's Blue

Chapter153
「Miserere meae Deus -03-」
 


04月11日(土)  AM6:16
エデンのふもと

 獣のように何度もまぐわった後、二人は朝までぐっすりと睡眠をとった。
 朝になってみると、昨夜のことは少し遠く、夢か幻のようにも感じられる。
 目を覚ましたイヴは、おもむろに隣で寝ている凪の身体に触れてみた。
 お互い裸で毛布だけが掛かっている状態だからか、
 身体のラインや感触がはっきりと解る。
 一人ではない。その事実が、彼女を幾らか安らいだ気持ちにさせる。
 大きく伸びをすると、両手を支えにして立ち上がってみようとした。
 駄目で元々、少し変化があれば儲けものくらいの気持ちで。
 すると、よろよろとして安定はしないが、両の足で立つことに成功する。
(ルシードの癒しの力でも作用した、のか?)
 リハビリが一日で功を奏したなどとはとても思えない。
 疑問を浮かべるイヴだが、バランスを崩して凪の上に倒れてしまう。
 衝撃に驚いて目を覚ました凪は、寝ぼけた眼をこすってイヴを見た。
「ど、どしたの――イヴ」
「すまない、まだふらつくようだ」
 膝をついた状態で彼女は凪の下半身に手をついている。
 手に当たる硬直に気づいて、イヴは照れたような顔で手を離した。
 寝起きだから仕方ないんだと、凪は心の中でいいわけをする。
 しばらく凪が朝のまどろみに呆けていると、
 イヴは近くの川で汲んでおいた水を持ってきた。
 それで顔を洗いながら、彼女は穏やかな声で凪に言う。
「もう少し寝ているといい。朝食は私に任せてくれ」
「朝食って、魚か」
「今度は刺身にしてみる。丸焼きより朝食らしいだろう」
「う〜ん、お醤油ないよね」
 諦め半分で凪はそんなことを言ってみる。
 美味しいまずいを言ってる状況でないのは解っているが、
 どうせならば美味しいほうがいいに決まっていた。
 少し考えて、イヴはあっさりと回答を提示する。
「具現でもすればいい。食事自体を具現するとイメージの維持が大変だが、
 その場で味付けが欲しいだけなら問題はないはずだ」
「なるほど――そう言われてみればそうだよね」
 栄養にそれほど影響のない調味料なら、具現しても問題はなかった。
 これが食材だと、具現が消えた時点で栄養ごと身体から消えてなくなる。
 どれだけ食べても、イメージを途切れさせた時点で元の空腹に戻るのだ。
 納得すると凪は身体を起こして、脱ぎ散らかした服を手に持つ。
「起きるのか」
「近くの川で水浴びでもしてこようかなって。ちょっと汗臭いし」
「――確かに、そうだな。私もそうしよう」
 どうせ辺りに人の姿はなかった。裸のままでもいいくらいだが、
 一応服を着て二人はそそくさと小屋を出ていく。

04月10日(金)  PM19:00
アルカデイア・エウロパ宮殿・会議室

 時間は遡り一日前の夜。
 凪たちがエデンのふもとへ辿り着いた日の夜のことだ。
 アルカデイアでは、緊急の老賢者会議が開かれていた。
 四大熾天使のミカエルとウリエル、老賢者は現存する者全員が揃っている。
 ラファエルを手助けして除名処分となったラツィエルと、
 死亡したジョフとシウダードを除く全ての老賢者だ。
 現在の天使における最高権力者の集う会議とも言える。
 議題は言うべくもなく、ジョフ逝去後に彼の代理を誰が務めるかだ。
「どう考えてもワシがやるべきだと思うがの」
 アドゥスはしれっとした顔でそう言う。
 偉そうな態度にケルビエルとゾフィエルがまたか、と呆れた顔をした。
 それに気付かず、話を続けようとする彼をオファニエルが止める。
「自重すべきですよ、アドゥス」
 七三分けにくたびれたスーツという出で立ちの彼は、
 日本のサラリーマンに似た哀愁を感じさせる男だ。
 彼はオファニムという部署の管理を任されており、
 見た目は人間にして四十半ばほどだろうか。
 若い四大熾天使たちとは違い、役職に相応しい容貌と言えるだろう。
 上からも下からも挟まれる彼は、基本的に笑みを絶やすことがない。
 理由は簡単で、それが最も無難だと考えているからだ。
「む――まあジョフやシウダードを思うと、ワシも熱くなってしまってな。
 あいつら、ワシより先に主の御許へ還りよってからに」
「ケッ、流石アドゥス爺さんは言うことが辛気臭えな!」
 冗談交じりにケルビエルはそんな悪態をつく。
 彼とはある程度見知った関係ということもあり、
 その発言でアドゥスが激昂するようなことはなかった。
 諌めるような口調で彼はケルビエルに言う。
「なぁにを言うか。死者を悼む場でもあるんじゃぞ」
「さて――いい加減、爺のオンステージはお仕舞いだ。
 次期智天使長候補に関して真面目に話をしようか」
 半ばアドゥスの話を遮るようにして、ミカエルは軽く机を叩いた。



 老賢者たちは、それを聞くと一様に彼の挙動を窺う。
 皆ミカエルが次期候補を狙っていることは解っていた。
 そして、彼を認めているものは誰もいない。
 一笑に伏して老賢者の中から候補を選ぶつもりだった。
 そんな彼らに対し、ミカエルが持つのはラツィエルというカード。
「私としては老賢者の方々から次期候補を選出したい。
 そう考えていました。ラツィエルが除名処分を受けるまではね」
「――貴様、我ら老賢者が智天使長に相応しくないとでも言うつもりか?」
 ゾフィエルは怒気を孕んだ声で、机を強く叩きつけた。
 選民主義とも言える天使原理主義者の彼にとって、
 老賢者は選ばれた天使であり権力を持つのは彼らでなければならない。
 例えラツィエルが除名処分を受けたとはいえ、彼の意志は揺るがなかった。
「ですがねぇ――除名処分。軽くありませんか?
 この私が同胞であるラファエルに捕縛を命じたこと、ご存知のはず」
「み、ミカエル貴様! ラツィエルを裁判にかけろというのか!」
 当然の如くアドゥスはミカエルの言葉に食ってかかった。
 未だかつて、老賢者から天使裁判にかけられた者は存在しない。
 前例がないその事態は、言うまでもなく大きな彼らの失態となる。
 それは、老賢者という地位の天使たちにあってはならないことなのだ。
 彼ら老賢者は、潔癖であり完璧であり公正でなければならない。
 だからこそ天使裁判で権限を振るい、天使らを裁くことができる。
「堕ちた天使は裁判で処される。当然のことでしょう」
 ミカエルはアドゥスに対し、至って冷静な態度で答えた。
「馬鹿な――ラツィエルを裁くなど――」
「何故です? もはや彼はただの老天使に過ぎない。何処に拒む理由が?」
 もしラツィエルが裁かれるようなことがあれば、
 それは老賢者の権威が失墜することに繋がりうる。
 現状ならば、多くの天使には事実を伏せて隠ぺいすることもできた。
 天使裁判ともなれば、事実の隠ぺいは非常に難しくなる。
 かといって、裁かなければラファエルの件と比べて処遇が軽いのは明らか。
 ミカエルがそれで納得するはずはなく、
 彼がどんな手に出るか解ったものではない。
 薄く笑みを浮かべてミカエルは周りを見渡した。
「これで、老賢者の中に智天使長に相応しい者はいないと解りましたな」



「ぐむむ――だがミカエル、同じように誰がお前を相応しいと考えるものか」
 吐き捨てるようにアドゥスはそう口にする。
 他の老賢者たちも、彼と同様の答えを含んでいるように思われた。
 それらをまるで意に介さない様子で、ミカエルは問いかける。
「他に相応しい者がいなければ私がやるしかないでしょう。
 まあ、仮に貴方がたに任せるとして誰がその任に相応しい?
 アドゥスは論外、ケルビエルやゾフィエルは代表を務める柄ではない。
 オファニエルやガルガリエルは老賢者の補佐という役職。
 流石に代表を任せるのは難しいと言わざるを得ない」
「――確かに、私やオファニエルは代表など無理でしょうな。
 お互い部署の統括で手一杯、今の地位が分相応だ」
 口を開いたのは、会議が始まってから全く存在感を出さずに座っていた男。
 オファニエルと同じく四十代半ばほどの風貌で、
 ガルガリンと呼ばれる部署を統括する天使、ガルガリエルだ。
 細目に角ばった顔が、相手にキツそうな初見の印象を持たせる。
「ガルガリエル、お前ミカエルを担ぎあげようって腹か?」
 探るような瞳でケルビエルはガルガリエルにそう問いかけた。
 彼は両手を軽く上げると、そんなつもりはないとアピールする。
「まさか。ただ――適役がいないのは事実、そう思いますよ」
「フン――オファニエル、お前はどう思う」
 のらりくらりとした返答をするガルガリエルを横目に、
 ゾフィエルが低い声でオファニエルに話しかけた。
 明らかに彼はこの展開が気に入らないようで、顔をこわばらせている。
「私は、そうですね――ミカエルの肩を持つわけではありませんが、
 ケルビエル、ゾフィエル、貴方がたは上に立つより前線に居たいのでは?」
「ま、否定はしねえぜ」
 腕を組むとケルビエルは軽い口調でそう答えた。
「ならば、我々は実質権力を握り、責はミカエルに負わせたほうが得策。
 そう考えることもできなくはありません」
「このミカエルが操り人形になるようなタマならな。
 なんにせよ――これで、賛成派はミカエルを含めて四名か」
「おい、待てよケルビエル、てめぇ納得する気か?」
 険しい表情で拳を握りしめて、ゾフィエルは隣のケルビエルを睨む。
 返答次第では掴みかかりそうな勢いだ。
 冗談めいた態度は崩さず、ケルビエルは額に手を当てて言う。
「納得はしねえさ。瓶ビールを頭からやりたいくらい不快な気分だが、
 不貞腐れて逃げるような真似はクールじゃねえからな」
 彼の言葉に、ゾフィエルは舌打ちをしつつ怒りを納める。
 あくまでケルビエルは、誰に対しても公正であろうと考えていた。
 自分の考えが少数派であるならば、それを無理に押し通しはしない。
 闘いを好んでも、無駄な諍いや論争は好まないのだ。
「それでは――皆さんの調印を持って、この会議を終了としましょうか」
 誰にもそれと知られぬよう、ミカエルは暗い笑みを浮かべる。
 全ては彼の予定通りに運んでいた。
 老賢者とウリエルは、黙って文書にサインをする。
 これで、ミカエルはジョフの代理として認められたことになる。
 ミカエルは他の老賢者に気付かれないよう、
 オファニエルとガルガリエルに目配せをした。
(よくやったよ、お前ら。約束通り、美味い汁を吸わせてやるぜ)
 老賢者の二人を抱き込むことで、彼は会議の流れを牛耳っていた。
 この会議を経て、着実にミカエルは最高権力者への道を歩み始める。

04月10日(金)  PM21:43
インフィニティ・コキュートス

 老賢者の会議が行われてから数時間後――。
 インフィニティの万魔殿に、一人の女性が現れる。
 巨大な漆黒の翼を携えた彼女は、万魔殿の屋上へと降り立った。
 翼をはばたかせながら、屋上の中心にある穴に真っすぐ降下していく。
 その先にあるのはギンヌンガガフの扉だ。
 魔王ルシファーの下へ向かうのならば、ここを開けるしかない。
 扉には幾重にも及ぶ多次元の封印が施されている上に、
 一人の悪魔が魔王の眠りを長きにわたって守り続けていた。
「扉は開かぬ。そして――それ以上近づくことは許されない」
 横になっている扉の上に仁王立ちして、彼は静かな声で警告する。
 苛立った顔つきで、女性は冷たくあしらう様に言った。
「邪魔よ。私はルシファーに話がある」
「ならば――この俺を退けていけ」
 悪魔は彼女の言葉に耳をかさず、上空を睨み構える。
 彼の名はアモン。炎の侯爵と呼ばれる大悪魔だ。
 計り知れぬもの、隠されたるもの、彼の名前にはそんな意味がある。
 恐るべき者――ディアボロスの来訪にも、彼が臆することはなかった。
 扉へと向かってくる彼女に、アモンは片手を挙げる。
「来たれ、何者をも貫く我が花嫁――マイ・ダイイング・ブライド」
 そう彼が言うと、途方もなく大きな何かが具現されてせり上がってきた。
 まるで閉まったままの扉から出てきたかのように、
 それは凄まじい速度でディアボロスへと向かってくる。
「この――!」
 彼女が両手で受け止めたのは、古めかしい造りの鍵だった。
 巨大な鍵の先端が、ディアボロスの身体を押しつぶそうと迫ってくる。
「こんなもんで、この私を止められるとでも思ってるの?」
 全力で鍵を破壊しようと、彼女が手に力を込めた刹那――。
 鍵がかちゃりと回り始めて、辺りの空間が同調するように歪曲していく。
 万魔殿にぽっかり空いた穴の中が、鍵によって捩れ始めた。
 驚くディアボロスを待たずに、空間の歪みは彼女を飲み込んでいく。
 歪みに飲み込まれてはまずいと感じたディアボロスは、
 無理やり空間の捩れから脱出しようとする。
 力任せな行動だが、彼女の場合はその根本となる力が桁外れだ。
 鍵が生じさせた歪みを無視して、彼女は自身の周囲に空間を具現する。
 その規格外の力に軽く驚きの表情を見せながらも、
 アモンは次なる攻撃を行うため既に構えていた。
 イメージを固めるため、彼は定型となる言葉を唱える。
「ザ・スカーレット・ガーデン――」
 空間の捩れが全て鍵を押し上げる力に変換されて、
 巨大な鍵はディアボロスごと穴から吹き飛んでいく。
 鍵は遥か上空へ飛んでいき、そのまま上層の壁へと激突する。
 それは、コキュートス全土が震えるほどに凄まじい衝撃だった。
「やはり対になる者――生半可では死なぬか」
 壁にめり込みながらも、ディアボロスは大した傷を負ってはいない。
 恐るべき強固なイメージによって、その肉体を保護しているからだ。
 とはいえ、先制され直撃を受けたのは間違いない。
 怒りに顔を引きつらせ、彼女はアモンへと叫びに近い声を上げた。
「待ってなさい、存在ごと消してあげるわ――!」

 

Chapter154へ続く