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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Eden's Blue

Chapter156
「Miserere meae Deus -06-」
 


 小さな手が少年の長い髪に触れる。
 彼の髪は、魚すら棲まないほど清い川を思わせるものだった。
 少年と共に過ごす日々は、彼女が世界に溶け込む大切な一時。
 孤独ではなく、悲しくもなく、辛くもなく、ただ穏やかさだけがある。
 飽きずに何度も彼の髪を手ですきながら、少女はいつも思う。
 このときがいつまでもつづけばいい――と。
 二つの影が寄りそう風景には、確かに切り取られた永遠があった。

04月11日(土)  AM6:53
エデンのふもと

 イメージは暗く、グロテスクで凄惨なもの。
 誰もが怯えるような冷たい瞳で彼女は小屋を見つめた。
 足もとの草は、湧き出るイメージの力で枯れて変色している。
 大地は腐り始め空気さえも淀みを見せていた。
 彼女の精神にディアボロスがシンクロして、怒りを増幅していく。
(どうして私を苦しめるの? なぁ君は――この世界は、
 私にちっとも優しくしてくれない。いつも私を一人ぼっちにする)
 裸で水浴びをする男女が、どれほど親しい間柄なのか。
 到底彼女には推し量ることが出来ない。
 少なくとも、凪はイヴの裸体を見慣れているかのように見えた。
 考えたくないのに、悪い方向へ想像は膨らんでいく。
 最悪なのはそれが概ね事実であるということだった。
 やや急いだ足取りで彼女は小屋に歩いて近づく。
「なぁ君、いい加減気付いてよ。これだけ私が傍にいるんだから」
 凶悪なイメージが獣に似た手を形作り、小屋全体を包み込んだ。
 その圧力に押されたのか、凪たちは小屋から出てくる。
 急いで出てきたらしく、彼らが着ている服は少し乱れていた。
「また会えたね、なぁ君」
 冷たい微笑みで彼女は凪に語りかける。
 すると凪が反応するより先に、驚きに満ちた顔でイヴが言った。
「華月夢姫――なぜ、お前がここに!」
「お前は、黙ってろ!」
 憎しみのこもった声で、夢姫は強くイヴを怒鳴りつける。
 その怒りに満ちた表情と怒号に、凪たちは思わず気圧された。
 間接的にでも夢姫のことを知るイヴは、彼女の怒りの理由がよく解る。
 気付かないうちに、イヴは自分が運命の一部になっていたのだと知った。
「なぁ君――私のこと思い出してくれた?」
 努めて冷静さを取り戻すと、夢姫は凪にそう問いかける。
 何故こんなことを聞くのか彼女自身が疑問ではあった。
 ただ、他に切り口が思い浮かばない。
 愚かしいほど、凪の前では頭の中が真っ白になってしまう。
 俯いて何も言わない凪を見て、彼女は沈黙から答えを理解した。
「相変わらず、か。なら――別の質問をするよ。
 どうしてその女と一緒にいるの? 随分と、親しげじゃない」
「それ――は――」
 答えに詰まる凪を見て、ふと夢姫は考える。
 私は何故こんな立場からこんなことを言っているのだろうか。
 凪、紅音、イヴ。その三者を俯瞰で眺めているような感覚だ。
 そこに混じって、彼女は凪の傍にいたいはずなのに、
 あくまで夢姫という存在は繋がりのない孤独な位置にある。
 埋められないほどの疎外感を夢姫は感じていた。
(私と一緒にいて。そう言いたいのに)
「答えられないのならそういう意味だって受け取るだけよ」
「夢姫、悪いのは私で――凪は何も――」
「あんたには何も聞いてない! 何で口出すんだよ! 黙ってろよ!」
 強い口調で夢姫は叫ぶようにそう言って、イヴの話を途中で遮る。
 不貞に対する怒りだけではない。凪との会話を邪魔されたからだ。
 折角二人で話す機会だというのに、何もかもが上手くいかない。
「イヴを責めないで。私が決めたことなんだ」
「――っ」
 疎外感。埋めようのない隙間が、凪との間に広がっている。
 一度として、彼女は凪以外の男性に気持ちを向けたことはなかった。
 凪に抱く感情のためなら、命を賭けても惜しくないと信じていた。
 全てが片側一方通行なのだと思い知らされた時、
 抱き続けた感情は怒りへとベクトルを変えて発散される。
 畏怖すら覚えるほどの殺気に、気づけば凪たちは走り出していた。

 

 離れないように手を繋いで、草原をありったけの力で走り続ける。
 息を切らしても、心臓が鼓動を速めようとも、二人は足を止めなかった。
 背後から来るディアボロスの重圧が、それほどに驚異的なものなのだ。
 イヴがいるからとはいえ、闘うという選択が浮かびさえしなかった。
 普通の人間が熊やライオンと出会ったようなもので、
 勝機がある、ないという次元の問題ではない。
 走って追いかけてくる様子はなく、夢姫はゆっくりと歩いていた。
「どうしよう――」
「走っているだけでは何れ捕まる。どこか別の場所に逃げる必要があるな」
 息を切らせながらそう口にするイヴ。
 その言葉で二人が思い浮かべたのは、ここに来た際に通った空間の穴だ。
 あれに似た作用を及ぼす何かで現象世界へ逃れれば、
 少なくとも夢姫の追撃をしばらくはかわすことが出来るかもしれない。
 ただし、凪たちが通った後で穴を塞ぐことが可能ならばだ。
 一日探して無かったものが、今都合良く見つかるとは思えない。
「決して闘うことは考えるな。夢姫と闘えば、お前は必ず負ける。
 そして――それはこの世界が終わることを意味するんだ」
 真剣な表情で彼女は凪にそう忠告する。
 世界が終わる。その言葉の真意は解らないが、凪は一応頷いておく。
 その時、不意をついて背後から細い光線がものすごい勢いで飛んできた。
 二人のすぐ後ろを無数の光線が降り注ぎ、地面をえぐりとる。
 衝撃で凪とイヴは、つんのめって倒れそうになった。
「な、なんだこのイメージは――!」
 少しだけ後ろを振り返って、イヴはあっけにとられた表情で口を開く。
 そこには細かい間隔で、でこぼこにえぐられた地面があった。
 開けられた穴の深さはそれほどでもないが、恐ろしく綺麗な断面だ。
 もし光が二人に直撃していたら。そう考えてイヴは絶句する。
「今のはわざと外してあげたんだよ、なぁ君。
 いきなり逃げるから殺そうかと思ったけど、私は優しいから」
 さりげなく夢姫はぞっとするような言葉を吐く。
 凪たちにとって、逃げても無駄と言われたような攻撃だ。
 他に選択肢がない以上、凪とイヴは足を止めず走り続ける。
 進行方向には先日訪れた神殿が見えていた。
「あそこに逃げよう」
「――夢姫が神殿ごと破壊しなければいいがな」

04月11日(土)  AM7:06
エデンのふもと・世界母の神殿

 肩で息をしながら、二人は神殿の傍までやってくる。
 久しぶりに走ったからか、イヴは足が疲労で少し震えていた。
 夢姫は走らず翼を広げてゆっくりと二人に近づいてきている。
 おかげである程度の距離が開いていた。
「ふと気付いたんだが」
 そう言ってイヴは前置きすると、ある疑問を語り始める。
「お前と夢姫はここに来ている。それは間違いないはずだ。
 ならば、お前たちはどうやってここに来た?」
「どうやって――ごめん、思いだせないよ」
「私の推測、いや必然だが――お前たちはあの穴に似た空間の歪みを通っているはずなんだ。そうでなければ現象世界からここへ来れるとは思えない」
「――あ、そうか。それなら」
「ああ。子供の足で辿り着ける距離にこの神殿があるなら、
 この神殿付近に現象世界との連絡口があるかもしれない」
 もっと早く気づいていれば、と悔やんでいる時間はなかった。
 二人は夢姫が来るまでの僅かな時間で、その連絡口を探さねばならない。
 まず改めて辺りを注視、不自然な何かがないか観察した。
 少しずつ夢姫が凪とイヴの傍へと近づいてくる。
 焦る二人の様子を楽しむ様に、彼女はゆっくりと空を飛んでいた。
「見つからないよ――適当にアタリをつけて走ろう」
 背後に迫りくる夢姫のプレッシャーに耐えきれずに、
 凪は一旦走って逃げようと提案する。
 逡巡して、イヴはそれを冷静な判断で却下した。
「駄目だ。そうしたら後戻り出来なくなる。ギリギリまで探すんだ」
「ギリギリって、だってあの子は今の距離だって攻撃できるんだよ?」
 先ほどの光線を思い出し、凪は夢姫をこれ以上近づけるのは危険と考える。
 確かに彼女が放つワンセカンド・ドラコニアン・タイムは強力だ。
 その点ではイヴも脅威を感じていないわけではないが、
 彼女はあくまで今の状況からすぐに攻撃は来ないと予想する。
「落ち着け。恐らくお前と話をするまで、問答無用で殺しに来たりはしない。
 彼女だってお前を殺したいわけではないんだ」
 思考に時間をかけずとも、イヴには夢姫の凪を思う気持ちがよく解る。
 長い間募らせた彼への思いが、夢姫を踏みとどまらせているのだろう。
 そのことを知らない凪にとって、彼女はただ恐ろしい敵にしか映らない。
 何しろ、どれだけ自分が思われているのか凪は殆ど知らないのだ。
(幾ら女性らしい見た目でも凪は男。女心の機微を穿つことは難しいか)
 表面で幾ら鬼の形相を見せようと、その奥で夢姫の心は揺れている。
 現状で凪にそれを推し量れというのも無理な話だ。
 相手を知ろうにも、まともに会話する機会すらない。
 イヴの言葉を聞いて、凪は夢姫のことをもっと知る必要があると気付いた。
(あの子のこと、俺はちゃんと知らなきゃいけないんだ)
 覚悟を決めると凪は夢姫の方を向いてイヴに言う。
「私があの子と話してる間に、イヴは空間の歪みって奴を探して」
「――わかった。お互い、上手くいくことを祈ろう」
 そうと決まれば目視を続ける理由はない。
 震える足に気合いを入れ直し、イヴは辺りの散策へと向かった。
 すると、夢姫がそれを見咎めてイメージを練り始める。
「何する気か知らないけど、なぁ君から離れたら生かしておく理由はないわ」
「待って!」
 イメージを具現させないために、凪は夢姫へと語りかけた。
 出来るだけ真摯な態度で、懇願するように凪は言う。
「良かったら、話して。君がどういう人なのか話してほしい。
 覚えてないのに酷い言い草だと思うけど、出来たら話したいの」
「――ふうん」
 夢姫は凪の申し出を聞いて、表面上は冷静に返答した。
 心の奥では望んでいたことだけに、戸惑いが湧きあがってくる。
 だから何かの時間稼ぎだと解っていても、一笑に付すことはしなかった。
「私はなぁ君と小さい頃一緒に遊んでた幼馴染。一言で言えばそれだけよ」
「おさな、なじみ――?」
「ゆりお姉ちゃんと、なぁ君と私。それが私の世界のすべてだった」
 聞き覚えのある言葉に、凪は驚きと妙な懐かしさを感じる。
 記憶の奥底で何かが鎌首をもたげていた。
 つまらなそうな顔で話す夢姫にも、どこか既視感を覚える。
 そんな会話も束の間、彼女は逆に凪へと疑問をぶつけてきた。
「今度は私が聞かせてもらうよ。イヴと――深い関係になったの?
 はっきり答えて。答え次第では――私、なぁ君を許せないかもしれない」
 言葉の端からは冷たい憎悪の感情がにじみ出ている。
 真実を話せば、その感情は凪へむき出しになって襲いかかるだろう。
 とはいえ、この状況で凪は嘘を上手くつく自信がなかった。
 言葉に詰まれば先ほどと同じ、沈黙が答えとなる。
「イヴは大切な友達だから――助けたかったんだ」
 他に何も言葉が思い浮かばなかった。
 それ以上はいいわけになる。それ以下は誤解を招く。
 精一杯の思いを込めた言葉のつもりだった。
「そう」
 小さく呟くと、夢姫の身体から黒い靄が溢れ出してくる。
 それはおぞましいイメージの波動が漏れ出したものだ。
「答えてくれてありがとう。最後に一つだけ聞いておくわ。
 なぁ君は、今からでも私だけのものになってくれる気はない?」
 怒りを抑えて最大限に凪へ譲歩した結果、そんな言葉が零れ出る。
 二度の裏切りを経ても、夢姫の中で凪への思いは強く残っていた。
 自分とずっと一緒にいてくれるなら。自分だけを見てくれるなら。
 裏切りさえもいつか許せる日が来るかもしれない。
 膨れあがった風船のように、今の夢姫は張り詰めていた。
「それは――」
 俯いて凪は明らかな拒絶の態度を示す。
 正確には夢姫がその態度を拒絶と受け取った。
 瞬間、彼女の翼が大きく羽ばたき、周囲十数メートルを黒く染めていく。
「なら死んでよ。死んで、私のものになればいいよ」
 両の眼から一筋の涙が零れおちて頬を伝った。
 絶望に圧されて吐き出すように零れたものだ。
 彼女の様子を見て、凪は胸をかきむしられるような気持ちになる。
(嘘をつけばよかったのか? 俺は――どうすればよかったんだ――)
 素直な気持ち、真剣な答えが人を傷つけると解っていても、
 凪にはそれ以外の選択肢が思いつかなかった。
 呆然とする彼の頭上で、夢姫のイメージが収束して形を造っていく。
(やばい、あれをまともに食らったら――!)
 慌てて凪は対抗するためのイメージを構築し始めた。
「――ワンセカンド・ドラコニアン・タイム」
「聖誕の光、プルシアン・ブルー!」
 細い光線の束と眩い閃光が、互いを打ち消そうと輝く。
 拮抗は一瞬で、すぐに夢姫が放った光線が凪へと降り注いだ。
 突き刺さるように光が身体を射抜いていく。
 眩い光が幾重にも伸びて、凪の視界は白で埋め尽くされた。
 光の衝撃で身体が浮きあがり、彼の意識はぷつりと途切れる。
 身体は後ろへ吹き飛ばされ、受け身も取れずに背中から落下した。
 倒れたまま凪はうめき声一つ上げず、ぴくりとも動かなくなる。
 

Chapter157へ続く