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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter159
「悪い運命」
 



04月14日(火) PM16:35
現象世界・白鳳学園

 電車で乗り継ぐこと数十分。
 ついでに凪は駅前で軽い食事を済ませ、
 放課後まで時間を潰してから学園へとやってきた。
 紅音やカシスが戻っているのなら、授業中に会うのは詮無い。
 自室へ戻るにも生徒であふれている放課後の方がいいと考えた。
 勿論、天使が監視しているなら授業に出たり部屋にいるはずはないだろう。
 とはいえ、他に当てがない以上凪はこうするしかなかった。
 アルカデイアへ向かってから無断欠席している自分の処遇は気になるが、
 ひとまずは教師にいいわけするより紅音たちを探すことを優先する。
 リヴィーアサンならイヴの居所を探す助力として頼りになるはずだ。
 それに、凪はまず紅音の無事を確認しておきたかった。
 アルカデイアで別れてから、一度も顔を合わせていない。
 生きていると信じてはいるが、それ故に会いたい気持ちは強かった。
 少し遠くから見る学園は、数日ぶりだが変わらない景色としてそこにある。
 凪はここ何日かの出来事のせいで、学園に通っていた自分を懐かしいとさえ
思ってしまいそうだった。のんびりとした昼の日差しが余計にそう思わせる。
(本当なら、俺は今頃普通に授業受けてるはずなんだよな)
 正門へは向かわず、学園付近にある人気の少ない路地へと入っていった。
 辺りの様子を窺いつつ、凪は周りを囲む塀を飛び越えて学園に侵入する。
 着地したのはいわゆる森と呼ばれる、木々が茂る鬱蒼とした場所だった。
 そのおかげか人影はなく、凪の存在を見咎める者もいない。
 なるべく足音を立てないよう注意しながら、学生寮に向かって歩き出す。
 すると、付近にある校舎の渡り廊下から足音が聞こえてきた。
 反射的に隠れようとした凪だが、足音の主を見て思わず声を上げる。
「紅音――!」
「あ、凪ちゃん。おかえり〜」
 ゆったりとしたいつものトーンで、紅音は凪の名前を読んだ。
 彼女は極々普通の様子で寮の方へと歩いている。
 とても天使の監視をすり抜けて此処にいる、という様子ではない。
 なんだか、凪は急に自分が間抜けなことをしていた気がしてくる。
 天使だとか監視だとか、そういうことを考えていたことが虚しくなった。
 紅音は子犬のように駆け寄ってくると笑顔で抱きついてくる。
「もお、心配したんだよ〜。凪ちゃん帰ってくるの遅いから」
「ああ――うん。その、ただいま」
「どうしたの?」
「いや、なんでも――なんか空回っただけだよ」
 不思議そうな顔をする紅音に、凪は肩を落としてそう答えた。
 理由は解らないが、状況から鑑みるに天使を警戒する必要はないらしい。
 ならばと、凪は一旦教師に無断欠席を詫びに行くことにした。
「紅音はこれから部屋に行くの?」
「うん」
「じゃあ私は先生のとこへ行ってくるから、詳しいことは後で話そう」
「わかった。頑張ってね、凪ちゃん」
 頑張るとは、謝罪のことだろうか。
 凪はそんなことを考えながら、校舎へ向かって歩き出した。

04月14日(火) PM17:21
白鳳学園・寮内自室

 色々と虚偽を交えた謝罪を終え、凪は自室へと戻ってくる。
 戻ってくる、という言葉に違和感すら覚えるほど懐かしい感覚だった。
 日数にすればそれほどではないが、アルカデイアでの出来事や、
 エデンのふもとでのことは凪にとって長く感じられたのだろう。
 ドアを開けて部屋に入ると、紅音の笑顔が飛び込んできた。
「おかえり、凪ちゃん」
「――ただいま」
 張り詰めていたものがほどけていくように感じられる。
 紅音につられたのか、自然と凪は口元を綻ばせていた。
 彼はテーブルの傍に腰を下ろして軽く伸びをする。
「ああ、落ち着くなあ」
「さてと、それじゃあ先に話して貰いましょうか。そっちのことを」
 向かいに座っている紅音は、テーブルに肘をついてそう言った。
 考えるまでもなく、リヴィーアサンに交代したのだろう。
 凪は幾らか掻い摘んで、彼女と別れてからのことを話した。
 イヴを助けたがその羽根はなくなってしまったこと。
 エデンのふもとで起きた幾つかの事柄を。
 リヴィーアサンは感情を表には出さず、黙って話を聞いていた。
 なんとなく凪は、彼女が自分に怒っているのだと考える。
 自分で思い返しても、不甲斐無いことばかりだ。
 話を終えると、リヴィーアサンは静かに口を開く。
「悪い運命に取りつかれている――そんな風に思えてくるわね」
「え?」
 彼女からは、凪を責めるより状況の理不尽さへの言葉が先に出た。
 気味が悪いほどに、全てが偶然の名の下で凪を追い立てている。
 何らかの意志が介在しているかのように。
「とりあえず起きたことは仕方ない。悔やむなら前を見るべきだしね。
 ルージュのことは、光明が見えるまで保留にするしかないわ」
「ところで、天使たちが私や紅音を追って来ないのはどうしてなの?」
 あれだけのことをしでかした凪や紅音を野放しにするとは思えない。
 かといって、今のところ天使が襲ってくる気配はなかった。
 理由を尋ねる凪に対して、リヴィーアサンはそんなことかという顔をする。
「簡単なことよ。そもそも私は天使側に実行犯だと知られていない。
 それに、ラファエルの件でそれどころじゃないってのが大きいわね」
「どういうこと?」
「知らないのね。今、ラファエルは智天使長と側近殺害の容疑で追われてる」
 エデンのふもとで他と隔絶した時間を過ごし、すぐここに来た凪にとって、
 ラファエルの件は正に晴天の霹靂とも言える驚きがあった。
 彼のことを詳しく知るわけではないが、それが事実とは到底思えない。
 すぐに凪は確認の意味でリヴィーアサンに尋ねた。
「そんな――濡れ衣を着せられたってこと?」
「本人曰くそういうことみたいよ」
「ラファエルは今どうしてるの」
「此処に居たらまずいから、ラツィエルと各地を転々としてるみたいね」
「なるほど――そうなんだ」
 ラツィエルという天使のことは知らないが、ラファエルが無事と聞いて凪は
安心した。同時に凪は、彼を手助けする力がないことをもどかしく感じる。
 少なからず恩のある天使だが、今は無事を祈るしかなかった。
「ま、実際のところ、一応は天使もこの学園を監視してるんだろうけど、
 手を出してくる様子もないし無視していいと思うわ。
 何しろ、私達を捕まえる気ならある程度の戦力を投入せざるを得ない。
 現状で貴方や私を即刻捕縛してる余裕はないと見ていいでしょう」
「そうなら、助かるよ」
 リヴィーアサンの余裕は凪と自分だけの力によるものではない。
 加えてガープがこの学園を縄張りにしていて、
 凪に好意があるのを知っているからだ。
 恐らくは天使側もそこは承知しているだろう。
 ルシエの一件で現れたリベサルやマルコシアスも牽制として効いている。
 ラファエルが捕縛されるか、アルカデイアの混乱が落ち着くまで。
 長い期間ではないが、しばらくの間は天使も積極策に出ることはない。
 そういった考えがリヴィーアサンにはあった。

04月14日(火)  PM18:27
アルカデイア・エウロパ宮殿

 エウロパ宮殿一階の廊下に数人の天使の姿がある。
 一際大柄な一人の天使が、前に立つ天使たちに大声でどなり散らしていた。
「まだラファエルは捕まらねえのか!」
「申し訳ありません。難航しています」
 苛立ちを隠さず、大柄な天使は舌打ちをする。
 彼――ゾフィエルは、ラファエルら捕縛の指揮を受け持っていた。
 捕縛、といってもなるべく生かして連れて帰るべきであり、
 状況次第では死体でも構わない許可が出ている。
 とはいえ、下位天使や中位天使がラファエルを倒すのは至難だった。
「現象世界の街一つ二つ吹き飛ばすくらいの許可が出りゃあ、
 俺やケルビエルが出て行ってすぐにカタつけてやるんだがよ」
 この件では、ゾフィエルやケルビエルは現象世界に行けない。
 理由は簡単なことで、彼らとラファエルたちが闘えば、
 現象世界の被害が甚大なものとなることは容易に想像できるからだ。
 緊急的なものならまだしも、そうと解っていて向かわせることはできない。
 智天使長代理を務めるミカエルがそう判断していた。
 彼の命令ということも、ゾフィエルを苛立たせる理由の一つと言える。
「てめぇら、一刻も早くラファエルの首を持ってこいと現場に伝えろ。
 俺を待たせて手ぶらで帰ってきやがったら命はねえ、ともな」
「はっ!」
 短く返答すると、部下の天使たちは宮殿の奥へと走っていく。
 そんなピリピリとした雰囲気の廊下に、ケルビエルがやってきた。
 二階から階段を降りて、巨躯をゆらりと動かしながら歩いてくる。
「よおブラザー。二階にいても聞こえるくらいの叱咤だったぜ。
 もう少し部下はいたわってやりな」
「生憎、俺はお前と違って気が短いんだ。
 それに居所を何度も突きとめておいて、
 何度もラファエルを逃がしちまうあいつらにも責任がある。
 ミカエルに俺たちの出撃を認めさせるほうがよっぽど早いかもしれんぜ」
 冗談半分本気半分でゾフィエルはそんなことを言った。
 ケルビエルは軽く笑ってみせるが、その意見には苦言を述べる。
「現象世界を焦土にするのはクールじゃねえ。
 物量か何かで奴らを海上にでも誘いだせれば、文句はないだろうがな」
「海上ね――考えておくぜ」
 彼の話を受けて、何人天使を動員できるかゾフィエルは考えてみる。
 ふと顔を階段に向けると、そこにはラグエルの姿があった。
 彼女は大天使長室の方向へと歩いているように見受けられる。
(ラグエルか。確か、今回の一件で責任を取らされたんだったか――)

04月14日(火)  PM18:42
アルカデイア・エウロパ宮殿

 困惑と焦燥を顔に滲ませ、ラグエルは大天使長室の戸を叩く。
 先日、彼女のもとに大天使長を補佐する役職から異動という通知が届いた。
 ラファエルを捕え損ねた失態が原因と見て間違いない。
 当時ミカエルの口からは責任は不問にすると聞いていたが、
 あれから会議などを重ねた結果、何か変更があったのだろう。
 納得できない彼女は、何とか名誉挽回の機会を申し出ようと考える。
 すると扉が開いて目の前にカマエルが現れた。
「何してるの――退きなさい」
 入口に立っている彼に対して、ラグエルは率直にそう告げる。
 カマエルが道を開ける様子はなく、ばつが悪そうな顔で口を開いた。
「悪いけど、ミカエルはあんたに会わないそうッスよ」
「――は?」
 一瞬、何言ってるのか解らずラグエルは身体を硬直させる。
 奥で椅子に座っているミカエルの姿はよく見えなかった。
 彼のもとへ行こうにも、カマエルが退く素振りはない。
「いいから――ミカエル様と話をさせなさい!」
「だそうですけど、どうするんスか」
 振り返ってカマエルはミカエルの返答を待つ。
 彼は声を発さずに、手で追い払えという動きをした。
 ラグエルからその様子はよく見えないが、拒絶されていることは解る。
 状況がよく飲み込めなかった。
 何故、自分がこんな状態に陥っているのか。
 ラファエルの件を挽回する機会すら許されないというのか。
 もしかすると、以前に狂乱するミカエルの姿を見たことも一因だろうか。
 力づくでカマエルの肩を掴むと、ラグエルは室内へと入っていった。
「ミカエル様、チャンスを――汚名をそそぐ機会をください!」
「――必要ない。もうお前の役目は終わった」
 冷たく放たれたミカエルの言葉に、彼女は愕然とした表情を見せる。
 不要だとはっきりと言われたことで、身体の芯にある力のようなものが失せ
ていく気がした。そして、もはや失敗を取り返す方法はないのだと理解する。
 ラグエルは肩をがくりと落として立ち尽くすしかなかった。
 彼女をカマエルは無理やりに部屋の外へと歩かせる。
「こんな――こんなことって――」
 うわ言のようにそう呟きながら、彼女は廊下へと追い出された。

 

 扉を閉めた後でカマエルは近くのソファに身体を預ける。
「な〜んか、嫌な感じッスね。こういうのは」
「そうじゃなきゃ困る」
 とんとんと灰皿に灰を落として、ミカエルは煙草を口にくわえた。
 含みのある笑みを浮かべ、彼は口から白い煙を吐き出す。
 それからまた煙草を手に持つと両手を広げてミカエルは言った。
「ラグエルには俺を嫌ってもらわねえといけないからな」
「――は?」
 想像だにしていなかった答えにカマエルは疑問の声を上げる。
 どんなメリットがあって彼はそんなことをするのか。
「寝首でもかいてもらう気ッスか?」
 冗談っぽい口調でカマエルはそう言ってみる。
 だがミカエルは理由を言う気がないのか、
 何も答えずにすました顔で煙草を口にくわえた。
 
 

Chapter160へ続く