Back

黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter168
「来訪」
 


04月16日(木)
白鳳学園・寮内自室

 眠るということの難しさは、意識するかどうかに尽きる。
 意識して睡眠をとろうとすると、途端にそれは困難な作業となる。
 昨夜の就寝時、凪はそれを嫌というほど味わったところだった。
 彼は目を覚まして身体を起こすが、倦怠感の酷さに顔を歪める。
 浮気を告白した後、紅音は考えさせてほしいと話した。
 その場で答えられるようなものではないのだろう。
 納得して部屋に戻り床に就いた凪だが、気分は死刑囚のようなものだ。
 隠していたことを話してすっきりした部分はある。
 それでも、これから紅音に言われることを想像すると眠れるはずがない。
 いつ寝たのか記憶になく、すぐ起床したような感覚だ。
 着替えをして歯を磨きながら、凪はとりあえず別のことを考える。
 ミカエルとルシファーが凪の前に現れてから一日が過ぎた。
 彼らが告げた期限は二日。すなわち明日までだ。
 大よその見当がついた以上、その期限に合わせる必要はない。
 二人への返答を放棄し、凪は今日セフィロトの樹へ向かう気でいた。
 先のことはなるべく考えすぎないように心掛ける。
 学校をまた休まざるをえないこと、紅音を傷つけてしまったこと。
 何のために、凪は自分の生活を犠牲にしてまでイヴを助けに行くのか。
 夢姫と決着をつけなくてはならないのか。
 最も大切だと考えていた紅音と遠ざかる行動だというのに。
 ただの偽善か、或いは愛や友情といった類の感情なのか。
 昨晩、それらを考えても答えは出なかった。
 結局のところは、彼女らに同情してるだけなのかもしれない。
 はっきりとしたことは解らなくても、凪の決意は固まっていた。
(イヴがこれ以上苦しむ必要なんてない。
 だから助けたい――その感情に従うだけだ)
 例え結末が自らの死だろうと、道を変えるつもりはない。
 だからこそ、昨晩紅音に全てを告白したのだ。
 ぽかんとした表情と、その後の泣き出しそうな彼女の顔を凪は思い出す。
 腹部に淀んだものが溜まっていく気がした。
 セフィロトの樹を目指すために、凪は着替えなどの荷物を整理する。
 遅くても今夜には出発するということを、紅音にはまだ話していなかった。
 このまま、ともすれば今生の別れになりかねないが、
 昨晩から引きずっている気まずさも手伝って言いだせずにいる。
 どうせ荷物を見ればすぐわかることではあった。
 それでも凪は自分の口で言っておきたい、そう考える。
「紅音――起きてる?」
 あまり大きくない声で、凪は紅音を起こそうとした。
 起きてほしいのかそうでないのか曖昧な大きさだ。
 案の定、紅音は寝返りをうつ程度の反応しか見せない。
 もうじき学校へ行く準備をしなければならないので、
 今度はもっと大きい声で紅音に呼びかけた。
「朝だよ紅音っ」
「う? うん、おはよぉ」
 がばっと起きた後で、ぼんやりとした眼で凪にそう答える。
 あくびをすると半分目が閉じたまま、彼女は二段ベッドから降りてきた。
「おはよう」
「う、うん。おはよう凪ちゃん」
 昨日のことを思い出したのか、紅音はそそくさと洗面所へ行く。
 凪はその姿を見て思わず手をぐっと握り締める。
 こんな風にぎくしゃくするだろうと予想はしていたが、
 他にどうすれば苦しさを抑えられるか解らなかった。
「――今日の夜には、ここを出るよ」
 洗面所にいる紅音に向かって凪はそう告げる。
 落ち着いた口調だが、痛みを堪えているような歯切れの悪いものだった。
 様々な気持ちがないまぜになって、普通に喋るのも困難なのだろう。
 彼女からの返答はない。
 しばらく、しゃかしゃかという歯ブラシの音と
 蛇口から出る水音だけが聞こえていた。
 続けて何か言おうとする凪だが、何も言葉が浮かんでこない。
 口をついて出そうになるのは根源的なフレーズばかりだ。
 好きだとか、謝りたいとか、或いは言い訳の言葉。
 それらが浮かんでは消え、結局凪は何も言うことができなかった。

 

 その日の午後。
 学園の周囲がにわかにざわついていた。
 アルカデイアから監視として派遣されている下位天使の一個分隊。
 彼らを率いる隊長のナハエルは、普段と違う状況に当惑する。
「エピエルたちの班とは、まだ連絡が取れんのか」
「はい。こちらからの呼びかけに反応しません。
 エピエル班が待機している場所へ向かった別班からも、連絡はありません」
 監視任務とはいえ、上官への連絡は絶対だ。
 無断で休憩するような班員も、ナハエルが知る限りはいない。
 とすれば、外部的要因による可能性を疑うより他はなかった。
「ふむ――しかし、これはどういうことだ?
 ルシードや周辺の悪魔は学園内部にいる。
 先ほど、奴も何もせず平然と正門から学園へ入っていった。
 他に誰が我々を――まさか――」
 僅かな残留イメージから、ナハエルは原因を推測しようとする。
 その瞬間に、彼が待機する路地へと二人の天使が落下してきた。
 相手を見てナハエルは驚きに目を見開く。
 眼前に立っているのは、ラファエルとラツィエルの二人だった。
 二人を認識した直後。ナハエルの身体がぐるんと一回転する。
 ラファエルの拳が顔面を直撃したからだ。
 返す動きで立っていた下位天使を壁へと蹴り飛ばす。
 残った一人を、ラツィエルが平手打ちでやはり壁へと叩きつけた。
 隊長班としてそこに待機していた三人は、
 戦闘態勢に入るより早く殴り飛ばされ行動不能になる。
「ごめんね、僕たちまだ捕まるわけにはいかないんだ」
「さて、これで監視は全部かの」
「そうですねラツィエル様。急ぎましょう」
「うむ」
 監視役からの連絡が途絶えれば、ミカエルは即座に対応するだろう。
 二人はそれを計算して、彼が学園を離れてから一日時間を置いていた。
 どんなに急いでも、学園に部隊を派遣するまでには幾らかの時間はかかる。
 急ぎ足でラファエル達は学園へと走っていく。

 

 外で起こった出来事など知る由もなく、学園は平常通りの放課後を迎えた。
 凪もラファエル達には気付かず、授業を終え部屋に帰ってくる。
 頭の中は、これからのことで精いっぱいだった。
 悩んでも仕方ないとは解っているが、ならばと開き直れるはずもない。
 うがいを済ませ、冷蔵庫から飲み物を取り出すと凪はベッドに座った。
 すると、不意にドアをこんこんと叩く音が聞こえてくる。
 返事をして扉に近づくと、向こう側から声が聞こえてきた。
「お話があってきました。申し訳ないですが、入れて貰えますか?」
「黒澤――先生?」
 ドアの向こうにはアルカデイアで別行動を取って以来、
 行方を晦ましていた黒澤の姿がある。
 意外な訪問者の登場に、凪は驚いてドアを開けた。
 黒澤をリビングに迎えて、ひとまず凪は無事で何よりだと切り出す。
 軽く礼を言うと、黒澤は自分がいない間の出来事を尋ねた。
 大雑把に凪が現在置かれている状況を話すと、
 少し考えてから黒澤は口を開く。
「できれば貴方の旅に同行させていただきたい」
「え? な、なにをいきなり」
 一人で向かう不安はあり、黒澤が同行するのは確かに心強い。
 だとしても、それ以上に疑問符が浮かぶ。
 何の利もなく彼が手を貸すのは納得いかないからだ。
 そう考える凪に、黒澤はミカエルとの一件をかいつまんで話す。
 いつの間にそんなことをしていたのだ、と驚く凪に続けて黒澤は言う。
「ミカエルはジブリールを殺したと言っていましたが、私は信じていません。
 彼女は生きている。だとすれば、どこにいると考えられるか。
 色々なところを探しはしましたが、結局彼女の行方は解らない」
「まさか、あの樹にガブリエルがいるってことですか」
「確証はありませんよ。ただ、彼女を樹の内部から感じる気がするんです。
 本来なら悪魔として戦争に参加しないとまずいですが、
 ジブリールを探してからでも遅くはないですからね」
 根拠のない自信を黒澤は主張した。
 こんなことで動く悪魔だったか、と凪は逡巡する。
 もしかすると、ルシファーと繋がっていて騙そうとしているかもしれない。
 勘ぐってはみたが、凪には黒澤がそんなことをする悪魔には思えなかった。
 今までのことを考えると、どちらかといえば頼りになる印象がある。
 少なくとも、凪に対して彼は協力的、友好的だったといえるだろう。
「まあ、断る理由は――」
「そいつを信用しすぎちゃ駄目よ、凪」
 凪の言葉に被せて話してきたのはリヴィーアサンだ。
 気がつくと、いつの間にか紅音が帰ってきて靴を脱いでいる。
 身体を動かしているのはリヴィーアサンだ。
 恐らく紅音は凪と話すのが気まずいのだろう。
「アシュタロスは人を置いて逃げ出したクソ野郎だからね。
 当てにしていたら、あとで泣きを見るわよ」
「あれは貴方の実力なら問題ないと判断しただけです。
 事実、問題なく帰還してこれたわけですから」
 しれっとした態度で、黒澤はリヴィーアサンにそう返した。
 全く悪びれもしないその様子に、彼女は冷たい笑みで指の骨を鳴らす。
「ほおぉ。ケシズミにしてあげましょうか?」
「遠慮願いますよ。それに、ほら――お客さんです」
 黒澤はそう言って、窓の方へと手のひらを向けた。
 窓の向こうにはラファエルとラツィエルが立っている。
 丁度、二人は部屋の中に入ろうとしているところだった。
 思わず凪は驚きの声を上げてしまう。
「ちょっ――何してるの、ラファエル! それに、貴方はラツィエル?」
「うむ。ま、おじ様とでも呼んでくれればよい」
 軽い口調でそう言うと、ラツィエルは靴を手に持って部屋にあがりこむ。
 同様にしてラファエルも部屋に入ってきた。
 天使から捕縛命令が出ている彼らが危険を冒しここに現れたということは、
 何か重要な話があってきたのだろうと凪は推察する。
 ふう、と一息ついてから真面目な顔でラファエルは話し始めた。
「セフィロトの樹が現象世界に現れたのは知ってるよね。
 僕はあそこへ行こうと思うんだ」
「えっ! ラファエルもっ?」
 も、とはどういうことかと聞き返すラファエル。
 状況を説明すると、彼は少し驚いてから嬉しそうに言った。
「なら話は早いね。僕も君たちと一緒に行くよ。
 よかった〜。本当は僕たち、凪君を説得するつもりだったんだ」
 なるほど、と凪は彼らがここへ来た理由に納得するが、
 直後そこから別の疑問が湧いてくる。
 どうして自分が誘われるのか、ということだ。
 ルシファーとミカエルは戦力やシンボルとしての勧誘。
 話している様子では、そう言った目的での誘いではないように見える。
「何で私なの? それに――二人はどんな目的でセフィロトの樹へ?」
 言うなれば、そこは天使と悪魔が集結し雌雄を決する舞台だ。
 天使に追われている者が目指すには危険すぎる。
「うん。きっと、あそこにミカエルはいるから」
 幾らか低いトーンが、その言葉の意味を物語っていた。
 話し合いでは解りあえず、決着することもない。
 だとしたら、その先にある選択をする。その覚悟が見て取れた。
 現状でミカエルが確実に現れる場所として、
 セフィロトの樹を目指すのは間違いではないかもしれない。
 その行為がどれだけ危険かを考えなければ。
「あと凪君を誘う理由だったね。それはセフィロトの樹を登るために、
 君の持つルシードの力が不可欠だからだよ」
「この力、が?」
「そうじゃ。恐らく、ルシードの力は樹のシステムと連動しておる。
 いや、ルシードだけではなくディアボロスもじゃろうな。
 二つの力が、あの樹を登るためのキーになっているとわしは考えとる」
 ルシードとディアボロス、そしてセフィロトの樹。
 一見関連性の薄かったそれらが、一つのシステムであると彼は言う。
 推測として語ってはいるが、ラツィエルはその考えに確信がある様子だ。
 その理由はさておき、凪は根本的なところで疑問が浮かぶ。
「ん? ちょっと待って。どうしてセフィロトの樹を登る必要が?」
「天使も――いや、ミカエルも樹の頂上を目指しているはずだからのぉ。
 真正面からミカエルに会おうとしても、その前に捕まるのがオチじゃが、
 そこでお主が樹の封印を解くとどうなると思う?
 外は戦争中で、樹の探索に多くの兵は割けん以上、
 ミカエルは少数精鋭で樹の内部へ向かうとわしは考えている」
 

Chapter169へ続く