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         時刻は日本時間で夕方を回った頃。 
         手段は不明だが、凪たちは旅客機に搭乗して空の上にいた。 
         窓際には凪、順にラファエルとラツィエル、黒澤の姿がある。 
         寝ているかはわからないが、ほとんどが目を閉じて座っていた。 
         ラファエルは一人、何をするでもなくじっとどこかを見ている。 
         色々なことが頭の中を巡って、どうにも眠れなかった。 
         整理しきれないそれらを、ただ彼はぼうっと浮かべている。 
         隣には、安らかな寝息を立てる凪の姿があった。 
         彼の寝顔を横目にして、ラファエルは妙な感覚を抱く。 
        (凪君――合流してからどこか、様子がおかしい。 
         なんだか、超人的なものを感じる――それに――やけに落ち着いてる) 
         本来ならば凪は旅客機で寝られるタイプではない。 
         加えて、紅音と別れた後ですんなり眠気に身を任せていられるのも妙だ。 
         それこそラファエルと同じように、物思いに耽っていてもおかしくはない。 
         ラファエル達と合流してから、彼がそんな様子を見せたことはなかった。 
         一連の紅音との出来事をラファエルは知る由もないが、 
         凪という存在が別物に変わったことだけは知覚できる。 
        (それに、一番の変化は――) 
         不意に凪が身体を動かし、ラファエルの目に首筋と鎖骨がちらりと見えた。 
         その時、心臓の鼓動が大きく脈打つのを彼は感じる。 
         形容しがたい感情が胸をよぎって、 
         困惑したラファエルは思わず視線を背けた。 
        (ルシードが、凪君の存在自体にも影響を与えているのか?) 
         合流してからラファエルは、凪が今までより魅力的に見えてならない。 
         それも女性的でありながらヒトを超越した魅力だ。 
         これまで客観的に彼の外見を見ていたラファエルさえ、 
         思わず見惚れてしまうほどの異様な変化。 
         背中に羽根が生えたと凪から話は聞いている。 
         天使と同じく、羽根は体内に収納できるということも。 
         とはいえ、それがこうも変化をもたらすとは予想外だった。 
        「君にそっちのケがあるとは意外でしたよ」 
        「っ!?」 
         考え込んでいるラファエルに、当たり前のように黒澤が話しかける。 
         どうやら彼は眠っていたわけではなく、目を閉じていただけのようだ。 
         誤解されたようなので、ラファエルはそれを否定しておく。 
        「ち、ちがうんだよ。僕はただ合流してからの凪君が妙に魅力的だなって」 
        「――そうでしたか」 
         余計誤解されたらしく、苦笑いすると黒澤は顔をそむける。 
         恐らくは彼も凪の変化に気づいてはいるのだろう。 
         今はただ、あえて気付かないふりをしているだけだ。 
         そんなことは露とも知らず、ラファエルは誤解を解こうとする。 
        「本当に違うんだってば〜」 
         不毛なやりとりは、そのあとしばらくの間続いた。 
         
         
         
         砂漠に煌々と太陽の日差しが照りつける。 
         天使たちは依然変わらず悪魔への警戒を続けていた。 
         そんな中、展開する陣形の最前線より、敵影発見との連絡が入る。 
         それを受けて、彼は老賢者とウリエルを含む主要天使の面々を招集した。 
        「先ほど入電があった。悪魔の部隊およそ三千が、 
         この樹がある砂漠の西より進軍中だそうじゃ」 
        「樹を中心に周囲は全て砂漠だ。やや南西に湖がある程度か。 
         この状況で西から進軍とは、あまりに普通で芸がねえな」 
         地図を見ながら、ケルビエルはそう言って笑う。 
         恐らくは別の意図があるのだ、と推測しているのだろう。 
         その意見に頷くと、ウリエルは口を開いた。 
        「我々は大きく円状の陣を取っています。 
         悪魔側からすれば、西に陣形を陽動して――」 
        「陣形が広がったところを他方から樹へなだれ込む、か。まあ当然の策だ」 
        「だが、それだけにルシファーの野郎がそう来るはずがねえ。 
         そう言いたげだなブラザー」 
         ケルビエルの言葉を補足するように、ゾフィエルはそう言った。 
         彼が言う通り、それではあまりに見え透いている。 
        「作意を感じるね。三千の兵隊をわざと俺たちに補足させることで、 
         悩ませ、真意を探ってみろという挑発だぜ、これは」 
        「確かに情報を受けた敵部隊の地点はかなり遠い。 
         あえて姿を見せていると取ることもできるじゃろう。 
         何にせよこの三千は撹乱か陽動の部隊、まともに対することはない」 
         アドゥスがそんな話をしていると、通信兵から連絡が来る。 
         それを聞いて、彼は笑みを浮かべ確信を深めたようだ。 
        「たった今、約一万程度の敵大部隊を見つけた、と情報が入った。 
         恐らく湖を迂回する進路で、砂漠の南西から北上しているそうじゃ」 
        「こいつはビンゴだな」 
        「うむ。陽動三千の敵部隊へは周辺部隊で当たらせる。 
         敵の主力部隊一万には、こちらの主力二万をぶつければよかろう。 
         下らん策を弄したところで、数の差はそう簡単に埋められぬものよ」 
         戦う前から勝ち誇るアドゥスの姿を見て、ウリエルは一抹の不安を覚える。 
         ルシファーという悪魔の狡猾さは、果たしてこの程度だろうか。 
         不利な闘いは承知で、彼はこの戦争を始めたはずだ。 
         ならば、もっと狡猾で奇抜な策を練っているかもしれない。 
         彼は面前のケルビエルたちにそう言おうとして、寸前で思いとどまった。 
         ただでさえ、この面子に異論を提示するには覚悟が必要になる。 
         確証もなく不安を口にすれば、罵声を浴びるだけだ。 
        (何も心配することはない。悪魔の兵は天使より遥かに少ないのだ。 
         アドゥス様の言う通り、数的有利は容易く覆るものではない) 
         不安が杞憂であることを祈りながら、ウリエルは自らを納得させる。 
         
         
         
         場所は変わり、アドゥスら天使が拠点とする場所より遥か西の砂漠。 
         そこには多くの悪魔と、それに偽装を施した強力な悪魔たちの姿がある。 
         驚くべきことに、その中にルシファーの姿もあった。 
         彼は拠点となる山脈中腹の洞窟から出陣し、砂漠へと進軍していた。 
        「普通、三千の兵は陽動。そう考えるよね。 
         そこに僕を含めた主要な悪魔が揃っているなど、ありえないことだ」 
        「正に奇策ですな。このフォラス、最初は耳を疑いましたぞ」 
        「僕らにとって、天使は通過点の障害に過ぎない。 
         全て打ち倒す必要はないんだ」 
         ルシファー率いる三千の兵は、最初から一点突破を狙うための精鋭だ。 
         どれだけ物量差があろうと、空間と密度を考えれば不可能ではない。 
         他にも、彼は色々な布石を打っていた。 
         だからこそ、フォラスもこの策を受け入れたのだろう。 
         何より天使の多くがこの戦争を勝てて当然と考えている、 
         ということが悪魔側には大きな好機と言えた。 
         士気の差は一点突破の策における重要なファクターだ。 
        「とはいえ樹の周囲に展開する天使部隊は、恐らく我々の数倍規模でしょう。 
         通り抜けるだけでも決死行ではあります」 
        「ふふ――血を流さずして神の座へ到ることはできないさ。 
         決死たる我々の覚悟こそが、道を切り開くのだよ」 
         フォラスの言葉にそう返すルシファー。 
         これまでもこれからも、彼は理想を果たすための犠牲は厭わない。 
         覚悟は遥か昔からとうに固まっている。今あるのは意志だ。 
         その瞳には、強い意志の光が宿っている。 
        「相変わらず私のことは二の次三の次なのね」 
         空からリリスがルシファーの隣へと降り立った。 
         勿論、彼女も弱い悪魔に見えるよう偽装している。 
        「そんなことはないよ。これは、君の望みでもあるのだから」 
        「望みは一つだけなんて決まってないのよ、ルシファー」 
         腕を絡めながら、リリスはそう言って笑う。 
        「欲深いね、君は」 
        「欲しいものは我慢しない。貴方がそう教えてくれたのよ」 
         じっとルシファーを見つめるリリス。 
         そんな彼女を、何者かが後ろから首根っこを掴んで引き離した。 
         不愉快そうな顔を隠さずにリリスが振りかえると、 
         そこには同じくらい不機嫌そうな女性悪魔の顔がある。 
        「下らないやりとりは闘いの後にしてくれないか? 反吐が出る」 
        「なら、見なけりゃいいでしょうがデカ女」 
         リリスが罵声を浴びせるのは、ベルフェゴールと呼ばれる悪魔だ。 
         髪はぼさぼさの短髪、すらっと長身で巨大な剣を背負っている。 
         その剣は彼女の身体より一回りは大きいが、 
         重量など無いかのように多くの荷物を抱えていた。 
         彼女は片手で頭をかきながら、リリスに向かって言う。 
        「自分勝手な奴め――だから、女は嫌なんだ。 
         醜悪な雌の臭いをまき散らせて悪びれもしない」 
        「あんただって女じゃない」 
        「不本意ながらな。だが、お前ほど妄念に囚われてはいない」 
         決してお互いひかず、平行線のまま張り詰めた沈黙が訪れた。 
         自らが女性の悪魔であるという矛盾を抱えながらも、 
         ベルフェゴールという悪魔はとにかく女性を嫌う。 
         何が彼女をそう強く思わせるのかは不明だ。 
         女性と――そして人間はベルフェゴールにとって嫌悪の対象にある。 
         仲間であるリリスであっても、嫌悪感を隠そうとはしない。 
         そんな様子を気にするでもなく、ルシファーは彼女に話しかけた。 
        「その魔剣クレイドルオブフィルス、それに魔槍アルター・アルマ。 
         君が大切にしている作品を、自ら持ち出してくれるとは助かるよ」 
        「ああ。私が作った中でも、その二つは特別な芸術品だ。 
         未完成に近いが、それゆえの魅力を帯びた作品だと自負する。 
         ある種、このシニスターレインよりも魅力的かもしれない」 
         腰に差してある小剣を、ベルフェゴールはぐっと掴んでみせる。 
         抱えている多くの荷物は全て彼女が制作した武器だ。 
         具現、科学、魔術、あらゆる手段を用いて制作されるそれらは、 
         ベルフェゴールの実益を兼ねた趣味と言えるだろう。 
        「黄昏の八神剣に魅せられて幾星霜――。 
         天使が持つそれらを打ち破ることで、私の芸術が認められる」 
        「たかが武器に魅力とか、馬鹿らしい」 
        「あ? 今なんていった」 
         吐き捨てるようなリリスの言葉に、ぴくっとベルフェゴールが反応する。 
         先ほどより、はっきりと怒気のこもった声だ。 
         それを聞いていらだったのか、更にリリスは彼女を挑発する。 
        「ベールフェゴールちゃんは武器に欲情する変態って言いましたぁ」 
        「愚弄は死に値するぞ!」 
         腰の小剣シニスターレインに手をかけるベルフェゴール。 
         同時に、リリスも冷たい瞳でイメージを高め始める。 
         一触即発の二人を止めたのは、トーンの変わらないルシファーの一言だ。 
        「――止めないか」 
         背筋が凍りつくような悪寒がリリスたちを襲う。 
         短い言葉だが、彼の持つ底知れぬ冷気が含まれていた。 
         表情一つ変えず、ルシファーはそのまま歩き続けていく。 
         対象的に、ベルフェゴールとリリスは目を反らし黙り込んでしまった。 
         たった一言で二人は彼の持つ絶対的圧力を思い出す。 
         かつて、神に異を唱えその主権を脅かそうとした恐るべき悪魔。 
         抗える筈がない。彼の下、全ての悪魔は集ったのだから。 
        「君たちの敵は誰か、忘れてはいないよね」 
        「ええ。私たちの敵は天使。そして――」 
        「いと高き場所より我々を見下ろす神」 
         リリスとベルフェゴールは、ルシファーの問いかけにそう答える。 
         気づけば、天使の拠点は間近に迫っていた。 
         
         
         
         獣のような息遣いが聞こえてくる。 
         周囲は知覚できない広い空間が広がっていた。 
         遠くに神の宮殿が見えるそこに、ただ一人夢姫は佇んでいる。 
         宿命を待つ獣は、そこでじっと運命の相手を待ち続けていた。 
         もはや誰と言葉を交わす気もない。 
         何のために自分は存在するのか。自らに問いかけても答えはなく。 
         身に宿るディアボロスは、ただ破壊こそが答えだと叫び続けている。 
         その先にあるものなど興味はない。獣は未来を見ない。 
         ルシードが完全に覚醒したことで、ディアボロスもまた、完全に目覚めた。 
         心の奥底、夢姫はふと何かの欠片が残っているのを感じる。 
         今ではそれが何なのか、拾うことも出来ないので解らない。 
         遠い昔に見つけていたもの。 
         ずっと前に彼女が持っていたもの。 
         残りの全ては、凪が持っている。 
         もしそれを分けあえたなら、分け合うことが出来たなら。 
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