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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter175
「磔の太母」
 

 凪たちがたどり着いたのは、下層より更に高度な構造になっている階だ。
 広さはかなりのもので、透明なガラスのような材質で仕切られ、
 外側にも空間が広がっている。
 漠然と、凪は以前来たことのある場所だと感じた。
「そうだ――ここ、メタトロンと遭遇したあの場所と似てる」
「では、先ほどの声もやはり――」
 黒澤の推測に凪は頷く。それに反応するかのように、
 中央の巨大な装置から凪たちへと一人の天使が歩いてくる。
「名乗らせていただこう。我が名はミクソール。
 ミクソール=ヨエルエノク=メタトロン」
 以前と同じ口上で彼は自己紹介した。
 思わず構える凪だったが、彼は首を振って戦闘の意思がないことを表明する。
「正門から現れし者よ。私は君たちを否定しない。
 ラツィエル、君であっても――ね」
 そう言うと彼は振り向いて、中央の装置へと来た道をまた歩き出した。
 名指しで呼ばれたラツィエルは、真剣な面持ちで彼を見ている。
 聞きたいことはあるが、ラファエルも黒澤も何も聞かなかった。
 代わりに凪は、メタトロンに気になっていた疑問をぶつけてみる。
「あ、あの――このセフィロトの樹って、一体何なんですか?」
 率直かつ漠然とした質問だが、彼は振り返って不気味に笑いかける。
「セフィロトの樹――その名は、この場所に後から付けられたものだ。
 神と我々熾天使が偽装を施した後にな」
「後から、付けられた? 偽装? それって――」
「元々この建造物は、ヒトからこう呼ばれていた。バベルの塔、と」
 メタトロンが口にした名前に、凪は言葉を失ってしまう。 
 言語が分かたれた説明として用いられる神話。
 天の頂を目指し、名声を得ようとした人々が建てたという塔の名がそれだ。
「それが事実ならば、この高度な建造物をヒトが造ったということですか?」
 信じきれないといった様子で、黒澤はそんな疑問を口にする。
 確かに、今いる階だけでも現代文明より遥かに高度な技術が使われていた。
 古代文明が高度な技術水準を持つというのは、物語などで耳慣れている。
 だが目の前にある技術は、天使や悪魔のものをも凌駕していた。
「何も不思議なことはない。ヒトの進化は我々天使を感嘆させるほどに早く、
 長い年月を経てそれが文明を神の膝下へ導くまでに至らしめただけのこと」
「天使がそれを看過――或いは見つけられなかったと?」
 万能ではないことは理解している。それでも、黒澤は天使が
 ヒトの増長を見抜けなかったとは思えなかった。
「かつてヒトは、いと高き者と並ぶという妄執に取りつかれ過ちを犯した。
 自らの能力を秘匿し、牙を研ぎ――彼らはまず天使の抹殺を計画した。
 恐るべきはヒトの業――ヒトの持つ可能性よ」
「ヒトが、天使を? 聞いたことないよそんなの」
 四大天使であるラファエルでさえ、初めて聞く話に思わず耳を疑う。
「神を目指すにあたり、ヒトにとって最大の障害は神の代理存在。
 そしてヒトはアルカデイア侵攻作戦のため、
 表向き軌道エレベータの建設と見せかけてこの塔を建造したのだ」
「あ――! だから、エウロパ宮殿地下の迷宮からこの場所に繋がってたのか」
 思い出したように凪は声を上げる。
 あの日に辿った道筋は、本来は逆の用途で使うためのもの。
 アルカデイアへ侵攻するために建造されたものだ。
「然り。天空の迷宮を建造したのもヒトだ。
 ヒトは宮殿をまず攻めることで、そこを足がかりにしようとした。
 迷宮は天使の追撃をかわすためのものだ」
「あの迷宮にそんな意味があったとは、驚くしかありませんね。
 私を含め、多くのものはあれを神の作りしものと信じていたのに」
 黒澤が言うように、エウロパ宮殿は神の創造物として信仰されていた場所。
 いつの間にか、ヒトがその地下に迷宮を作りだしたとは、
 殆どの天使が想像もしていなかったことだろう。
「それら企ては熾天使だけで内密に処理したが、
 この塔は大樹に偽装してこうして残された。
 アルカデイアと現象世界の橋渡しのため、それに――」
「それに?」
「いや――ヒトは年月を重ね、世代を経ることで思いもかけぬ進化をする。
 結果として当時の人類はほぼ絶滅に至ったが、その集大成たるこの大樹は
 善と悪――いわば罪の象徴として、生命の樹と名付けられた」
 彼が口にする内容に嘘があるのかどうか、凪には推察もできないことだ。
 だが、はっきりと解ることがある。
 メタトロンは何かの事柄を意図的に省いて説明していた。
 何よりも、バベルの塔がセフィロトの樹として存在している理由、
 神や熾天使がそれを偽装してまで管理している理由が解らない。
 凪がそれを聞くより前に、メタトロンはフロア中央にある機器群を指さした。
「そして――あれこそ、この大樹が持つ罪そのもの。見よ、その鈍き輝きを。
 見よ、その虚ろなる美醜の果て――」

 

 機器の放つ緑の光が、視界を僅かに滲ませる。
 中央にある装置が何かも解らないのに、
 凪は何故かそれが汚れたものに見えて仕方なかった。
 大きな水槽とそれを管理する周辺機械。
 装置の内部にはぼんやりと青白く光っていて、
 干からびた何かが濁った液体の中に浮かんでいる。
 それは底のないようなおぞましさを持って、皆の前に提示された。
「これは――」
 メタトロンは中央にある装置に指を差し、凪たちに語りかける。
「この者は長きに渡り、大樹の礎とされてきた」
 思わせぶりに彼はラファエルのほうに視線を向ける。
 ラファエルは先ほどから装置を見つめ呆然としていた。
 彼だけではない。ラツィエルと黒澤も装置に浮かぶ何かを見つめている。
「この中にいるのは――」
 そうラファエルが言いかけた時、強い口調で黒澤が静止した。
「違う――! そんなはずがないでしょう。こんな、こんな――」
 言いかけて、黒澤は口に手を当てて黙りこむ。
 彼らの異様な雰囲気に、凪も薄々解り始めていた。
 目の前の装置に入っている皺だらけ、骨と肉だけの老人に見える者。
 生きているのかどうかも、凪の位置からでは確認することができない。
「このシステムは確保した生命体を、死なぬように手厚く生命維持処理し、
 個体から抽出が不可能になるまで継続的にエネルギー抽出を行う。
 外見がこのように変質したのは、そうして五十年に渡り
 生命力を搾取され続けたためだ。
 これこそが大樹の核、システム・グレートマザー。ヒトの生み出せし罪」
「この樹を――動かすために、こんな――」
「正確には、大樹の命令系統を稼働させるためだ。
 命令系統が稼働を始めれば、即座に大樹全体のエネルギーを補うため
 周囲の生体を確保し燃料としていく」
「そんなことよりも――貴様は今、五十年に渡り――そう言ったな」
 黒澤は歯を食いしばるような形相で、メタトロンをにらみつける。
「然り。これはお前たちの探し求めた存在のなれの果てだ」
「やっぱり、彼女が――」
「黙れ、そんなはずがあるか! 彼女は気高く美しく、天使のシンボルともいうべき存在だ! こんな醜い老婆が――あのジブリールであるはずがない!」
 かつてないほどに、黒澤は取り乱していた。
 目の前の光景が信じられない。探し求めた答えがこの有様だったなどと。
 立っていることもままならず、彼は膝をついて手で顔を覆う。
 あの日、眩く輝いていた天使の姿はもうどこにもない。
 込み上げてくる感情が何なのかも、黒澤は考える気になれなかった。
 すべてが無為に帰した。そんな脱力感に襲われる。
「彼女を――そこから出してあげられませんか、メタトロン」
 不意に隣から聞こえてきた声の意味が解らずに、
 黒澤はそれを聞き逃しそうになった。
 何一つ変わりのない様子で、ラファエルはそう告げる。
「君は、なぜ動じない――」
「驚いたけど――でも、どんな姿になっても彼女はガブリエルだよ」
 その言葉を、黒澤は理解できたが納得できなかった。
 頭でそう思っていたからといって、理屈でそうだからといって、
 変わり果てた彼女を変わらずに愛おしく思うことができるというのか。
 容姿は重要な一要素だ。それが変質したら、それは変わらぬ彼女であるのか。
 ただ一つ確かなのは、彼がそれを心の底から思っているということだ。
 そのことは黒澤に激しい敗北感を抱かせる。
「彼女を解放する? 構わんが――よく見てみるがいい」
 そう言ってメタトロンはガブリエルを指さす。
 不意に彼の表情が不気味な笑顔に変わった。
「汚らしい姿だと思うだろう。あの気高き天使が、このように腐り果てた姿に。
 だが、システム・グレートマザーから彼女を出したところで無駄なことだ。
 ガブリエルに救いは訪れない」
「どういう、ことですか」
「――彼女を含め、全ての生命にはソフィアの呪縛が内にあるからじゃ」
 ラファエルの問いを代わりに返答したのはラツィエルだ。
 真剣なまなざしで、彼はガブリエルの浮かぶ容器をじっと見ている。
 それを聞いて、メタトロンは不気味な笑みを浮かべた。
「これは珍しいではないか、ラツィエル。
 貴様が此処にきただけでなく、更にソフィアの名を口にするとは――」
「アーカーシャの記録書における希少事例の部類じゃろうな」
 突然ラツィエルが耳慣れない単語を口にし始める。
 その様子に驚いているのは、凪たちよりもメタトロンのほうだった。
 怪訝な表情を浮かべるメタトロンを尻目に、ラツィエルは続ける。
「ラツィエル、貴方は――」
「今まで本当にすまんかったのおラファエル。じゃが、ワシはようやく覚悟を決めることが出来た。ワシは熾天使を生み出し、熾天使になりそこねた天使。
 ずっと――贖罪の場所を探し続けていた――」
 いつになくラツィエルは悲しそうな顔をする。
 謝罪された意味が解らずに、ラファエルは困惑しながら黙っていた。
「――と、まずはガブリエルをあそこから出してやらねばならんな」
「待て」
 彼の言葉を聞いていたメタトロンが、それを制止する。
 先ほどまでの様子とは、明らかに違っていた。
 ガブリエルそのものよりも、ラツィエルの判断に何かを感じた様子だ。
 そんなメタトロンに、ラツィエルはとぼけた顔で言う。
「断る。何しろあのシステムは無理に解除しようとすれば、
 こちらに攻撃を仕掛けるだけでなく、中にいるガブリエルの生命力を
 あっという間に全て絞りつくして枯渇させる仕組みになっておる」
「なんですって!?」
 その言葉は予想外だったらしく、メタトロンは凄まじい大声で叫んだ。
「小汚い端役の爺が、余計な真似をするんじゃあない!
 貴様は観測者、隅で黙って大人しくしていればよいのだ!」
 爆発にも似た気迫が彼の身体から迸るように感じられる。
 思わず凪たちが後ずさりそうになるほどだが、
 その態度こそラツィエルの言葉を裏付けるものだ。
 ガブリエルを助けるためには、一歩も引くわけにはいかない。
 失意にあった黒澤も、自らを奮い立たせた。
(このままただ落ち込んでいるだけならば、私がここに来た意味はない。そんなものは、プライドが許さない。例え彼女が変わり果てたとしても、まだ助けられないと決まったわけじゃない――)
 ちらりとガブリエルの入っている装置を見て、すぐに視線をそらす。
 まだ直視はできないが、黒澤は彼女を救うと強く決意した。
「ラツィエル、逆にいえば貴方ならジブリールを救えるということですね?」
 それにラツィエルは静かに頷いた。
「無駄なことを。我がそれを黙ってみていると思うか?」
「ここに来ると決めた時から、覚悟はできておる」
「出来そこないが――このメタトロンと闘うか。
 ラツィエル、貴様が発した言葉や行動は既にアーカーシャの流れを
 変質させる危険を孕んでいる。神の計画――予定調和を狂わせた責任、
 貴様の死を持って償ってもらうぞ!」
 熾天使と呼ばれる最高峰の天使が放つ殺気は、
 ビリビリと凪の身体に電気のような痛みを与えた。
(夢姫と会う前に、こんな状況になるなんて。
 いや――ここまで無事辿りつけたほうが幸運だったのか)
 凪一人で太刀打ちできる相手ではないことは、以前の戦いで解っている。
 他の天使や悪魔とはまるで違う、異質な力を持つ相手だ。
 全員で力を合わせたとして、どこまでやれるのだろうか。
 そんな思考中に突然、凪の耳へとメタトロンの言葉が聞こえてきた。
「まずは一人――」
 決して凪が目を離していたわけではない。
 いつの間にかメタトロンは黒澤の傍に立っていた。
 ルシファーのときと同じで、気づけば姿を消して移動している。
 既にメタトロンは、黒澤の首めがけて手刀を振り上げていた。
 誰も反応できる速度ではない、そう思った時だ。
 ラツィエルの手が、高速で彼の手刀を跳ね上げる。
「させんよ。ワシも覚悟を決めたといったじゃろう」

Chapter176へ続く