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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter176
「絶望の淵で」

   

 ――思い出すのは熾天使が誕生した日のこと。
 気づいた時、彼が目にしたのはそこにいた天使全てが発狂する姿だった。
 ルシファーやメタトロン、アザゼルといった面々の姿もそこにはある。
 奇声をあげながら、彼らは頭や身体をかきむしり、苦痛に顔を歪めた。
 狂気に囚われる天使たちの中、ラツィエルは呆然とうな垂れる。
 彼の前に現れたのは、姿形の覚束ない奇妙な何者かだった。
 ラツィエルは、その存在が神であると直感的に理解する。
 目を伏せて床に跪くと、その者はラツィエルへと語りかけた。
「よくやってくれた。だが、君は畏れ――叡智の深層に至らなかった。
 叡智から、ソフィアから逃れることは出来ないというのに」
 その出来事がいつのことだったのか。ラツィエルは思い出すことが出来ない。
 否、思い出せる者などいないだろう。それほどに、遠い昔のことだった。

 

 想定外だったラツィエルの動きに、メタトロンは一時距離をとる。
「本来ならば――ワシは今頃、下で戦争に参加していたのだったかな?」
「そうだ。貴様はアドゥスの陣営に加わり、フォラスの隊と交戦し相討ち。
 それが正しき歴史の筋書きというものだった」
 少し驚きはしたものの、メタトロンはすぐに平静を取り戻した。
 彼の実力をもってすれば、ラツィエルが何をしようと脅威ではない。
 そう考えていたが、ラツィエルを観察すればするほどある推測ができた。
 メタトロンが思考している隙に、ラツィエルは凪に話しかける。
「ルシード。わしとメタトロンを食い止めてほしい」
「え? わたし――は、はい」
 名指しで頼まれたので、少し凪は驚いてしまう。
 果たして、自分がどこまでその闘いについていけるのか。
 正直なところ、凪にはメタトロンと闘う自信がなかった。
「心配するな、メタトロンは君を傷つけることが出来ん」
 意味が理解できず、困惑する凪だったがラツィエルの表情は真面目そのもの。
 冗談や皮肉ではなく、それが事実だという口ぶりだ。
 それを裏付けるように、メタトロンはラツィエルの眼前に現れる。 
 彼の身体から放たれる光を、ラツィエルは両手で受け流した。
「――やはり貴様、少なくともアーカーシャの中層までアクセスしているな」
「さあな。ワシよりお主のほうが解るのではないかのう?」
「今の攻撃を捌くなど本来の貴様に出来る芸当ではない」
「では、そういうことじゃよ」
「ならば――このメタトロンも、全力を持って貴様を排除するしかない」
 後ろに退くと、彼は息を吐きながら全身にイメージを固めていく。
 ラツィエルはこの瞬間を逃さず、ラファエルと黒澤に
 ガブリエルを助けるための手順を伝えた。
 それを聞いて二人はすぐさまガブリエルのもとへと走り出す。
「申し訳ないが、付き合ってもらうぞルシード」
「やれるだけやってみます」
 メタトロンが放つ圧力だけで、ぞくぞくと凪の身体に鳥肌が立つ。
 今までよりも更に、それは絶望的なまでの実力差を窺わせた。
「安心せい。わしは死ぬかも知れんが、お主はここでは死なん」
 冗談めかしてとそう話すラツィエル。
 状況が状況ゆえに、凪も苦笑いすることしかできない。
 瞬間、周囲の気温がすっと下がったかのように錯覚する。
 メタトロンがイメージを固着させ、攻撃準備を整えたのだ。
 彼の姿が消え、同時にラツィエルの姿も煙のように消えうせる。
「なッ――」
 一呼吸後、ラツィエルの身体が凪の後方へと飛んでいった。
 移動したのではなく、メタトロンが彼を何らかの攻撃で吹き飛ばしたのだ。
 凪にはそれがかろうじて解る程度。到底、そこに割り込むことなどできない。
 忌々しげに、メタトロンはラツィエルの吹き飛んでいった方を睨む。
 ラツィエルは後方で膝をついてはいたが、大した怪我はしていない様子だ。
「やはり、貴様を排除するには時間が足りぬか」
「解ってくれたなら、諦めてくれるとわしも助かるんじゃがな」
「――そうしてもここでの結果は同じかもしれん。
 だが、貴様を生かしておくことは――未来にとって不利益だ!」
 メタトロンが手を突き出すと、大きなイメージの波が放たれる。
 直接狙われていない凪も、その波を前にぐっと身体をこわばらせた。
(この飲み込まれるような圧倒的なイメージ、これが熾天使――)
 それを、ラツィエルは両手を使ってこともなげに分断する。
 まるでそうなると解っていたかのように。
 明らかに彼とメタトロンの力は異質だ。
 凪にとって、今まで感じたものとは全く別の何かに思える。
 加えて目の前で起きている闘い。それもまた異質だった。
(何か――変な感じだ。なんだこの気持ち悪くまとわりつくような感覚。
 こんなすごい闘いなのに、まるで茶番を見せられてるみたいな――)

 

 一方、ラファエルたちは手際よくガブリエルを捕獲している装置の機能を解除していた。すぐに装置は光を弱め、駆動音も緩やかになっていく。
 機能の停止を確かめると、黒澤が止める間もなくラファエルは渾身の力を込めてガブリエルを収容している水槽を殴りつけた。
 粉々に破砕した水槽から、液体が流れ出していく。
「何を考えてるんですか君は――もう少し丁寧に――」
 黒沢が言い終えるより早く、ラファエルはガブリエルを水槽から引きずり出しはじめた。途中で喋るのをやめて、黒澤もそれを手伝う。
 手で触れたガブリエルの感触に、かつて感じた面影は微塵もなかった。
 先ほどまで浸かっていた水槽の液体は、こまめに変えられていたのだろう。
 彼女の皮膚はふやけていなかったし、適宜外の空気に触れていたようだ。
 それよりも、問題は太母として長年に渡り搾取されてきたこと。
 痩せこけた身体は老婆のようで、呼吸は酷く弱弱しいものだった。
 その姿を見ているだけで、黒澤は胸をかきむしりたくなる。
(元に戻せるのか? あの美しい彼女の姿を――)
 もし、そうでないとしたなら。自分はどうするというのだろうか。
 水槽から助け出し床にガブリエルを寝かせると、二人は彼女の身体が少しでも回復するようにイメージを練り始めた。大きな効果はないが他に方法はない。
 リビドーによる性治療を行うにはあまりにも身体が弱り過ぎていたし、ルシードの力を使うこともまず不可能だ。
 なにしろ、ガブリエルと凪は顔を合わせたことさえなかった。
「やっと会えたね、が〜ちゃん……ガブリエル」
 とりあえず、ラファエルは上着を裸の彼女に被せた。
 それから彼女の手を握って、ラファエルは目を閉じて祈る。
 彼と黒澤の膨らませたイメージは、ガブリエルの治癒を促していた。
 時間はかかるが、二人がかりなら恐らく衰弱死する心配はないだろう。
「ら、ふぁ――」
 そんな声が聞こえて、ラファエルはすっと目を開けた。
 ガブリエルがいつの間にか意識を取り戻している。
「が〜ちゃん、気がついたんだね」
 彼女の顔はほんの少し笑っているように見えた。ラファエルに応える代わりに、
ガブリエルはよろよろと手を挙げてかすれた声で呟く。
「アルス・アマトリア、力を……貸して」
 言葉の後、彼女の手が淡く光り始め剣が具現されていった。
 それを見てラファエルは思わずあっと声を上げる。
「そうか、神剣の補助があれば――それに、アルス・アマトリアなら」
「――これがかの神剣、アルス・アマトリアですか。
 水と癒しを象徴し、ジブリールの呼びかけに応え形を成すという」
 長剣のような形状をした神剣、アルス・アマトリア。
 所持者であるガブリエルと長い間行方知れずになっていた剣だ。唯一、神剣の中で破壊にイメージのベクトルが向いていない稀有なもの。
 長い天使の歴史でも、ガブリエルより前の使用者は確認されていない。
 アルス・アマトリアの持つ癒しの力ならば、ラファエルと黒澤のイメージを増幅することも可能だ。
 今は声をあげるのも辛そうだが、短時間で会話出来る程度まで彼女が回復する可能性もある。
 希望を表情に滲ませるラファエルに対し、黒澤の表情は暗いままだった。

 

 凪たちがメタトロンと遭遇する幾らか前の時刻、地上の天使と悪魔の闘いは状況を変えていた。
「離れろ、何人であろうとミカエルに近寄るな!」
 ベルゼーブブを睨みながら、大きい声でウリエルはそう叫ぶ。
 気づけば、ミカエルが手にしていた煙草は神剣へとその姿を変えていた。
 癒しと水を象徴とする神剣アルス・アマトリアとは対照的に、
 それは秩序や炎といったイメージを象徴する。
 誰であろうと平等に感じられるその熱波に、周囲への配慮は全くない。
 可能な限りシンプルで強力なイメージだ。
 天使たちは慌てて彼の周囲から離れていく。
 直度、ミカエルの背後に炎が飛沫のように巻き上がった。
 瞬きするほどの時間で、彼はルシファーの眼前へと突進する。
 対峙してすぐに、ミカエルは全力の一撃を持ってルシファーの首を狙った。
 彼がイメージしうる最高のもの――サンクトゥス・イグニスだ。
 迸る熱でルシファー以外の悪魔は、身を守ることに専念せざるを得ない。
「サンクトゥス・イグニスか。いいね――なら、僕も少し本気を出そうか」
 その動きを予想していたのか、ルシファーはインクロヴィエを構えていた。
(どんなイメージだろうと、焼き尽くしてやるよ)
 炎の塊となったミカエルが、レーヴァテインをルシファーに振り下ろす。
 多くの者がその交差、激しいぶつかりあいと周囲への被害を想像する。
 ――結果は、その多くが目を疑う光景だった。
「え?」
 声を上げたのはリリス。全力で身を守るイメージを固めていた彼女は、目の前の奇妙な状況に思わずそのイメージをなくしかける。
「リリス、油断しちゃだめだよ」
 そんなルシファーの言葉で、リリスは我に返った。
 彼女の眼前には、インクロヴィエを手にしたルシファーと、はるか後方セフィロトの樹まで続く直線の裂け目だ。かなりの深さがあり、先ほどまでそこにいた天使たちの姿はなくなっている。
 裂け目が途切れている樹のすぐ近くに、剣を構えるミカエルの姿があった。
 全身に裂傷や擦り傷を負っているが、表情から重症でないことが窺える。
「目を閉じてイメージを高める修行をしてなきゃ、今頃身体が二つに分かれてたとこだな。まったく、あんまりな強さじゃねえかよ」
「流石ミカエルだね。今のセラフィック・クロックワークは、
 さっきエリヤが止めたのより強めにしたというのに」
 直線状に出来た裂け目の上を、ルシファーは羽根をはばたかせて飛んでいく。
 セフィロトの樹を背に、ミカエルは彼を止めるべく神剣を手に低く構えた。
「忌々しい蛇め――」
 いつの間にか、サンダルフォンはルシファーとの距離を詰めている。
 その右腕は細長く伸びて、ルシファーの身体を捕まえようとした。
 手が触れる直前で身を翻し、ルシファーはサンダルフォンの腕を斬りつけた。
「お互いに目的はそう違わないと思うんだけど、悲しいものだね」
「だからこそ、貴様を始末するのだ」
 サンダルフォンの身体が、ルシファーに向かって高速で近づいてくる。 
 そこに、ベルフェゴールが剣を構えて横から刺突しようとした。
 右腕を即座に縮めると、サンダルフォンは瞬時にその攻撃範囲から離れる。
(死角をついたつもりだったが、読まれたか――?)
「ベル、あぶないよ」
「え?」
 直後にベルフェゴールの眼前に、ルシファーの背中が見えた。サンダルフォンを牽制するように、彼は腕を前に突き出して構えている。
「ここは僕に任せて、隊の陣形を立て直してくれ」
「し、しかし――」
「熾天使はツィムツムの外側に在る。まだ、君を失うわけにはいかないんだ」
「……承知した」
 サンダルフォンとミカエルの二人が、ルシファーただ一人にかかずらっている間に、戦況は少しずつ変化を始めていた。
 ルシファーに圧倒された天使と、その力を目にして湧き立つ悪魔。
 じりじりと天使は後退を余儀なくされ、部隊も数が多いため遊兵が出ている。
 対する悪魔は、最初の目論見通りの一点突破を果たしつつあった。
 その状況を理解しながら、サンダルフォンはルシファーに注力せざるを得ない。
「そろそろ、先へ進むとしようか」
 インクロヴィエを振るうと、ルシファーは再びセフィロトの樹へと直進する。
 サンダルフォンがそれを阻もうとするが、ルシファーは前進を止めなかった。
 そこへミカエルが体勢を整えて近づいていく。
 彼がレーヴァテインを振り上げると、突如目の前がまばゆい光に包まれた。
「セラフィック・クロックワーク――」
「う、おおおおおお!」
 三度目。だというのに、誰もそのイメージの正体すら掴めない。 
 その一撃はセフィロトの樹の入り口を拡張するような裂け目を造り出し、
 サンダルフォンとミカエルの二人を樹の内部へと吹き飛ばした。  
「さあ――我が同胞よ! 僕に続け!」
 ルシファーはそう言って樹の奥へと進んでいく。天使たちは、その状況に隊列を乱して浮足立つ。このまま悪魔の部隊を押し返すか、ルシファーを追撃するか。指令を下す者が不在だったからだ。
 ラグエルより早く戻ってきたカマエルも、それを行うには権限がない。
 彼女の帰還に要したわずかな時間が、戦局を大きく左右していた。

 

 目まぐるしく変化する戦況にあって、時間の感覚は実に希薄だ。
 戻ってきたラグエルは、まず命令系統の回復と戦線を圧し戻すことが急務だった。セフィロトの樹近くにあるキャンプへやってくると、待機している通信兵に彼女は言う。
「アドゥス様はどこ? 私が戻ってきたと伝えてちょうだい」
「それが――ミカエル様がやってきて、アドゥス様は前線へ向かわれました」
「なんですって……それで、ミカエル様は?」
「報告によると、セフィロトの樹内部でルシファーと交戦中のようです」
「……わかったわ。どうやら状況は最悪みたいね」
 責任を感じ、ラグエルは額に手を当ててため息をつく。
 必然性があったとはいえ、状況の一端は彼女の行動が作りだしたものだ。
(ミカエル様――か。未だにそう呼ぶことに抵抗がないなんて、私もとんだ馬鹿女ね。見捨てられたって言うのに)
 憎いのかと聞かれれば、彼女はそうだと答えるかもしれない。
 この戦争が始まる前、ミカエルの傍で行ってきた適法でない仕事の資料などを
 公表しようかと思ったこともあった。
 思いとどまった理由は彼女にもよくわからない。自己保身なのかもしれない。
 他には理由らしい理由が浮かばなかった。
 ただ、ミカエルのふてぶてしい笑みが脳裏をよぎる。
(いけないわね。今は悪魔を倒すことだけを考えなくちゃ)
 

Chapter177へ続く