Back

黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter184
「パラダイム・シフト -02-」

   

 セフィロトの樹上層には、外周と内部に分かれた区画が存在する。
 システム・グレートマザーを中核としたフロアで、
 外周にはアルカデイアへ侵攻するための通用口などがあった。
 内外を隔てるのは、幅数十メートルほどの空洞。
 上層の区画を円柱状に分断しており、縦に数百メートルはあると推測される。
 その空洞に、三人の熾天使が膠着状態で睨み合っていた。
 元より熾天使同士の戦いは、長期の消耗戦となり短期で決着が付くことはない。
 互いの実力が拮抗していることに加え、決して致命傷を負わないからだ。
 二体一でその状況に持ちこんでいるという点で、
 ルシファーが突出した存在であるのは疑うべくもない。
 しかし、三者が睨み合い微動だにしないのは他にも理由があった。
「まさかこのような事態が起きうるとはな」
 不気味に口角を釣り上げ、サンダルフォンが声を発する。
 メタトロンがそれに興奮した様子で反応した。
「どうやらこれは福音のようだ。いや、まだ確信には早いか」
「蛇よ。貴様も、アーカーシャとのアクセスが不安定になっているようだな」
 表情を変えないまま、サンダルフォンはルシファーへと鋭い視線を向ける。
 露骨な殺意に満ちた眼差しを気にもとめず、
 ルシファーは余裕に満ちた笑みを浮かべていた。
 それでも高揚する気持ちを抑えきれないのか、
 珍しくその表情は剥き出しのままの感情を伝えているように見える。
「君たち二人と同様に。つまりは、彼らが目的を果たしつつあるということだ」
「鎖が完全に断たれたとき、我々の悲願は成就される。
 神敵である貴様の命も、そのときまでの猶予だ」
 そう言うと、サンダルフォンは警戒を解かぬまま遥か頭上へと視線を向けた。

 

 彼らと同様に、何かの異変を感じ取ったのはラツィエルだ。
 一人、彼はセフィロトの樹を地上へと降りていく。
 ルシファーたちが状況の確定を待つため待機している中で、
 ラツィエルだけが未来を信じ行動を起こしていた。
(魂よ。その業よ。あやつらから全てを奪い、なおワシは希望を胸に抱く。
 償うことなど到底出来ぬのだから、ワシが出来るのは
 あやつらが遠い昔に失くした希望を胸に抱く事だけじゃ)
 苦い顔で笑みを浮かべると、ラツィエルは昇降装置から出て通路を歩きだした。
 その眼前に現れるのは罪の門。何かの示唆を含ませて、彼の通行を見守る。
 ラツィエルは足早に門をくぐると、天使と悪魔の戦場へと足を踏みだした。

 

 足元には、各々の傷から流れ出たであろう多量の血が溜まっている。
 傷口は致命傷となる身体の中心部。
 特に夢姫は胸の中央を貫かれており、間違いなく心臓を損傷していた。
 膝をつき倒れることを拒否した凪だったが、
 突然の事態に混乱するしかない。
 二人に近づく熾天使の姿が、混乱を更に強めていく。
(どうしてアザゼルが、俺と夢姫を……)
 そう心から凪が疑問を抱くほどに、彼は友好的に凪と接してきた。
 確かに熾天使という得体のしれない存在とはいえ、
 今まで凪に害する行動を取ったことはない。
 すぐ近くまでやってきたアザゼルの顔を見て、凪はようやく理解した。
 憐みと蔑みの混じった微笑み。
 即ち、この時のために自分は籠絡されていたのだと。
 彼への言葉を投げかけようと凪が口を開くより早く、
 アザゼルが剣を夢姫の身体へと振り下ろす。
 夢姫は転がるようにそれを回避し、息も絶え絶えに上体を起こして構える。
「はぁ、はぁ――アザゼル、貴様――」
 何かを返答することもなく、無言でアザゼルは剣の切っ先を夢姫へ向けた。
 振り下ろされた刃は、左へ避ける夢姫の左肩をななめに斬り抜ける。
 衝撃で彼女の体は後方へと吹き飛ばされた。
「ま、待って。夢姫は、もう闘う意志はないんだ。だから……」
 彼の後頭部に向かって、凪は必死に叫ぶ。
 それに対し、アザゼルは振り返ることもせずに夢姫へと向かっていく。
 説得や会話はおろか、アザゼルの顔すら振り向かせることが出来ない。
 目的は夢姫の完全な死。それ以外にないという様子だ。
 こうなれば力づくで止める他に方法はない。
 そう考えた時、ようやく凪は自身の異常事態に気付いた。
 傷を負ってから短時間ではあるが、
 ルシードの力による治癒が身体に働いていない。
 夢姫との戦いでは、傷つくのとほぼ同時に作用していたというのに。
 力を使いすぎたことによる限界なのかとも考えるが、
 かつて似た状況になったときと違い、傷以外の変調はない。
 今になって、都合悪くルシードの力が失われたとでもいうのだろうか。
(頼むルシード、力を貸してくれ)
 返答はない。
 過去、呼びかけに何度も答えてくれたルシードの声は、
 どこからも聞こえてこなかった。
 血が流れ過ぎたのか、身体から熱量が失せ寒気が襲ってくる。
 指先が震え始め、凪は死が近づいているのを強く実感した。
 視界のピントがずれ始め、意識がぼんやりとしてくる。
 立ち上がる力もなく、夢姫がまだ無事なのかも解らない。
 そんなとき、不意にルシードの声が聞こえてきた。
「ごくろうさま」
 全身から力が抜けるような感覚に襲われ、びくびくと身体が跳ねる。
 直後、凪は薄れ始めた視界に移ったものを見て驚きの声をあげた。
 そこに意識下の領域で対面したのと同じ、自分の姿があったからだ。
 這いつくばり死の淵にいる凪を、感情のない目で見下ろす自分の姿。
「君の肉体が私を掴む力を弱めてくれたから、こうして外に出ることが出来たよ」
「ルシー……ド?」
「ああ、誤解しないでほしい。私は君に全く恨みはない。
 むしろ感謝している。私はようやく呪縛から逃れようとしているのだから」
 その言葉には、何一つ込められた感情がない。
 感謝の意を述べてはいるが、それも言葉以上の意思を持ってはいなかった。
 ルシードの顔に表情が殆ど見られないことも、それに拍車をかけている。
 状況が掴めず、軽い混乱を覚えながら凪はルシードへ救いを求めた。
「な、なら、傷を治して……もらっていい、かな」
「それは出来ないね」
「……え?」
 ほんの少しも迷う素振りがない返答に、凪は背筋に嫌な汗が伝うのを感じる。
 まるで、彼女は何かとても些細な質問にでも答えるかのような様子だった。
「理由は君もよくわかっているだろう。
 私は全てを平等に愛しているんだよ」
「そん、な」
 ルシードは無表情のまま、踵を返しアザゼルのほうへと歩いていく。
 彼女が歩く姿は優雅で美しく、凪は同じ姿をした別人を見ているようだった。
 何一つ嘘のない言葉。
 優しさも憎しみも何一つ介在しないそれは、
 凪の希望を打ち砕くのに十分な材料として与えられる。

 

 アザゼルの容赦ない攻撃を受けながら、夢姫は少しずつ手傷を増やしていた。
 胸部の損壊、出血等すでに死んでいてもおかしくない状況だ。
 もはや、精神力だけが彼女を突き動かしている。
 限界に近い状態で夢姫が頭に思い描くのは、少し前とは全く逆のものだ。
(私はもう助からない。だったら、せめてなぁ君だけでも助けたい。
 けど、ディアボロスである私には――)
 そのとき、彼女はある一つの方法に思い至る。
 可能性を胸に抱いた瞬間、夢姫は凪の元へ走り始めた。
 桃色の靄がかかった周囲の風景が、くるりとターンする。
 彼女が見据える先には、うつぶせで倒れ込んだ凪の姿があった。
 全てを捨てても彼を助けることが出来るならば、それで構わない。
 迷いなくそう考え走り出したつもりだが、
 一歩ごとに彼女の足を思考が絡め取ろうとする。
 死にたくないという思い。本当に自分が犠牲になる必要があるのだろうか。
 別の方法があるのではないだろうか、という思考の広がり。
 凪へと足を一歩踏み出す。
 知識は彼女の心に様々な言葉を投げかける。
 このまま自分が死ねば、凪は紅音と結ばれるだけではないのか。
 地面を強く踏みしめ、跳躍するように走る。
 自分はただの歯車として、凪の人生を埋める欠片の一つとして
 忘れられていくだけではないのか。
 もつれそうになる足を懸命に動かす。
 あれだけ紅音を憎み、二人を憎んだのに、
 彼らを手助けする役割に甘んじるのは愚かではないのか。
 矛盾する思考、行動だ。理屈に合わない。
 思考は彼女の心に錨を下ろし、歩を止めようとする。
 背後からは、アザゼルが剣を構え追いかけて来ていた。
(昔の私なら――きっとなにも迷わなかったんだろうなあ。
 でも、迷うからこそ答えを出すことが出来る。
 正しさも間違いもない、色のない世界を懐かしんでも仕方ない)
 そんな考えに至った瞬間、不意に夢姫の目の前を何かが走り去っていく。
 在りし日の幼い自身の姿だ。彼女は倒れている凪の傍で手招きする。
 臨死に際して、幻影を見ているのだろうか。
 つまらなそうな顔で、幼い少女は夢姫のことを見つめていた。
 決別か、或いは統合なのか。凪の傍で二つの影は重なる。

 

 眼を開けたままで、凪の意識は階段を下りるような感覚に襲われていた。
 一段一段下りる度に死が近づき、何かが徐々に抜け出ていく。
 過去に幾度となく死を覚悟したことはあった。
 恐れ、諦め、後悔、様々な感情が凪の胸をよぎっては通り過ぎる。
 意思とは関わりなく、終わりの時はすぐそこまで近づいていた。
 驚くほど冷たくなった彼の手を、誰かの両手が強く握りしめる。
 呟くような声が聞こえるが、何を言っているのかを認識することが出来ない。
 何かとても悲しい言葉。理解しなくてはいけない言葉。
 意識を振り絞り、凪はぼやけた視界の中に移る夢姫の顔を見つけた。
 ほんの一瞬にも満たない出来事だった。
 夢姫の身体は輝きを放ち、先端から粒子となって消滅していく。
 粒子は凪へと流れ、やがて目の前の少女は跡形もなく消失した。
 状況を理解できない凪に、夢姫の言葉が聞こえてくる。
「私はディアボロスの力しかないから、何かを壊すことしかできない。
 だけど、なぁ君の身体にはルシードの残滓が残ってる」
「な、にを」
 存在を破壊した際に生まれた膨大なエネルギーは、
 イメージの粒子となって大気中を漂っていた。
 ディアボロスがそれに指向性を持たせ、凪の元へと誘導する。
 凪は急速に活力を取り戻していく自分の身体に困惑していた。
 驚いているのは凪だけではない。
 夢姫を仕留めようと背後を追っていたアザゼルも、
 あと一歩のところで彼女が取った意外な行動に驚きを隠せなかった。
「――そうか。こういうことも起きうるんだね」
 表情には出さないが、アザゼルの動揺は動きを止めたことから見て取れる。
 近くで様子を見ていたルシードも、珍しげに凪を見ていた。
 凪はすぐに立ち上がることが出来るほどに回復し、
 まるで夢姫を探すように辺りを見回す。
「夢姫は――俺を助けるために――」
 剣で貫かれた胸の傷口は、跡がわからないほど綺麗に塞がっていた。
 胸を押さえると、凪はアザゼルのほうを睨みつける。
 心の奥がざわつく。強い感情の波が、制御できないほどに高ぶりを見せる。
「初めてだ。こんなに、誰かを憎いと思ったのは」
 拳を握りしめ、アザゼルに向かって一歩を踏み出した。
「僕を憎む気持ちは解る。憎まれても仕方ないことをしたよ。
 でも、君だって彼女を殺そうとしていたじゃないか」
「確かに、俺は夢姫を殺そうとした」
 アザゼルの言葉に頷く凪は、表情を変えず更に一歩を踏み出す。
「それを代行した僕に、君は気が変わったといって憎しみをぶつけるのかい?」
「――理不尽かもしれないな」
「君にとって、僕は殺したいくらい憎いかもしれないけど、
 よく考えてほしいんだ。もう争う必要なんてない。
 僕の目的は果たされたし、これ以上闘う意志もない。
 何より、ただのヒトに過ぎない君が僕と争うのは――現実的じゃないよ」
 努めてアザゼルは優しく、状況を話し凪をなだめようとする。
 普段ならば凪を殺してしまうところだが、
 今は大きく状況を変化させる行動は避けたかった。
 決して驕った様子を見せず、平常かつ客観的にアザゼルは言葉を選ぶ。
 だが、そういった行動の全ては、
 凪の奥底にある激情を引き出す一因でしかなかった。
「だから――なんだっていうんだよ!」
 拳を固く握りしめると、凪はアザゼルの顔面へ向けて振りかぶった。
 直前まで余裕を持って接していたアザゼルだが、その瞬間顔色が変わる。
「ぐっ――!?」
 彼は殴打されて、転がりながら何メートルも後方へ吹き飛んでいった。

 

Chapter184
パラダイム・シフト -02-
<La jeune fille et la mort>

Chapter185へ続く

 

 アバウトに次回予告なのです。