Back

黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter186
「パラダイム・シフト -04-」

   

 エリュシオンに存在する草原地帯で、凪とアザゼルは瞬間の膠着状態にあった。
 アザゼルが作り出した鏡面に映るものが真実なのか。
 飛び込めばその場に移動できると彼は語る。
 その真偽を確かめるために思考できる時間は少ない。
 凪は足に力を込め、今にも走り出そうと考えていた。
(可能性はいくつもある。だけど、畜生……もし全てが本当だとして、
 見殺しにするくらいなら、俺は――)
 そのとき、目の前に映るものが僅かな変化を見せ始める。



 終わりの時を間近に、一対の終末の獣が相対していた。
 ルシエとフィスティア。
 二頭の獣の勝敗は今、決しようとしている。
 近づくルシエの姿を前にして、心の中で紅音がリヴィーアサンに言う。
 諦めてはいけない、と。
 しかし、もはやリヴィーアサンには解っていた。
 この状況から勝利の目はありえないことが。
(紅音、貴方の意思が私に勇気を与えてくれた。
 でも無理よ。どうにもならない)
 自らの思考を完全に看破されていたという事実。
 ルシエに対する敗北感が、強くリヴィーアサンの心を支配している。
 更に奮起の言葉をかける紅音に、諦念を込めて彼女は言った。
(貴方にはわからないわ。心の中で応援しているだけの貴方には)
 言い過ぎたと思いながらも、今は心を壁で塞ぐ余裕はない。
 思慮のある物言いをする事もできないほど、状況は切迫していた。
 脱力したまま終わりを迎えようとするリヴィーアサン。
 目を閉じようとした時、ふとした違和感を感じる。
 身体の主導権が、自分から無くなっていることに気づいた。
(まさか紅音、貴方――)
 拳と唇をぎゅっと締め、紅音は少しでもルシエから離れようとする。
 少しだけ意外そうに彼はその様子を眺めた。
「まァだ諦めねェのか? お前はもうちょっと賢いと思ったがな。
 生き汚え姿を晒してまで執着する何かが、今のお前にあるのか?」
「わたしは、ぜったいに諦めない。凪ちゃんともう一度会うんだ。
 どんな辛くても、苦しくても、
 二度と凪ちゃんと会えないなんて――そんなの嫌だから」
 ルシエに聞こえないような小さい声で、紅音はそうつぶやく。
 彼女の意思は、リヴィーアサンにとって理解の範疇を超えていた。
 今まで頼もしく思えたものが、不気味なものと感じられるほどに。
(状況が理解できていないわけじゃない。
 私が感じるのと同じように、紅音も可能性のなさを理解している。
 ただ考えなしにあがこうとしているだけ?)
 死なない程度に力を込め、ルシエは拳を振りかぶる。
 後ずさりしながら、紅音は緊張と恐怖からか手に力を込めた。
「たしかに……わたしは、あなたに比べて何もわかってない。
 実際に戦うのもあなただし、わたしはただ見ているだけ。
 だから、きっとこれも無駄なことなのかもしれない。
 確証なんてなにもないから。だけど、わたしは信じてる。
 凪ちゃんとわたしがもう一度会えること、それから――」
 言葉の途中、突然ルシエの動きが停止する。
 彼はなぜか喉元を抑え苦しみ始めた。
「ぐっ……が……!」
 リヴィーアサンも紅音も、状況が掴めず困惑するしかない。
 すると、不意に近くの窓から少女が室内へと入ってきた。
 少女は即座にルシエと紅音との間に、
 水で出来た不透明の膜を展開する。
「まったく、私抜きで決戦なんて洒落たことするのはずるいの。
 リヴィ様も意地悪なの」
「カシスさん――どうしてここに――!」
「……紅音のほうか。まあ良いの。
 悠長に話してる時間はないから、ひとまずここから逃げるの」
「うん!」
 紅音が頷くと、カシスは床と天井に水のイメージで円状の穴を開ける。
 ほぼ同時にルシエが大きな咆哮とともに、
 喉に絡みついていた水のイメージを弾き飛ばした。
 開けた視界の先、すでに二人の姿はなく静寂が広がっている。
「雑魚がくだらねえ小技を使いやがって……!」
 詰めの段階で邪魔に入られたことに、ルシエは強い怒りを覚える。
 片手で目の前の水の膜を吹き飛ばすと、更に苛立った表情を見せた。
(逃げた方向を悟らせないように小細工をしやがったな。
 水の膜は防御ではなく目眩ましのためか。頭を使うじゃねえか。
 だが、雑魚が一人増えたところで実力差は埋まらねェ。
 大方不意打ちを狙うつもりだろうが――)
 ルシエはイメージを滾らせた拳で近くの壁を思い切り叩く。
 衝撃は一点に集約され、打点を中心に壁は粉々に崩れた。



 ほんのわずかな間に起きたその出来事が、
 凪の心に余裕を生み一つの可能性に思い至らせる。
 それと同時、彼はこぶし大の石をイメージし高速で投擲した。
 紅音が映る鏡面へ向かって放たれたそれは、
 衝突の瞬間に光を放ち消滅する。
「そういうことか……アザゼル!」
「誤解しているようだね。石は無事向こう側へ通過したよ。
 だが君が僕を疑い如月紅音を見捨てると言うなら、
 その選択を僕は尊重することにしよう」
 アザゼルは表情を変えずそう言うと、鏡面のイメージを消し去った。
 目の前で起きた事実は、アザゼルが凪を騙そうとしたことを示唆している。
 言葉に従い鏡面へと走り接触すれば、
 石と同じように凪の身体は消滅していただろう。
 直前まで戦っていた相手が提案したのだ。当然の結果と言える。
 助けるか見捨てるか、という二択に狭めた
 アザゼルの言葉に凪は踊らされかけていた。
(紅音と俺の関係を知っていて、それを利用したんだ。
 アザゼルはそこまで……ってことは――)
 思考はめぐり、ある一つの答えを導き出した。
 背筋に寒いものが走るのを感じる。
「紫齊のことも……アザゼル、お前が仕組んだことなのか」
 何者かに悪魔へと変貌させられ、凪と敵対した紫齊。
 考えてみれば、あのときアザゼルの存在はあまりに不自然だった。
 拳をぐっと握りしめ、凪はどれだけ自分が踊らされていたのかを理解し始める。
 怒りを込めて凪はアザゼルへと叫んだ。
「なんでこんな……何がしたいんだお前は!」
「何がしたい……か。僕はただ、僕たちの自由を手にしたいだけだよ。
 君が望むのと同じようにね。そして、すべてはそのための――」
 彼が言い終えるよりも早く、凪は怒りを露わにして飛びかかっていく。
 恐らくはどんな理屈が放たれたとして、納得することはないだろう。
 矛盾する言動が、嵐が渦巻くような凪の心情を窺わせた。
 距離を取ろうと後退するアザゼルに、追撃のイメージを掌から放つ。
 回避不能のワンセコンド・ドラコニアンタイム。
 それが戦いの終わりでないことを凪は理解しており、覚悟もしている。
 アザゼルは防御のイメージを展開せず、反撃のイメージを固め始めた。
 直後、彼の身体は無数の肉片とかし、地面へとばら撒かれる。
 だが先ほどと同じく、アザゼルの身体は何事もなかったかのように再生された。
 その手に握られていたエンデュロスが、イメージの胎動とともに空へと舞い上がる。
「二人目。君が殺した命の数だ。どうやら、ディアボロスとしての意識が大分強くなってきたみたいだね。
 もう躊躇せず人間も殺せるんじゃないかい?」
「黙れ!」
 神剣エンデュロスへの意識を反らすようなアザゼルの言葉。
 惑わされることはなく、凪は神剣から注意を背けはしない。
 それも想定内なのか、アザゼルは淀みなくイメージを具体化させた。
 エンデュロスを中心に黒い霧が発生し、辺りを包み始める。
「エボニー・ティアーズ――」
 色といい拡散する霧という形を取っていることといい、
 毒かなにかを含んでいると考えるのが妥当。
 不穏な気配を察知し、凪は即座に神剣から距離を取った。
 黒い霧は空を覆い一体を暗闇で包み始める。
 そのまま霧はアザゼルを飲み込み、
 ある程度の大きさまで膨れ上がると膨張を止めた。
 様子を見るべきかと逡巡し、すぐに凪はその考えを打ち消す。
 右掌にイメージを集中させると、思い切り振りかぶった。
「消し飛ばしてやるよ!」
 団扇の要領で凪が右腕を振り抜くと、
 黒い霧は強風によって散っていく。
 だが、そこにアザゼルの姿はなかった。
 いつの間にか上空へと移動し、凪へめがけて神剣を振りかぶる。
 高速で飛んできたエンデュロスは、凪の左肩をかすめた。
(大したキズじゃない。目くらましで視覚外からの攻撃。
 苦し紛れのものでしかないのは明らかだ)
 滞空するアザゼルを視認すると、すぐに凪はイメージを固める。
 直後、あっけないほど簡単にアザゼルの身体は細切れになった。
「これで三人目、残りは四回、だ」
 瞬時に再生したアザゼルに凪はそう告げる。
 もはや、攻撃へのためらいはどこにもなかった。
 追い詰められているはずのアザゼルだが、
 彼の表情は余裕を残したままで微笑んでいる。
「三人か。それで済むのなら、安いものだよ」
「なんだと――?」
 そのとき、ルシードから放たれた光が凪の身体を包みこむ。
 アザゼルへの怒りで、彼女への警戒が薄れた一瞬を狙った行動だ。
 しかし、その可能性を凪が考えていなかったわけではない。
 たとえ隙をつかれたとしても、
 ルシードの存在が脅威になるとは考えていなかったのだ。
 彼女の身体から放たれたのは緑、赤、青、そして見覚えのない黄色。
 色彩を混えた光が凪の視界を遮るように迸っていく。
「浄化し、創生し、聖誕し、最後に来たるのは祝福。
 祝福の光、クローム・イエロー」
 混交した四種の光は、凪の手足に枷のような光の輪を具現し始めた。
 同時に身体が重みを訴えはじめ、頭の働きが鈍くなっていく感覚に囚われる。
「なんだこの……感覚、は」
「汝の身体は祝福された。クローム・イエローによって、すべては調和する。
 これこそ私の力が至る最終形、ヴォークランだ」
 ルシードは呪文のように言葉を発し、凪へとそれを投げかけた。
 かつて、凪が引き出したことのない力であり、
 未体験のそれがどのような意味を持つのか探ろうとする。
 単純に考えれば、それは凪の肉体と精神への干渉だ。
 想像力への強い抑制も感じられる。
(……イメージが上手く具体化出来ない。
 半分くらい出力制限を受けてる感じか)
 先程までの状況と一転し、ルシードとアザゼルを相手に
 半分ほどの力しか出せないのでは非常に不利だ。
 それなのに、凪は口元がほころぶのを抑えられない。
 夢姫への罪悪感からの自罰感情か。
 あるいは実力差からくる一方的な暴力への違和感からか。
 答えは出ないが、凪は不思議と状況にしっくりと馴染むものを感じていた。
(そうさ、何が起ころうとやることに変わりはない。
 俺は夢姫を手に掛けたアザゼルを殺し、ルシードも殺す)



 ルシエの脅威を凌いだリヴィーアサンたちは、
 二階にある診察室の一つに息を殺して潜んでいた。
 ゆっくりと深呼吸をすると、カシスは目を閉じて集中する。
「ふう……実際に見るのは初めてだけど、
 あれがルシエなんだね、リヴィ様」
「ええ。それにしても奴を出し抜くなんて、やるじゃない」
「ふふん、なの。ちょっと今日は頭が冴えてるの」
 胸を張ってカシスはそう言った。
 普段なら冗談と受け取るところだったが、
 行動と結果を考えればその程度の言葉は許されるだろう。
 そう考えリヴィーアサンは微笑んでうなずいた。
 するとカシスは不意に真剣な顔で、彼女のことを見つめる。
「リヴィ様。どうしてルシエと戦うこと、私に教えてくれなかったの?」
「それは……もし話せば、貴方は私を最優先にするでしょう」
「当たり前だよ……! だって、リヴィ様が命をかけた戦いなんだよ?
 もし間に合わなかったら、クランベリーとクリアになんていえばいいの」



 二人の言葉が指し示すところを理解するには、
 しばらく前の時間に遡る必要がある。
 それはルシエとリヴィーアサンの戦いが始まる数時間前。
 リヴィーアサンと紅音は、維月が夢見によって得た情報によって、
 今日何が起こるかを概ね理解していた。
 紅音の死、凪の死、加えてもう一つ朧気な未来が見えている。
 自室に呼び出したカシスに、リヴィーアサンはその話を告げた。
「維月は今日、ルージュが言うところの神が差し向けた刺客に殺される」
「え? ど、どういうことなの」
「彼女が持つ特殊な能力が、よほど神とやらは気に入らないんでしょうね。
 今朝、様子のおかしかった維月を問い詰めたら話してくれたわ」
 本来なら戦力になるはずだったカシスを維月の護衛に残すことは、
 リヴィーアサンとしては取りたくない選択肢だ。
 しかし、彼女を見捨てることを紅音は許さない。
 それにリヴィーアサンとしても、維月には情報提供という義理がある。
 つくづく、運命が自らの死を望んでいると考えざるを得なかった。
「維月の話だと敵は複数、今日の夜に現れるそうよ」
「わかったの。じゃあ維月の部屋にこれから行こう、リヴィ様」
 彼女の言葉にリヴィーアサンは表情を変えずに答える。
「いえ、私は少しやることがある。だから貴方に
 彼女の護衛を頼みたいのよ」
「……うん。リヴィ様がそういうなら、そうするの」
 カシスはそう言って、一人維月の部屋へと歩いていく。
 彼女の部屋へとやってきた彼女は、ノックせずにドアを開けて入った。
「お邪魔するの」
「えっ……わあ……!?」
 のんびりとテレビを見ていたらしい維月は、
 唐突な訪問者に声を上げて驚く。
「この私があんたを守ってやるから、安心してそうやってるの」
「は、はあ……?」
 端的かつ説明不足なカシスの言葉。
 そこからなんとか紅音との会話を思い出し、
 維月は彼女が護衛としてやってきたであろうことを理解する。
 勝手にベッドの端に座ると、カシスはそのまま寝転がった。
 傍若無人な態度に困惑する維月だが、紅音との約束を思い出し
 うかつなことを言わないように口をつぐむ。
 カシスに、ルシエとリヴィーアサンの対決に関する話をしないこと。
 自己保身のようでいたたまれないが、
 紅音がそれを望むならと維月はそれを了承した。
 そうやって、ろくな会話もないままに時間は過ぎていく。



 数時間が過ぎた頃、カシスはベッドからがばっと起き上がった。
「何か妙なイメージの脈動を感じるの」
「え? イメージ?」
 机で本を読んでいた維月が、不思議そうに声を上げる。
 カシスの様子から、彼女は不穏なものを察知すると身構えた。
「維月、あんたは私から離れないようにするの。
 敵は恐らく十前後……か」
 直後――維月の部屋にある窓を割って侵入してくる黒い影。
 よく実態の見えないそれに対し、
 カシスは有無を言わさず固めていた水のイメージを放つ。
 カウンター気味に、大砲のような水の放射がそれに直撃した。
 割った窓から、それはそのまま外へと弾き飛ばされていく。
(やはり妙なの。イメージが膨らみも萎みもしていない)
 遠目から視認できたその姿は、ぼんやりと光る黒い犬だった。
 さほど大きなサイズではないが、犬は俊敏な動きで視界外へと移動する。
 水のイメージによる一撃は、まるで堪えていない様子だった。
(犬自体から感じるイメージ――恐らく任意具現の類。
 けど、それにしては耐久力があまりに高い。
 何か特殊なプログラムが組まれていると見るべきか――)
 息をふっと吐き出すと、カシスは笑みを浮かべた。
「ふっふん、丁度色々と実験したいことがあったところなの。
 犬ころども、このカシス様に手向かったことを後悔しろ」

Chapter187へ続く

 

 アバウトに次回予告なのです。