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黒の陽炎

著作 早坂由紀夫

「凪の夏休み」


*1*

 夏真っ盛り。
 俺は自分の家柄に少し感謝していた。
 華道、茶道。
 一生役に立たないもんだと思っていたが、
 まさか着物を着付ける日が来るとは思わなかった。
 母親はあの時からこの事態を見越してたのか?
 それはともかく、紅音とお互いで半襦袢を着て着物を着付ける。
 半襦袢というのは簡単に言うと着物の中に着るものだ。
 そして着付けを始めるのだが、
 なぜか俺より紅音の方が上手い。
 俺は一応英才教育を受けてるはずなんだが・・・。
 やっぱり男だって事だろうな。
 なんとなく嬉しい様な、悔しい様な感じだ。
「紅音って凄く着物の着付け上手いね」
「そんな事無いよぉ〜。
 元が凪ちゃんだから綺麗に見えるんだよっ」
 そう言って着物の裾に触れる紅音。
 紅音はセミロングの髪を二つに縛ってる。
 んで俺は髪を一つに結わいてる。
 外に出る為に草履を履くと自然と向きが内股になっていた。
 廊下に出て歩き出すと隣の紅音のうなじが気になる。
 二つに縛ってるせいでうなじがよく見えるのだ。
 着物と相まって滅茶苦茶可愛らしい。
 8月も半ば。
 なぜ俺達が着物なんか着ているかというと、
 近くの街でお祭りがあるという話を聞いたからだ。
 紫齊が情報を聞きつけて紅音の耳に入る。
 そうなると、もう行く事が決定するのだ。
 それにしても着物なんて着なくても良いのに・・・。
 俺の意見は紅音の涙目に遮られていた。
 半泣きで、「着物姿見たい〜」とか言われると断れん。
「はぁ〜・・・わたあめ、わたあめ」
「紅音、食べ過ぎない様にね」
「大丈夫だよ〜。わたあめとね、やきそばとね、
 ラムネとね、後・・・わたあめとね、金魚っ」
「・・・き、金魚?」
 そんなものを食べているのか?
 紅音は自分の間違いに慌てて言い直す。
「金魚は掬うんだった〜・・・わたし、食べたりしないよっ」
 当たり前だ。
 紅音が掬った金魚を食べ始めたら怖い。
 そんな会話をしながら学園の校門まで歩いていった。
 そこにはすでに紫齊達が立っている。
「遅いなぁ〜。着物の着付けに時間かけすぎだよ」
 紫齊はうちわを仰ぎながら外に歩き出した。
 俺と紅音も少し走って皆に追いつく。
 すると真白ちゃんが驚いた様に俺達を見た。
「やっぱり凪さんって何着ても似合うんですね〜」
「ありがと、真白ちゃん」
 俺達はしばらく夕日が照らす中を駅まで歩いていく。
 夏のなま暖かい風がそっと髪を揺らしていた。

*2*

 学園近くの駅から数駅。
 着いた街の駅前は凄いにぎわいを見せていた。
 テキ屋の人達がたこ焼きとかを売ったりしてる。
 値段は高いがお祭り価格という事で無言の了解があった。
 紅音なんかは早速目を輝かせて辺りを見ている。
「・・・わぁ〜〜っ。何食べよっかな〜」
 真白ちゃんや葉月も雰囲気に浸っている様だった。
 そんな中で紫齊だけはそわそわしてる。
「どしたの?」
「中学の友達も一緒に見に行くって話でさ。
 関西弁の変な奴なんだけど・・・ちょっと探してくる」
 そう言うなり紫齊はどこかへと走り出してしまう。
 はぐれたらどうする気なんだ?
 ・・・携帯電話があるから大丈夫か。
 というわけで俺達は遠くの明かりの方へと歩いていく。
 少しずつ坂になっていて両脇には色んな店があった。
 辺りは柔らかな光で和やかさを演出している。
「凪ちゃん、あれ何かなっ?」
 紅音が指差す先には妙な店があった。
 チャーイ。一杯百円、激安。
 飲み物の様だけど甘そうだ。
「もっと普通のにしない?」
「・・・えぇ〜、だってカルカッタ人民愛飲だよ?」
 紅音はそんな風に店頭の張り紙を見て言う。
 どこの人が飲んでようと関係ない。
 だがすでに紅音はチャーイを買っていた。
 口をつけて満面の笑みを浮かべている。
「甘くて美味しいよ。凪ちゃんもひとくち〜」
 半ば無理矢理飲まされた。
 まずくは無かったのが救いだが・・・甘い。
 急にすっきりした飲み物が飲みたくなってきた。
 しかし周りにはトロピカルジュースとか、
 日本国外の甘そうな品が場所を取っている。
 祭りって日本の伝統行事じゃないのか?
「あぁ〜かき氷だぁ〜っ」
 チャーイを飲みほすと次はかき氷に走る紅音。
 すでに真白ちゃん達の姿は見えない。
 ・・・つまりはぐれたわけだ。
 祭りに来てまで紅音のお守りかよ・・・。
 言い方を変えればデート?
 や、それは違うよな。
 ただいつもより紅音の笑顔が眩しく見える。
 一緒にいるとなんか楽しい。
 やっぱりデート?
「そこのお壌さ〜んっ」
 なんか妙な声が聞こえて振り向いてみた。
 すると髪の短い女の子が歩いてくる。
「近くで見るとめっちゃ綺麗やわ〜。
 は〜・・・やっぱウチの美女レンズは曇ってないな」
 関西弁だ。
 しかも微妙な関西弁。
「あの、大阪の人?」
「心は関西、生まれ育ちは関東。
 名前は嵯峨夏芽(さがなつめ)。夏芽と呼んで〜な」
 要は偽関西人らしい。
 そこにかき氷を持った紅音が歩いてきた。
「ま〜た可愛い子見つけたわ。二人とも、名前教えてや〜」
 そんな感じで自己紹介すると、
 いきなり夏芽は紅音の胸を触ろうとしてくる。
 紅音は危なく俺の後ろに隠れた。
「な、なにしようとしたんですかぁ〜」
「ええやん胸の一つや二つ。減るモンでもなし」
 俺はさっきの紫齊の言葉を思い出した。
 中学の友達で関西弁の変な奴。
「もしかして夏芽って、紫齊の知り合い?」
「紫齊? な〜んや紫齊の友達やったんか」
 少しがっかりして肩を落とす夏芽。
 オーバーリアクションなのは関西のノリだからか?
「紫齊の友達なら手は出せへんなぁ〜」
「・・・手を、出す?」
 なんか妙な予感がしてきた。
「でも凪、やったな。あんたは諦めへんで。
 やっぱり絶世の美女を逃したら名がすたるやんか〜」
 そう言いながら夏芽は両手をにぎにぎしている。
 色んな意味で危険な奴だ。
 俺と紅音は警戒しながら流れに沿って歩く。
 無論、夏芽もついてきていた。
「凪ぃ〜後で良い場所行かへん? 価値観変わるで〜」
「いいってば・・・」
 変とかのレベルじゃない。
 危ない人だよ、今の台詞は・・・。
 少し先へと進むと神社みたいな場所へとたどり着いた。
 どうやらこの神社が祭りの終点みたいだ。
 そこでは鉢巻きを巻いた人が太鼓を叩いている。
 曲は炭坑節。
 ちょうど夜空に月が見え始めた頃だった。

*3*

 空気がほんのりと涼しい。
 昔から祭りは凄く好きだった。
 ゆり姉ちゃんと一緒によく祭りに行ったっけな。
 この歳で昔を懐かしむのもアレだけど。
「花火は上がらないのかな〜」
 ・・・紅音は祭りの趣旨を間違えている。
 大体、花火大会って川辺でやるんじゃないか?
 どちらかといえばここは山だ。
「ひゃっ!?」
 俺は下半身後ろ側、つまりお尻に違和感を感じた。
 なんだかさすられてる様な感覚。
 背後を見てみると夏芽ちゃんが立っている。
 しかも満面の笑顔で。
「・・・あのねえ、それは犯罪ですよ」
「ええやん、美尻は天下の回りモノやで」
「そんな事は言いません・・・」
 まったく罪悪感が無さそうな笑顔。
 俺はその手を払うと少し距離を取った。
 下手して前を触られたら男だってバレる。
 でも、夏芽は俺を女だと思ってるんだ。
 もしそんなコトしてきたら・・・
 こいつはそういう気なんだろうな。
 恥女にも程がある。
 気付くと紅音の背後にも回り込んでいた。
 俺が止めるより早く、紅音を後ろから抱き竦める。
「きゃあっ!」
 しかも胸を下から計る様に揉みしだいていた。
 紅音は飛ぶ様な速さで俺の方に逃げてくる。
「凪ちゃ〜んっ! あの人に襲われたぁ〜」
「お〜お〜めんこいなぁ〜」
 もう関西というよりただのおっさんだ。
 こういう子は引くと押してくるんだよなぁ・・・。
 そこに救世主・紫齊が夏芽の背後に忍び寄る。
 紫齊は背後から夏芽の首根っこを捕まえて、
 強烈なヘッドロックをかけた。
「あいたたっ! し、紫齊やな・・・痛いわっ」
「あんたはまたレズっ気だしやがってっ。
 凪達に私の性格が疑われるだろぉっ!」
 きりきりと夏芽の頭を締める。
 だがどこか彼女は嬉しそうな顔をしていた。
「う〜ん紫齊、胸大きくなったなぁ〜」
「・・・きしょく悪いっ!」
 一層紫齊が強くヘッドロックをかけると、
 夏芽は余裕が無くなったのかギブアップする。
 まるで二人は漫才コンビの様だった。
「ったく・・・相変わらずだね、夏芽」
「そっちは男っぽくなってもうたなぁ。
 残念や、ウチは悲しいで・・・」
「一言余計だよっ。誰が男っぽくなったって?」
「や、まあ気にせんといてや」
 そこで俺と紅音が呆気にとられている事に気付いたのか、
 紫齊が気まずく笑いながら夏芽を叩いていた。
「ごめんね、なんか変な奴でさ」
「紫齊が謝らなくても良いって。
 それに面白い人だよ・・・ね、紅音」
「・・・うん。胸触られたけど」
 それを聞くと紫齊はまた気まずそうに夏芽を叩く。
「し、紫齊・・・ウチの頭はゴングやないでぇ・・・。
 そないに叩かんといてや〜」
 結構痛そうにそんな事を言う夏芽。
「ん〜、ボケに対するツッコミだよ」
 紫齊はそう言って誤魔化す様に笑った。
 そんな風に話していると、真白ちゃん達が歩いてくる。
 夏芽を押さえるのに紫齊は手一杯みたいだった。
 真白ちゃん達も夏芽には苦笑いを浮かべる。
 ・・・う〜ん、嫌な奴ってワケじゃないんだけどな。
 そう、女友達なら凄く良い子だと思う。
 友達以上の関係を求めてこなければ・・・。
「せめて凪と〜、凪と添い寝させてや〜」
「あんたは添い寝じゃすまさないだろっ」
 そんな風に言い合う紫齊と夏芽。
 俺は紫齊の新しい一面を知った気がした。
 いつもよりずっと気の強い一面。
 少しだけ普段よりも紫齊が可愛く見える。
 なんていうか・・・生き生きしていた。
 中学時代は暗かったなんて言ってたけど、
 こんな友達がいて暗いはずないよな。
 ふと、夏芽は紫齊の親友なんだろうと思った。

*4*

 金魚すくい。
 紅音は金魚を持ち帰ろうとはしなかった。
 昔からペットとかは飼わないらしい。
 死んでしまうと悲しいから、だそうだ。
 実に紅音らしい。
 わたあめも凄くゆっくりと食べていた。
 一時に食べるのが勿体ないらしい。
 それも少し紅音らしい。
 皆で祭りを楽しみながら、俺はふと思った。
 こんな時が少しでも長く続けばいい、と。
 今は望めば手に入る幸せな時間。
 いつまで・・・この瞬間が続いてくれるのだろうか。
 高校一年も後半に差し掛かっていた。
 5人で過ごす時。
 きっと、来年も同じに5人で居られるよな。
 まあ今は6人だけど。
 紅音がいて、真白ちゃんがいて、紫齊がいて、
 葉月がいて・・・ついでに夏芽もいて。
 こういうのがずっと続くと・・・いいよな。
 帰りの電車を待ちながらそう思った。
 と、俺達に夏芽が言う。
「じゃウチは向こうやから」
「そっか。またね、夏芽」
「また会おうな凪・・・ああ、めっちゃ悲しいわ〜」
 妙に好かれてしまったみたいだが、
 名残惜しそうにしながらも夏芽は歩いていった。
 その後で紫齊は言う。
「変な奴だっただろ?
 でも、良い奴なんだ・・・凄く、良い奴」
「・・・うん。なんとなく解るよ」
 そうして電車に乗り込むと皆、口数が少なくなる。
 夏休みは祭りの後から急速に終わりへと近づく。
 そんな時間の流れを噛みしめてるんだと思った。
 真白ちゃんも俺の方を静かに見つめている。
 そして席に座る俺にそっと呟く様に話しかける。
「なんか不思議な気持ちになりますよね、祭りの後って」
 そう真白ちゃんは微笑んで車窓を眺めた。
 車窓の向こう側は夜の闇に包まれている。
 どこかを見つめる真白ちゃんは寂しそうにも見えた。
「そう思えるのって、きっと良い事だと思うよ」
「・・・そうですよね」
 そう言って真白ちゃんはにこっと笑う。
 どこかその笑顔は印象的に映った。
「お祭りって・・・」
 ふとそんな風に葉月がしゃべり始める。
「お祭りって多くの人達が触れ合う所ですよね。
 だから帰る時、少し寂しくなるんだと思います。
 だから少しだけ、心が温かくなるんだと思います」
 葉月は胸に手を当ててそう言った。
 きっと今年の祭りがこんなに楽しかったのも、
 こんなに心が温かくなったのも皆がいたからだと思う。
 今までで一番不思議な夏休みは、一番大切な夏休みになった。
 隣で俺に寄りかかってすやすやと寝ている紅音。
 その寝顔を見ている内は、この時間は続く気がした。
 心地よい電車の規則的な音。少し疲れた身体。
 それらは全て安らかな一時の欠片達。
 叙情的な夏の一日は、そうやって終わりを告げていった。