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黒の陽炎

著作 早坂由紀夫

「凪のバレンタイン-地獄変-」



 2010年2月14日。
 俗に言うバレンタインと言うエックス・デイ。
 男なら誰もが少しは憧れ、少し世の中を諦める日だ。
 本命なんて貰う奴は本当に居るのだろうか。
 俺は毎年凄く貰ってそうなイメージで、実際貰ってる。
 だが……全てが悲しいまでに義理。
 去年なんてあげる立場になるという悪夢が待っていた。
 確かに真白ちゃんや深織からは気合入ったのを頂いたが、
 どっちも妙に喉を通りにくかったのを覚えている。
 なんていうか、片や頑張って作った手作りチョコだ。
 で、もう片方は職人に作らせたような凄いやつだった。
 今日と言う日が日曜日なのがせめてもの救いか。
 念のために義理チョコを買ってはいた。
 日頃からお世話になってる人への分と、
 しつこそうな奴らにばら撒く分だ。
 ベッドから起き上がると俺はカシスを起こそうとする。
「あれ?」
 不思議な事にカシスのベッドはもぬけの殻だった。
 珍しく早起きしたらしい。
 ん? 考えてみれば俺とカシスって付き合ってるんだよな。
 とすると……もしかして、今年は……本命を貰えるのか?
 問題があるとすればカシスの性格だ。
 あいつはチョコを作るようなタイプじゃない。
 俺は買ってきたチョコでも嬉しいけど、
 変なところで見栄っ張りな奴だからな。
 普通のチョコでカシスは満足するだろうか。
 そんなことを考えていると、不意にチャイムが鳴らされた。
「凪さ〜ん、ちょっと散歩しませんか〜?」


 真白ちゃんに誘われて俺はエントランスへと散歩にやってくる。
 隣を歩く真白ちゃんは緊張しているのが一目でわかった。
 チョコを俺に渡そうとしているんだろう。
 にしても考えが思いっきり顔に出る子だよなあ。
「えっと……あ、あの……これ、どうぞっ」
「あ、うん。ありがと」
 可愛らしい包みのチョコを真白ちゃんから受け取る。
 今年もわざわざ作ってくれたのかな。
 なんだか嬉しいような心苦しいような……。
 彼女は俺の顔色を窺うように顔を近づけてきた。
「カシスさんからはもう貰ったんですよね」
「え? いや、まだだけど」
「そうなんですかっ?」
 ぱあっと真白ちゃんの表情が明るくなる。
 かと思うと俺の腕に抱きついてきた。
 どうするわけにもいかず、俺は困った顔をするしかない。
 悲しいことだが彼女に腕を絡められると抵抗できないのだ。
 理由は述べるまでもなく腕に当たる感触の所為に他ならない。
 巨乳というほど暴力的な大きさではないのだが、
 腕に当たる感触は実に抜群の破壊力を有していた。
 それもそのはずで、俺たちは歩きながら話をしている。
 歩きながら腕を組まれちまっているのだ。
 ――――つまり、揺れている。
 狂おしいほどに微弱の揺れを保っている。
 今の俺には真白ちゃんを引き剥がすどころか、
 口元を緩めないように頑張るだけで精一杯だった。
「ふふ〜、今日は頑張っちゃおうかなぁ〜」
「はい?」
 何を頑張る気なんだろう。よく解らないが、ちょっと怖い。
 そうやって真白ちゃんとエントランスを歩いていると、
 遠くの方から誰かが俺目掛けて走ってきた。
 顔を見なくても誰だかはすぐにわかる。
「凪ぃぃぃいいいぃぃっ」
 大声で俺の名前を呼びながら突進しきた。
 間違いない。悪魔ガープこと比良坂黄泉の奴だ。
「俺の為に愛をたっぷり篭めて作ったチョコレートをくれ!」
「そんなものは無いわよっ」
 すんでのところで黄泉の突進をかわす。
 そのまま黄泉はベンチに突っ込んで吹っ飛んだ。
 こいつは何もあげないとうるさいんだよな。
 去年も一日中騒いでた記憶がある。
 そこで今年は上手くやり過ごす為にチョコを買ったのだ。
 俺は百円くらいのチョコを倒れている黄泉に渡す。
「はい、コレあげる」
「おおっ! 本命か?」
「義理よ、義理。当たり前でしょ」
「フッ……照れるなって」
「照れてなんかないわよっ」
 あげたらあげたで勘違いさせてしまった気もするな。
 チョコを握り締めると黄泉は満足して走り去っていく。
 男にチョコを上げる日が来るとは……。
 俺って奴は、また一つ男から遠ざかったみたいだ。
 さり気なく真白ちゃんは俺から離れている。
 黄泉に危険を感じたんだろう。正しい判断だ。
「そっかあ、凪さんも上げる立場なんですよねぇ」
「ん? ま……まあね」
「他に誰か上げるんですか?」
「一応二人ほどお世話になった人がいるから、
 少なくともその二人にはあげるつもりだよ」
 そう。やはり世話になった分、上げるのが筋ではある。
 男としてではなく、女としての筋だが……。
「じゃあ私も貰っちゃおうかな〜」
「う……どうしてそうなるの? 真白ちゃんは女の子じゃない」
「知らないんですか? 元々バレンタインって、
 男の人が女の人に贈り物をする日なんですよ?」
 知らないよ。そんなウンチクに相当するトリビアは。
 しかも本当か嘘かこの場では確かめられない。
 上げること自体は別に構わなかった。
 ただ、女性が女性にチョコを上げるというのは、
 俺が男にチョコを上げるくらい妙なことだと思う。
「そしたらホワイトデーにはお返しですよねっ。
 カシスさんには内緒で素敵なホテルの一室を借り切って、
 シャンパンか何かで乾杯とかしませんかっ?
 二人はその夜、チョコが溶けるほど甘い秘密を!
 な〜んて言っちゃったりしてぇ……えへ、えへへぇ」
 ぶつぶつと妄想の世界へと真白ちゃんが飛んでいく。
 そりゃあもう、届かないほど遠くの世界へと飛んでった。
 聞こえてくる単語は、結婚とか指輪のサイズとか。
「うわぁ〜っ、でもまだ子供なんて早すぎますよぅ」
 ……この場を去ろう。
 真白ちゃんの中では既に俺は子作りを始めていた。
 仕方なく俺は彼女を置いてエントランスを後にする。
 お惚け天使と悪魔教師にチョコを上げなきゃならない。
 俺は二人がいそうな屋上へと歩き出した。


 予想通り、二人は屋上の床に座って世間話をしている。
 こいつらって本当に敵対してるのだろうか。
 馬鹿馬鹿しくなるほど仲良さそうだ。
 傍から見てると普通の生徒と教師にしか見えない。
「こんにちわ、お二人さん」
 ラファエルは俺が呼びかけると振り返って笑った。
「……やあ凪君じゃないか」
「珍しいですねぇ。君が此処に来るなんて」
 片や黒澤は立ち上がって金網のほうへと歩いていく。
 そこで振り向いて黒澤は俺の方を向いた。
「まさかチョコレートでも渡しにきてくれたんですか?」
 これだから黒澤は苦手なんだ。
 人の行動を見透かしたように言い当てる。
 こっちとしては何気なく切り出したかったのに。
「まあ、一応はお世話になってますから……ね」
「ホントッ? もしかして僕にもくれるのっ?」
「あげるよ。ラファエルにはお世話になってるから」
「……私のほうは一応なのに」
 がっかりしたような顔で黒澤が俯いた。
 目がちょうど眼鏡の光で見えなくなって不気味だ。
「黒澤先生っ、はいコレどうぞ」
 口元を引きつらせながら俺は黒澤にチョコを渡す。
 手を伸ばしたものの黒澤は俯いたままだった。
 なんだか落ち込んでいるようにも見える。
「一応、ですか……」
 チョコを見ると薄く微笑む黒澤。
 もしかしなくても、間違いなく根に持つタイプだ。
 言葉を訂正したほうがいいかもしれない。
 俺がそう思っていると、隣でラファエルが
 じっとこっちを見ているのに気が付いた。
「チョ〜コ、チョ〜コ」
「はいはい……大したものじゃないけどね」
「わぁ〜っ。やった〜」
 ラファエルはチョコを満面の笑みで受け取ってくれる。
 こういう反応は少し嬉しいかも。
 やっぱり折角あげるなら喜んでほしいからなあ。
「さてと、ホワイトデーにお返ししなければいけませんね。
 一応とはいえお世話している身ですから」
「ぐっ……」
 明らかに俺の発言を根に持ってる感じの発言だ。
 こうなったらさっさと逃げることにしよう。
 渡すべきものは渡したし、とりあえず問題は無い。
「それじゃ、私もう行きますね」
「あ、チョコありがとう、凪君」
「そうですね。一応、ありがたく頂きますよ」
 二人の姿を背にして俺は屋上を後にした。
 やるべきことはやったし、ひとまず部屋に帰るか。
 カシスが戻ってるかもしれない。


 寮に戻ってきた俺は廊下で奇妙なものを見つけた。
 それも俺の部屋の前に置いてある。
 どうやら、それはチョコの包みみたいだった。
 わざわざ誰かが置いていったのだろう。
 手にとってみるとメッセージカードがあるのに気付いた。
 『K・Kより』とだけ書かれている。
 ははあ……公野来栖でK・K。カシスだな。
 ドアを開けて部屋に入ると、俺は包みを開けてみた。
 中には決して綺麗とは言い難いチョコが入っている。
 というか、形容しづらい形をしていた。
 一体これは何をイメージして作ったのだろうか。
「ま……まあ、要は味だよな」
 形ゆえに味の期待があまり膨らんでこないが、
 意を決して俺はそのチョコを口に含んでみた。
 あ、と俺は思わず口に出してしまう。
 その瞬間。バタン、と音がして部屋のドアが開けられた。
「ただいまなのっ」
「……カシス」
 なにやらカシスは沢山の包みを抱えている。
 何かを沢山買ってきたらしい。
「あれ? チョコ……」
「そうそう、このチョコ、カシスが作ったんでしょ?」
「違うよ。私はチョコなんて作ってないの」
「え?」
 じゃあコレ、誰が作ったんだ?
 俺がそんな疑問を浮かべていると、
 突然カシスがそのチョコにかぶりついてくる。
「わあっ? なにするのよっ」
「私以外の女から貰ったチョコなんて食べさせないの。
 でも勿体無いから私が……って、何なのこのチョコ?」
 カシスは口を抑えて悶え始めた。
 それも仕方が無いといえる。
 そのチョコは甘くなかったのだ。寧ろ、塩辛い。
 どうやったらこんな味になるんだろうか。
 俺は一口しか食べてないから大丈夫だが、
 全部いっきに口の中に入れたカシスは地獄を味わっていた。
 ふと、そこで俺はカシスの抱えているものに目がいく。
 中には大量のチョコが入っていた。
 こんなに沢山のチョコ、一体どうする気なんだ?
 そう考えて……一つの嫌な考えに至る。
「あのさあカシス、これ……」
「え、ああ……普通のチョコをあげるんじゃつまらないから、
 私がチョコまみれになって、プレゼントになろうと思ってたの」
「…………」
 絶句した。何も言葉が浮かんでこない。
 神様、お願いだからカシスに一般常識を教えてあげて下さい。
 エロ漫画の知識は全て抹消して下さい。
「それじゃ今からお風呂でチョコ溶かすから、待っててなの」
「お、お風呂でっ?」
「身体中についたチョコを舐められるのが楽しみなの〜」
 ああ……神様ごめんなさい。
 俺ってば変態へのロードを歩き始めてるみたいです。
 誰かカシスの暴走を止めてくれ。
 届かない願いは、カシスと共に風呂場へと消えていった。