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さらさら

著作 早坂由紀夫

後編
「ゴール」

 

*5*

 その日は、私が所属する剣道部の部活に出ていた。
 竹刀の乾いた音が響く中、私はどこか虚ろに宙を見定めていた。
 ふと誰かが近づいてくる気配があって身構えてしまう。
「・・・華音、少し休まないか?」
 それは私と同年代にして剣道部の主将である、
 霧嵜穂純(きりさきほずみ)だった。
 穂純は麗人という言葉の似合う女性で私の友達でもある。
 彼女はぶっきらぼうなのにどこか憎めない・・・
 そんな不思議な魅力を持っていた。
 その袴姿も女性的ではあるが、古風な割に奥ゆかしさとは無縁だ。
 黒い長髪なんか彼女にとってはうざったいだけだというし。
 勿論兜を被る時にはゆわいている。
「今日も日の丸弁当だったの?」
「ウチの爺さんは化け物だよ。勝てやしない」
 穂純の弁当の中身はいつも日の丸弁当だった。
 絶望的に家事の出来ない穂純は、
 炊事洗濯をお爺さんに任せている。
 その人に稽古で一本取るごとに中身が充実するらしいが、
 彼女の弁当は今まで変わった事がない。
「それよりも、最近・・・明るくなったな」
「は?」
「華音のクラスに、面白い奴が来たそうじゃないか」
 ・・・こんな所でまで天照の話題が出る事になるとは。
 私は少し狼狽しながら答えた。
「はぁ・・・私はつき纏われてるだけよ」
 穂純は苦笑いしながらすっと立ち上がる。
 そして私も立ち上がるように促した。
「少し、外の風にでもあたりに行かないか?」
「・・・穂純にしては、良いアイデアね」
「馬鹿にするな。私だって剣ばかりやっているわけじゃない」
 そう言いながら穂純は体育館の裏口を開けて外へと歩き始める。
 私もそれにつられてゆっくりと歩き始めた。
 少しばかり伸び始めた雑草。
 辺りを包む寒いくらいの風が私達を迎えてくれる。
 春を感じる為の要素は充分に含んでいた。
「良い風だな・・・嫌な事を全て忘れられそうなくらい」
「へぇ、穂純にもそんな事ってあるんだ」
 そう言うと穂純は少しため息をついて言った。
「沢山あるさ。私達は生きているし一人じゃない。
 それだけで問題なんて幾らでも降って沸いてくるよ。
 それに・・・私だって女なんだぞ」
 そう言って笑う彼女の横顔は、少し大人びた女性を思わせた。
 男みたいな奴だなんて思ってたワケじゃないけど、
 今日の穂純はいつもよりずっと可愛く見える。
「華音だってそうだろ? ・・・まあお前は否定するかもしれないが、
 私達はいつだって何かに支えられて生きているんだ」
「・・・そうだね。そうかもしれない」
 私はなんとなくそう答えた。
 すると穂純はいかにも意外そうな顔で私に言う。
「お前がそんな事を言うとはな・・・」
「むっ・・・何よぉ、私だってたまには素直になりたい時もあるのよ」
 自分でそういって、はたと気付いた。
 素直になりたい時?
 そんな時が今まで自分にあっただろうか。
 肩筋を張って強がって生きてきた自分に・・・。
 それは穂純も気付いている様で、彼女は優しく微笑むと私に言った。
「私達はこれからも変わっていくんだろうな。
 でも、今までとは違う自分に戸惑う必要なんて無いさ」
「・・・ええ、そう・・・ね」
 そう言われても動揺が収まる事はなかった。
 強い自分が変わっていってしまう。
 幼い頃、言いたい事の一つも言えなかった自分。
 そんな弱い自分に戻ってしまうの?
 嫌だ・・・。
 私は変わりたくなんてない。
 ずっと自分らしくありたいのに・・・。

*6*

 私は部活を切り上げた後、
 夕暮れが沈んでいく空を見上げていた。
 屋上の鍵を借りてわざわざ屋上に来たのだ。
 どう考えたって馬鹿げてる。
 自分らしくないんだ、こんなの・・・。
 それでも鉄柵から覗く景色は、ただひたすらに私の胸を打つ。
「華音さん」
 いきなり現れた天照の声にも驚きはなかった。
 どこかでこいつを待っている自分がいたから。
 私は過去の自分ともう一度決別する為にここにいた。
 弱い自分、情けない自分と・・・。
 私は天照を背にして遠くの空を眺める。
「いつも屋上に居るんですね。ここ、好きなんですか?」
「・・・別に」
 私はもう二度と迷ったりしない。
 この男とこれ以上関わらずに生きていくんだ。
 そうしないと、きっと・・・
 張りつめている心が泣き叫んでしまうから。
 冷え切った心が温められてしまうから。
 ただ、その言葉が出せずにいた。
 天照はそんな私の心を見透かすかの様に微笑む。
「何か悩みでもあるんですか?」
「あるわ。あんたにつきまとわれるのが悩みなのよ。
 ・・・このままじゃ、私はきっと弱くなる。
 一人じゃ何も出来なくなるのよ!」
 私はそう言って鉄柵を握りしめた。
 少し冷たいけどそれが自分にふさわしい気がする。
「別に良いじゃないですか。
 一人で何でも出来る人なんていませんよ。
 皆が誰かに寄り添い、寄り添われて生きてるんですから」
「そんな事解ってる! 解ってるよ!
 だけど・・・変わりたくないの。弱くなるのが怖いのよ・・・」
 まるで逃げ口上だ。
 それに本心を口にしてしまうなんてどれだけ不様なんだろう。
 私はいっそう強く鉄柵を掴んだ。
「変わるのは悪い事ですか? 弱くなるのは怖い事ですか?
 僕はそんな事は無いと思います。
 自分を受け入れてあげてください、華音さん」
「・・・・・・」
 声もなく笑ってしまった。
 なんか天照が真面目に喋ってるのを聞いていると、
 自分が真面目に話してるのが馬鹿らしくなってくる。
 もっとも天照は至極真面目に話してるのかもしれない。
 だけどその声があまりにも台詞がかっていた。
 別に私達はドラマのワンシーンを演じてるワケじゃない。
 と、気付くと隣に天照がいた。
 いつの間に近づいてきたんだろう。
「華音さんはやっぱり笑顔が似合ってますね」
「・・・私はあんたが邪魔だって言ったのに、どうして・・・」
 どうしてそんな澄み切った笑顔を私に見せるのか。
 悪びれもせず、敵意も見せずにその真っ直ぐな瞳で私を見る。
「寂しさは一人で埋めちゃいけないんです。
 孤独と向き合うのは自分自身ですけど、
 そこから出る時は一人じゃいけないんです」
「あんた・・・」
 天照も一人きりで生きようと思った事があるのだろうか?
 その言葉はどこかそんな天照を想像させた。
 ・・・あれ?
 何を考えてるんだろう・・・馬鹿馬鹿しい。
 天照の過去なんてどうでもいいじゃない。
「どうしたんですか? 華音さんっ」
「な、なんでもないわよ」
 くっ・・・さっきから天照のペースにはまってる気がする。
 大体なんで途中から私はこいつに人生相談してるのよ・・・。
 私はどっと疲れてしまったのでもう帰る事にした。
 きびすを返して屋上から降りていく。

*7*

「あ、待ってくださいよ〜」
 天照がくっついてきた。
 こいつはなんでまた私についてくるのかしら。
 ・・・まあ、いいや。
 私はもう気にするのも疲れたのでさっさと歩く事にした。
 学校を出ていつも通りサイクリングロードへと出ていく。
 いつも通りの風が私を通り過ぎていった。
 正確に言ったらそれはいつもとは違う。
 何処か・・・何処か遠くから運ばれてきた風。
 流動的、本当はそんな言葉がお似合いな景色達。
 そうやって常に世界は変わり続けている。
 だけど私は変わらずに強くある事を望んだ。
 変化に気を止めたりしない。
 すり切れてしまうのだったらそれだって構わなかった。
 恐れていては先には進めない。
 強くある事なんて出来っこない。
 私の弱さを認めてくれる天照。
 そうあっても構わないのだと言う天照。
 これ以上こいつに関わっていては・・・私は先へ進めなくなる。
 そんな事を考えていると天照が話し始めた。
 何処か遠い目をして、やはりどこか芝居がかった話し方で。
「さっき僕は弱くなるのは悪い事ですか? そう聞きましたよね。
 華音さん・・・僕は今のあなたの事を言っているんです。
 ・・・今のあなたは、とても弱く儚い表情をしてます」
「今の私が・・・儚い?」
「華音さんの求める強さって言うのは・・・
 本当にその先にある物なんですか?」
「何・・・を、そんなの、決まってるじゃない・・・」
 何者にも寄りかかる事のない強さ。
 誰にも頼らずに生きていける強さ。
 私が求めているのは・・・そんな強さだ。
 ただ、少しずつわかりかけていた。
 天照が言いたいのはそういったものじゃない。
 だけどそんな事は話したくなかった。
 私は少し足を速めてサイクリングロードを降りていく。
 そして少し先の車道に向かって歩いていった。
 信号は赤だけど辺りに車の影はない。
 このまま待っていると天照と話さなきゃいけないし・・・
 いいや、今の内に渡っちゃおう。
「あっ華音さん、信号は赤ですよ」
 一々細かい事を気にする奴・・・。
 私が横断歩道に行くまでに青になってるかもしれないじゃない。
 気にせずそのまま歩いていった。
「華音さん、危ないですよっ」
「あ〜〜もう五月蠅いわねっ!」
 私は横断歩道の前で天照の方を振り向いていった。
 周りに車の影なんて無い。
 別に赤だって危なくなんか無いわよ。
 苛立ちを隠せないままで横断歩道を渡っていく。
「華音さんっ!」
 一際大きく天照の声が上がった。
 私はもう一度天照を怒鳴ってやろうと振り向こうとする。
 けれどその途中で手前の小道をカーブしてきた車が見えた。
 そのまま私の方へと走り込んでくる。
 ドライバーの注意は後ろにいっているらしくて、
 前方の私に全く気付いていなかった。
 あれって・・・ちょっとスピード的に避けられないんじゃ・・・。
 距離的に反射神経とかで避けられるレベルじゃなかった。
 瞬間、胸に手の感触が当たる。
「きゃっ!?」
 それによって私は歩道へと押し飛ばされた。
 車のブレーキ音が頭に木霊する。
 鈍い音がして何かが少し先に倒れた。
 ゆっくりと身体を起こしながらそれへと焦点を合わせる。
 ・・・天照だ。
 声も出せない。
 本当に一言も出なかった。
 頭から血を流して倒れている天照。
 車を止めてすぐに慌てながら電話をかけるドライバー。
 全てが凄くゆっくりと・・・流れていた。
「てん・・・しょぉ・・・」
 自分でも驚くくらいに掠れた声であいつの名前を呼ぶ。
 天照は倒れたまま動かなかった。
 考えがまとまらない。
 どうして・・・あいつは倒れて・・・。
 なんで私を・・・助けたの?
 本当にお節介な奴・・・。
 私は自分の心を落ち着ける。
 ・・・大丈夫、大した怪我じゃないよ。
 すぐに起きあがって・・・「華音さん、痛いですよ〜」
 な〜んて笑いながらこっちに近づいてくるんだ。
 馬鹿みたいに笑いながら私の方を向くんだ。

・・・・・・

「天照っ!」
 どうしても僅かばかりの涙は堪えきれなくて、
 そう叫んでみたらそれはにわかに私の頬を濡らす。
 ふらつく足で私は天照の側に駆け寄った。
「天照、しっかりしなさいよっ!
 絶対に・・・死ぬ事なんて許さないから!」
 だけど天照の顔は血で滲んだままピクリとも動かない。
 まるで全ての時が止まってしまったみたいだった。
 天照が笑ってないなんて不自然だよ・・・。
 しばらくして救急車のサイレンが鳴り響く。
 どんどんその音は近づいて、私に現実を突きつけていった。

・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

*8*

 寒空の下でゆっくりと呼吸する。
 空は淡い白と青を混ぜた色彩を放っていた。
 その空へと灰色の煙が立ち上っていく。
 純然たる世界の躍動。
 その中を無心に歩いていった。
 辺りは少しずつ夕闇を含んでいたけれど、
 まだそれは暖かな日差しと共に移り変わる途中だった。
 そして病院の入り口から受付へと向かう。
 話を済ませると病室へと歩いていった。
 階段を上がって長い廊下を歩き、そのドアを開ける。
「あっ、華音さん!」
「ごきげんよう」
 私はいつもより少しだけ優しく声をかけると近くの椅子に座った。
 座り心地はそんなに良くないけど、
 長居をする気はないので構わない。
「・・・思ったより元気みたいね」
「華音さんの日頃の行いが良かったからですよ、きっと」
「関係ないわよ」
 あの時一緒に救急車に乗った時は、
 本当にこいつの身を案じていた。
 だけど天照の怪我は結局そんなに酷くはなかったらしい。
 涙まで流した私の立場が無くなるくらいにすぐ元気になった。
 ホント、馬鹿馬鹿しい。
 おかげで私のせいで怪我させた事を謝るタイミングも失った。
 私は少しだけ優しくなってしまったのだろうか?
 今はそれでも構わない気もしていた。
 ・・・ただ何かがやはり私を足止めする。
 やっぱり怖いんだと思う。
 自分が変わっていく事が怖くて仕方ないんだと思う。
 自身の中にある血液がごっそり変わってしまう様な・・・そんな感覚。
「華音さん・・・不思議ですか?」
「え?」
「どうして僕があなたに構うのか・・・不思議ですか?」
「・・・別に」
 確かに少しは気になっていた。
 だけどこいつの口から言われて「そうです」とは言いたくない。
 大体そんな事を自分から言うなんて、
 やっぱりこいつはどこかおかしいわ。
「僕にはですね、妹がいるんです」
「ふ〜ん」
 別に妹がいるのはなんら不思議な事じゃなかった。
 こいつの性格からして相当可愛がっているのは予想がつくけど。
「妹は本当にあなたに似た子で・・・全てを敵に回そうとしてました。
 常にぎりぎりの場所に身を置く事で自分を認識してました」
「・・・・・・」
「一心不乱に勉強して、どんな辛い事にも耐えて。
 本当に今を生きる。そんな生き方をしていました」
 まるで自分の事を言われてるみたいだった。
 天照の話に私はいつしか言葉を失い、聞き入っていた。
「でもそれはやはりいつかは切れてしまう物なんです。
 ・・・妹は他人を怖がる様になって、
 自分以外の何も信じられなくなってしまいました。
 そう、家族でさえも・・・」
「それは・・・」
 私はそんな道を歩んだりはしない。
 ・・・そんな風に言えるのだろうか。
 誰がそうならないと言い切れるのだろうか。
 そんな時、ふと気付いた。
 私が・・・求めている先には。
「華音さん。人生って思ってるより長いんです。
 すぐに終わってくれる様な易しいものじゃないんです」
「・・・・・・」
 何も言えなかった。
 ・・・私は刹那的な生き方をしてたんだ。
 誰よりも未来を見据えて生きてたはずだったのに。
 どこかで解っていて・・・耐えていた。無理をしていた。
「・・・そうかもしれない」
「華音さん」
「でも、あんたに言われる筋合いは無いわよ」
「あ・・・そうでしたよね。はは〜」
 同情されるのだけは嫌だった。
 私はこれから少しずつ変わっていくのかもしれない。
 だけどその中で自分に必要な物を取捨選択していく。
 全てを変える必要なんて全然無いのだから。
 色々な感謝の気持ちが無いって言ったら嘘になる。
 でも面と向かって天照にそんな事は言いたくない。
 少し長話になってしまったな・・・。
 私は椅子から立ち上がると足早に部屋を出る。

*9*

 帰る途中の病院の廊下で看護婦に呼び止められた。
 20代半ばくらいの歳のセミロングの髪の看護婦だ。
 やはりピンクの白衣は歯医者だけなのだろうか?
 彼女が来ているのは真っ白に少し緑がかった白衣だった。
「今、そこの天照君の部屋から出てきたよね。
 あなた・・・もしかして華音ちゃん?」
 私は顔が真っ赤になるかと思った。
 知らない人に名前を呼ばれただけではない。
 あの馬鹿がその名前を呼んでいたのだ。
 変な事を吹き込んでるんじゃないだろうなぁ・・・。
 とりあえず他人のフリをする事にした。
「違います。華音は私の知り合いです」
「なんだ、そうなの」
 あの馬鹿・・・今度来たらとっちめてやる事にしよう。
 大決定。
「あの子ってホント良い子だよね〜。
 華音っていう子の負担になりたくないからって、
 こんな時期からギブスもしないでリハビリなんかしちゃって。
 体中耐えられないくらいに痛いだろうにね」
「え・・・?」
 あいつの怪我は大した事無いんじゃ無かったの?
 だって・・・医者の話は聞いてなかったけど、
 天照自身が大した怪我じゃないって・・・そう言ってたのに。
「ほ〜んとにさ、あんな子が彼氏だったら良いよね〜。
 華音って子は違うみたいだし、私アプローチかけよっかな。
 実は看護婦はその点で有利なのよね〜」
「駄目です! あいつは・・・」

・・・・・・

 私ってば、一体何を言う気だったの?
 別に看護婦が何を言おうと勝手じゃない。
 私には興味も無い・・・はず。
「冗談よ・・・もしかして、あなた」
「え、違いますっ。全然違いますからっ!」
「まあ高校生だもんね。若いよなぁ〜」
 私はその後しばらく看護婦と雑談した後、
 すぐに病院を出ていった。
 そして帰る途中の電車でずっと考え続けた。
 私は・・・いつからこんな事を気にする様になったんだろ・・・。
 前だったら全然気にも止めなかったはずなのに。
 穂純や天照の言う様に、私は変わっていってるんだろうか。
 でもあまり嫌な気はしなかった。
 その変化を受け止められそうな気がしてる。
 ・・・違う。
 違うわ、こんなの!
 こんなの私らしくない。
 ・・・だったら私らしいって何?
 全てを否定する事が私らしいの?
 本当に私らしいってどういう事?
 そんな事を考えてるのに顔は自然と微笑みに変わっていた。
 そのまま電車から見える夕暮れの景色に目を向ける。
 こんな景色を見て綺麗だと思える様になっていた。
 これは・・・喜ぶべき変化なの?
 そう考える前に答えは表情に出ていた。
 茜色の光が私に差す。
 私はドア手前の手すりを握りながら、
 近づいてきた自分の街を見下ろした。
 何故、今はこんなに優しく私の目に映るんだろう。
 少しずつ、弦は綻び始めたのだろうか。
 それとも・・・。

*10*

 それから数日。
 私はいつも通りに学校に出ていた。
 勿論、あいつはまだ入院している。
 そして放課後もいつもの様に部活に出る。
 穂純は私の顔を見て少し驚いたけど、
 何も言わずに稽古を続けていた。
 私もいつもの様に両膝をついて竹刀を手前に置く。
 散らばった防具を集めて付けていった。

・・・・・・・・・

 部活を終える頃には辺りは闇に包まれていた。
 帰りの支度を整えた後で穂純が私に声をかける。
「華音、一緒に帰らないか?」
「・・・うん」
 久しぶりにそう誘われた気がする。
 色々相談したい事があったのでちょうど良かった。
 体育館を出て私は校門の所でしばらく待つ。
 穂純は主将(部長)なので鍵を職員室に返しにいったのだ。
 その間、私は帰っていく人並みを見続ける。
 皆が私に声をかけていくので私も挨拶した。
 それはどこか自然に行われていく。
 何かが満たされていく様な・・・暖かい感じがした。
「待たせたな」
「・・・遅い」
 私は憎まれ口を叩きながら歩き出す。
 二人の影が静かに後ろに伸びていた。
 閑静な住宅街をゆっくりと歩き続ける。
 ふと穂純は話し始めた。
「良い表情(かお)をしてるな。羨ましいくらいだ」
「おだてても何も出ないわよ」
「おだててるわけじゃない・・・そうだ、今日はうちに泊まらないか?」
「え・・・いいけど」
 穂純の家に泊まるのは初めてだった。
 というより人の家に泊まるなんて久しぶりだ。
 今まではお父さんに心配をかけまいとしていたせいもあって、
 外泊をしない様に心がけていたから・・・。
 でも今ならお父さんもそんなに寂しがらないと思った。
「その顔のわけを洗いざらい話して貰おう」
「・・・げっ」
「良い歳の女性が「げっ」なんて言うものじゃないぞ」
「あんたねぇ、おっさんぽいわよ」
「なっ・・・失敬な奴だ」
 穂純は本当に話しやすい奴だと思う。
 どこか喋り方も穏やかなものだし。
 ・・・まあ変な喋り方ではあるのだけど。
 そんな会話を繰り返しながら私達はそれぞれの家路へとついた。
 そして私は一度家に帰宅した後、支度をして穂純の家へと向かう。
 彼女の家の入り口にあるインターホンを押して、
 私は誰かが出てくるのを待った。
 何度か見た事はあったけれど入るのは初めてだ。
 でかい。
 それに凄く和風の作りで、一流の料亭でも開けそうな家の構え。
 私はそんな穂純の家に圧倒されていた。
 少し・・・あの性格の理由が解った気がする。
「どなたですか?」
 インターホンから聞き慣れた声が聞こえてきた。
 私はとりあえずそれに答える。
「・・・穂純?」
「華音か。どうぞ入ってくれ」
 入り口のドアをがらっと開けると、
 目の前には庭と池が広がっていた。
 うわ・・・豪邸だなぁ。
 そんな庭を見つめていると向こう側からお爺さんが歩いてくる。
「あんた、穂純の友達かね?」
「あ、はい」
「そうか・・・ほっ」
 後ろに組んでいた手から木刀がちらっと見える。
 まさかそれで私を攻撃する気は無いわよね・・・。
「むっ。しっかり儂の木刀に気がつきおったな? 合格じゃ」
「は・・・?」
 私があっけにとられていると穂純が慌てて家から出てきた。
 そしてお爺さんの背後に手刀を繰り出す。
 それをお爺さんは後ろも見ずにギリギリでかわした。
 しかも最小限の動きで。
「・・・何をしていた爺さん。
 この子は霧嵜流剣術の入門志願者じゃないぞ」
「解っておる。入門志願じゃったらこんな事はせん。
 儂の一太刀を避わせるかどうかを試しておったわ」
 ちょっと待って欲しい。
 それを木刀で試すのだろうか・・・。
「そんなコトしてるから入門者が減るんだろう・・・」
「なんじゃい、本当は真剣でそれをやっておったのにのう」
 ・・・冗談じゃないわよ。
 こんなとんでもない爺さんの下で修行したい奴はいないと思う。
 下手したら生きて帰れない可能性だってありそうだ。
 その上あの身のこなし・・・剣道では殆ど無敗の穂純が
 この爺さんの事を化け物って言うのもうなずける。
「悪いな華音、この爺さんは常識ってものを知らないんだ」
「あ、はは・・・」
 この爺さんの手前それにうなずけるはずもなかった。
「なんじゃいなんじゃい、切ないの〜。
 いいもんね、どうせ儂なんか儂なんかっ」
「・・・そこ、腐るな。私の部屋に行こう華音」
「う、うん・・・」
 いじけた爺さんは少しだけ可愛らしくも見えた。
 けどこんなはっちゃけた爺さんは欲しくないかも。
 私達は玄関の手前に見える階段から二階へ上がっていった。
 階段は思ったより年代物で足下が軋んでいる。
 結構これは怖かった。
 そしてある一室で穂純がドアを開ける。
「ここが私の部屋だ」
「へぇ・・・」
 穂純の部屋は思ったより綺麗にしてあった。
 でもやはりと言うべきか可愛らしい小物なんかは全く無い。
 必要なものだけが整然と並んでいた。
 ・・・と、ベッドにフェレットの枕を見つける。
「ほ、穂純あんた・・・この枕」
「あっ! それを見るなっ!」
 急いで枕を抱きしめると後ろを見てしまった。
 穂純には全く合わない気がするけど意外と似合っている。
「いいじゃない。フェレット好きだったの?」
「・・・そ、それは・・・まあな」
 こいつ・・・こんな姿を男に見せたら大変な事になるわね。
 あっという間に人気がうなぎ登りだわ、きっと。
 私達はとりあえずテーブルの近くに腰を下ろした。
「私の事より、お前の事だ」
「・・・フェレット」
「うぐっ・・・それを言うなっ」
 私だって天照の事を好んで話したくなんかない。
 あまり人には話したくない様な事ばっかりだ。
 そう、出会いからそうだった。
 あいつはいきなり私が思いを馳せてる時に・・・。
「うん。やっぱりあいつはヤな奴だわ」
「・・・天照の事か」
「そうよ・・・って、なんで知ってるのよ!」
「有名だぞ、意外と」
「・・・・・・」
 仕方ない。
 別に穂純にだったら話しても良いか。
 きっと穂純なら私の気持ち、解ってくれるだろう。

*11*

 私が話し終えると穂純は「風呂でも入ろうか」と言った。
 そして私達は今お風呂に入っている。
 何か言ってくれればいいのに穂純は黙ったままだ。
 湯船に浸かっている。
 ・・・それにしても予想通り、というべきか
 お風呂場は大きくしかもひのきで作られていた。
 もう一つ予想通りなのは穂純の身体だ。
 やはり理想的なボディラインをしてる。
 くっ・・・負けた。
 まあいいわ、小ぶりには小ぶりの魅力が・・・。
「どこを見てるんだ、どこを」
「・・・胸」
「そんなにジロジロ見るな・・・見ても仕方ないだろう」
「まあ仕方ないんだけどね」
 そう。別に見てたからって自分がそうなるわけじゃない。
 だけど悔しい。
 なんで穂純はこんなプロポーションを・・・。
 そんな葛藤を退けるのに少しだけ時間を要してしまった。
 それからしばらくの間、二人で天窓から覗く月明かりを眺める。
 か弱く照らすその蒼さと暗闇がどこか美しく見えた。
「やっとゴールを見定め始めたのかもしれないな」
「え?」
「・・・さっきの話。
 きっと天照はお前をスタートラインに連れてきたんだ。
 ゴールを見据えて走り出せる様に」
「ゴールを、見据えて?」
「そうだ。長く険しい道のりの第一歩。
 求めるゴールまでは果てしなく遠いけれど、
 途中で無理したってその距離は大して縮まらない。
 だからあせらず、自分の足で歩いていくんだよ私達は」
 人生に於けるゴール。
 それが何処なのかは解らない。
 無いのかもしれないし、あるいは死ぬ事なのかもしれない。
 だけど私に於けるゴールは違う。
 私が求める未来、ゴールは必ずある。
 常に追いかけて・・・追いかけすぎて転んでしまって。
 今までずっと辿り着ける気がしなかったゴール。
 けれど私は変わっていく。
 そこへと辿り着ける自分へと変わっていける。
 自分らしく・・・そんなのは簡単だったんだ。
 自分が自然に笑える事。
 それだけだったんだから・・・それだけで構わないんだ。
「天照っていう奴、私も会ってみたいよ。
 きっとお前が自然に笑えるくらい良い男なんだろうな」
「・・・まあね」
 少し照れくさかったけど私は正直にそう答える。
 今だけ・・・あいつに感謝してもいい気がしたから。
 少しずつ私の殻をはがしていってくれた。
 ・・・きっと面と向かったら死んでも言えない。
 だから私はそうやって天照に感謝した。

*12*

 あれからまた少しの時間が過ぎて天照が退院した。
 私は特に話す事も無く帰りのサイクリングロードを歩いていた。
 やはり天照は退院するとまた私にくっついてくる。
 部活が無いせいで今日はこいつと帰る事になってしまったわけだ。
 何か理由が欲しい。
 天照が隣に居てしまう理由。または遠ざけたい理由が。
 何も思い当たらなかった。
 まるでこいつの軍門に下った様でとてもしゃくだ。
「華音さん、あの〜」
「何よ」
「私だ」
 振り向いた瞬間、私は驚きを隠せなかった。
 今は一番会いたくない奴がいたからだ。
「ほ・・・穂純!?」
「そんなに驚かなくてもいいじゃあないか」
 にこにこ笑って・・・いや、にやにや笑ってやがるわ。
 そうか、今日は部活がないから穂純がいてもおかしくないんだ。
 いつもは屋上で素振りなんてしてるクセに、
 なんで今日に限って居るんだろう。
「今日は屋上に行かなかったの?」
「・・・いや、しばらく行くのは止める事にしたんだ」
「穂純さんって面白い喋り方ですね」
 いきなり話に入ってきたかと思えば・・・。
 失礼極まりない事を聞く奴だ。
 とりあえず私は天照の頭をはたく。
「別に構わないさ。ちょっと家の事情で、こんな喋り方なんだ」
「格好良いですね」
 あまりにもにこやかな顔で言うものだから、
 穂純も少し言葉に困ってしまった様だった。
「・・・華音が気に入るわけだ」
「え?」
「ちょっと! 何を言い出すのよっ」
 苦笑する穂純。きょとんとする天照。
 全く嫌な二人組だ。
 私がどれだけ普通に笑えるかを教えてくれる。
 私が特別ではないと優しく突き放してくれる。
 今までは気付かなかった。
 そんな穂純の優しさにも・・・辺りを包む暖かい空気にも。
 そういえば一つだけ天照に聞きたい事があったのを思い出した。
「あんたって孤独だった頃があるの?」
 何気なくそんな事を聞いてみる。
「僕はあなたに会うまでは孤独でしたよ」
「はぁ・・・?」
「天照君と言ったな。それは華音への告白かい?」
 穂純がとんでもない事を聞く。
 私は文句を言うにもあきれて何も言えなかった。
 人が真剣に聞いてるのに、冗談なんか・・・。
「いえ、あの・・・事実なんです。
 僕はあなたに出会うまでずっと孤独だった。
 両親は元々いなかったし・・・」
 え・・・両親が?
「あ、別に両親が死んでるわけじゃなくて、
 海外へ二人して仕事で行っちゃったんです」
「・・・紛らわしい言い方しないでよ」
 ったく、一瞬まずい事を聞いたと思っちゃったわ。
 天照にとりあえずデコピンしてやった。
「だから数年間は一人だったんです。
 この学校に来るまで友達も特にいなくて。
 でも今は華音さんが居ますから」
 それがあまりにも簡単に天照の口から出てきた物だから、
 私は大したことじゃない気すらしてしまった。
 それは全然簡単な事じゃない。
 とても苦しくて辛い事だった。
 だから私はさらに天照に憎まれ口を叩く。
「・・・私がいますから。じゃないわよっ!
 人に散々偉そうな事を言っておいて、
 自分も寂しかったんじゃない」
「はい。僕も寂しかったんです」
 凄い笑顔で、嫌な所を強調する奴だ。
 穂純は気付いたらしく笑っている。
 私の顔が優しくなってるって思ってるんだろうな。
 反論できそうにない私は、力無く笑い返すしかない。
 けれど穂純の言葉は思った物とは全く違っていた。
「お前達を見ていると本当に自分が馬鹿らしくなる。
 私も・・・もう一度屋上へ行ってみるよ」
 穂純の言葉の意味は良く解らない。
 でもそれは彼女の決意の様に感じられた。
 あえてそれには触れずに私は天照に言う。
「ったくも〜。あんたはホントの馬鹿よ」
 やっと私は自分の目指すべき強さについて解ってきた気がした。
 人を思いやる事。他人を気にする事。
 どんな事があってもくじけない事。
 それが多分、私のゴール。
 それは人を思いやったりする余裕を持てる事。
 本当の強さって言うのはそんな余裕を持てる事なんだ。
 私と穂純の歩くスピードが速いのか、天照が遅れ始める。
 ごく自然にそれは私の口をついて出た。
「天照、さっさとついてきなさいよ」
「え・・・はい」
「・・・ふっ、大変だな天照も」
「違うっ! 大変なのは私よ!」
 そんな事を言いながら歩いていると、
 しばらくして一本の樹が見えた。
 その樹はサイクリングロードから車道へと降りる所にある。
 それを見て、何故か天照と最初に会った時のあの樹を思い出した。
 ・・・あの時は失礼な事を言ってごめんなさい。
 あなた達は生きる事に耐えていたわけじゃなかった。
 終わりのない寒さに耐えていたわけじゃなかった。
 だってほら、もうすぐ冬は終わる。
 少しずつ暖かい光で満たされていく。
 そして暖かい春が来るんだ。
 それをずっと待ってるんだよね。
「華音さん、また樹を見つめてる。
 解った! 良い詩が浮かんだんですね?」
「・・・な、な、な・・・!?」
 私は慌ててその樹から目を逸らす。
 けれど時は遅く二人はじっと私を見ていた。
「華音・・・可愛い所があるじゃないか」
 そんな事を穂純が言う。
 笑い堪えながら言わないで欲しいわ。
 天照は真面目な分たちが悪かった。
「やっぱり趣味はポエミングなんですねっ」
「だから違うわよっ!」
 しかも微妙な造語。
「良いじゃないか。隠す様な趣味でも無いだろう」
「穂純っ」
「・・・解ってるよ。やっぱり大変だな、天照は」
「だから大変なのは私だってば・・・」
 きっと一人じゃ辿り着けないゴール。
 けれど今は全てが味方だった。
 考え方が変わったからとか・・・そんな理由じゃない。
 世界が私に、私が世界に歩み寄ったんだ。
 だから何もかもが私に手を貸してくれている。
 ・・・それだったら何処へも行けそうな気がした。
 目指す場所はきっと遠いけど私には穂純がいる。
 隣にはお節介で優しい顔をした、私についてきてくれる奴がいる。
 そんな風に助けられながら歩いていけるのなら、
 きっと・・・辿り着ける気がした。
 強いフリをしているんじゃなくて、本当に強くあれる自分に・・・。

END