Curiosityの過ち
著作 早坂由紀夫
一面に咲く赤い花
まるで血の様に赤く 薔薇の様に気高い
それは僕の罪 それは僕の色
僕が昔暮らしていたのはヨーロッパ、
Liechtenstein(リヒテンシュタイン)の
Triesenberg(トゥリーゼンベルグ)と言う街で、
生まれたのもその街だった。
あの頃、ライン川はいつも僕らを見上げる様に流れ、
僕は狂った様に何かを求めていた。
この街は標高約900mに
位置する山の中腹に位置している。
きっと都会の人達には退屈な街だと思う。
でも、僕にとってはこんなに魅力的な町は無い。
見渡す限りの幻想的な世界、
澄み切った空気の織り成す清涼な風。
すべてが僕には刺激的だった。
そしてこの街が僕の世界の全てだった。
ある時、そう・・・正確な日にちは思い出せないが、
日差しが弱く、いつもの様に一雨来そうな天気だった。
「・・・はぁ、はぁ」
僕は、いつも学校の終わった後、
絵を描くためにライン・バレーに向かっていた。
毎日山頂まで登る事は出来ないが、
少し登っただけで充分に魅力的な空は僕を誘惑した。
・・・・・・。
どれぐらい絵を描いていただろう。
天候は相変わらずで、今にも降り出しそうな気さえする。
気が付くと隣に寝そべっている女の子がいた。
僕と同い年ぐらいだろうか、ヘアバンドをしていた。
「・・・ごきげんよう」
僕が気付いたので気だるそうにその子は挨拶をした。
「どうも」
僕も気にしない様に会釈した。
・・・・・・。
「何・・・描いてるの?」
その子がふと気付いた様にそう言った。
「空だよ。この青白い空」
「ふ〜ん」
理解不能、そういう返答だった。
(まあいいさ、別に理解されなくても)
そしてまた黙々と描きつづける事にした。
「ねぇ・・・」
「何?」
僕は努めて狼狽した表情を見せない様にそう言った。
(この子は僕をからかっているんだろうか?)
「あの・・・」
「・・・どうしたの?」
「ううん、何でもない」
明らかに僕に対して良い感情は持っていない。
そう思ったときだった。
一瞬の暗転の後、眩い限りの光が空を走る。
「雷か・・・」
「・・・」
彼女は僕にしがみつき体を震わせていた。
「大丈夫?」
「ええ」
そう言いながら、僕達は抱き合う格好のまま
しばらく身動きもせずに佇んでいた。
「ごめんなさい、もう・・・大丈夫」
そういうと彼女は焦る様に体を離した。
「そう・・・」
不思議な事に僕は彼女にとても好感を抱いていた。
確かに顔立ちは息を呑むほど美しかったが、
それ以上に僕は引き寄せられる何かを感じていた。
「あ・・・と、これからもここに来る?」
「迷惑ですか?」
「いや、これからも来て話し相手になってくれると嬉しいと思って」
彼女の顔が照れているかどうか、
表情から読み取る事は出来なかった。
「・・・私で良ければ、よろこんで」
思いのほか彼女の返答は控えめだった。
(まるでさっきとは別人の様だ)
情緒不安定なのかもしれない。
ふと、手の甲を冷たいものが伝う。
「雨だ・・・」
僕は立ちあがり、急いで帰る準備を始めた。
数秒後には大降りの雨が描き終えていない空から降り注いだ。
「絵が濡れるわ」
「・・・仕方ないよ」
「さっきまで必死で描いた絵を、そんな簡単に捨てるの?」
彼女は複雑な顔をして僕を見ている。
返す言葉が無かった。
僕は昔から奪われる事・あきらめる事には慣れていたから、
容易に口をついて出たんだと思う。
「絵を貸して」
「え・・・?解った」
僕が絵を渡そうとすると彼女は服を脱ぎ始めた。
「どっ・・・どうする気なんだ?」
「私の服を被せれば、絵は濡れないでしょう」
そう言った彼女の目は本気だった。
「・・・君が風邪を引くと君の家の人が困るよ」
僕は適当な理由をつけて彼女を止めた。
「でも・・・あなたの絵が」
「自分の絵だ。僕が服を脱げばいい」
雨はあいかわらず降りつづけていた。
「ふふっ・・・良い所を持ってくのね」
「初めて言われたよ」
それから僕達は、雨が降り続ける中歩きながら色々な話をした。
雨は何も洗い流してはくれない
緩やかに そしてしめやかに ただ他人でありつづける
僕が絵を描くようになったのは、
他に何も無かったからに過ぎなかった。
体力があるわけではなく、賢くもない。
僕の兄弟はみな、優秀で両親の誇りだった。
決して彼らがそれを鼻にかけることは無かったし、
両親も僕らをあくまで平等に扱ってくれていた。
だけどいつしか僕は、押さえようのない劣等感に
頭を抱えるようになっていった。
見えない重荷にすべてを持っていかれそうだった。
その重荷を降ろしてくれるのは、いつも絵だけで、
どんな気持ちをぶつけても絵は必ず反応してくれた。
・・・・・・
いつしか彼女は、僕が絵を描く時には
いつも傍にいてくれる様になっていた。
僕はむしろそれが自然である様に思えていた。
「そう言えば、君はどこの家に住んでいるの?」
僕はふと疑問に思ったことを尋ねていた。
「私は、もっと山の上のほうにある家に住んでるの」
(変だな・・・この山の上に家なんてあったかな?)
そんな事も少し考えたが、
よくよく考えれば僕が見たこと無い所なんていくらでもある。
それに彼女を疑うという事をしたくなかった。
「それより、空は常に変わりつづけるから、
油断するとすぐ形を変えてしまうんだ。
っていったのはだれだったかしら?」
「ああ、そうだった」
・・・・・・・・・・・・・・・
いつしか僕は、絵を描くという事に
さほど興味を感じなくなり始めていた。
それほど僕にとって彼女との時間は大切なものに変わっていた。
「ねえ、空を見ていなくていいの?」
「いいんだ・・・もう絵を描く必要は無くなったんだから」
「・・・絵を描く事が好きなんじゃなかったの?」
「前は他に心を充たしてくれるものが無かったんだ」
「今は・・・?」
「今は君がいる」
そこまで話して、僕は彼女の顔がとても
悲しい表情に変わっている事に気づいた。
「私は絵を描いているあなたの隣にいるのが好きだった・・・」
「・・・ごめん」
そう謝ることしかできなかった。
「いいの。でも、絵を描く事を止めないで」
「・・・わかったよ」
(口ではそう言ったが、また描けるのだろうか・・・)
言い様のない不安が頭に渦巻いていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
静かな日だった。
ライン川ですら今日は休養を取って休んでいる様に感じた。
空もいつもの様な幻想的な風景を生み出すことは無く、
ただその役目だけを忠実にこなしていた。
僕と彼女は終始無言で、
僕が走らせる筆だけがずっと音を立てていた。
彼女は去り際もただ泣き笑いのような表情をしていた。
それから僕は、彼女が笑ってくれるように
ひたすらに絵を描きつづけた。
・・・・・・。
「そういえば、あなたは空の絵しか描かないの?」
彼女は前からの疑問だった、という様にそう僕に尋ねた。
「特にそう言うわけじゃないけど・・・ただ単に好きなんだ」
それを聞くと彼女は急に立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと違うものを描かない?」
久しぶりの屈託のない笑顔を見た気がする。
「別に構わないよ」
僕はそう答えた。
「じゃあこっちに来て」
そう言うと彼女は、僕が行った事のない
深い森の中へと進んでいった。
殺伐とした空気の中に靄がかかったような感覚。
正しい森とはこうあるべきだと僕は思った。
(こう言う景色なら僕も意欲をもって描けそうだ)
そう思った矢先、森は途中で切れていた。
目の前に広がるのは赤い花畑。
一瞬全ての感情や感覚といったものが取り払われた気がした。
何の花かはわからないが、とても美しい。
「この花はなんて言う花?」
「さあ・・・毒を持ってるらしいけど」
「え・・・毒?」
「そうよ」
急に僕の頭はパニックに陥った。
「・・・だ、大丈夫なの?」
「食べなければ大丈夫。それよりこの景色はどう?」
(それより・・・)
さほど気にも止めていない彼女にも驚いたが、
彼女が豪語するだけあってこの世のものとは思えない光景だ。
「・・・言葉では言い表せないよ」
この花畑を描いて見たい・・・。
一目で僕はそう思った。
そして僕らは近くの岩に腰掛けながら、
ずっとその光景を見つづけていた。
・・・・・・。
どれくらいの時が経っただろう。
ふと彼女が震えているのに気がついた。
「どうしたの?」
彼女は泣いていた。
そしてしばらく呆然としていた僕に彼女はこう言った。
「私・・・偉そうなこと言ってごめんなさい。
私だってあなただけが支えなの」
「・・・?どう言うこと?」
「私、両親がいなくて・・・本当はあなたの家の近くで、
家政婦みたいなことをやっているの」
「家政婦!?だって君と僕は大して年齢も違わないのに」
「私を養ってくれているんだもの。別に仕方ないと思うわ」
その口ぶりから、住んでいるのは親族の家だろうと推測できた。
「そんな時に、遠くで絵を描いているあなたを見かけたの」
なんだか、自分の苦しさなんて
大した事じゃないな・・・と思わされた。
「僕がこの花畑の絵を描き上げたら、貰ってくれないかな」
「・・・本当に?」
「勿論。その方が絵も喜ぶ・・・と思う」
途中まで言って、
なんて陳腐なことを言っているんだろうと思った。
でも、彼女が喜んでくれているんなら
どんな事だろうとできる。そう思えた。
・・・・・・・・・・・・・・・
不思議だった。
最近あまり彼女が会いに来てくれない。
忙しいのだろうか?
僕はその寂しさを紛らわす様に絵を描いた。
そんな時に限って絵はとても美しかった。
作者の僕が自画自賛するほどの出来だった。
・・・・・・。
そんな折、彼女はやってきた。
少し前のとても辛そうな顔をして。
「どうしてそんな顔をしてるの?」
「・・・え?別にいつも通りだと思うけど」
やはり彼女は変だった。
「もうすぐ、この花畑の絵も完成するよ」
僕は、いつも長い下書きを経て、
少しづつ色を塗る土台を決めている。
今日は、もう色塗りを始める段階まで来ていた。
「ああ・・・とても素敵な絵ね」
彼女は寂しそうにそう言った。
「本当にどうしたんだ?」
「・・・ううん、なんでもないの」
「そんなことないだろう」
「・・・」
「・・・?」
「あなたの絵を邪魔したくなかった」
「え・・・?」
そう言った彼女の手には、いつのまにか刃物が握られていた。
「一体何を言ってるんだ」
「私、あなたが絵を描いている姿がとても好きだった」
「ああ、そうだったね」
「でも、気づいたの」
「え・・・」
彼女は大粒の涙を流し、そして言った。
「あなたの絵を邪魔していたのは・・・私だった」
「・・・そ、それは君の勘違いだ!」
言うまもなく、彼女は花畑に囲まれながら命を絶った。
「約束・・・絵を描くのを、止めないで」
そんな、残酷な言葉を残して・・・。
彼女の血で染められた僕の絵は、
今まで見たものの何よりも美しく気高く・・・
そして悲しい芸術だった。
・・・・・・・・・・・・・・・
それからも僕はひたすらに絵を描きつづけた。
皮肉な事に僕は画家として成功し地位と名誉を得た。
もう兄弟達や両親の目を気にすることもない。
僕の重荷はいつしか消えていた。
・・・でも引き換えに僕は孤独になった。
どんなに美しい女性を見ても何も感じない。
僕の全ては、あの季節に置き忘れてしまったから。
そしてその孤独は絵を比類無く美しくする。
彼女の言った事は間違いではなかった。
・・・・・・。
彼女との約束はまだ続いている。
でも最近あの花畑が僕を呼んでいる気がしてならない・・・。
僕の罪はもうすぐ消えるのだろうか?
彼女との約束が僕の生きる糧だった。
僕は全てを手に入れて、全てを失った。
だからもし・・・またあの花達が呼んでくれたなら、
僕はやっと一番大事な人に、謝りに行ける。
END