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はるけきひと
−As it is
through−
著作 早坂由紀夫
*
去年のクリスマスの日にお母さんが死んだ。
それも、雨と雪の混じった最悪の天気で、
凍える様な寒さの日に。
大好きだったお母さん。
優しい笑顔ばかりだったお母さん。
いつも朝起きると台所で朝食を作っていた。
白味噌で作ったお味噌汁が日課だった。
たまにしょっぱかった。
見つめるほどに大好きだった背中。
喧嘩なんて、殆どした事無い。
よく一緒に服を買いに行ったりした。
恋の相談に乗ってくれたりした。
私の前でお父さんの事をちゃんと誉めた事はなかった。
でも私にはいつの間にかちゃんと解っていた。
その瞳がお父さんを映す時、他とは少し違うんだって。
なにより私はお父さんとお母さんが大好きだった。
大好きだった。
…………
私の家は緩やかな坂の途中にある。
寝起きの悪いお父さんと私にはキツイ条件の家だ。
お父さんはお母さんが居なくなってから、
何ヶ月かずっとふさぎ込んでいた。
お母さんが居なくなった事を認めるのに時間がかかったのだろう。
私も結構な時間がかかった。
きっと、お父さんは私の事なんて気にもかけてない。
あの日からそれは仕方ないと割り切る事にした。
逆にそう思い知らされたんだから。
でも私は……お父さんが、大好きだ。
「お父さん、行ってらっしゃい」
「……ああ。っていうか、お前も学校だろ」
「良いんだよ。出かけるのはお父さんが先でしょ?」
「あほくさ……」
「え〜? ひっど〜いっ」
まるで親子の会話にはきこえない。
お父さんは傘を手に持つと靴べらを使って、
25.5cmの革靴を履く。
普通の男の人より小さいサイズの靴。
下手したら私の同年代の男の子より小さい。
まあ、背は180cm近くあるんだけど。
私もそれにならってローファーに足を伸ばした。
「こら、踵を踏んで履くんじゃあない」
「いいじゃん。こっちの方が早いし」
「そう言う問題じゃない。危ないだろ」
仕方なく私も靴べらを使ってちゃんと履く。
別に大した問題じゃないと思うんだけどなぁ……。
晴れた空の下。
私とお父さんはゆっくりと日差しに向かって歩いていく。
気持ちが温かいせいか、少し気温も温かい気がした。
それでも息をすれば出てくるのは白い吐息。
私達の歩く後ろへとそれは流れていく。
「……そうそう、お前香水なんて付けてるみたいだけど、
高校生は皆そんなもの付けてるのか?」
「悪いの?」
「まだ早い」
「ちぇ〜、けち〜」
「ケチで結構。若いんだから素材の魅力で勝負しろよ」
「え……」
なんか微妙に誉められた気分がした。
それに……香水付けてる事、気付いてくれてる。
「安物の香水なんて付けてると、安っぽいと思われるぞ」
「ふんだ。お父さんこそ、そろそろ何か付けたら?
親父の匂いって奴で周りに毛嫌いされるよ〜」
「ばかヤロっ……俺はまだ若いっつ〜の!
そういうのは30代後半になってから考えりゃ良いんだよ」
隣のお父さんは日傘というわけでもなく、
ずっと傘を差し続けている。
理由をはっきりと聞いた事は無かった。
でも……何となく解る。解っちゃう。
その事には一切触れず、関せずに私は隣を歩く。
周りの人から少しばかり奇異の視線を浴びても、だ。
ふいにお父さんの顔をチラッと見てみる。
大丈夫。視線に気付いてない。
本当、すぐにでも結婚できそうな容姿をしている。
バツイチで子持ちだとしても、
お父さんに群がる人は多いだろう。
ただお父さんは今でも左手の薬指に指輪をはめている。
シンプルだけど綺麗な銀色の指輪。
それがお父さんの女除けになっていた。
「それじゃな」
言葉少なに駅へと歩いていくお父さん。
なんかなぁ……遠い高校を受験すれば良かった。
友達と学校の校門で落ち合うと、
私は友達に尋ねてみる。
「ねえ、お父さんって……どう思う?」
「お父さん? そうだなぁ〜。
強いて言えばウザくてたるい金の湧く泉?」
「うわ……えげつな……」
「なによぉ、掛け替えのないパパよ。
とでも言って欲しかったわけぇ?」
「や、そーいうんじゃないけど、さぁ……」
「もしかしてあんたファザコン?」
うわ。相変わらず痛い所を付いてくる。
「なっ……ち、違うわよっ!」
私は頬が紅潮するのを怒りに紛らわせた。
「いや解るよ〜。あんたんちのお父さんは格好良いもんね。
私なんか素でちょっと好きだもん」
「そ……そうなの?」
「くっく……あんた、やっぱファザコンだわ」
「こ、こいつ……」
「まあでも、格好良いのは確かよね。
最初会った時はお兄さんかと思ったもの」
「それは誉めすぎ……」
お父さんは格好良い。それは間違いない。
昔から欠点を隠したがるのか、弱みを見せない人だった。
あの時までは。
……或いは、お母さんだけには見せてたのかな。
私の前ではまるでアイドルみたいなお父さんだった。
ずっと、今でもずっと……。
子供の頃に書かされたお父さんについての作文。
「私は将来、お父さんのお嫁さんになりたいです」
今じゃ恥ずかしくて見る事も出来やしない。
「お父さん、酔ってるの……?」
「紗恵里っ……!」
涙を流していた。
あの、決して弱みを見せないお父さんが。
呼んでいたのは私の名前じゃない。
――――――――お母さんの名前だ。
圧倒的にお父さんの力は強かった。
けど私も抵抗するつもりはなかった。
間違えて良いよ。それでお父さんの辛さが減るんなら。
夜を通してお父さんは泣き続けた。
シンジラレナイ……。
あれだけクールだったお父さんが。
それを見ていた私は、なんとなく辛かった。
なんだか、お父さんが可哀相だったから。
どうしてお母さんは、私達を残して居なくなってしまったのだろう。
がばっと身体を起こして辺りを見まわした。
午後の授業が終わる寸前だった。
未だにあの時の夢を見てしまう。
一年前の、あの出来事の夢。
お父さんはあの時の事を覚えてない。
だから私は忘れられなかった。
それでいて、おくびにも出せなかった。
丁度あれから一年。
お母さん、また巡ってきたよ。
貴方の命日になったクリスマスが……。
お母さんはいつも言っていた。
「くすっ……お父さんはね、私が居なくちゃ何も出来ないのよ」
本当に、その通りだと思う。
でもお父さんは立ち直ろうとしてるよ。
私が支えになれてるのかは解らないけど、
あれからこうして社会生活には復帰できた。
……もうお母さんが居なくても、たぶん平気。
ああ、心配しなくても大丈夫。
お母さんへの気持ちは今も変わらないみたいだから。
重い腰を上げると私は帰り道を辿っていく。
私には付き合って半年になる彼氏が居た。
だからいつもは彼と一緒に帰っている。
「な、今日はどうする? ベタだけど表参道とか行くか?」
「ん〜ん。今日は先約があるから駄目」
「マジで? 彼氏より大事な用ッスか?」
「まあね〜。今日、ウチのお母さんの命日なんだ」
軽く彼氏の顔に緊張が走る。
多分、言っちゃマズい事を言ったと思ってるんだな。
「あ……そう、なんだ。じゃ、仕方ない……よな」
「くよくよしなくても、その内ヤラせてあげるから」
「ばっ、そんな不純な目的で誘ったワケじゃねえよ!」
ちょっと怒ったみたいだけど、照れと半々だ。
こいつをからかうのは本当に楽しい。
そう……私は多分、彼の事が好きだ。
ただ、これでも私って秘密の多い女だからなぁ……。
君の意に添う様な都合の良い女ではいてあげられない。
ごめんね、彼氏。
帰ってくると私は一足先に準備を始めた。
小さなクリスマスツリーを飾り付ける。
お母さんの写真立てをテーブルに置く。
それからちょこっとだけお洒落もしてみた。
一応、昔やってた蝋燭を立てて電気を消してみる。
「うはぁー……辛気くさいから蝋燭は止めとこ」
電気を付けると蝋燭を片付けた。
この日は、今年からワインを開ける事になっている。
シャブリ・グランクリュ「ムートンヌ」。
祝い事の時によく両親が飲んでいたワインで、
お母さんが大好きだったらしい。
今年は、私が飲んだっていいと思う。
ワイングラスをテーブルの上に二つ並べた。
見方によれば、家族の行事には見えない。
黙って私はお父さんの帰りを待つ。
すると、意外と早くお父さんは帰ってきた。
「この二つのワイングラスは……なんだ?」
「私も飲むから」
「やれやれ……あいつに似て育っちまったなぁ」
「え……?」
「いや、母さんも昔は良くそうやって俺を困らせたんだよ。
貴方が飲むなら私も飲むわって言ってさ」
ふと会話が途切れた。
お父さんは黙ってワインのコルクを抜いていた。
景気の良い音がしてワインが開けられる。
「さてと……メリークリスマス」
「うん。メリークリスマス」
どうしていいか解らずに、私は言葉を返した。
お父さんは二つのグラスへ上手にワインを注いでいく。
なんだかその光景も少しだけ懐かしい気がした。
ワインの一杯目をすぐに開けると、
すぐさま次を注ぐ。
その隣にはいつの間にかケンタッキーが置かれていた。
前はお母さんが作った料理だったのになぁ……。
こういう所で、お母さんがいない事は堪える。
私はワインを一口飲んだ後で少し涙ぐんでしまった。
「あれからもう一年か……早いもんだな」
お父さんはそうやってお母さんを懐かしむフリをした。
そう、フリだよ。
あの傘だって、結婚指輪だってそう……。
この人はお母さんを過去にしてはいない――――。
あおる様にワインを口の中へと流し込んだ。
「うぇえ……まずい」
苦くて酸っぱい。
ビールとかよりずっと飲めなさそうな味だった。
「やっぱりお前にワインは早いな……。
ほら、ケンタッキー買ってきたから食え」
そう言ってお父さんは私の手前にそれをずらす。
どこか子供扱いされてる気がした。
確かにいつまでたっても子供なのかも知れない。
私は思いきってワイングラスにつがれたワインを飲み干す。
「おい……大丈夫かよ」
「大丈夫。ぜんっぜんヘーキよ」
「無茶して吐くなよ……?」
私だって酒の飲み方ぐらい知ってる。
いつも私は、そうやって護られてるんだ。
悔しくてもう一度ワインを一気に飲み干す。
少し、頭の中で色んな事が駆けめぐった。
うん。お母さんに似てるって言うのは良く言われる。
でもお母さんみたいに綺麗じゃない。
御飯だってまだまだ上手く作れない。
お父さんの心を支える事だって、全然出来てない。
けど、けど……気持ちなら同じくらいだよ。
お母さんもお父さんも、大好きだよ。
隠れて、とても辛そうな顔をするお父さんを見てられないんだ。
気付くと結構な時間が過ぎてる事に気付く。
色々な話をしてたはずなのに、頭からどんどんすり抜けてた。
酔いすぎてるみたいだなぁ。
「お〜い。ぼ〜っとしてんじゃねえぞ。
寝るなら今日は風呂に入らなくて良いから。
歯を磨いてさっさと寝ろよ」
「うぅ〜……ちょっとだけ頭がフラフラする」
「仕方ねえなあ。水飲むか?」
「……うん」
ああ、ちょっとお父さんも酔ってるみたいだ。
でもさすがにあの時みたいな事はない、か。
へへ……私、ちょっと期待しちゃってるみたい。
私はふざけてお父さんに言ってみた。
「ねぇ、口移しで飲ませてよ〜」
「はぁ? 意識あるんだから自分で飲みなさい」
「なんだよぉ……けちぃ」
「意識不明になるほど飲んだ時は、
俺が口移しで飲ませてやるよ」
「ふ〜ん」
私はワインの瓶を抱えてそれを飲み干そうとした。
ふふ……思った通り慌ててこっちに走ってくる。
このくらいで慌ててくれるなら、
私は幾らだってお酒飲んじゃうよ。
「馬鹿野郎、急性アル中とか起こしたらどうするんだ!」
持ってきた水をお父さんは口の中に含む。
そして、 ……ゆっくりと水を私に口移しした。
唇の感触が、ほんのり温かい。
「コレで良いんだろ?
ったく、下らないコトしやがって」
「えと……お父さん、大好き」
真っ赤な顔が余計にぼわっと赤くなる。
けどお父さんは顔色一つ変えずに答えた。
「はいはい」
「おとーさんは?」
「ばーか。自分の娘が嫌いな父親が何処に居るんだよ。
愛してるに決まってるだろうが。最愛だっつーの」
「へへ……えへへっ……そっか、そだよねー」
「うわ、気持ち悪いにへら笑いしてるんじゃねえ」
そんな事言われたって笑顔を消せるはず無い。
娘として、最愛だって。
……愛してるんだって。
うわぁ〜、ちょっと娘に言うには過激なコトバだよ。
私だから……そう思うのかな。
嬉しい半分、少しだけは辛い部分もある。
私の『大好き』が家族愛にすり替えられちゃったから。
でも、きっと後悔するから……この事は心にしまっておこう。
お父さんの気持ちが聴けただけでも、今は嬉しい。
床に座ってるお父さんの膝に頭を乗っけて、
そっと私は目を閉じた。
「このファザコン娘。ちったあ父離れしろ」
「うるさいなぁ〜、人の勝手でしょ」
「歯も磨かないで寝る気か?」
「うへぇ〜……お父さん、磨いてよ〜」
「お前、俺をナメてるだろ……」
「嘘だよっ。起きるってば」
手でげんこつしようとしたので私は慌てて飛び起きた。
ずっとこの生活が続けばいいと思う。
留まることなく、移ろうことなく。
私の気持ちは何処へも向かってないけれど……。
戸惑うばかりで 八方が塞がれてるけれど……。
やっぱり私は、この気持ちのままで良い。
歯を磨き終わった頃にお父さんの声が聞こえてきた。
「おい、ちょっと来て見ろよ」
「なに?」
「雪が……」
「えっ! 雪が降ってるの?」
「降りそうだな、と」
「あ、あのねえ……」
まだ軽く酔ってるのかな。
折角ロマンチックな気分になるかと思ったら……。
お父さんは庭へ出るガラス戸を開けて空を見ている。
ふと思い立って、私はその酔い覚ましに付き合うコトにした。
小走りで隣に行くとお父さんの右腕を掴む。
「おぁっ、なにすんだよ」
「寒いから親子で団欒しようと思って」
「まあ……寒くはあるかも、な」
ほうけた様に空を見つめながら、
お父さんは私の頭を撫でている。
そう、 今はコレで良いの。
そしてこれからも、ずっとこのままで良い。
変わらずにお父さんと一緒にいられれば、それで……。
|
END
〜後書き〜
執筆時間は一日程度、って所でしょうか。
今回、物語に関する事を語るのは止めておきます。
考える余地を作るのが書く時のテーマの一つだったので。
例えば主人公の立場の様なものも、実は結構入り組んでます。
こんなタイプの主人公を書くのは初めてに近いので疲れました。
なんというか、どんな感情かが解りづらいというか。
テーマの一つがクリスマスだったのですけど、
どうしてもこういう話は続きが書きたくなります。
クリスマス短編3作の1作目でした。