その部屋は静かだった。
あまりにも。
畳の上、誰一人として声を立てずに男を見上げている。
・・・アスモデウス。
奴だった。
甍ちゃんは、その隣で倒れている。
外傷はない様だ。
俺達がそこへ駆け寄ろうとすると、
アスモデウスが手で俺達をけん制する。
「・・・イヴより先にお前が来たのか。
まあ予定外だが結果は一緒だ、高天原」
「え・・・わた、し?」
なぜ俺の名前を知ってるんだ?
それにどうして甍ちゃんを捕まえてる?
なんの為に・・・。
「甍ちゃんを返してくださいっ」
ゆりきさんはアスモデウス相手にも怯まない。
それどころか奴を睨みつけていた。
どういう奴かは解ってるらしい。
だがアスモデウスは静かに笑うと一歩前へでた。
「ふん、この女は勝手に来ただけだ。勝手にしろ。
それに貴様に用はない。高天原、お前だ。
お前に一つ、試練を与えないといけないそうだ」
「な・・・?」
「なあに、俺と少し遊んでくれるだけで良いんだよ。
本当の姿の俺とな」
その瞬間、甍ちゃんの所へ駆け寄ろうとした
ゆりきさんの身体が硬直する。
俺の身体にも嫌なものが駆け抜けた。
紫齊も目を見開いて奴を見ている。
誰も声一つ出せなかった。
アスモデウスの身体から煙の様な物が出ている。
そして首筋から頭を中心に何かが現れた。
牡牛と羊の頭だ。
頭が3つになったかと思うと、
身体が凄いスピードで大きくなっていく。
天井を突き抜ける程の大きさだ。
肌も人間のものではなく、動物の様な体毛に覆われていった。
・・・その姿は、魔物。
人じゃない。
人智を超えた・・・つまりは、悪魔。
俺の身体は自然にがくがくと震えだしていた。
怖くて恐ろしくて、俺は逃げ出しそうになる。
殺されると確信したときのような恐怖。
どうしようと無駄。敵うはずがない。
そう・・・思った。
「どうしたよ高天原。ガタガタ震えてるぜ?」
その声は人間の姿よりずっと低く太い。
恐怖を植え付ける為の声。
そんな風にさえ感じる。
「な、凪・・・ちゃん」
ゆりきさんはへなへなと座り込んでしまう。
俺だって座り込んでしまいたかった。
紫齊も呆然と立ちつくしてる。
「・・・かかってこいよ高天原!
じゃなきゃ・・・殺しちまうぜ?」
そう言って俺の方にゆっくりと歩いてくるアスモデウス。
一歩一歩が地鳴りの様に頭に響いてきた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ・・・殺される。
でも・・・紫齊やゆりきさんを置いて逃げるのか?
そんな事、出来るわけないだろ・・・!
俺は勇気を振り絞って足を動かそうとする。
動け、動け、動け・・・。
「動けぇっ!」
足を叩きつける様に畳を踏みつけると、
アスモデウスへ向かって走り出す。
さらに近くにあった机を力任せに持ち上げた。
それをアスモデウスの身体目掛けて思い切り投げつける。
バキィィイイッ!
木製の机が音を立てて散壊した。
まるで砂を投げつけたかの様に粉々に。
「ふむ。俺はお前の機転を試してるわけでも、
勇気を試してるわけでもねぇんだよ。
・・・お前の底力を見せてみろ、高天原っ!!」
瞬間、俺の視界の右に掠める何かが現れる。
それが何かを映し出す前に、
俺の身体は左へとはじき飛ばされた。
身体がバラバラにされる様な感覚。
今まで味わった事のない痛覚だった。
そのまま俺は机を二つ三つ飛ばしながら倒れ込む。
「ぐ、はぁっ・・・」
死なない程度に手加減されているのは解った。
それでも俺の身体は軋む様に異常を知らせる。
骨は・・・折れてない。
でも、身体が動く事を止めたがっていた。
「この程度で死ぬなよ? ちょっと触っただけだからな」
そんなアスモデウスの言葉にも応えられない。
痛みのせいもあったが、恐怖で舌が上手く回らなかった。
足に上手く力が入らない。
奴はゆっくりと俺の方に歩いてきた。
それから人間の頭がにやっと笑って言う。
「まあお前がもしただの人間なら・・・死んでも構わんぜ」
そして手の甲ではたく様に右へとなぎ払う。
身体が浮き上がったかと思うと奥の壁へ叩きつけられた。
「がはっ!」
体中が痛みで熱くなっている。
このままだと俺ってなぶり殺しか・・・?
嫌だ・・・そんなの、嫌だ!
「うぁああああぁっ!」
俺は気力を振り絞ってアスモデウスへと走った。
大して意味のない行動だって事は解ってる。
けどそれしか俺が出来る事はなかった。
恐ろしいから傷つける。
見ていたくないから叩き伏せる。
それが出来なければ・・・。
ゴガッ!
頭に強い衝撃を受けてその場に倒れ込んでしまった。
このままじゃ死ぬ・・・。
倒す事が出来なければ・・・俺が、死ぬんだ・・・!
「ふぅ。どうやらアシュタロスの思い過ごしだった様だな。
こんな野郎がルシードのはずがねぇ」
足蹴にされるが俺はどうする事も出来ない。
その時初めて俺は自分が死ぬかもしれないと思った。
自分の人生が終わってしまうかもしれないと思った。
・・・これで、終わりなのか?
俺は本当にこれで死んじまうのか?
そんな時に俺は身体を暖かい物が包んでいる事に気が付く。
なんだ?
解らないけど・・・凄く、暖かい。
これは、人の温もり・・・。
「凪っ! しっかりして、しっかり・・・してよぉ」
「・・・し、さい?」
紫齊が俺を抱きしめていた。
「どうして・・・」
一緒に殺されてしまうかもしれないのに。
どうして?
駄目だ、逃げてくれよ。
俺にはお前を助ける事は・・・できないんだから。
「凪は友達だろ? 見捨てるわけないじゃんっ!」
頬に水滴が・・・涙が落ちてきた。
紫齊の涙だ。
ごめん、心配かけて・・・。
でも俺もう動けないんだ。
「後は任せてよ凪」
紫齊は震える手を俺から離すと、
アスモデウスと向かい合う。
「おいおい・・・お前が何するんだ?
俺に処女でも捧げてくれるのか?」
「ふっ、ふざけるなっ!
私があんたをぶっ倒してやるよっ」
「・・・愚かと言いたいが、邪魔だ」
目の前にいたはずの紫齊の姿が左へと流れていく。
受け身も取れずに壁へと激突した様だった。
俺は思わず手を伸ばしたが、何の意味もない。
紫齊は身体を丸めて倒れていた。
「紫齊・・・紫齊っ!」
今の俺はそう叫んだだけで身体が軋む様に痛む。
だからそうやって叫ぶ事しかできなかった。
「人の心配より自分の心配の方が先だろ?
ルシードではない奴に用はない。死ね」
物凄い風圧と共にアスモデウスの腕が俺へと伸びる。
多分、殴られたら骨ごと潰れる程の強打だ。
――――――――その瞬間、光が舞い降りた。
俺の身体とアスモデウスの拳。
その隙間に僅かばかりの光が発生している。
それが俺とその一撃を直撃させずに相殺していた。
「・・・なに?」
「な、なんだ・・・これ」
不思議な淡い光。
すぐに消えてしまったが、それは確かに俺を守ってくれた。
「まさかお前がルシードだというのか?
だとすれば、貴様を殺すわけにはいかねぇんだが・・・」
こいつ・・・一体どういう事だ?
さっきから頻りに口にしている言葉。
俺が、ルシード?
それって一体何の事なんだ?
「仕方ねぇ、もう一度ちゃんと確かめないと駄目だな。
・・・食人鬼ども、周りの人間を片付けろっ。邪魔だ」
その一言と共に食人鬼達がゆりきさんや紫齊に襲いかかる。
「や、やめろっ!」
食人鬼達が3人に触れるか触れないかの瞬間。
真っ赤な炎が辺りを包み込んだ。
さすがに食人鬼達もそれに怯んで後退する。
「・・・この炎、イヴか!」
食神の間の入り口に立っている人影。
それは、間違いなくイヴだった。