粉砕音。
背後から聞こえるカオスな音が心臓の鼓動を急かす。
ゆっくりとだけど確実に私達は逃げ場を失っていた。
隣の夢姫と共に今は歩きながら走ってる感じ。
スピードを出さなくても、追いつかれるほど早くはない。
多分、色々な場所に身体をぶつけてるせいだ。
私達は考えなければならない。
屋上に逃げるしかなくなっている状況で、
最終的に私達が逃げ切る方法を。
音古さんの言っていた事を信じるならそういう事だ。
背後からはその幾つもの赤い瞳がこちらを睨んでいる。
あの化け物を殺してはいけない。
・・・っていうより、殺せるはずがなかった。
こっちは女の子二人。
夢姫は不思議な力を持ってるみたいけど、
腕力は普通の女の子と変わらない。
どう転んでも闘う事すら無理だ。
隣の夢姫は全く動揺さえしていない。
「どうやって殺そっかなぁ」
「夢姫、なんて恐ろしい事を考えてるのよ」
「だってあのミミズ邪魔だもん」
そうは言っても、相手は化け物だ。
さっき夢姫の不思議な力も通用しなかった。
「今は逃げる事だけ考えよう」
「うん。わかった」
階段を駆け上がっていく私達。
もうじき私達は屋上にたどり着いてしまう。
心なしか後ろのミミズのスピードは上がっていた。
どうやら周りにある壁が足止めしている。
おかげで私達を補足しきれないみたいだった。
出来れば屋上までに助かる手段を考えておきたい。
私は走りながら呼吸を整えていった。
まず、屋上に逃げ場は無い。
そうとすれば私達は屋上に逃げる前に、
ミミズを振り切る必要があった。
上手く階下に逃げる事が出来れば良いのだ。
屋上へ逃げるという流れを変えてしまえばいい。
けれど、それは不可能とも言えた。
背後のミミズは周りの壁を巻き込みながら進んでいる。
そこには一部の隙間も存在しなかった。
あっという間に7階に辿り着いてしまう。
ぐるりと7階フロアを迂回した。
人はまだ沢山いる。
子供から女の人、お爺さん、店員さんも。
私は耐え難い罪悪感に襲われていた。
ミミズが追いかけてくる事で私に責任はないのに。
私達とミミズが走ってくるのを見て、
人々は顔色を変えて走り出した。
唖然としている人が何人かミミズに飲み込まれていく。
やっぱり・・・どうしても助けられないのだろうか。
自分の無力さに吐き気がしそうだった。
「そうだ、アレは効くかも」
「え?」
ふいに夢姫が腰の辺りから何かを取り出した。
切れ味の良さそうな鋭いナイフだ。
両手に一本ずつそれを握ると、ミミズの方を振り返る。
左手のナイフが直線を描いて飛んでいった。
さらに夢姫は回転する様に右手を回してナイフを放つ。
二つのナイフはミミズの口の中に突き刺さる。
すると流れる様な仕草で夢姫はまた走り出した。
ミミズは苦しんでいるようだけど勢いは変わってない。
「あれ、もう無いや・・・」
女の子がナイフを二本もってる時点で上出来だ。
しかしその攻撃はミミズの怒りを高めただけらしい。
唸る様な地響きと共に辺りに身体を打ち付けるミミズ。
私は駄目元で夢姫に聞いてみた。
「屋上からどうやって逃げるか、考えてる?」
「ううん」
ああ、神様。
お願いだからどうにか私達を助けてください。
こんな時くらいしかお願いしないんだから、
助けてくれたって良いじゃないですか。
そんな時、逃げ惑う人達の中の一人が煙草を投げつけた。
ミミズはそれを見て物凄い戸惑いを見せる。
・・・どういう事だろうか。
次の瞬間には問題なくその煙草を踏みつぶしていた。
反射的に毒物を避けたの?
もっと早く気付かせて欲しかった。
さっきから階段の踊り場にあるトイレの前に、
煙草やジュースの自販が幾つもあるのを見てる。
まあ、買ってる暇なんて無いけど・・・。
私達は8階への階段を昇り始める。
「夢姫、この先にもし煙草の自販があったら・・・」
そこまで言って私は気付いてしまった。
8階への階段に、踊り場はない。
デパートは完全に封鎖されていた。
それもたった一匹の生物によって。
騒ぎは収拾がつかないほどに大きくなりつつあった。
どうにか中へ入ろうとするものの、
維月はどうすればいいのか想像もつかない。
「・・・ちょっと手遅れ気味だな」
気付くと維月の隣には一人の男が立っていた。
Yシャツをラフに着こなし、苦笑いを浮かべている。
彼は維月に気付くと近づいてきてにこりと笑った。
「やあ、お嬢さん。このデパートに入った事あるかい?」
「え? ええ、まあ」
「じゃあさ、ここ以外で中に入る場所知ってる?」
「そうですね・・・裏手にあった様な気がします。
ただ、関係者用の通用口だと思いますけど」
「そっか。ありがとう、美しいお嬢さん。
念のため、お名前を聞かせて頂いてもいいかな」
「はぁ・・・音古と言います」
「音古ちゃん。可愛い名前だね」
馬鹿にしてる素振りはまるでない。
だが維月はそんな男の態度に不審なものを感じた。
「あなたは、一体・・・」
「君の魅力に取り憑かれた哀れな男さ」
「なっ・・・!?」
言葉を返す前に男は裏手へと走っていく。
手首に当たる鋭利な刃。
オフェリーはそうする事で、
自分より出でた者を消滅させようとしていた。
「ぐっ・・・」
歯を食いしばる。
だが、それ以上包丁は彼女を傷つけようとしない。
動脈へ届くかどうかの距離で刃は止まっていた。
(これだけ人を殺して・・・それでも私は、
浅ましくも生にしがみつこうとしてる)
そんな時、彼女の手に握られていた包丁に何かが絡みつく。
包丁はあっという間に何処かへと飛んでいってしまった。
糸か何かが包丁に絡まったのだ。
(けど、これは・・・)
「千李・・・さん?」
「ぜはぁ〜。間に合ったみたいだな」
オフェリーの前には汗でシャツを濡らす千李の姿があった。
彼の視線はその笑顔とは裏腹に彼女の事を射抜いている。
「ちょっとばかり気が早いぜ、オフェリーちゃん。
君は世界を花で覆い尽くすのが夢じゃなかったのか?」
「でも私、もう・・・」
何かを言おうとしたオフェリーの口が塞がれる。
千李は有無を言わさずに彼女を抱きしめてキスしていた。
彼女は困惑してそれに抗う事もしない。
ゆっくりと千李の唇が離れた後、
思い出した様にオフェリーは言った。
「な、なにをするんですかっ・・・」
「悪い子にはキスをする。これ、俺流のお仕置き」
「誰にでも、こういう事できちゃうんですね」
何故かオフェリーは自分の行為が馬鹿らしく思えていた。
もし千李がまともに説得しようとすれば、
彼女はさらに自分を追いつめていたかもしれない。
それを意識しているのかしてないのか千李は言う。
「俺は女性全てに敬意を払ってるから」
「それって・・・女の人なら誰でも良いって事ですか?」
「なんて事を言うんだよ。君だけに決まってるだろ」
恥ずかしげもなく千李はそんな言葉を口にする。
おかげでオフェリーは余計におかしくなってしまった。
(私は、どうして死のうなんて考えたんだろう)
自分で自分の行動に笑いが込み上げてくる。
ただそれは、自嘲では無かった。
「おし。もう大丈夫そうだな」
「・・・はい。あの子達を止めなきゃ」
「そうだな、俺達の愛に支障が出ちまう」
「くすっ・・・」
決して二人の立場は笑って済まされるものではない。
だが落ち込んでいればいいという物でもなかった。
それが必ずしも死者への弔いになるわけではないからだ。
私達のスピードについてこれなくなったのだろうか。
いつの間にか、ミミズの姿は背後から消えていた。
程なくして私達は屋上へとたどり着く。
「はぁ、はぁ・・・」
考えてみれば走り通しだった。
運動部でもない私の足はもうガクガク言っている。
「もう限界だよ、動かないでマミー!」という感じで。
夢姫の方はそれほど疲れはなさそうだった。
見かけに寄らず体力があるみたいだ。
屋上にはまだ子供がちらほらと遊んでいる。
さっきの巨大ミミズがこんな所に来たら大パニックだ。
信じて貰えるかは解らないけれど、
巨大ミミズの事を話して非難して貰おう。
だけど肝心のミミズ自体の姿はどこにも見あたらなかった。
・・・何か妙だ。
どうしてミミズはすぐに私達を襲ってこないのだろう。
屋上という逃げ場のない空間だというのに。
ミミズがそこまで頭が回るかは別だが、
明らかに今の状況は不気味に感じられた。
仕方なく辺りを注意深く見渡してみる。
つい先ほど居た時とあまり変わっていなかった。
遠くの方に子連れの夫婦の姿が見える。
100円で動く機械に子供を乗せて、
幸せそうに笑っていた。
「マ〜マ〜、これ面白いっ」
「そう〜。私も乗って良い?」
「駄目だよぉ、重いもんママ」
「な〜んですってぇ〜?」
微笑ましい。
ついさっきの惨状が嘘の様だった。
そんな風に私がぼけっとしていると、
ふいに足下の床がぐらぐらと揺れ始める。
「な・・・なんなの、これ!?」
次の瞬間だった。
私の目が信じられない光景を映し出す――――
あまりにも唐突なその光景。
認識する事を頭が拒否したがっていた。
だって・・・たった今まで、目の前で子供連れの夫婦が・・・。
「きゃぁぁあああああぁっ!」
誰かがそう叫んでいた。
私は唖然としてそれを見つめる事しかできない。
巨大ミミズがいきなり床下を突き破って現れていた。
あの子供は、どこ? あの夫婦は?
何が・・・起こったっていうの?
目の前に現れた巨大ミミズの口は、
何かを咀嚼する様に蠢いていた。
その口元から何かが零れ落ちてくる。
少し遠くの床へと・・・子供の腕が、無造作に、零れ落ちた。
身体中がガタガタと震えている。
すぐに巨大ミミズはまた首を引っ込める様に消えた。
「・・・ゆ、ゆめ、今の・・・」
「うん。食べられちゃったね」
平然とそう言ってのける夢姫。
違う・・・そんな言葉で片付けて良いはずがない。
「人がっ、目の前で・・・夢姫!」
「どうしたの?」
「そうじゃないっ! 夢姫、何も感じないの!?」
「解んない」
彼女は精神に異常があるから。
そんな風に納得は出来なかった。
だけどそんな事を考える間もなく、またミミズが頭を出す。
逃げようとしていた人がその腹の中へと消えていった。
「くっ・・・」
頭がどうにかなりそうな気がする。
目の前であまりにもあっさりと、無情に人が死んでいた。
私にはどうする事も出来ない。
それどころか、自分にも危機が迫っていた。
自分に迫る危機のせいで人の死が霞む。
たまらない気分だった。
「夢姫、あのミミズをどうにかしなくちゃっ・・・」
「他の人達が食べられてる間に逃げられると思うよ」
「そんな事・・・絶対に駄目!」
そう言った時、近くに煙草の自販が目に付く。
煙草を使えば巨大ミミズの動きを止められるかもしれない。
思わず私はそこへと駆けていた。
私は夢姫ほど利己的には生きられない。
クールな外見とは裏腹に、というのが魅力なんだ。
「・・・ゆみな、そっちは危ないよ」
「え?」
足下が震え始めていた。
まさか、私の足下に・・・いる?
必至に走るけど大した意味があるのだろうか。
地面が割れ始めて私は足を取られた。
まさか物の動きを感知してる?
私が走り始めたから?
今更その迂闊さを悔やんでも遅かった。
いやだ、私・・・こんな所で・・・!
「ゆみ・・・なっ」
夢姫の声が聞こえた。
誰かに私は突き飛ばされる。
身体ごと自販機の所へ倒れ込んでいた。
目の前の視界が霞みそうになる。
「・・・ゆ、め?」
誰かが私に覆い被さっていた。
夢姫だろう。
認識がはっきりしてくる。
「夢姫っ!」
「痛い・・・わたし、なにしてるんだろ」
彼女は右肩に酷い怪我を負っていた。
あのミミズの鋭い牙に引っかかれたらしい。
真っ赤な血が服を通して流れていた。
困った様な顔で夢姫は私にもたれかかる。
ある意味でそれは彼女らしくなかった。
誰かを助けるなんて、そんな事初めての様に思える。
代わりに彼女は酷い傷を負ってしまっていた。
「どうして、私の事を・・・」
「わかんない。身体が動いてた」
巨大ミミズはそのトリッキーな動きを止めると、
私達へとゆっくり迫ってくる。
煙草の自販を警戒しているのかすぐには襲ってこなかった。
けどそんなのは一時しのぎに過ぎない。
どうしたらいいの? どうしたら・・・。
考えるけど有力な答えは見つからなかった。
身構える。無駄だとは解っていても。
私は夢姫の事を抱きしめて目を瞑った。
自殺行為だというのは解っている。
それでも身体は恐怖でガタガタと震え、
視覚による恐怖を遮断する為に目を閉じていた。
その時、バタンという扉の開く音が聞こえる。
「ラピ達! もうやめてっ!」
強い口調で女性の声が聞こえた。
目を恐る恐る開けてみる。
階段の側の方に二つの人影があった。
男性に抱きかかえられる様にして女性が立っている。
「私ならもう平気だから・・・消えて頂戴、お願いよ」
女性の声に反応する様にしてミミズの動きが止まった。
そして女性の身体へと吸い込まれていく。
風も何も無いのにミミズは吹き飛ばされるかの様に、
その女性の胸へ向かって消えていく。
全てはあっという間の出来事だった。
一転して辺りが静寂に包まれる。
信じられない事にミミズは女性の中へと消えてしまった。
「あ、あなた方は・・・」
そんな私の疑問に答える事もせず、
彼女たちは何処かを見つめる。
そこには・・・。
「どうやらしくじったようだな」
黒いコートと黒い眼帯。
いつか夢姫を襲った男の人が立っていた。
でも一体どこから来たのだろう?
エレベーターは使えないし、
階段を登ってきたわけでも無さそうだ。
「後は俺がやる。あの女の始末は任せろ」
黒い眼帯をした男は無表情にそう言う。
それを聞いた女性は意外な顔で私達を見た。
「あんな・・・高校生くらいの女の子を、
よってたかって殺そうというの・・・?」
「俺だって嫌さ。でも止めるわけにはいかない。
止めたきゃ神に直談判でもしてくれ」
「っ・・・それは・・・」
ワケの解らない事を言い合っている。
理解できるのは、夢姫の事を殺そうとしてる事だけだ。
私達へと歩いてくる黒い眼帯の男。
咄嗟に私は構えたけど、どうしようもない。
あの光に二人とも殺されるのがオチだ。
けど、その時だった。
「ゆみなは・・・友達」
「え?」
「友達、だよね」
「・・・うん。私達は、友達」
私がそう答えると夢姫は私を突き飛ばす。
彼女は翻ると階段へと走り始めた。
「逃がすか・・・!」
それを黒い眼帯の男が追う。
二人の姿はすぐさま階段へと消えていった。
唖然とそれを見守っていたけど、
それを追う為に私は走ろうとする。
けれどそれはYシャツを着た男の人に止められてしまう。
「・・・あの子は、君を護ろうとしたんだ。
君は彼女を追いかけちゃいけない」
「でも、でもっ・・・!」
「所で君は夢姫ちゃんの友達・・・かい?」
「・・・はい」
迷わず私はそう答えていた。
夢姫は私の友達。
友達の中で一番残酷で子供っぽくてわがままな子。
それなのに私は彼女を放っておけない。
あの子の事を放っておけないんだ。
「そっか。なら・・・また、会えるさ」
「・・・・・・」
どうしてか男の人の言葉は慰めにしか聞こえない。
真実味を帯びていなかった。
せっかく、友達になれたっていうのに・・・。
私はへたり込む様に座ってしまう。
自然と私は気付き始めていた。
恐らく二度ともう、あの子と会えないっていう事に。
閃光が夢姫を襲う。
彼女の身体が叩きつけられる様に地面を転がった。
それでも素早く体勢を立て直して路地裏を走る。
夢姫は走る途中ふと考えた。
(ゆみな、もう会えないのかな。ちょっとだけ・・・寂しい)
足がもつれてまた倒れそうになる。
すぐ背後にはインサニティの姿が迫っていた。
右腕は使い物にならない。
かといって利き腕ではない左手が、
何かの役に立つとは考えられなかった。
距離を狭められ、思わず夢姫はナイフを出そうとする。
左手で腰の辺りをまさぐった。
(・・・そっか、あのミミズと闘った時にナイフは・・・)
それに気付いた時にはもう遅い。
彼女の身体を光が包み込んでいく。
四肢がバラバラにされる様な痛みが彼女の身体を襲った。
「あぅっ・・・」
さすがの夢姫もうめき声を漏らしてしまう。
インサニティの放った光が、身体中を駆けめぐった。
常人なら気絶してもおかしくない様な痛み。
夢姫は倒れ込む様に地面を転がっていく。
それでもまだ走ろうとした。
「く・・・はぁ、はぁ」
「もう、幕を引け。疲れただろう」
「・・・わたし、は・・・死なないよ」
身体中の力を振り絞って足を動かす。
信じられないほどの傷を負いながら夢姫は走った。
周りの景色など、目には入っていない。
ただ目の前だけを見つめて走り続ける。
止まればインサニティに殺されるから。
両足をもつれさせながら、
惨めな姿で彼女は何度も倒れた。
そのまま意識を失ってしまえばどんなに楽だっただろう。
立っているだけでも辛い傷だ。
ぽたぽたと足や地面に血が零れる。
背後にはまだインサニティの気配があった。
つかず離れず、夢姫を追いかけている。
夢姫は路地を抜けて歩道橋を登っていく。
「まだ、死にたくない・・・なぁ君、会いたいよ・・・」
うわごとの様にそんな事を呟く。
彼女はふと歩道橋から下を見た。
地面まではある程度の距離がある。
落ちればまず無事では済まない高さだ。
大型のトラックが真下を通過しようとしている。
それは常人を卓越した運動神経を持つ夢姫でも、
今の状態では一か八かの賭けだった。
歩道橋をインサニティが登ってくる。
「往生際が悪いぞ・・・!」
急いで夢姫は歩道橋の手すりに足を乗せた。
インサニティが気付いた時には止める手だてはない。
それは夢姫にとって時間が止まった様な感覚だった。
静かに落ちていく。
落下速度に身を任せる。
スカートだったせいで下着は見えていたが、
それを気にする余裕などは無かった。
途中で横向きに身体が流れていく。
失敗すれば間違いなく夢姫は死ぬ。
それでも彼女は迷ったりしなかった。
風の流れに身を任せる様に、歩道橋から落ちていく。
落下する途中。
僅かな時間の間に夢姫はふと考えた。
(そういえば夕飯食べてないなぁ・・・)
その夏は本当に不思議な事でいっぱいだったと思う。
人生において貴重な体験だったとも思う。
でも・・・思い出として薄れてしまうのが少し悲しかった。
仕方ない事だとは解っていても。
私は夢姫が居なくなった後に、
音古さんとデパートの下で会った。
「すいません。私が上手く伝えられなかったばっかりに・・・」
「ううん、音古さんの所為じゃない。
それに・・・またきっと会える、そう信じてるから」
どこかその言葉は虚しく午後の夕焼けに消えていく。
何かを言い足そうに音古さんは私の方を見たが、
躊躇ったのか何かを言っては来なかった。
二人して風情のある夕焼けを背に歩く。
商店街の方では風林の音がしていた。
夢姫は今頃どこで何をしているのか。
きっとあの男から逃げ切れてると思う。
心配じゃないか、と言われれば凄く心配だ。
けれど・・・あの子は諦めない。
だから夢姫はなぁ君という人にいつか会える気がした。
そうじゃなきゃ報われない。
「あの、こういう事を聞いて良いのか解りませんけど・・・
汐原先輩と夢姫さんって、一体どういう関係なんですか?」
「・・・うん。夢姫は、私の友達」
「友達・・・ですか」
「そう、大切な友達」
――――――夏が、過ぎていく。
私にとって特別な夏が。
思い出となって風化する前に、私はちゃんと言えた。
これだけはどんな事があっても忘れないでね、夢姫。
私は、貴方の友達だから。
貴方は私にとって大切な、友達だから・・・。
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