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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Arcadia Inside

Chapter132
「天使裁判-01-」
 


04月07日(火) AM06:05 雨
白鳳学園内

 気配らしい気配はなかった。
 イヴがそれに気づいたのは、完全に偶然と言えるだろう。
 いわゆる一個分隊という人数の天使たちが、白鳳学園に近づいていた。
 この状況で理由があるとすれば、イヴの確保に他ならない。
 即座にそう思い当たった彼女は横に寝ている凪を起こさないように、
 音を立てずベッドを出ると、まだ生乾きの服に着替えた。
(凪・・・こんな私を、救おうとしてくれたことに感謝するよ。
 もしも、また会うことが出来たら・・・そのときは、きちんと礼を言う。
 だから今は・・・勝手に居なくなることを許して欲しい)
 昨日まであったやり場の無い絶望感は、
 ほんの少しだけイヴから遠のいている。
 何かが変わったわけではなかった。むしろ状況は彼女に対して厳しい。
 それにも関わらず、イヴは不思議と落ち着いていた。
 凶暴さはなりを潜め、かつての冷静さが表情に表れている。
 欲求不満が解消されたというのもあったが、
 紅音を裏切ってまで自分を救おうとした凪の存在が大きかった。
(そう、私は何もはっきりとしたことは語らなかったのに・・・。
 苦しさの理由も、何も。だから・・・お前だけは、信じられると思った)
 窓からそっと外へ出ると、彼女はすぐに走り出す。
 深夜から降り始めた雨のおかげか、
 イヴは生乾きだった服も気にならなくなった。
 出来れば雨にまぎれて姿をくらますのが望ましい。
 だが、学園から出る前にイヴの姿を天使たちが補足した。
 レインコートに似た黒い出で立ちの天使が六人。
 彼らはイヴの逃げ場を塞ぐ形で四方を囲む。
 六人と言う数は、容易に突破できるほど易しくはなかった。
 仮にどこか一点を突破しようとしても、
 即座に全員で取り押さえてくるだろう。
「はじめまして、でいいんスかね」
 天使のリーダー格である男性の天使がそう口にした。
 彼は頭に被っているフードから、顔を覗かせる。
「お前は、確か・・・カマエル」
「ミカエル様の勅命でね。あんたの確保は俺が取り仕切ることになった。
 本来は、ラグエル主天使長がやる類の仕事だとは思うんスけどね」
「そう、か」
 カマエルの手は神剣ルヴェルディへと伸びている。
 ほんのわずかにも彼に油断はなかった。
 何処かでイヴはこの状況を予測してはいたのか、
 思いのほか彼女はあっさりと逃げるのを諦める。
「・・・私は、このあとどうなる」
「堕天使疑惑中において逃亡一年。これだけでもかなりの重罪っスね。
 けど、それよりも・・・昨夜の一件が、正直致命的かな」
「それは・・・どういう、ことだ」
「緊急避難としての目的以外で、天使が人間と交わってはならない。
 正直言って、一年の失踪に加えてこの罪は非常にまずいっスよ」
「なっ・・・」
 イヴは彼が昨夜の出来事を知っていることに、驚きを隠せなかった。
 数時間前起きたことを、何故天使が把握しているのか。
 そもそも、何故こうもタイミングよく天使がこの場所に現れたのか。
 まるで凪とイヴが関係を持つのを待っていたかのようだ。
 そう考えて、ようやくイヴはこの状況を作りだせる者の存在に気づく。
「そうか・・・そういう、ことか」

04月07日(火) AM06:35 雨
寮内・自室

 寮内は時が止まったかのように静かな空気が流れている。
 早起きした者たちが活動している程度で、
 まだ多くの生徒が寝ている時間だ。
 そんな早朝に、けたたましくドアを叩く音が聞こえてくる。
 昨夜、イヴにありったけの精力を奪われていた凪は、
 眠い目をこすりながらもそもそと起き上がった。
「誰?」
 ドアを開けた瞬間、紅音とカシスの二人がずかずかと踏み込んでくる。
 様子からして、紅音はリヴィーアサンと交代しているようだ。
 二人は部屋の中を見るなり、ものすごい剣幕で凪に詰め寄る。
「凪、貴方ルージュと一緒だったってカシスに聞いたけど」
「そうなのっ。昨日までは確かに居たのっ」
「ということは・・・まずいわね」
 かなり真剣な顔つきで、カシスたちは凪のことを見ていた。
 凪は二人の話で、ようやくイヴが居なくなったことに気づく。
 慌てて室内を探してみるが、その姿はどこにもなかった。
「そんな、ついさっきまで居たのに・・・一体、何処に?」
「アルカデイアよ」
 一言、リヴィーアサンがそう呟く。
 幾つかの事象が頭の中を駆け巡り、凪はその言葉の意味を理解した。
「天使に・・・捕まったって、こと?」
「ええ、先ほどの感覚からして恐らくね」
 以前よりラファエルに聞いていた話を思い出す。
 無罪はまず無いという天使裁判。それにかけられるであろうイヴ。
 軽い眩暈を覚えるほどに、それは寝起きの凪に重くのしかかった。
 追い討ちをかけるようなタイミングで、カシスが凪に掴みかかる。
「凪っ! どうして捕まえておかなかったのっ?
 このままじゃ、ルージュが・・・ルージュがっ!」
「落ち着きなさいカシス。天使裁判は刑の執行までに数日を要するわ。
 アルカデイアにさえ辿り着ければ、まだ間に合う」
「す、数日? それしかないのっ!?」
 思わず凪はそう叫んだ。彼が想像していたのは日本式の裁判だからだ。
 元々、天使裁判は有罪ありきの裁判。審議はかなり短縮して行われる。
 更に権威主義である天使の場合、上訴は形骸化していて事実上不可能だ。
 審議から判決、刑の執行までは実に三日から四日という速度で行われる。
 代わりに、裁判にかける前の段階で十全に被告を吟味するのだ。
 イヴの場合は一年の失踪により、既に吟味期間は終了している。
 アルカデイアに着けば、即日裁判が行われるだろう。
「刑の内容は、恐らくあの子が助かるようなものではないはずよ。
 凪、貴方との姦淫罪が致命的なものになるでしょうからね」
「・・・知ってたの、か」
「あまり私を甘く見ないことね。安心しなさい、紅音には教えてないから。
 そういうのは、自分自身できちんと話すべきことだからね」
 既にリヴィーアサンから聞いていたのか、
 カシスが驚いている様子はなかった。
 ただ、軽蔑の目線で凪のことをにらんでいる。
「これで、凪は私の家族ほぼ皆に手を出したってことなの。サイテーなの」
「うっ・・・それは事実だけど、さ。
 何ていうか、半分俺の意思関わって無いだろ」
「そんなの関係ないのっ。全く、サイテーの浮気者なの。
 今度、真白と半日かけて説教してやるの」
 あえて、カシスとリヴィーアサンは凪を責めようとしなかった。
 それが何ら意味の無いことだと解っているからだ。
「問題は凪がアルカデイアへの入り口を見つけられるか。
 それとどうやってイヴを助け出すかってことね」
「その前にさ、リヴィーアサンがアルカデイアに行ってる間、
 こっちの紅音はどうなるの?」
「何言ってるのよ。私は紅音の身体から離れられない。
 だから可能なら、この身体ごとあっちへ行くに決まってるじゃない」
「そ、それは駄目だよ! 幾らなんでも危険すぎる!」
「危険って言っても、ねえ・・・こればかりはどうしようもないわ」
 諭すような声でそう言うリヴィーアサン。
 アルカデイアへ向かうつもりの彼女を見て、凪は動揺を隠せない。
 幾ら戦力として彼女が重要だとしても、紅音を巻き込むのは嫌だった。
 たとえ紅音がそれを望んだとしても、だ。

04月06日(月) AM06:55
エウロパ宮殿

 一方、アルカデイア。
 イヴを確保したという一報は、既にミカエルの耳に入っている。
 彼は未だ視覚を封じたまま、日々の仕事をこなしていた。
 慣れてきたのか、或いは別の要因か。
 手探りすることもなく、自然にミカエルは宮殿の廊下を歩く。
 すれ違う天使を避けることもできるようになっていた。
 そのまま彼は、エウロパ宮殿一階の給湯室に入っていく。
 誰も信用していないがゆえに、自分で飲料を取りに来たのだ。
 給湯室には一人の天使がいて何かを飲んでいるようだった。
「これはミカエル様。言ってくだされば、
 飲み物くらいお持ちいたしますのに」
 柔らかな物腰の男性天使。
 彼は近くにあるコップを取って、そこにコーヒーを淹れる。
 すると、ミカエルはそれを手で制止した。
「悪いが最近、俺は人から何も受け取らないようにしてるんだ」
「なんと・・・それは、どういうことです?」
 コーヒーを置くと不思議そうな顔で天使がそう訊ねる。
 ミカエルは何も言わず、胸元のポケットから煙草を取り出した。
 煙草を口にくわえ、火をつけて一口吸ってからようやく口を開く。
「お前みたいな奴が平気な顔して毒を盛るんだからな。
 正直、いちいち調べるのも面倒なんだよ」
 その一言で、男性天使の表情が変わった。
「・・・私、どこか変でしたか?」
「いいや? ただな・・・俺は誰も信用してねぇんだ。
 例え庭同然のこの宮殿にせよ、畏怖されてるらしいこの俺様に
 知らねぇ奴が世間話してきたら、疑うに決まってるだろう。
 テメェみたいに安全そうな顔してる奴は特にな」
「これは迂闊」
 ぼそっとそう言うと、男は腰を落とし低く構えた。
 手には短刀を持っている。
 決して広くは無い給湯室のため、そのほうが有利と考えたのだろう。
 確かに室内は狭く、剣を振り回すようなスペースは無かった。
「どちらにせよ、貴方が死ねば同じこと」
「あー、そうだ。一応だな、一つ聞いておきたい。理由は何だ?」
「知れたことを・・・我らの目的は天使の正常化。
 穢れた悪魔を殲滅することこそが至高である!
 ミカエル、貴方は素晴らしい天使だが、理想主義でありすぎたのだよ」
「なるほど・・・原理主義者の一派か。よくわかった。もういい、死ね」
「ふっ、強がっても地の利は私に味方して――――」
 男が言葉を発するのとほぼ同時に、ミカエルは剣を鞘から引き抜く。
 レーヴァテインは室内の狭さなどものともせず、
 周囲の壁ごと男の身体を横に一閃した。
 あまりに高温だったため、切り裂いた壁はそのまま熱で溶けてしまう。
 男の身体も、切断面が融解し接着して血の一滴すら零れなかった。
 見事なる一撃の前に、男は両断されたことにすら気づかない。
 構えたままでそのままうつ伏せに倒れた。
(どうやらイヴの一件で、この一派は完璧に俺を敵と見なしたか。
 権力を持ってる原理主義者どもが相手となると・・・
 色々と厄介なことになりそうだな)
 給湯室から出ると、近くを通り縋った女性天使を呼び止める。
 相手がミカエルということで、少し緊張しているようだった。
 だからと言って、それをミカエルという男が気にするはずもない。
 普段どおりの様子で彼は口を開いた。
「おい、お前。丁度、今そこの給湯室で俺を襲ってきた奴を仕留めた。
 宮殿の警護班でも呼んできてくれるか」
「は、はい」
 深くお辞儀をすると、女性天使は慌ててどこかへと走っていく。

04月06日(月) AM07:15
エウロパ宮殿・大天使長室

 ミカエルが給湯室から大天使長室へと戻ってくると、
 二人の客人が室内のソファーに座って待っていた。
 老賢者のジョフとシウダードだ。
 彼らの用件は言わなくても顔に書いてある。
 半ば独断で行った、イヴ捕獲の件についてだろう。
 その不満げな顔つきを尻目に、ミカエルは自分の椅子へと腰を下ろした。
「ジョフにシウダード。お二人揃って、何のようです」
「解っていての行動かと思ったのだがな」
 明らかに強い口調でジョフがそう言う。
 品行方正を体現するかのような彼が、
 深々とソファーに座り、足を組んでいらついていた。
 独断専行は、秩序を重んじる彼にとって許しがたいのだろう。
 珍しくシウダードも強い非難の表情を顔に出していた。
「こういうことは、回り道でもきちんと筋を通すべきだと思うわ。
 老賢者に一言も無く、勝手に現象世界へ天使を派遣、
 更に罪人の確保まで行ってしまうなんて・・・」
 そもそも、老賢者とは権威であり権利を与える機関でもある。
 彼らを無視して行動することは、非合法に等しい行為なのだ。
「確かに今回の俺の行動は、現象世界に当てはめるならば、
 これは警察が逮捕状なしに被疑者を逮捕したようなもの・・・ですかねぇ」
「解っているならば、早急な対応を願いたいものだ」
「ふむ、ジョフ殿。貴方は俺にどんな対応をさせたいんです?」
「・・・私にそれを聞くか。いいだろう。はっきりと言ってやる。
 正式な文書或いは然るべき場で、我々に謝罪することが一つ。
 もう一つは、責任を取って貴様が四大熾天使から辞任することだ」
 半ば皮肉めいたものではあるが、強い口調でジョフはそう言い切る。
 老賢者や智天使の中でも、彼は特に四大熾天使を疎んじていた。
 たとえ神が決めた理とは言え、ミカエルは本来大天使長に過ぎない。
 下位天使が老賢者とほぼ対等な立場であるなど、
 ジョフには到底納得できなかった。
 実績、神格共にミカエルが智天使か熾天使ほどのものだとしてもだ。
 そんな彼に対し、あくまでミカエルはひょうひょうと切り返す。
「これはこれは・・・ジョフ殿は流石にユニークな提案をなさる」
「この私を愚弄するか、貴様ッ!」
 ソファーから身体を起こし、ジョフは鋭い視線でミカエルを睨み付けた。
 それを意に介さぬ態度で、ミカエルはふんぞり返っている。
 というより、目を閉じているのでジョフの視線に気づかないだけだが。
 二人の険悪さに困り果てたという顔で、シウダードは二人に言った。
「やめなさい、二人とも。熱くならないで」
「っ・・・解っている」
 そう口にしながらも、ジョフはまだミカエルを睨んでいる。
「ミカエル、貴方も挑発的な言動は控えて」
「一応謝罪の意は示しましょう。ただ、今回の件に関しては、
 事態を早急に対処する必要があったんでね。
 俺としては、緊急措置として特別の配慮をお願いしたいところですな」
 平然とした顔で、ミカエルは謝罪と弁解を同時に述べる。
 ジョフは苦々しい顔をしながらも、それを責めようとはしなかった。
 緊急的に致し方なく。そう言われれば今回の状況で、反論は難しい。
 イヴは一所に留まっているわけではなく、
 この機を逃せば捕縛は難しくなるからだ。
 すでにシウダードは納得している様子だ。
 彼女が促すと、渋々とジョフも理解を示す。
「まあ其の件はもういい。話はもう一つある。ラファエルのことだ」
「・・・ラファエルの?」
「その様子ではやはりまだ知らんようだな。
 先ほど、悠久の風を監視している者から連絡があった。
 急いでいる様子で、彼がセフィロトの樹方面へと向かっていったとな」
 そこでミカエルは、はっと顔に手を当てた。
 悠久の風――――それはセフィロトの樹とエウロパ宮殿付近を繋ぐ、
 巨大な送風システムによる移動手段のことを指す。
 下手な乗り物より遙かに速く、必要なのは羽根だけという便利なものだ。
 送風であるがゆえ基本的には一方通行のため、
 悠久の風を使えば辿り着く場所は自ずと限定される。
「まあ彼と護送中のイヴが鉢合わせんように手配はしたが、
 問題は彼が何をしようとしているのかだ」
 真面目な顔つきでジョフはそう言った。
 彼の言葉に続き、シウダードも口を開く。
「私たちの見解では・・・ラファエルは重大な罪を犯そうとしている。
 調べたところ、現象世界でイヴが罪を犯した相手はルシード。
 あのラファエルなら、彼と結託してイヴを逃がそうとする。違うかしら」
 二人の意見を聞いたあと、ミカエルは一瞬間を置いて、
 含みを持たせた笑みを浮かべて煙草をくわえ直した。
「いいや、実に正しい予測だ。ラファの奴なら、
 ルシードたちを当然のようにアルカデイアへ運んでくるだろうよ。
 悠久の風を停止、それに対ルシード捕縛部隊の編成が必要だな。
 最悪、ルシードが敵に回るくらいなら、その前に始末しなけりゃならねえ」
 あくまで冷静。そして冷酷な対処をミカエルは下す。
 そこに友人を思う感情や、温情の入る余地はない。
 ジョフは、そんな彼のぶれがない一貫した態度を評価していた。
 状況で左右される指揮などは、決して許されないと考えるからだ。
 ただし、立場上それを素直に誉めるような真似はしない。
「思ったよりも冷静な思考だな、ミカエル。
 それに関して異論は無い。だがな、イヴの捕縛はお前の独断だ。
 ラファエルらの対処もお前の責任で行ってもらおう」
「ほぉ・・・さっきの今で、俺にそんな役を任せるってのか」
「仮にも熾天使と呼ばれるお前だ。
 感情に振り回されるようなことはあるまい」
 試すような口調にも、ミカエルの判断に対する評価が感じられた。
 それを知ってか知らずか。普段どおりの様子でミカエルは伸びをする。
「丁度、目を閉じてるのも飽きてきたところだ。
 久しぶりに暴れるのも悪くねえ」

04月06日(月) AM11:22
エウロパ宮殿内

 エウロパ宮殿内には、書物を保管する倉庫のようなものがある。
 図書室とは違い、書庫には普段読まないものから古い文献まで、
 情報の質も戦術から料理まで多岐にわたっている。
 歴史の長い天使だけに、当然書物の数も押して知るべしだ。
 データへの移行も行われているが、全体の半分も進んではいない。
 必要な情報を探すだけで、年単位の時間がかかることも稀ではなかった。
 書物の量に応じ、十一ほども書庫用の部屋が用意されている。
 ラグエルは、そんな書庫の中で探し物をしていた。
 辺りを見回しながら、注意深くタイトルを確認していく。
 書庫に入って一時間ほど経ち、幾つかの棚を回った頃、
 ようやくラグエルは一つの本を手に取った。
 本のタイトルは「老賢者目録-オールドワイズマン・リスト-」。
 老賢者を勤めた歴代の智天使らが名前を連ねていて、
 現老賢者の体制までが全て記録されている。
 目次を見てから、パラパラとラグエルはページをめくった。
 ジョフを初めとする、現在の老賢者は後ろのページに記載されている。

 現智天使長、ジョフ=エティ=ナフタリエル。
 同、フィノン=ネシュ=ゾフィエル。
 同、エレト=ウィメン=ケルビエル。
 現智天使、シウダード=クエル=フアレス。
 同、アドゥス=リビエ=ショルバテル。
 同、ラツィエル=セフェール=サラク(座天使長も兼任)。

 老賢者職補佐。
 現座天使長、メリア=リエロ=オファニエル。
 同、モルフ=ハモン=ガルガリエル。

 ラグエルが探していたのは、彼らの仔細なデータだった。
 だが、老賢者目録はそれほど細かな情報は記載されていない。
 写真と簡単な経歴、家族構成程度のものだ。
 それでもラグエルは数少ない手かがりであるその本を、
 穴が開くほど、時間をかけて何度も読み直す。
(・・・あら? この人、弟なんていたかしら?)
 ふとそんな疑問が沸き、書庫から他の文献を探し始める。
 人間と違い、天使の関係性というものは少し奇妙だ。
 そもそも出生に関して親というものが不明確な彼らが、
 血の繋がりで家族と呼び合うことはあまりない。
 義や情、或いは価値という理由で家族となる場合が多かった。
 ゆえに弟や妹、姉や兄、両親といった単語の意味が、
 現象世界に暮らす人間のそれとは異なることがある。
 やがてラグエルは一つの疑問に突き当たった。
(現在の記録には弟の情報が一つも無い。
 途中、どこかで行方不明、もしくは死別したということかしら)
 そこで彼女は何者かの視線を感じ、身体をこわばらせる。
 周囲を見渡そうとすると、右肩に何かの感触が当たった。
「っ・・・!?」
 それは何者かの手。やけにその手は重く感じられた。
 気配の一つもせずに、その天使は彼女の背後に立っている。
 息遣いも聞こえなかった。
 恐る恐る振り向くと、そこには不気味な笑顔を浮かべた天使の姿がある。
 面長で緑色の長髪、腹部の大きく開いた服装をしていた。
 顔立ちはのっぺりとしており、
 すらっと伸びた鼻と緩んだ口元が特徴的だ。
 背丈は優に三メートル以上はあるだろう。
 あまりに奇妙な風体をした男性天使、彼の名はエリヤ。
 エリヤ=デーヴァ=サンダルフォンと呼ばれている天使だ。
 彼を前にしては、ラグエルといえど平静ではいられない。
 何しろ彼は神出鬼没と言われる熾天使である上に、
 メタトロンと並ぶ最上級の天使だからだ。
「このようなところで中級天使と出会うとは、奇遇。
 なにぞ探し物でもしているのか?」
「え、ええ。まあ」
 丈高き天使、そう呼ばれるだけあって彼の身長は威圧感すら感じさせる。
 実際の背丈は遙かに大きいが、宮殿内だから伸縮しているのだろう。
 熾天使であれば、恐らくそのような芸当は造作も無いことだ。
「探し物をせねば答えを見出せぬとは、悲しきことよ。
 お前に啓示を授けよう。書物とは何処へ向かうものだ?」
「書物、が・・・向かう場所?」
 エリヤは静かに手をラグエルの額に当てる。
 その表情からは既に笑みは消え、何の感情も見えはしなかった。
「中級天使よ、貴様の脳へと書物は向かうのだ。
 必要以上の知恵をつけずとも、答えは貴様の脳にある」
「それは・・・一体・・・」
「よいか、欠片のままでも形は予測可能だろう。
 書物とはそれで足りぬ場合に使うもの。無駄に浪費するものではない」
 彼の言葉は断片的で、全てを理解することは難しい。
 ラグエルは僅かな言葉の中から、意味を考えて予測した。
 自らの中で浮かんでいる疑念。
 恐らくは、それこそが答えなのだと彼は言いたいのだろう。
「中級天使よ、最期まで神の僕たれ。
 サンクトゥス、サンクトゥス、サンクトゥス」
 そう口にすると、エリヤの姿はすっと煙よりも鮮やかに消えうせた。
 どうすればそんな術が可能なのか、ラグエルには見当も付かない。
 やはりは、上級天使の中で最も上位に位置する熾天使。
 身長のことと同様、彼女の想像を遙かに超えていた。
 突然現れたエリヤの助言に従い、ラグエルは少し考えを変える。
(そうよね、はっきりと相手を特定するには時間がかかりすぎる。
 ならば当たりをつけて、その人物を徹底的に洗い出す)
 たとえそれが不発だったとしても、進展にはなる。
 書庫で不明瞭なまま情報を探すよりは、ずっと有意義だ。

04月07日(火) PM17:25 雨
寮内・自室

 一日の学科を終え、凪は自分の部屋へと戻ってくる。
 本来ならば一刻も早くアルカデイアへ向かうべきだ。
 なのだが、肝心の凪、いやルシードがアルカデイアを探知できない。
 正確な位置が把握できないのだ。
 西、東などの曖昧な情報ではどうすることも出来ない。
 それ故、一端授業を終えてからもう一度策を練ることになったのだ。
 まだカシスは来ていない。紅音もまだ戻っていない。
 そこで凪は様々なことを考える必要があった。
 一つ目はアルカデイアの場所が解らない理由だ。
 以前インフィニティの入り口を探したときに比べて、
 あまりにも大雑把な感覚でしか位置が把握できない。
(ルシードの力が弱まった気はしない。むしろ高まってさえいる。
 ということは考えられるのは・・・距離)
 幸い学園内に入り口があったインフィニティと違い、
 アルカデイアは遙か遠くに入り口があると言う可能性だ。
 そもそも近隣にあるという確証など何処にも無い。
 日本国外ということも十分にありうる話だ。
 その場合、ルシードの探査能力を持ってしても、
 正確な位置を割り出すのにかなりの時間がかかる。
 イヴの刑が執行されるには十分な時間が。
(前にアルカデイアへ行った時は、イヴが案内してくれたよな。
 あれ、どうやって連れて行ってくれたんだろう。
 寝てる状態で空に上ってくと着くとか、そんなのだったような・・・。
 もしかして、あれって天使にしか使えない方法か?)
 そうだとすれば、イヴを助け出すには天使の助力が必要だ。
 すぐに凪が思い浮かべたのは、ラファエルの存在。
 彼ならば自ら進んで手を貸してくれるだろう。
 問題は、彼の姿が見当たらないということだ。
 それにイヴを助け出すということは、天使を裏切るということ。
 幾ら四大熾天使と言えど、厳罰は免れないだろう。
「凪ちゃん、凪ちゃん凪ちゃーん」
 手を凪の目の前で振りながら、紅音がむくれた顔をしていた。
 半ば視覚を放棄して考え事をしていたせいで、
 凪は彼女が帰ってきたのに気づかなかったのだ。
「紅音、帰ってたんだ」
「帰ってたよぉっ。ホント凪ちゃんって考え事好きだよねぇ」
「う、まあ・・・紅音と出会ってから悩み事ばっかだから、さ」
「え〜?」
「あ・・・そうじゃなくて、紅音のことじゃないよ。
 色々、たまたまその頃から色々起こるようになったから・・・」
「・・・そっか。私も凪ちゃんと一緒に悩めたらいいのに」
「紅音・・・今は何も言えなくて、ごめん。それから、本当に・・・ありがと」
 思わず凪は紅音のことを優しく抱きしめる。
 彼女の言葉はただ純粋で、昨夜自分がしたことを思うと、
 たまらず凪は泣きたいくらい申し訳ない気分になった。
 凪の真意が解らず、紅音は戸惑いながら照れるしかない。
「なんか、こうしてると凪ちゃんの体温が伝わってきて温かいね」
「うん。俺にも、紅音の体温が伝わってきて温かいよ」
 馬鹿馬鹿しいほどに、恋人として言葉を交わす。
 気恥ずかしさが、二人にはそのまま幸せなのだと感じられた。
 イヴとのことを話したら、この幸せは崩れてしまうのだろうか。
 そう考えると、凪はやはり昨夜の出来事を後悔せずにいられなかった。
 だとしても、昨夜に戻れたとすれば凪はきっとまた同じ行動を取る。
 これをジレンマと呼ぶのだろうか。そんなことを凪はふと思った。
(決心が付かないや。とてもじゃないけど、俺には言えないよ。
 イヴと寝たなんてこと、紅音には言えない・・・)
 凪は下腹部に鈍い痛みを感じていた。
 更に、これから彼はイヴを助けに向かう。
 紅音ならば、或いは全て話せばそれに賛同してくれるかもしれない。
 一度の裏切りも、或いは無かったことと許してくれるのかもしれない。
 だが――――どうしても凪には、以前の紅音が頭をよぎる。
 本当の性別を知られたときの、愕然とした紅音の表情。
 裏切りを前に、その笑顔が消えてしまった瞬間。
 昨晩、覚悟は決めていたはずだった。
 そんなものは紅音を目の前にすれば、砂と消える。
 だから今は何も語らずに、もう一度覚悟を決めなおした。
 半ば先延ばしとも取れるのだが、それは仕様がないのだろう。
(イヴを助けたら、そうしたらすべて話そう。
 紅音を傷つけたくはないけど、やっぱり嘘をつきたくない)

Chapter133へ続く