04月10日(金) AM06:32
アルカデイア・フロスティア・路地
人気のない路地裏、そこで佇むミカエルのもとに一人の男が歩いてくる。
男がそこにやってきたのは偶然ではない。
宮殿からここにやってくるミカエルを尾行していたのだ。
相手はミカエル。細心の注意を払って彼の後をついてきたのだろう。
先ほどの出来事を男は一部始終見ていたようだった。
にやりと笑みを浮かべながら、ある程度の距離を取って立ち止まる。
「アシュタロスか・・・ここまで来るとは、天使もなめられたもんだ」
「いえ、思ったより厄介でしたよ」
しれっとした顔で黒澤はそう答えた。
衣服が幾らか汚れたり破れてはいるが、大きな怪我は見当たらない。
驚いた様子もなく、ミカエルはレーヴァテインを黒澤に向けた。
「で・・・お前は俺にわざわざ殺されに来たのか?」
「解っているでしょう」
不意打ちなどへの警戒はしているが、黒澤は戦闘態勢を取ろうとしない。
闘いに来たわけではないことを暗に示していた。
それを無視して襲いかかるほど、ミカエルも単純な性格ではない。
剣を下ろすと、内ポケットから煙草を取り出した。
「背後から無言で俺を狙わない以上、闘いが目的じゃねえ。
お前は俺と何か取引でもしに来た・・・そんなところだろう」
ミカエルは煙草を口にくわえて、そんな風に推測する。
「流石ミカエル、察しがよくて助かりますね。
私は貴方から情報を買いにきました」
「情報、ね」
眉間にしわを寄せると、ミカエルは煙草に火をつけた。
訝しむような素振りで黒澤の言葉を待つ。
危険を冒してまで望む情報。それが何か、大よそは察していた。
「そう。貴方は知っているはずです――ジブリールの行方を」
「見返りは何だ」
この話をこの場所で持ち出す以上、ミカエルにとってはそこが重要だ。
情報と対等では不十分。黒澤の安全を保証するほどでなくてはならない。
黒澤の性格を知っているが故に、ミカエルは彼を問答無用で殺せなかった。
殺せないからこそ、黒澤はこうして姿を現したのだから。
「冥典のマスターデータ、なんていうのはどうでしょう?
条件としては充分すぎると思いますが」
一瞬、ミカエルは耳を疑う。
顔色を変えないように意識しながら、彼は心の中で驚いた。
まさか求めていたものが、こんな形で現れるとは思わなかったのだろう。
一呼吸あって、ミカエルは笑みを浮かべ黒澤に言った。
「チッ、悪魔の風上にも置けねえ奴だ・・・天使にそれを売り渡すとはな。
てめえら悪魔にとっても、そいつは重要な代物かもしれないんだぜ?」
「私にとって重要なのはジブリールのみです」
黒澤は考えることもなくそう断言する。
それは時間が培ったものではないが、確かな感情として彼の中にある。
偏執的な愛に似た感情、妄執とすら言い換えられるものだ。
そんな黒澤の目を見ると、ミカエルは疑問を抱かずにはいられない。
「何がお前をそこまであの女に傾けた? 正直イカれてるぜ」
「彼女は、私に価値観を与えてくれた女性です。
そして・・・初めて、どんなことをしても欲しくなった女性ですよ」
「大層なことだ。たかが女一人に、そこまで入れ込むとはな。
それもあんな女・・・どこがいいのかさっぱりわからねえ」
いらついた様子でミカエルはそう呟く。
ガブリエルのことになると、彼は心がざわついて仕方がなかった。
はっきりとした嫌悪がその端々から見てとれる。
思い人を貶られたからか、黒澤はむっとした顔で口を開いた。
「・・・貴方と価値を共有するつもりはない。それよりどうします?
これは破格な取引だと思いますがね」
「あいつの行方、俺が話したとして真偽はどうする。
嘘をついて冥典を頂くかもしれんぜ」
情報の取引ならばその真偽は重要な問題だ。
すぐ確認できるものでない場合、真偽を確かめるのは非常に困難となる。
最初からこの取引は、黒澤にとってかなり不利なものだった。
それでも他に方法がない以上、取引するしか道はない。
地面に膝をつくと、黒澤は二メートルほどある大きな鏡を具現した。
鏡には、リストバンドのような器具がコード付きで付属している。
「嘘を付けば色の変わる鏡、なんていうものを考えましてね。
心拍数、汗などで測定するものですが、ある程度の指針にはなります」
「ないよりはマシってことだな。面白そうだ、乗ってやるよ」
リストバンドは、心拍や発汗をチェックする測定器具なのだろう。
嘘発見器というと陳腐だが、それと同等の器具だ。
それに黒澤はガブリエルの情報が本当か偽りか、
という判断に不思議な自信を持っている。
根拠はないのだが、恐らく彼女のことなら解ると考えているのだろう。
「それでは・・・ジブリールの行方を聞かせて貰いましょうか」
「先に冥典を渡してもらおう。聞くだけ聞いて逃げるかもしれねえからな」
リストバンドを手首にはめてから、あえてミカエルは強硬な態度を取る。
簡単に取引を進めたのでは、黒澤に主導権を握られるからだ。
何を言ってるのか、という顔で黒澤はため息をつく。
「・・・何のために私がここまで来たと思ってるんです?
逃げられるはずもないでしょう。そこも取引に含まれてるんですよ。
私がアルカデイアから出るまで、身の安全を保証していただきたい」
「安全を保証する冥典は、ギリギリまで渡せないってことか。
――いいだろう、気に食わねえが取引に応じてやるよ」
煙草の灰を落とすと、ミカエルは壁に肘をついてよりかかる。
ようやく取引ができると考えて、黒澤は本題に入ることにした。
「では、話していただきましょうか」
「ガブリエルの行方、だったな」
「ええ」
長く追い求めてきたガブリエルの消息がつかめる。
それを考えると、黒澤は心臓の鼓動がはやるのを抑えられない。
ミカエルが口を開いてから喋るまでが、やけに長く感じられる。
様々な思考が彼の頭の中を駆け巡っていた。
(私こそが、彼女を手にするのだ・・・ラファエルではなく、この私が)
そんな彼の思考を、ミカエルの声が遮断する。
冷たいトーン、はっきりとした口調で。
「奴はどこにもいない」
「・・・は?」
予想外の言葉が彼の口から放たれる。
意味を考え咀嚼しようとする黒澤に、続けてミカエルは言った。
「あの女は、そう――ガブリエルは磔になったよ。
或いは・・・神の御許へ行った、とでも言いかえようか」
何を言っているのかが、すぐには理解できない。
思わず、黒澤は具現した大きな鏡を横目で確認した。
色に変化はない。それは彼を大きく動揺させる。
鏡を掴んで揺さぶってみるが、当然色が変わることはなかった。
「ば、かな・・・心拍数も他の数値も、正常・・・そんな、ことが――」
呆然と立ち尽くす黒澤に向って、ミカエルはリストバンドを投げつける。
それは黒澤の背中に当たって地面に落ちた。
畳みかけるように、彼は少しだけ語気を荒げて言う。
「解りやすく言ってやるよ。俺がガブリエルを殺した。奴はもういない」
「ミカエル、き、貴様ァ!」
振り向いてミカエルに飛びかかろうとする黒澤。
だが彼が振り返ったとき、ミカエルの拳が脇腹にめり込んでいた。
うめき声をあげて、黒澤は地面に膝をつく。
「冥典のデータディスクを一度も見せなかったのは良い判断だったな。
手に持ってりゃ、今お前の身体は真っ二つになってたぜ」
「こ、こんな・・・こんな、ことが」
「安心してろ、命は助けてやるよ。俺はこう見えて優しいんだぜ?」
ミカエルはしゃがみこんで、倒れている黒澤のジャケットをまさぐる。
隠す気がなかったのか、冥典は内ポケットの中に入っていた。
ジャケットからディスクを抜き取ると、ミカエルは立ち上がる。
ディスクを頭上に掲げると、彼はそれを薄目で見つめた。
「これで三つ目――扉が開くってわけか」
04月10日(金) AM08:25
エウロパ宮殿・天空の迷宮
天使たちが設置したであろう明かりを頼りに、三人は迷路を進む。
ずっと長い間、凪は地下迷宮を歩いているような気がしていた。
階段を幾つ下りただろうか。幾つの通路を歩いただろうか。
気付けば三人は、会話もそぞろに足を進めている。
不安は幾つもあった。それに、言い知れぬ悪寒を感じている。
迷宮には天使はおろか、生物の気配など微塵もなかった。
アルカデイアが現象世界とは違う場所とは言っても、
天使だけがアルカデイアに存在しているわけではない。
にも関わらず、この迷宮にはそれらしきものはどこにも見当たらない。
唯一天使側だったイヴも、迷宮の知識は無いに等しかった。
痛いほどにしんとした静寂の中、三人の足音が辺りに響く。
耐えられず、凪は何かを話そうと考えた。
「ね、イヴは学園に戻ったらまた高校生活を送る気ある?」
「――さあ、解らない。ただ、天使のことや
いろんなことを抜きにして考えれば、そうしたい気もする」
「私は、そうなればいいなって思う。また皆で楽しくやれたらいいなって」
何の気なしにそれを聞いていたカシスは、ふと紫齊のことを思い出す。
彼女が悪魔として現れたことは、未だ凪の心に影を落としている。
凪の細かい言動や表情から、カシスはそれを感じ取った。
(元カノとして、どうするか微妙なとこなの)
もう吹っ切った部分はあるが、下手に踏み込んで気持ちが半端によみがえったりしては、お互いが不幸になると解りきっている。
慰めや同情は自分の役ではないのだと、カシスは自分を納得させた。
通路を歩き続けていると、やがて三つに分かれた道が現れる。
三人は立ち止まって、どの道を進むかを考えることにした。
どの道も、先は暗くなっていてよく見えない。
真っすぐの道だけは、木の枝葉に似たものが壁に生い茂っている。
明らかに左右の道とは雰囲気が異なっていた。
「このまま真っすぐ進もう」
気味は悪いが、他の道と違うのは何か理由があるはずだ。
直感に近いその感覚を信じ、凪は直進が正しいと考える。
特別反論する理由もないカシスとイヴは、
凪に従って真っすぐ進むことにした。
歩き出してすぐに、三人はその道が明らかに異質だと再認識する。
壁を埋め尽くすように生えた枝葉は、びっしりと先へ続いていた。
生物の気配すらなかった迷宮が、その様相を変え始めている。
壁に絡まった木の枝葉からは、僅かだが水が零れ出ていた。
「一体――これは、どこから来てるんだろう」
当然の疑問が凪の口をついて出る。
地上にある木々がここまで根を張っているのだろうか。
或いは全く別のどこかから、ここに根を伸ばしている樹があるのか。
だとすれば、そこへ向かっていると推測することもできる。
不意に、イヴが何かを思い出した様子で話し始めた。
「そういえば、前に迷宮を探索した天使の本で読んだことがある。
この迷宮はアルカデイア全土をぐるりと回るように造られていて、
最終的にはセフィロトの樹へと続いているのかもしれない、という推測を」
「セフィロトの樹――」
それが事実ならば、歩いて辿り着くには相当な時間がかかることになる。
ただでさえセフィロトの樹からここまでは、二日以上の道のりだ。
地下から遠回りしていくとすれば、どれほどの日数が必要なのか。
加えてここは迷路。辿り着けないという可能性も充分ある。
不安を覚える凪に対して、カシスはこつんと軽く彼の肩を叩いた。
「悩んでても仕方ないの。とりあえず歩くしかないの」
「――そうだね」
彼女の言葉にそう答えると、凪は先へと歩き出す。
それから会話もまばらに、凪たちはしばらく歩いていった。
進むにつれて、壁は樹の枝や葉と似たものに覆われて見えなくなっていく。
もはや壁なのかどうかさえ解らないほど、一面が緑に包まれていった。
足もとに気をつけながら進んでいくと、通路の先に終点が見えてくる。
現れたのは緑に覆われて何も見えなくなっている、言わば行き止まりだ。
ここからは何処へ行くこともできないのだと、三人は理解する。
行き止まりの壁近くまで来ると、凪は腰をおろしてへたり込んでしまった。
「ちょっと休もう。流石に疲れたよ」
凪の提案にイヴが賛成して、カシスも頷いて腰を下ろす。
どうするか展望も見えず、袋小路に迷い込んでしまった。
たまった疲れのせいで心の不安は増大して感じられる。
イヴを近くの床に座らせると、凪は体育座りで両手をぎゅっと繋いだ。
(流石、迷宮ってだけはあるよな。心が挫けそうになる)
ため息がでそうになるが、カシスやイヴがいるのでそれを堪える。
雰囲気を余計に重くしても仕方ない。
考える時間ができたせいか、ふと彼は今になってサマエルたちを殺した事実を振り返り、それを受け入れていることに恐れを抱きはじめた。
(闘うことに慣れてきたせいかな。あのとき、殺すことを躊躇しなかった。
何も考えないように、ただ必死だったからかもしれないけれど、
どんどん俺はルシードと重なっていってる気がする)
光が色彩を帯びるたび、強い力を放つたびにルシードを色濃く感じる。
内側に存在する確かなものを凪は感じていた。
生命なのか、人格なのか、或いは別のものなのか。
一度会話はしたが未だ正体はつかめていない。
確かなのはその力を引き出すたび、凪が人間から遠ざかるということだ。
殺すことに慣れ始めたのは、そのせいなのかもしれない。
(怖い――ルシードが俺を変えていくみたいだ)
徐々にすり替わっていく人格を想像して、凪は思わず身体を抱きすくめた。
例え身体は人でなくなろうとも、心は人でありたい。
理由もなく、自然と凪はそう思っていた。
閉塞した考えを振り切ろうと、凪は立ち上がってストレッチを始める。
何気なく行き止まりの壁に寄りかかって、アキレス健を伸ばそうとした。
すると、やけに壁を覆い尽くす樹の枝や根がしなることに気づく。
「あれ? これってもしかして――」
枝をかき分けて奥の方を覗いてみると、空洞が僅かに見える気がした。
早速、凪はそれを二人に伝えて邪魔な枝や根を退かしていく。
まるで隠しているかのように、樹の枝は通路を塞いで壁を作っていた。
見えてきたのは、奇妙なロゴを中心にあつらえた扉とそこへ続く通路だ。
「これは、明らかに他とは違うもののようだな」
注意深く扉を観察しながら、イヴはそんなことを呟く。
彼女の言うとおり、その扉は他とは異質な装飾や形をしていた。