04月13日(月) PM22:06
現象世界・白鳳学園
アルカデイアでの出来事から幾ばくかの時間が過ぎていた。
凪と紅音の部屋には、いつからか明かりが灯っている。
静かな室内で、ベッドに腰掛けて座っているのは紅音だ。
風呂上がりのラフな寝巻き姿で、彼女はぼんやりと宙を眺めている。
あれから彼女は砂漠で凪たちを待っていたが、
集合場所にやってきたのはラファエルとラツィエルだった。
彼らは事情を説明し、凪たちを待つのは現象世界にするべきと提案する。
納得いかない紅音だったが、ラツィエルはそれが最善だと言った。
ずっと砂漠にいれば、天使の追撃に晒される危険もある。
渋々ながら紅音は現象世界に帰還して、自室に戻ってきていた。
現時点で、無事帰還してこれたのは紅音一人だけだ。
凪やカシスはさることながら、学園内には黒澤の姿もない。
また、ラファエルとラツィエルも現象世界に来てはいるのだが、
天使の捜索をかわすために行方をくらましていた。
ベッドで体育座りをすると、紅音はリヴィーアサンに尋ねる。
「凪ちゃん――無事かなあ?」
「さあね。浮気でもしてたりして」
軽いフックでリヴィーアサンは紅音にそう切り返した。
それはある種、事前に心の準備をさせているようでもある。
何しろ、事実として凪は浮気をしている最中なのだ。
慌てて紅音はそれを否定する。少しだけ心配そうな顔で。
「そ、そんなことしないよっ。凪ちゃんは――えっと、たぶん」
「男にあまり完璧を求めないほうがいいわよ。凪だってオトコノコなんだし」
「う〜ん。そんなこと考えたら――へこむよぉ〜」
膝の上に顎を乗せて、紅音は大きくため息をつく。
想像の段階で既にショックを受けている様子だ。
これは後が大変だと思いながら、リヴィーアサンは苦い笑みを零す。
すると、そんな彼女の予想を覆すかのように紅音は真面目な顔で続けた。
「でも――嫌だけど、凪ちゃんのこと嫌いになったりはしないよ。
私、軽い気持ちで好きになったわけじゃないから」
かつて凪を拒否したこと。夢姫から凪を奪ってしまったという事実。
それらが、彼女の精神に根付く芯を強固なものにしている。
リヴィーアサンが身体を奪った頃の、脆い少女の姿はそこになかった。
(あれからたった一年足らずで――全く、人の成長能力は侮れないわね。
いや、誰しもがこうして成長するわけじゃない――か)
同じところをぐるぐると回り続ける者もいる中、
こうして成長出来る紅音が特殊なのかもしれない。
そう感心していると、紅音はぼそっと呟いた。
「ちょっとは――ほんのちょっとは、嫌いになるかも」
やはり人はそう簡単に成長を遂げたりはしない。
彼女の揺れる心情を見ていて、リヴィーアサンは先の考えを改めた。
04月10日(金) PM22:35
ギンヌンガガフ
ギンヌンガガフの扉を開けた先にあるのは、
広義に言うところのジオフロントに近い、地下にある巨大な空洞だ。
そこは、ルシファーの完全体を収容、封印するためだけに存在する。
地球に現存する生物で最大の個体はオニナラタケと呼ばれるキノコで、
菌糸を含めると九平方キロメートル近くになるそうだ。
現存する動物で最大の個体は、シロナガスクジラだと言われている。
こちらは、体長三十メートルを超える個体が確認されているようだ。
それらと違い、地上で動く生物にとって巨体は動きの鈍さに繋がる。
ルシファーの完全体は、無数の首と四本の腕、二本の足、尻尾を持つ。
首は長く手足は短いという、例えるなら亀に似た特徴がある。
龍に近い形だが顔つきは蛇に似ていて、目算で体長八十メートルはあった。
重量は体長から考えれば、恐らく五百トンを超えるだろう。
高さ数十メートルから見下ろすルシファーの顔に、
ディアボロスは余裕を崩さずに言い放った。
「ふん、姿勢を変えるのも難儀しそうな図体ね」
直後――彼女の身体を凄まじい衝撃が襲う。
油断していたディアボロスは、防御も出来ずに空洞の壁へと激突した。
何が起きたのかと、彼女は衝撃の起きた方向へと目を向ける。
あっという間にルシファーは身体を回し、彼女に尻尾を叩きつけていた。
それがディアボロスを薙ぐように吹き飛ばしたのだ。
「姿勢制御をイメージで補強、まあ当然だろう」
「だから、何――こんな触れた程度で勝ち誇るんじゃあないわよ!」
ぶつかった壁を拳で叩くと、彼女は吠えるようにそう言う。
想定外の俊敏さに驚くよりも、痛みからくる怒りが勝っていた。
彼女は光を束ねて叩きつけるイメージを固め、黒い翼を大きく広げる。
イメージを具現化する前に、ルシファーは彼女へと向かってきた。
無数の口が開き、一斉にディアボロスへと照準を合わせる。
「ワンセカンド・ドラコニアン・タイム――」
数え切れないほどの眩い光が、彼女の身体や翼から放たれた。
先んじてルシファーは口から炎を吐きだしていたが、
炎がディアボロスに到達する前に光が炎をかき消していく。
光は束になって、ルシファーの身体を包みこむような軌道で突き刺した。
「うぐっ――」
彼の完全体が持つ無数の首から、二つほどが光に貫かれて弾け飛ぶ。
勝ち誇った表情を見せながら、ディアボロスは地面に着地した。
「あんたが出した炎で幾らか相殺されたのを差し引いても、
その図体じゃ一撃必殺とはいかないようね」
「――予想通り、このイメージはかなり危険なものだ。
人型の個体なら、まず生き残ることは難しいだろう」
「お褒めに預かり光栄、とでも言っておいてあげる」
鋭い瞳でルシファーを睨みながら、笑みを浮かべるディアボロス。
少しだけ気にかかるのは、ルシファーの変わらぬ余裕だった。
幾つもあるとはいえ、自身の首をもがれても平然としている。
それに、相変わらず欠片も自分の敗北を考えてはいないという態度だ。
彼の様子に疑問を抱いていると、不意に吹き飛んだ首の辺りが動き始める。
細胞が螺旋を描くように互いを重ねあい、顔に似たものを形作っていく。
「なっ――」
徐々に顔が復元されていくことに、ディアボロスは驚きを覚える。
殆ど時間をかけることもなく、ルシファーの身体はほぼ元通りになった。
「まあ、神に牙向くとは――生半可ではないということだよ」
言葉の後、ディアボロスへと全ての首が牙を向いて襲いかかる。
壁に激突しかねない勢いで向かってくる首たちを、
ディアボロスは紙一重でかわしていった。
サイズの割に高速で動きまわるそれらは実に厄介と言える。
かわしきれないと感じ、彼女は真っ向から首を受け止めることにした。
(純粋な力比べなら負けるはずがない――)
そう考えたディアボロスは、牙を手で掴み押し返そうとする。
するとルシファーは口をがっちりと閉じて、
逆に彼女を壁の方へと追いやっていく。
「確かに力だけなら君の方が強いだろう。だが、君は使い方が下手だ。
力のベクトルが一定でないから、集中させた僕の力に劣る」
めりこむように壁へと押し込まれていくディアボロス。
摩擦で服が破れ、更に露出した背中が削れるように傷つく。
「ぐうぅ――」
押し潰されそうな痛みの中で、ディアボロスは激しい怒りを感じていた。
怒りからくる純粋な力のイメージが、彼女の手から形となって発現する。
凄まじい力でディアボロスは力任せにルシファーの牙を砕いた。
「――もう、いい。もう、あんたは――存在の痕跡も残さないから」
その言葉がどれほどの意味と威圧を込めたものなのか。
直後、用心深く距離を取って警戒するルシファーの姿が物語っている。
心なしか彼女の背に生えた翼が、更に黒く染まっていくように見えた。
周囲さえも黒に浸していく彼女のイメージが、そう見せているのだろう。
まるで彼女の心に宿る暗黒を映すかのようだった。
「底なしとさえ思えるような力の奔流――。全く、デタラメな存在だね」
ディアボロスに対抗するため、ルシファーも全力でイメージを構築する。
淀みなく研ぎ澄まされた想像が、強力なイメージを創造していく。
零れ出る僅かなイメージだけで大気が震え、空間が歪むほどだ。
黒い翼が大きく羽ばたき、ディアボロスが空中へと跳躍する。
彼女が持つ力を最も大きく発現するイメージ、
ワンセカンド・ドラコニアン・タイムが具現化し始めていた。
その光は破壊の権化たる彼女に相応しく、正に無敵の閃光といえる。
「私を外へ出してくれたこと、言いつくせないほど感謝してるわ。
でも――あんたは私を愚弄した。だからあんたは許さない」
「またそれをイメージするなら、僕も使わざるを得ないな。イルリヒトを」
彼の発したイルリヒトという言葉には、尋常でない力が込められていた。
ほぼ同時に互いのイメージが具現化され両者へと放たれる。
ルシファー目掛けて降り注ぐ幾重もの青白い光を、
円を描くような軌道の大きな光源体が防御した。
光を発するそのイメージは、人に似たような形をしている。
「無駄よ。どんなに抗おうと苦痛の時は訪れる」
「ふふ――気をつけたほうがいい。過剰な力は不安定さを生むからね」
言葉通り、強力な二つの力は空間に大きな歪みを生み出した。
境界面が不安定になり、ディアボロスは奇妙な破砕音を耳にする。
それは彼女が存在する空間に亀裂が入った音だった。
逡巡する余裕もなく、彼女は空間の裂け目に吸い込まれていく。
イメージの発生源であるディアボロスが消えてなくなると、
辺りの力場は安定を取り戻し亀裂はすぐに見えなくなった。
途中でかき消えたディアボロスのイメージだが、
それでもルシファーの首は幾つか跡形もなく消し飛んでいる。
ディアボロスの消えた辺りを睨みながら彼はふと呟いた。
「――苦痛の時、か。皮肉だな――これからの君にこそ相応しい言葉だ。
今はただ願うとしよう。その先に幸福を見出すことができるように」
04月11日(土) AM6:42
エデンのふもと
気付けば、辺りは薄い霧がかかっていた。
川のほとりだろうか。彼女の耳に水音が聞こえてくる。
長い間気を失っていたらしく、時間の感覚が解らなくなっていた。
周囲の様子から、どうやら夜ではないことが窺える。
空は白みはじめていて、日は昇っているようだった。
「ここは――」
彼女は空間の歪みから放り出され、どこかへと辿り着いたのだと予測する。
見たことがない景色だ。そう思って彼女は思わず自嘲の笑いを浮かべた。
(そもそも私は、大して地理に聡いわけでもないか)
立ちあがってみると、すぐ近くに川が見える。
とりあえず顔でも洗ってから先のことを考えようと思い、
少しぼうっとする頭で彼女は川へと歩いていく。
すると、彼女は川の上流に誰かがいることに気づいた。
顔はよく見えないが裸の男女が身体を洗っている。
妙な現場に出くわしたと思いつつ、彼女は男女と距離を置いて川に入った。
水で顔を洗ってみると、幾らか頭がすっきりとしてくる。
(若い男女はあんな風にいちゃつくものなのかな。
知識だけでは、何の役にも立たないものだわ)
そう考えながらもう一度彼らのほうを覗き見てみた。
はっきりとした意識のせいか、二人の顔がよく見える。
彼らの姿を瞳が捉えた直後、彼女の身体は硬直し震えていた。
怒りなのか。もはや湧きあがる感情が何なのかすら解らない。
認識を改めねばならない。そう彼女は考える。
今まで彼女は紅音が居なくなれば、全ては上手くいくと思っていた。
だが、目の前の光景はそれを否定している。
「なんでイヴが――なぁ君と一緒にいるのよ。あんな仲良さそうに――。
紅音はどうしたの? どういうことなの、どういう――」
血が出るほどに歯をぎりぎりとかみしめていた。
唇から僅かな赤が零れおちる。
ぞわっとした感覚とともに、さっと血の気が引いていく。
「それなのに、私とは――どうして一緒にいてくれないの」
届かない言葉が口から吐き出された。彼の前では口に出来ない言葉が。
頭の中がパニックになって、立っていることが出来ない。
川から上がると、彼女は崩れ落ちるように地面へ倒れ込んだ。
瞳はただ二人の姿をじっと見つめている。
水浴びを終えて視界から消えた後も、ずっとその一点を見つめていた。
落ち着こうと深呼吸をするが、息を吸うたびに心臓がドクンと脈打つ。
今すぐに本能のまま、内に宿る黒い衝動を解き放ってしまいたい。
じっと宙を見つめ身じろぎもせずにいると、嫌な汗が額を伝ってきた。
(なぁ君――私怖いよ。この怒りと不安を抑えられそうにない。
もしこの気持ちを全て君にぶつけてしまったら――)