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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

Eden's Blue

Chapter157
「君のいる世界」
 

 

04月11日(土)  AM7:14
エデンのふもと・世界母の神殿

 焦りと疲れで、イヴの頭はくらくらしてゆで上がりそうになっていた。
 近くに現象世界へ通じる道があると推測したものの、
 神殿付近は先日既に一通り探した場所だ。
 別の場所を探すべきかと逡巡していると、不意に何かの窪みを見つける。
 近づいていくと、それは窪みというより人が入れそうな穴に見えた。
 イヴが穴の中へ入ろうとすると、凪のいる方向から凄まじい光が放たれる。
 思わずイヴは穴を調べるのを止めて、光の方向へと駆け出した。
「凪――!」
 少し遠くからイヴのあげた声が作用したのか、ぴくりと凪の身体が動く。
 はっと意識を取り戻すと、凪は口から血を吐きだして身体を震わせた。
(何が起きたんだ? 身体が痛くて、苦しくて息が出来ないっ――!)
 全身がバラバラにされたような痛みで、満足に動くこともできない。
 どこか千切れていてもおかしくないほどだ。
 腕を動かして身体の状態を確かめようとするが、腕が上がらない。
 目で確認しようにも、首はほんの少しも曲がらなかった。
(くそっ、どうにかならないのか。このままじゃイヴが危ない)
 激しい痛みは逆に凪を冷静な気持ちにさせる。
 身体を動かす方法を考えていると、彼はふとルシードのことを思い出した。
 かつてカシスの死に際して、彼女の命を救った力。
 イメージによる具現とは明らかに異なるあの力ならば、と彼は考える。
 すると、それを待っていたかのようにルシードは凪に語りかけた。

「――以前も君に話したことだ。私の力は始まりを告げるもの。
 そして君自身へその力を使えないという理はない」

 ルシードは当たり前とでも言うように、そう凪に告げる。
 今の状況で、彼が死ぬ道理はないとでも言いたいかのように。
 凪はルシードの言葉を信じ、自らの治癒を心から願う。
 想像するよりそれは難しいことではなかった。
 誰だって自分という個体は他者より優先される。
 少しすると痛みが和らぎはじめ、首や手足が僅かだが動くようになった。
 顔を上げて身体の状態を見てみると、
 ところどころ綺麗に光が貫通して穴があいている。
 貫通した衝撃で周囲の骨も複雑骨折しているようだ。
 ぞっとするような光景に冷や汗を流す凪だが、
 みるみるうちに身体に空いた穴は塞がっていく。
 実にでたらめな力だと、凪は自分の身体を不思議そうに眺めた。

「アーカシャの理が働いている限り、君は望もうと死ぬことはない。
 私の力を使おうと使うまいと死ねないんだよ。その時が来るまでは――」

 死ねない、という表現に凪は腑に落ちないものを感じる。
 何かの力が働いている、というような口ぶりだ。
 ともかく身体はなんとか動くようになってくる。
 今はルシードの言葉を咀嚼するより、夢姫と闘うべき時だ。
 そうでなければ、彼女は自分からイヴに標的を変えてしまいかねない。
 走ってくるイヴに対し、凪は手を挙げて無事をアピールする。
「大丈夫なのか、凪」
 彼女は傍まで駆け寄ってくると、膝をついて凪の身体を抱き起こした。
 治りかけている身体に驚きながらも、イヴは安堵した様子をみせる。
 答えるような形で凪は彼女の言葉に頷いた。
「うん。どうにかね」
 凪はそっと立ち上がり、驚いた表情の夢姫と視線を交わす。
 言葉はない。ただ目を合わせて互いが敵であると認識しただけだ。
 すぐに凪はイヴを連れて、再度夢姫から逃げるために走り出す。
 その様子を夢姫は追うでもなく、呆然と見つめていた。
 僅かだがその小さな両手を震わせながら。

04月11日(土)  AM7:23
エデンのふもと

 草原を駆け抜けながら凪はイヴに連れられて走っていく。
 後に続いて走る凪は、身体の調子を確かめながら彼女に聞いた。
「空間の歪みは見つかった?」
「いや――ただ、妙なものを見つけた」
「妙なもの?」
「ああ。これだ」
 そう言って彼女が指さしたのは、地面に開いた長方形の縦穴だ。
 茂みに囲まれて気付きにくい場所で、穴の奥は深そうに見える。
 不気味なようにもみえるが、他を探している余裕はなかった。
 穴に近づいていくと、奥には地面にめり込んだ奇妙な扉が見えている。
 地面へと続く縦の扉は、実に異様な雰囲気を醸し出していた。
「あれは――」
「なるほど。そこから逃げるってわけね」
 声がして二人が振り返ると、そこには夢姫が腕を組んで立っていた。
 少し本気になれば、彼女が二人を見失うはずもない。
 笑みを浮かべてはいるがその表情は酷く冷たいものだ。
「そこを降りて扉を開けるのと、私が身体中に穴を開けるのと、
 どっちが速いか試してみてもいいわよ」
「っ――」
 射抜くような鋭い夢姫の眼光が凪たちを睨みつけた。
 今、彼女に背中を見せたら間違いなく殺される。
 ここまで背を見せて逃げていながら、凪とイヴはそう感じた。
 夢姫は凪たちが逃げ惑うことなど大して気にも留めていない。
 気に留めていないから、凪たちは逃げ惑うことができた。
 その気になれば眼で重圧をかけるだけで、夢姫は二人を捕まえられる。
「なぁ君はちょっとやそっとじゃ死なないみたいで安心したよ。
 もしあれで死んでたら――拍子抜けだったとこ」
「もう一度よく話し合うんだ夢姫! お前と凪が争って何の意味がある!
 お前は凪を殺したいわけじゃないだろう!」
 予想外に夢姫の態度が差し迫っていると気付き、イヴは声高にそう告げる。
 彼女の眼差しからは、もはや人らしい感情は窺えなかった。
 醒めた怒りを前面に出して、他の全てを奥底にしまったかのように。
 話しかけたイヴに怒るでもなく、静かに首を振って答える。
「ううん、私はなぁ君を殺したいのよ。殺して、私だけのものにしたいの」
「そんな――馬鹿なこと」
「この世界には、私の居場所はなかったんだから」
 何処にも自分の存在を安定させる場所がない。
 彼女が言う不安と絶望が、イヴには痛いほど理解できた。
 それはイヴも同じで、倒れそうな時に自分を支えるものが何もない。
 今かろうじてイヴが夢姫と違う立ち位置に収まっていられるのは、
 一時的に凪が支える役割を担っているからに過ぎなかった。
 彼がその役割を止めた途端に、イヴは倒れこんでしまうだろう。
 だからこそイヴは彼女に何も言うことができなかった。
 狂気は逃避と同義。夢姫は他の術がなく惑っているだけだ。
 何の道も示せないのに、苦痛を重ねろなどとイヴには言えない。
「だが――お前達が争えば――」
「破壊と再生の儀式、だったかしら。そんなのどうでもいい。
 結果としてこの世界が滅びようと、私にはどうでもいいわ。
 所詮、私を拒否した世界――私やなぁ君と共に、全て無くなればいい」
 抽象的なイメージだけで夢姫の周囲は黒く濁り始めていく。
 そこに彼女がベクトルを与え、黒く光る球体が無数に生まれ始めた。
 ワンセカンド・ドラコニアン・タイムをイメージし始めたのだろう。
 黒い光に変化してはいるが、間違いなくそれは凪を撃ち抜いた光だ。
「今のうちに逃げるしか――」
「逃がさないわよ」
 地震が起こったと勘違いするほどの衝撃が地面を襲う。
 イメージが甘いために速度は若干遅いが、
 その光の束は到底イヴにかわせる速度ではない。
 凪は咄嗟に彼女を突き飛ばして、かわりに光線に全身を貫かれた。
 今度は身を守る間もなく、全ての光が彼の身体へ穴を開けていく。
 手足が千切れ飛び、跡形もなく吹き飛ばされていった。
 倒れこんだイヴはその光景を見て、大きな叫び声を上げる。
 両手で頭を抱え、信じられないと言った顔で口を開いていた。
「な、凪――」
 直後に彼女の顔は更なる驚きで包まれることになる。
 ルシードの力によって、凪の身体が見る見る内に元の姿を取り戻していく。
 逆再生を行っているかのように、それは異様なものだった。
「大丈夫、私はどうやらまだ死なないみたいだから」
 負傷した身体は既にある程度形を取り戻している。
 あまりの出来事にイヴは絶句するしかなかった。
 具現するという能力では、ここまでの治癒はまず不可能。
 無からの再生は実にでたらめな能力と言えるだろう。
 死を許されていないかの如く、凪は致命傷から元の状態に戻っていた。
「これは、一体――」
「解らないけど、今は考えてる場合じゃないでしょ」
「あ、ああ」
 困惑しながらもイヴは、ひとまず夢姫から逃げるべきと考える。
 そう思った矢先、凪の身体が傾いてイヴに倒れかかった。
 危なく倒れそうになるが、どうにか彼女は凪を受け止める。
「どうした、凪!」
「うん、ちょっと眩暈がした――だけ――」
 強がる凪の言葉は信じないで、イヴは額に手を当ててみた。
 自分の額と比べてみると、やけに温度が低く感じられる。
 何か平常とは違う状態だと容易に推測できた。
「反動が出たのかしら? どうやら私が死なないのとは、違うみたいね」
 いつの間にか、凪たちのすぐ傍へと夢姫はやってきている。
 彼女の言う通り、明らかに凪の様子は身体の再生が原因だと考えられた。
 無から何かを再生するということが、無償で行えるはずもない。
 ただし、これでも代償としては安いと言えるだろう。
「はぁ、はぁ――」
 気付けば凪は夢姫と闘うどころの状態ではなくなっていた。
 眩暈は収まらず重りをつけたかのように身体中の反応が鈍い。
 立っていることすら難儀するほどだった。
「仕方ない。凪、少しは歩けるか?」
「だ、大丈夫だよ。全然、平気」
「――うん。それならいい」
 言い終わるとイヴは凪を思いきり穴の方へ突き飛ばした。
 落下時の浮遊感と共に凪は扉の上へと倒れこむ。
 落ちてきた衝撃で扉が開き、凪は奥へと落ちそうになる。
 必死で扉の端を手で掴むが力が入らない。
「ちょ、何する――の」
 言いかけて凪はイヴの考えに気づく。
 冷たい身体が、更に冷たくなるような汗が噴き出てきた。
 凪が上を見上げると、イヴは優しげな顔で彼を見下ろしている。
 悟ったような表情からは、ある種の決意のようなものが窺えた。
「ずっと、お前が眩しかった。辛いことがあっても、
 苦しい思いをしても――幸福のもとで生きていけるお前が。
 お前を見ることで、私は私の幸せを覗いていたのかもしれない」
「イヴ――」
 およそ幸福と疎遠に暮らしていた彼女にとって、
 いつからか凪は日常や平穏の象徴となっていたのかもしれない。
 それは、彼女が得られなかったもの。
 求めては離れ、恋のように彼女を焦がしたもの。
 諦観して割り切ろうと考えたこともあった。
 それでも最後に残ったのは、憧憬。
 奇妙な価値観かもしれないが、イヴにとって凪は自分の代わりだった。
「凪、私は――私はこの世界が好きだ。
 お前が暮らしているこの世界を、守りたいんだ」
 静かに笑って彼女はそう話す。別れの言葉を告げるように。
 少しずつ手の力が抜けていく。イヴの顔がどんどん遠くなっていく。
 気付けば凪の視界はぼやけて滲んでいた。
(こんなときに、何の役にも立たないじゃないか。この力は)
 自らの無力さをかみしめながら、やがて凪の意識は閉ざされていく。



「下らない。大した時間稼ぎにもならないでしょうに」
 凪が扉の奥に消えた後、いらついた顔で夢姫はそう言った。
 確かに彼女の言うとおり、数日もあれば凪を探すことは容易だろう。
「それでも、私の証にはなる」
 振り返ってイヴは夢姫のことをじっと見つめた。
 今のイヴは何の力もないただの女子にすぎない。
 だから夢姫には、彼女のある種強気の態度が理解できなかった。
「もしかしてなぁ君がいなくなったから、自分は助かる――とか思ってる?
 言っておくけど私は、あんたにむかついてないわけじゃないのよ」
「解っているさ」
 夢姫が少し近づいただけで、息苦しくなるような重圧が襲ってくる。
 それだけでなく瘴気に似た黒いものが彼女の周囲を満たしていて、
 下手をすれば接近しただけで即身仏になりかねなかった。
 実力の差、と呼ぶにもおこがましいほどの差異が両者にはある。
「だが、ただ死んでやると思うなよ、華月夢姫――いや、ディアボロス」
「犬死にか無駄死に。あんたの選択肢はどっちかしかないわ」
 イメージすら想起せず、ただ夢姫は殺気を纏って近づいてきた。
 逃げても無駄だと考えたイヴは彼女を真っ向から迎え撃つ。
(数秒でいい――この命を使って、ほんの少し夢姫を足止め出来ればいい。
 頼む――神よ、不出来な私ですが――慈悲を――)
 イヴが頭の中で抱くのは黒い炎のイメージ。
 炎の後には陽炎が立ち上る、彼女の最も得意とした具現だ。
 一度きりでいい。ただ一度――黒い炎を具現出来たなら。
 想いの力。それを信じて彼女は夢姫に殴りかかる。
「ま、何にせよお前に活路なんてない」
 何気なく夢姫は手をイヴに向けて一撫でした。
 強固なイメージを帯びたその手から、風と共に衝撃の波が巻き起こる。
 夢姫に触れることすら叶わず、イヴの身体は吹き飛ばされ浮きあがった。
 転げるように地面へ倒れると彼女は気を失いぐったりとしてしまう。
「このまま私の傍にいるだけでも死ねるなんて、全く脆弱な身体ね。
 でも、それじゃ私の気が済まないから――きちんと殺してあげる」
 倒れているイヴに近づき、夢姫は首をはねようと手を振り上げる。
 その瞬間――彼女とイヴの間に、一人の天使が舞い降りた。
 彼はにこやかにほほ笑みながら夢姫に話しかける。
「ボクのものを殺すだなんて、勝手をしてもらっちゃ困るなあ」
「なんで、お前がここに――」
 驚いた様子で夢姫は天使、アザゼルの顔を見た。
「まあルシードとディアボロスの動向は、常に解ってるからね」
 当然と言ったような素振りで彼はそう答える。
 それからアザゼルは、膝をついてイヴの頭をそっと撫でた。
 気を失って倒れているイヴは、それに反応する様子はない。
「ふん――それはいいとして、邪魔よ。まさか本気でアダムになるとでも?」
「彼女はね、ルシードを舞台に上げる餌として必要なんだよ」
「必要ないわ。現象世界に逃げたなら私自身が出向いて追い詰める」
「それだとルシードのために何人か犠牲にはなるかもしれないけど、
 彼自身を追い詰めることは絶対に出来ないと思うよ。
 たった今、そうやって彼はまんまと逃げおおせたわけだしね」
 ある結論へ向かわせようとするアザゼルの会話。
 なんとなく、夢姫は彼のそういう論法が気に食わなかった。
 それに目的がいまいち見えないのも気に食わない。
 ここへ来た理由は、ルシードを誘う餌としてイヴを使うためだと言う。
 何のためにそんなことをする必要があるのか。
 ピースを欠いたままでパズルを完成だと偽られているような気分だ。
「イヴを使えば、待っているだけでルシードがやってくる。
 どう考えても殺すより生かした方が得だと思わないかい?」
 アザゼルはそう言うと、イヴを抱きかかえて立ち上がる。
 合理的に考えれば、アザゼルの言うことは間違っていなかった。
 だというのに彼の言葉には納得できない何かがある。
「お前は信用ならない――でも、なぁ君を殺せれば他はどうでもいいわ」
「決まりだね。よかったよ、イヴを死なせずに済んで」
「――ふん、下衆め」
 おぞましい笑みを浮かべるアザゼルに、
 吐き捨てるような口調で夢姫はそう言った。
 

Chapter158へ続く