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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter160
「Theme Of Breakdown」
 



04月14日(火) PM17:52
某国・某所

 とある国の平野で、僅かな大地と大気の震動が発生する。
 人間の目や耳には理解できないレベルで、其処に何かが起きていた。
 平野をジープで走っていた一人の男が異常に気がつく。
 普段なら気にも留めない砂と草木だけの光景を何かが掠めた。
 目をこすって見間違いであるのだと考える。
 どれだけこすろうと、目の前には途方もない規模の何かがあった。
 大きすぎてそれが何なのかもよく解らない。
 表面だけがかろうじてその何かを樹だと認識させる。
 彼にとってそこは何度も通った場所だったが、
 今まで一度も見たことがない荘厳な光景だった。
 同時に彼はふとあることに気がつく。
 先ほどから走っているこの場所に見覚えがない。
 似たような場所と言われればそれまでだが、
 土地勘のある彼にとって確かに其処は見知らぬ場所だった。
 好奇心が湧き、男はしばらくジープを止めてその壮大な光景を眺める。
 上を見ても頂上は見当たらず、それは何処までも高くそびえていた。
 心躍る光景ではあるが、同時に薄気味の悪いものでもある。
 これを誰かに知らせようと、エンジンを動かそうかと思った時だ。
 巨大な樹は突然目の前から消えてしまう。
 蜃気楼か何かのように、ゆらりとその姿をくらましてしまったのだ。
 何が起きているのか解らず、混乱しながら彼はジープを再び走らせる。
 今見た出来事は現実か――或いは幻なのか。
 どちらにせよ、誰に話したところで信じないであろうことは確かだった。

04月14日(火) PM18:13
白鳳学園・寮内自室

 その夜、久方ぶりに凪と紅音は二人きりで話す機会を得た。
 背の低いテーブルを囲んで、買ってきたペットボトルを開ける。
 リヴィーアサンとの話がひと段落ついて、
 少しだけ凪は疲れた表情を覗かせていた。
 これから何をするかまだ決まっていない。
 というより、何をすればいいかが解らないというべきだろう。
 夢姫やイヴの情報を得ようにも、彼女たちは天使にも悪魔にも属さない。
 現時点で彼女たちの消息を調べることは不可能と言えた。
 イヴを心配する気持ちだけが、行き場なく凪の胸を締め付ける。
 かいつまんだ事情を知る紅音は、そんな凪を心配そうに見ていた。
「凪ちゃん――イヴさんが無事だと良いね」
「――うん」
 罪悪感で胃が痛くなる凪だが、それを顔には出さない。
 卑怯だと解っていても、真実を告げることを凪は躊躇っていた。
 失いたくないから嘘をつく。紅音のためではなく、自分のために。
「あ、あのさ、紅音――俺、実は――」
「なに?」
 紅音はつぶらな瞳で凪のことを見つめてくる。
 余計に胸が痛むので、凪はその顔をじっと見ていられなかった。
「えっと、な――なんでもない」
「言いかけて止めるのはずるいよぉ、すっごい気になるもん」
「いや――大したことじゃなかったから、気にしないで」
「気になるなぁ、すっごく気になるなぁ」
 そんなことを呟いている紅音から顔をそらし、凪は飲み物に口をつける。
 彼女に何かを隠すのは凪にとって苦しいことだった。
 一度嘘を吐いて傷つけたというのに、紅音は凪をまた信頼している。
 時に信頼は、猜疑心より強く嘘を暴きだすのかもしれない。
(言わなくちゃ。あの時みたくバレてしまう前に、俺から言うんだ)
 自分が女装した男だと知られた時のことを思い出す。
 笑顔が崩れ悲しみに染まった紅音が脳裏に浮かぶ。
 口を強く結んで、凪は一点を見つめたまま黙り込んでしまった。
 それを不思議そうな顔で紅音は眺めている。
 出来るはずがない。日常を自ら壊すことなんて、出来るはずがない。
 例え薄氷の上に乗っている日常だとしても。
 崩れたら最後、紅音と過ごす日常は暗い水底に沈んでしまうだろう。
 サルベージすることができるのかは解らない。
 だからこそ今を享受していたかった。
 紅音の視線に気づいて、凪はぽんと彼女の頭に手を乗せる。
「ごめん、ぼ〜っとしてた」
「凪ちゃんってそういうとこ、よくあるよねぇ。
 結構私の方がしっかりしてたりして」
「それはない」
 迷いなく凪は即答した。
 更に心の中で紅音にしっかりという言葉は似合わない、と断言しておく。

04月14日(火) PM18:31
東京都・某所のバー

「奇妙だと思わんかね」
 不意にラツィエルはそう呟く。
 ラファエルと彼は今、雑居ビルの一室にあるバーで座っていた。
 カウンターの向こうから、ラツィエルへとカクテルが差し出される。
 軽く話をしてそれを受け取ると、彼はそっとグラスに口をつけた。
 ほろ苦く甘い香りが口の中に広がる。
 カシスとテキーラをベースにしたそのカクテルは、
 グラスをテーブルに置くと赤い色を反射させて美しく輝いた。
「奇妙って――この状況が、かな?」
「まあ確かにそれもそうじゃな。
 天下の老賢者と四大熾天使がこそこそバーで隠れて酒飲んどるんじゃ」
「飲んでるのはラツィエル様だけですけどね」
 美味しそうにカクテルを飲む彼の横で、ラファエルはジュースを飲む。
 彼は酒を楽しく飲むような気分ではなかった。
 何しろ同胞である天使から追われているのだ。
 酒に強いわけではないということも、理由の一つだろう。
 そんな彼の皮肉を誤魔化すように、ラツィエルは本題に入った。
「それはさておき、今回の件が奇妙じゃと言っておる。
 ミカエルはジョフとシウダードを殺害し、その罪をお主に被せた。
 これはまず間違いないじゃろう」
「それは――」
 言葉に詰まるラファエル。今までミカエルを信じてきたが、流石にこの状況
で彼を擁護する言葉は出てこない。
 しょんぼりと頭を垂れて彼はジュースに視線を移した。
 肘をテーブルにつくと続けてラツィエルは言う。
「ならば、その罪を親友とも言えるお主に被せたのは何故か。
 他に幾らでもスケープゴートは存在したはず。
 だというのに何故、奴はあえてお主に罪を着せたのか」
「――みっき〜にとって、僕は親友じゃなかったのかな」
「そうとも思えんのじゃがな。あやつは隠し事が多すぎてどうにも読めんわ」
 頭をポリポリとかきながらラツィエルはため息をついた。
 確かに、ミカエルは幾つもの秘密を抱えている。
 今回のことやこれから起こす何かのための秘密なのか。
 或いは秘密のために起こされる事象なのか。
 全ては窺いしれぬことだが、一つだけラファエルにも解ることがあった。
 次にラファエルとミカエルが出会った時、
 恐らくミカエルは躊躇なく彼に刃を向けるだろう。
 その時、ラファエルはどうするべきなのか。
 話し合いでどうにかなるならばそうしたいが、
 会話で解決する気は欠片もしなかった。
 無意識に、彼はケースに閉まってある神剣に目を向ける。
(ミカエル――僕は、君を――)

04月14日(火) PM18:54
インフィニティ・コキュートス

 コキュートス、万魔殿中央部にある巨大な穴の奥。
 こじ開けられたギンヌンガガフの扉の頭上に、一人の悪魔が浮いていた。
 翼を羽ばたかせて、扉の奥を見下ろす。
「もはや――歳老いた蛇の暇は過ぎ去った」
「――そのようだね、ベリアル。出迎えかい?」
 扉の向こうから、悪魔へと青年の声が木霊する。
 ややあって扉から青年の姿をした悪魔がゆっくりと現れた。
 先日、ディアボロスが来訪した際に扉の封印は解かれている。
 にも関わらず、今日という日まで彼は外へ出なかったのか。
 簡単なことだった。復活から決起、戦闘までは早い方がいい。
 そのために、最善の日を選んだにすぎなかった。
 扉から浮き上がってきた彼は、ベリアルとある程度の距離を取り対峙する。
 辺りに他の悪魔の姿はなく、静かな緊張感だけがそこにあった。
「我が仕える盟主よ、昔と違わぬ気品だ。
 アモンが退けられたと聞いて、少し心配したが――無用だったな」
「ふふ、君も相変わらず僕を敬うのか何なのかよく解らない奴だよ。
 考えに賛同してくれたのだから、文句はないけれどね」
「無論――敬ってはいるが、下手な敬意は貴方への礼を失する。
 それよりも、早く万魔殿の会議室へと来ていただきたい。
 多くの悪魔が貴方の復活を喜び――うち震えているのだから」
 両肩から伸びる六枚の翼を広げると、
 あっという間にルシファーは空高く舞い上がった。
 続くようにベリアルが彼の隣りへと飛んでくる。
 彼らの眼下には万魔殿と多くの悪魔たちの姿があった。
 会議室で待ってなどいられず、皆屋上へと上がっている。
 ルシファーが再び姿を現したということは、
 天使の軍勢に堂々と牙を向く時が来たということ。
 つまり――戦争の幕開けだ。
 血わき肉躍る彼らは、椅子に座ってなどいられないのだろう。
 口々にルシファーの名を呼び、畏敬と闘いへの意欲を見せていた。
 静まらせようとするベリアルの動きを手で牽制し、
 屋上にいる悪魔たちにルシファーは話しかけた。
 ゆっくりと、だがはっきりと聞こえる声で。
「――全ての同志に告ぐ! 我が最強たる武勇の軍勢よ!
 敵はただ一人、天使をかしずかせ世界を弄ぶ神だ!
 我々を――そして感情を悪だと決めつけ排除しようとした愚者だ!
 恐れることはない、我々には神をも超える強い意志がある!
 傷つけようとも、傷つけられようとも陰らない光の意志だ!
 これに誰が深く杭を打ち付けて留め置くことなど出来ようか!
 立ちはだかる者へ容赦は要らない! 我々は、神の座を目指す!」
 彼がそう話した後、凄まじい歓声が沸き起こる。
 まるでコンサートの指揮者が如く、ルシファーは両手を広げた。
 悪魔たちの言葉を身に受けるかのように。
 屋上に上がっていた悪魔の一人、フォラスはそれを見て息をのむ。
「これは、まるであの時と同じ――神に反旗を翻したあの時と――。
 待ちわびたわ――ようやく時が来たか」
「何が起ころうと悔いはない。盟主と同じ旗の下、闘うことが出来るのなら」
 フォラスの隣にいたベルゼーブブが、小さな声でそう呟いた。
 彼らはルシファーと共に天使を裏切った者たちだ。
 短くも長かった彼の復活は感慨深く、胸を熱くさせる。
 止まない歓声の中、ルシファーは目を細めて天を見上げていた。

 

 ほぼ時を同じくして――。
 アメリカの監視衛星が、とある地点に途方もない巨大物体を探知した。
 砂漠と平野が入り混じった場所で、雲に覆われて頂上は見えない。
 其処に何かがあるのは間違いないのだが、
 なぜかそれを衛星写真で捕えることはできなかった。映るのは雲と光の反射
ばかりで、可視光や赤外線などを使っても具体的な形さえよく解らない。
 異常なのは、そこが全く未知の場所だということだ。
 近くに町もあるというのに、今まで調べられた形跡がない。
 調べれば巨大な物体がそこにあることは一目瞭然だ。
 だというのに、今の今までどうして衛星が捕えられなかったのか。
 それよりも不気味なのは、何故今になって捕えられたのかということだ。
 何かの前触れか。或いは終わりなのか。

 まるで、終末を告げるラッパの音がどこからか聞こえてくるようだった。
 

Chapter161へ続く