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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter167
「星降る夜に」
 


04月15日(水)
セフィロトの樹周辺砂漠

 アサグ、ベルゼーブブとの交戦から数十分後。
 拠点となる大型の天使軍キャンプに、ケルビエル達は戻ってきていた。
 彼らはキャンプの奥に座するアドゥスの元へ向かう。
 アドゥスはミカエルが日本から到着するまで、
 代理で総指揮を務めることになっていた。
 大きなテーブルと精密機器が並ぶそこへ、二人の天使はやってくる。
「総指揮官、報告する。第二十三キャンプ付近で悪魔アサグと交戦した」
 報告は決して明るい口調ではない。
 天使側に被害が出ているし、アサグを仕留めそこなっているからだ。
 相手は厄介な毒の霧を使う悪魔。逃した代償は大きい。
 ケルビエルからの話を聞いて、アドゥスは無線回線を手に取った。
「全軍に通達。毒を使う悪魔が現れた。媒介は霧が確認されており、
 主に上空から散布するようだ。空への警戒を強めるように」
 回線を終了させると、アドゥスはケルビエル達に言う。
「お前達が仕留めそこなうとはな」
 それは責める口調ではなく、敵の優秀さを認めるものだ。
 近くにある椅子へ乱暴に腰を下ろすと、ゾフィエルは両手を広げて言う。
「奴ら、まずは戦力を削りに来てやがる。
 速いところ拠点を探し当ててブッ叩きてえとこだ」
「我々も偵察隊を派遣はしておる。
 じゃが、奴ら周囲の山脈地帯を上手く使って隠れてるようでな」
「奴さんも数での不利は承知の上か。クソが、削り合いは性に合わねえぜ」
 拳を握ると、ゾフィエルは顔に苛立ちを覗かせた。
 口には出さないがケルビエルも同じ気持らしく、険しい表情をしている。
 アドゥスは溜息をついて、気づいたような顔で口を開いた。
「そういえばミカエルの奴が、ルシードが戦況を動かすと言っておった。
 参戦の是非に関わらず、奴を勧誘したという事実がそうさせると」
「あの道標、とか言われてたガキか。結局、インフィニティへ乗り込む
 足がかりどころか障害にしかならなかった奴だろ。何の役に立つってんだ」
 疑う様子を見せるゾフィエル。対してケルビエルは何も言わない。
 どこか言葉の意味を理解しているようにも見えた。
 しわだらけの顔をしかめて、アドゥスはゾフィエルに答える。
「ラツィエルが言っておったよ。ルシードはインフィニティだけでなく、
 神のもとへ導くものでもあるかもしれんと」
「――なんだと? あのラツィエルがそう言ったのか?」
「うむ」
 知識量では天使有数と目されるラツィエル。
 彼がルシードをそう語るのであれば、無視できない信憑性がある。
 例えそれが、現時点で堕天使扱いされている老天使だとしても、だ。
 ゾフィエルはにわかには信じがたい、という様子でテーブルに手を置く。
 話題の折、ふと思いだしてケルビエルが口を開いた。
「そういえば、樹の入口は見つかったのか?」
「いや、未だ見つかっておらん。何しろあの大きさじゃからのぉ」
 果たしてセフィロトの樹に入口らしきものがあるのか。
 徒労に終わるという可能性は捨てきれない。
 ただアドゥスもケルビエル、ゾフィエルらも何処かで確信を抱いていた。
 樹の頂上にはエリュシオン――神の住む地がある、と。
 だからこそ、ルシファーはセフィロトの樹を目指し、
 天使はそれを何としても防がなくてはならないのだ。
 思えば、天使の前に神は何度姿を見せたことがあっただろうか。
 遠い過去の記憶を手繰ろうとするが、アドゥスにはよく思い出せない。

04月15日(水)
白鳳学園

 夕刻。授業が終了して凪は自室へと戻ってくる。
 頭の中にあるのは維月から聞いた話のことだ。
 自分の死、それが起こる場所のこと。
 考えれば考えるほど奇妙だが、逆算してみると一つの憶測が成り立つ。
 巨大な樹の頂上とは、間違いなくセフィロトの樹のことだろう。
 ならば、何故自分はそこで夢姫と闘うのか。
 落ち着いて凪は考えを整理した。
 自然な流れでその未来が紡がれるとするならば、
 向かわなければいけない理由があったから凪は樹の頂上へ行く。
 理由にあげられるのは、夢姫との決着ともう一つ。
 イヴがそこにいる、という可能性が考えられた。
 確実とは言えない。でも、もしイヴがいるならば。
 そこまで考えて、凪はその先のことが抜け落ちていたことに気づく。
(何の意味もないじゃないか。例えそうだとしても、
 そこで夢姫に殺されるんじゃ、イヴを助けることなんてできない)
 仮に、維月の夢見が変更可能な未来予測だったと考えても、
 夢姫に勝利するビジョンがどうしてもイメージできない。
 無力だと腹を立てる気にもならないほど、それは明らかな実力差だ。
 かといって、イヴを助けるのを止めようとは思えない。
 何の策も可能性もないというのに。
(俺に出来ることをやるしかない)
 頭でそう納得して、心を落ち着けようとする。
 だが、鼓動がはやるのを抑えることはできなかった。
 冷たい汗がぶわっと湧き上がり、軽い眩暈を覚える。
 精一杯やればいいのだと、頭で解っていても心が納得しない。
 結果として、死ねば全ては終わる。
 色んな可能性は考えられるが、一番高いのは何もできずに死ぬ確率だ。
 先にイヴを助けてから夢姫との闘いに臨む、
 などという器用な真似が出来るかは疑わしい。
(未来は不確定、やってみなきゃ解らない。そう思うしかないよな)
 ふと窓の外に目を向けると、辺りは暗闇に包まれていた。
 物思いにふけっているうちに、ずい分と時間が経過していたらしい。
 壁の時計を見ると、既に八時を回っていた。
 そこで凪は、紅音がまだ帰ってきていないことに気付く。
 部屋に戻らず食事でも取りに行ったのだろうか。
 気晴らしも兼ねて、凪は紅音を探しに行くことにした。
 着替えると部屋を出て、一応施錠を済ませてから廊下を歩きだす。

 

 学食や寮内を回ってみても、紅音の姿はない。
 別段用事もないので、部屋に帰って待つという選択もあった。
 そう頭で考えてはみたが、凪は靴を履いて外へと出ていく。
(昔は、よく紅音が大した用もないのに俺のこと探してたっけ)
 空を見上げると、月が煌々とその存在を示していた。
 月から校舎の方へと視線を向けると、屋上に人の足が見える。
 屋上は普段から立ち入り禁止で、来訪者などありえないはずだ。
 凪は辺りを見回して、誰も居ないのを確認してから声を上げる。
 名前を呼ばれたことに気づき、屋上の少女は顔を凪に笑いかけた。
 もう一度人目を確認すると、凪は飛びあがって屋上へと着地する。
「わあっ。びっくりした」
「びっくりしたのはこっちだよ。まさか、こんなとこで月光浴とはね」
「うん――ちょっと考え事したくて」
「へえ。めずらしい」
「めずらしくないよっ。私、結構考えこむタイプだもん」
「それはない」
「今、すごい否定早かったよっ?」
 驚きの声を上げた後、がっくりと肩を落とす紅音。
 軽く笑って凪は彼女に言う。
「冗談だよ」
 彼女が何か悩んでいることはすぐ理解出来た。
 そうでなくてはこんなところに一人でいるはずはないし、
 いつも通りの会話をしていてもどこか様子が違う。
 紅音の隣に腰を下ろすと、彼女の顔をのぞいてみた。
「え、えと、凪ちゃん?」
「何に悩んでるのか知らないけど、私でよかったら聞くよ」
 凪がそう口にすると、一瞬固まって紅音は首を横に振る。
 それから、か細い声で大丈夫と聞こえてきた。
 健気さ漂うその仕草を見て、凪は二の句が継げなくなる。
「私も三年生になったから、色々考えるんだ。
 これからどうしようとか――いろいろ。
 でも、やっぱり三年生だから前を見て向き合おうって思う」
「――凄いね、紅音。成長した」
「そうかな〜。照れるなぁ〜」
「最初会った時は、もっと変な子だったのにね」
「うん。変だったよね――って、酷いよ凪ちゃんっ」
 出会いを思い出して、凪はくすくすと笑みを零す。
 そのせいか、紅音も怒りながらちょっと笑っていた。
 二人は笑いあった後で、少しだけ言葉を交わさず夜空を見上げる。
 格別に綺麗というわけでもないが、不思議と星がよく見える夜だった。
 寝転がって両手を伸ばすと、凪は真上に広がる空を見て、
 まるで降り注いでいるようだ、などと洒落たことを考えてみる。
「ねぇ凪ちゃん。維月ちゃんの話なんだけど――」
「うん」
「死ぬかもしれないって解ってても、凪ちゃんは行くの?」
 そう問われて凪は答えに詰まる。
 行くしかない、と解っているが怖くないわけではなかった。
 かつて凪は死を疑似体験したことがある。
 擬似的なそれでさえ、苦痛と恐怖は筆舌に尽くしがたいものだった。
 加えて、紅音のことを思えば躊躇しないわけがない。
 身体を起こして、凪は紅音の目を見て答えた。
「行くよ。そこには夢姫がいるし、きっとイヴもいる」
 多くの言葉は語らない。語るすべもない。
 ただ凪は正直に、誠実にそう告げる。
 反対する素振りはなく、紅音は少しうなだれて言った。
「凪ちゃんと夢姫ちゃんは、運命の糸で結ばれてるみたいだね。
 ちょっとだけ、嫉妬しちゃうかも」
 口ぶりは冗談めかしたものだが、心中は推し量れない。
 確かに、紅音の言うとおりではあった。
 幼馴染でありながら、ルシードとディアボロスという運命で繋がれた二人。
 本当ならば、凪の隣に居たのは彼女だったのかもしれない。
 そんな紅音の手を、凪はそっと握って言った。
「そうかもね。でも私――俺は、運命じゃなくて自分の気持ちに従うよ」
 照れくさくて彼女の顔を見ることはできない。
 だが、その気持ちは伝わったようで、
 紅音は頬を染めて頷くと手を握り返した。
「わたし、凪ちゃんが夢姫ちゃんと仲直り出来て、
 イヴさんを連れて帰ってくるって信じてる」
 何も知らない紅音の口から、イヴの名前が発せられる。
 思い出したように、罪悪感が凪の心をじくりとえぐった。
 決して、凪自身がイヴとのことを忘れていたわけではない。
 紅音に対して接するときは、それを表に出さないよう気をつけていた。
 結局のところ、何が正しいのかも解らず怯えていただけとも言える。
 お互いの心が通じ合えたと思った数秒後。
 反動で凪は全てを話してしまいたい衝動に駆られる。
 先延ばしにしてはきたが、それが正しいのか凪は悩み続けてきた。
 好きだからこそ、嘘をつくことが辛くてたまらない。
 平気な顔で紅音に愛を告げたことが、誤魔化しに感じられてしまう。
(俺は、紅音――お前を裏切ったんだ。そう、言わなきゃ)
「あ、あのさ、紅音」
「なに?」
(本当のことを言えば、ただ傷つけるだけかもしれない。
 黙ってた方がいいことだって、ある。
 俺の苦しみを、紅音に擦り付けるようなものだ)
 言い訳なのか或いは真理なのか。
 どちらを選ぶことが正しいか判断できず、凪は押し黙るしかなかった。
 或いは自己満足としての懺悔、それを選ばず沈黙を選んだ場合。
 今起きている出来事が上手く片付き平穏が訪れたと仮定して、
 この先ずっと後ろ暗い思いを抱えて紅音と向き合うのか。
 幾つもの可能性を考えてはみたが、凪にはどれも耐えられそうにない。
(夢姫と闘って死ぬとしたら、紅音が知る機会は訪れない。
 けど、そんなこと考えて闘うなんて自殺行為だし馬鹿げてる。
 俺は死にに行くんじゃない。そうじゃないんだ)
 頭の中で黒白を争っている最中、ふっと凪の頭に一つの答えが浮かんだ。
 正確には、ずっと浮かび続けてはいたが捉えようとしなかっただけ。
 どんな解釈があっても、例えそれが正解ではなかったとしても、
 この嘘を紅音に隠し続けることはしたくない。
 素直なその気持ちが、言い淀んでいた続きの言葉を吐き出させた。
「言わなきゃいけないことが、あるんだ」
「え?」
「俺は、イヴと――」
 その先を凪が告げた瞬間、世界は真っ白にかすれていく。
 軽いめまいを覚えて、紅音はこめかみに手を当てた。

Chapter168へ続く