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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter172
「罪の門 -01-」
 

 雷が落ちるのとは逆の動きで、ラグエルがクサファンを狙い
 上空へと昇っていく。それは雷を逆回しで見ているような光景だった。
 クサファンはその一撃で致命傷を負い、息も絶え絶えにラグエルをにらむ。
「俺が死ぬ……ことなどは、些事だ。屍としてあの方の礎になるなら本望」
「ふん。ルシファーも、じき同じ屍になるわ」
 そう言うと、ラグエルはだめ押しに剣で斬りつけようと構えた。
 だが、剣は途中で甲高い音と共にはじき返される。
「クサファンは既に致命の一撃を受けている。その辺にしておけ」
 突然現れた悪魔に、彼女は驚きのまなざしを向ける。
 隊列から離れ上空へとやってきたのは、ベルゼーブブだった。
 その手には、神剣ハーディ・エイミスが握られている。
「まさか、こんなに早く上位の悪魔と相まみえるなんてね。
 それもベルゼーブブ――これは神剣の導きかしら?」
「退け」
「は?」
「弱き者を挫く趣味はない」
 ベルゼーブブの言葉に、ラグエルは思わず顔をしかめた。
 明らかに格下をあしらうような発言。
 プライドの高いラグエルにとって、度し難い態度だ。
 有無を言わさず、彼女は神剣アプサズで突きを繰り出す。
 なめらかな動きで、剣の先端がベルゼーブブの胸元に接触した。
 直後、彼は身体を流れるようにひねりそれを回避する。
「無駄だ」
 ハーディ・エイミスを構えると、ラグエルを斜めに斬り付けた。
 それをいち早く予測し、彼女はどうにかアプサズで受け止める。
 少し驚いたのか、ベルゼーブブはにやりと笑みを浮かべた。
「こいつ――!」
 余裕を見せるだけのことはある。
 一度剣を交えただけで、ラグエルはそう理解した。
 間違いなく実力はベルゼーブブが上。
 ラグエルが一矢報いるには、速さで彼を超えるしかない。
(雷突の突進力なら、奴の動きを上回ることができるはず)
 そう考えたラグエルは、即座に後退してイメージを固め始めた。
「誇りと死を選ぶか。それもいいだろう」
「死ぬのはお前よ。食らいなさい!」
 空中といえど、突進の速度と破壊力に遜色はない。
 雷のイメージが具現化され、彼女は雷を纏って飛び出した。
 さすがのベルゼーブブも、その速度は予想外だったらしく顔色を変える。
 回避が間に合わず、右へと飛びのいたが肩口に雷の衝撃を受けた。
 一瞬のやり取りではあるが、驚いたのは彼だけではない。
 実質、雷突を回避されたラグエルも同様だ。
(私の雷突がかわされるなんて――)
 そこで手を止めないのが彼女の長所だろう。
 右に避けたベルゼーブブを見て、ラグエルは突進を止めて方向を転換した。
「まだまだ!」
 再び照準を定めると、雷突のイメージを保持したまま宙を蹴る。
 目にもとまらぬ速さだが、それをベルゼーブブはすんでで避けた。
 そのまま、彼は剣を振り上げてラグエルを狙うが、
 彼女はアプサズでそれを弾く。
「面白い。だが――タイムリミットのようだ」
「なんですって?」
 剣でベルゼーブブは下方を指し示す。
 そこには、彼らのもとへと向かっているカマエルの姿があった。
 加えて、眼下では既に天使と悪魔が交戦を始めている。
「クサファンは役目を果たした。俺も戦列に戻らせてもらう」
「私を引き付けるのが目的だとでも?」
「フ……」
 口だけで笑うと、ベルゼーブブはその場から
 目にもとまらぬ速度で消えうせた。
 ラグエルは腹立たしく消えた方向を睨みつける。
「大丈夫ッスか。相手はあのベルゼーブブだったみたいッスけど」
「私を誰だと思ってるの。お前と一緒にしないで」
 以前より、毒づき方に優しさがない。
 カマエルがミカエルのお気に入りとなったせいだろう。
 表面ではいつも通り接しようとはしていた。
 どうしても、カマエルに辛く当たってしまう自分を戒めながら。
「さ、早いとこ戦列に戻るわよ」
「敵の指揮官がベルゼーブブだとしたら、
 俺達がここに誘われたのは若干ヤバいッスね」
 ルシファーらの隊と対峙する天使側を指揮しているのはラグエルだ。
 クサファンの攻撃に対し、即座に対応できたのが彼女だけで、
 こうして天使側の損害を最小限で抑えられたことは事実。
 ただ、ルシファーはそれを予測してクサファンを配置している。
 戦力で上回っていても、指揮官のない兵隊は烏合の衆だ。
 統率されたルシファー直属の隊に勝てるはずがない。
 未だ敵部隊の実態に気づかぬラグエルたちだが、
 それでも事態が悪くなっていることに疑問の余地はなかった。
「先に行ってるわ。あんたは後から来なさい」
 そう言うと、ラグエルは雷突で地上まで移動しようとイメージを固める。
 すると、彼女は途中で頭に手を当てて苦しそうな顔をした。
「無茶ッスよ。こんな上空まで加速してきた上に、
 ベルゼーブブとの戦いでも連続で雷突使ったッスよね。
 しばらく休まないと、脳みそ沸騰しちまうッスよ」
「スよスよってうるさいわね。くそ……あんたに心配されるなんて」
「心配しますよ。あんたは俺の上司なんスから。
 ま、ラグエルはゆっくり後から来てください。
 俺がなんとかしとくッスから」
 カマエルは言葉の後で、ラグエルを置いて地上へと降りていく。
 その姿を見つめ、ラグエルは拳を握り締めた。
 彼女にとって、カマエルはミカエルの側近という立場を奪った男で、
 そんな男に助けられるのは屈辱と言える。
 おまけに、頼りにしている自分もいるのが悔しかった。
「上司を呼び捨てにする部下が、どこにいるのよ――まったく」

 

 ルシファーの本隊が天使と交戦に入ってから、少し時間が過ぎた頃。
 凪たちは、その後方から樹に向けて車を飛ばしていた。
 徐々に近づいているせいか、セフィロトの樹は
 その圧迫感をさらに増している。
 奇妙だが、樹の周囲に大きな影ができている様子はなかった。
 まるで実態がないかのように、樹はそこに佇んでいる。
 日本を経ってから数日。
 凪はずっと、頭の中にもやがかかったような気分だった。
(現実感がない。初めて味わうこの信じられない暑さも、
 砂漠の砂埃も――夢の中でもう一人の誰かが経験してることみたいだ)
 羽根が背中に生えて以降、彼の人格は少しずつ変質している。
 誰かと同居しているような、不思議な浮遊感と倦怠感があった。
 身体はしっかりと動かせているというのに、心が追従していない。
(ルシード、なのか――? 介入しようとしてるのは――)
 何度か会話を交わしたことがあるルシードという存在。 
 おそらくルシードにも精神、心といったものがあるはずだ。
 それが、凪に強く影響を与えているとすればこの状況に説明はつく。
 凪の身体を通して交わされるものは、ルシードというバイアスをかけて
 外に発信されているということだ。
 具現という発想に近いことながら、それは個の喪失にも繋がりかねない。
 今のところは、まだ少しの変化があるだけだ。
 支配されるという感覚もないし、そうしようという意志も感じない。
(樹が近いせい――かもしれないな)
 理由はなく、直感で凪はそう考えた。
 そんな思考の最中、ラツィエルが皆に声をかける。
「さて、天使と悪魔はすでに交戦状態のようじゃな」
 彼の見つめる視線の先で、砂塵が舞い爆発が起こっていた。
 凪にも、イメージを発現している感覚が伝わってくる。
「ふむ。できれば避けて通りたいところですが、
 樹のふもとあたりまで悪魔の軍が侵攻しているようにも見えますね」
 黒澤の言うとおり、悪魔は天使部隊を
 セフィロトの樹付近まで後退させているようだった。
 樹の大きさを考えれば、別の方向へ迂回することも可能ではある。
「入口はどこか、が問題だね」
 困ったように樹を眺めるラファエル。
 もし、入口が天使と悪魔の交戦している付近にあるのならば、
 迂回は全くの無意味となってしまう。
 腕を組んで考えるラファエルの肩に、凪はそっと手を置いた。
「このままだよ。このまま、まっすぐ行った先に罪の門はある」
「え――?」
 超然とした笑みを浮かべて、凪は樹の方向を指さす。
 当り前のことを話しているかのように、自信を持った態度だ。
「罪の門、とはなんのことです」
 いきなりでてきた単語に、黒澤が反応する。
 凪はほほ笑むだけで、それ以上何かを答えはしなかった。

 

 樹のふもと。そこでは悪魔の猛攻が続いている。
 ラグエルが指揮していた天使部隊は中央突破され、
 命を惜しんだ天使たちは四散してしまった。
 その状況を知ったアドゥスが、すんでで部隊を編成、
 どうにか樹の間際でルシファーの部隊を食い止めている。
「クソッたれが! 命令系統が混乱して部隊が機能してねえぞ!」
 敵部隊をなぎ払いながら、ケルビエルは怒号を上げた。
 急編成のうえに、アドゥスは上手く全体を指揮できていない。
 ケルビエル、ゾフィエル、ウリエルといった戦力も、
 戦況を盛り返すことはできなかった。
 なにしろ、悪魔側の多くは名のある強大な悪魔ばかりだ。
 雑兵を揃えた天使の兵ではものの数とならない。
 ラグエルたちが兵を揃えて戦線に加わる頃には、
 悪魔の部隊によって前線は二割程の被害を受けていた。
「アドゥス様! 中央が瓦解を始めています!」
「おのれ……左翼から人員を割かんか! 敵を包囲して叩き潰すんじゃ!」
「左翼も悪魔の攻撃で被害を受け、陣形が崩れ始めています!」
「先に言わんか! とにかく数ではこちらが勝っとるんだ!
 この戦力差で負けるはずがない!」
 まくし立てるアドゥスだが、具体的な対策は決まっていない。
 傍で補佐をするガルガリエルも、想定外のことに頭を抱えていた。
「オファニエルの隊はどうなっておる!」
「そ、それが――未だ交戦中、状況は芳しくないと――」
「なにをやっておるかあ!」
 アドゥスは、近くにあったコップを伝令の天使に投げつける。
 コップは天使に当たる前に、誰かの手によって受け止められた。
「おいおい、俺のいない間――随分と
 やらかしてくれてるじゃないか、アドゥス殿」
「き、貴様――ミカエル!」
「色々と立て込んでて、帰還が遅れてしまったのですよ。
 まあ、状況はそこらへんの天使から聞いております」
「ぬぬ……」
「アドゥス殿、外で指揮でも取ってきたらどうです?
 これ以上、ここで失態を演じてるわけにもいかんでしょう」
「わかっとるわ!」
 怒りに任せてか、アドゥスはそう言って司令室から退室する。
 やれやれ、という顔をするとミカエルは伝令役に言った。
「さて――相手の兵力は解ってるんだろうな」
「いえ、強大な悪魔が多数いるとの報は受けているのですが」
「まだそんなレベルでやってんのか。相手はルシファーの本隊だ。
 戦力を全て中央に集中させろ。あいつらの狙いは中央突破以外にない」
「は……はいッ!」
 ルシファーの言葉を聞いた伝令の天使は、慌てて飛び出していく。
 部屋にいたガルガリエルも、驚きの顔でミカエルを見ていた。
「まさか、本当なのかミカエル」
「あの野郎自身は、まだ何もしちゃいねえ。だからバレてねえのさ。
 存在を隠すために、自身は後方で待機してるんだろう」
「こんな近くまで奴が既に――」
「いいか、ルシファーはじき最前線に出てくる。そこで絶対に仕留めるんだ」
 ミカエルは閉じた瞳の奥、ルシファーとの戦いを予期している。
 今まで長く目を閉じ力を蓄えてきたのは、このときのためだ。
 少しでも力の差を埋め、刃をその喉もとへと届かせるため。
 アドゥスが座っていた椅子に腰かけ、ミカエルは采配を振るい始める。

Chapter173へ続く