――少女は夢を見る。
幼いころ憧れた童話や絵本の世界。
王子様は眠り続ける姫のもとへ現れ、口づけをして目覚めさせる。
その先は、きっとハッピーエンド。
なにかきっと良いことが、穏やかさが、幸せがいつまでも続いていく。
それは一瞬のことだったのか。
凪は立ったまま意識が途切れた様な感覚に襲われ、
気がついた時、辺りは一面白で埋め尽くされた世界だった。
足元や半径数十メートルほどの建造物などに変化はない。
ただ、先ほどまで暗黒だった樹の外は草原へと変わっていた。
見渡す限りどこまでも広がるような草原。
遠くには白いもやがかかった場所が見える。
まるでモザイクがかかったかのように、そこは白く滲んでいた。
目をこすってみるが、映る景色は変わらない。
(これは――)
視覚に問題が生じたわけではなかった。
凪には想像もつかないことだが、それは次元の転換点。
高次元と三次元が連結する際、接着の役目を果たしている。
それを知らずとも、凪はなんとなく理解していた。
ここが、セフィロトの樹の最上であり、神の住まう場所であること。
自分の目的地であることを。
空を眺めようとするが、頭上には白い靄がかかっていた。
天気もここでは認識できない。
(落ち着かない場所だな。まあ、落ち着いてる場合でもないか)
深呼吸を一つして、凪は靄のない方向へと歩くことにする。
白い靄を避けて草原を歩いていると、遠くに建物が見えてきた。
それと、凪へ向かってくる鳥のような影。
近づくにつれて、それが大きな翼を持つ人間だと解ってくる。
凪はそれがまるで死神のように見えた。
左右に何メートル――何十メートルも広がる黒い両翼。
あまりに禍々しい漆黒を纏い、彼女は凪の頭上に現れた。
「やっとここまで来てくれたんだね、なぁ君」
「夢姫……」
表面だけの笑みを浮かべるその奥には、
凪に対する複雑な感情が渦巻いている。
嬉しい。憎い。期待。諦め。愛。殺意。
整理できない感情の塊が、発した言葉に内包されていた。
胸をおさえて、凪は精一杯の誠意を込めて夢姫に語りかける。
「私、夢姫のことを思い出したんだよ! 全部、思い出したんだ!」
「そう、なの」
「だから、謝りたいの。夢姫に……忘れていたこと、母さんのこと――」
「謝る必要なんてないよ。だって、何も変わらないでしょ?」
「それ――は――」
返す言葉がなかった。それは彼女にとっての真実だ。
過去は、夢姫に何一つ救いを与えない。
積み重ねられた過去が、凪の言葉を阻む大きな壁となっていた。
あまりに大きく、今となっては超えることが出来ないと感じさせる。
「結局、そういうことなの。私たちは最初から引き裂かれる運命だった。
最後に私がルシードを取り込むために」
「ルシードを、取り込む?」
「そうだよ。貴方を私の一部として取り込むことで、私の願いは叶う。
私に冷たいこの世界を終わらせて、今度こそ
なぁ君と一緒にいられる世界に生まれ変わるの」
「世界を終わらせる……そんなことが」
「出来るわ。二人が一つの形に回帰すれば、ローカ・マターとなれば、
次はきっと幸せな二人になれる」
彼女の瞳は、もはや強い感情を失くしていた。
なじられる覚悟はしていた凪だが、その様子には当惑の色を隠せない。
謝罪に意味がないのならば、もう彼女に凪が出来ることは一つだけだ。
夢姫の言う通りに取り込まれること。
そうすれば、贖罪は果たされるかもしれない。
逡巡し、すぐに凪は首を振って夢姫のほうを見た。
「私はここで死ぬわけにはいかない。
それに、この世界を終わらせたくもない」
二人は鏡で反転したような人生を歩んできた。
片方が多くに恵まれ生きてきたのに対し、片方は多くを失い生きてきた。
全ては、今このとき互いが一つとなるためのものだ。
ディアボロスが主導権を握りローカ・マターとなれば、
夢姫の望みは果たされるのだろう。
或いはそれが凪が唯一取るべき道なのかもしれない。
だとしても、その道を選ぶわけにはいかなかった。
逆にルシードがディアボロスを降したなら、別の結果が待つはずだ。
目指すべき結末は、そこにしかない。
凪は彼女と話しながらそう結論を出していた。
「――そう。なぁ君は、最後まで私の言うこと聞いてくれないんだね」
長大な黒い翼をばさっと震わせて、彼女は凪の前に降り立つ。
やや距離はあるが、既にその殺意のイメージは
大気をよどませ周囲に広がっている。
この瞬間を、ずっと凪は想像して考えを巡らせてきた。
都度、彼は思い知らされる。勝ち目などないのだということを。
「もういい? 急かすようだけど、私ちょっと興奮してるの。
だって、もうすぐなんだよ? もうすぐ、二人は一つになる。
ほんの少しでも、そうやってなぁ君と居られるのが嬉しいんだ。
不思議な気持ち――殺したいほど憎いのに、一緒にいたい。
許せないのに、一つになりたいなんて」
「夢姫――」
彼女の意志は固まっている。
言葉を幾ら重ねたところで、それは無意味な会話でしかない。
ならば、と凪は自らの目的を強く頭に思い描いた。
イヴを連れ出し、紅音のもとへ戻る。
残酷だが、そのために凪はここへ来た。
この世界を終わらせるために来たのではない。
覚悟を決めると凪は強く光をイメージした。
「ん? そうか、やる気なんだ。じゃあ、もうお話は終わりだね」
「創生の――」
ヴァーミリオンのイメージが形成される前に、
突然凪は視界が黒で塗り潰される。
すぐに凪はそれが夢姫のイメージによる全方位攻撃だと理解した。
ワンセカンド・ドラコニアンタイム。
彼女自身の身体から、あらゆる方位に向けて凪に放たれる光の線。
回避行動を取ろうと考えた時、凪の身体は
幾重にも連なる眩い光に貫かれていた。
(駄目だ、このイメージは――!)
溜めのない想像だというのに、ヴァーミリオンを相殺し消しさる。
全身を遅れて伝う熱と激痛に耐えながら、
凪は無意識のイメージで身体を修復し始めた。
「へえ、ソフィアの呪縛なしでそんな再生できるんだ。
ルシードは、元々そこまで強い自己修復能力があるのね」
高速で衣服ごと再生していくルシードの力に、夢姫は感心してそう言う。
連続した攻撃を行う様子がないので、凪はすぐに距離を取ろうとした。
その際、彼女が発した言葉に戦慄を覚える。
「私はこの瞬間までの強制不死だったけど――よかった。
消滅させてしまわないよう遠慮する手間が省けたわ」
現象世界。凪が夢姫のもとに辿りつく少し前、
とある廃病院の玄関前に、一人の女性が立っていた。
彼女が睨む先には、笑みを浮かべる男の姿がある。
「よお、今度は知的な顔で会いに来たぜ」
声や姿は違うが、彼の口調と振舞いは女性にとって見知ったものだった。
「それを最期の姿に決めたのね。ルシエ」
「なァに言ってやがる。片手足無くしたとはいえ、
お前が俺に勝つ見込みがあるとでも思ったか? フィスティア」
「――そのために、私は今まで生きてきた」
力強くそう言うリヴィーアサンだが、勝算があっての言葉ではない。
それどころか、彼女はある種の死刑宣告を受けてここにいた。
「夢を見たんです」
紅音の部屋に訪ねてきた維月は、座布団の上に座ってそう切り出す。
凪より紅音と仲の良かった彼女は、その話をまず紅音にした。
一つは凪に話した内容の夢。
樹の頂上で凪と夢姫が殺し合うという場面だ。
それだけでも充分に衝撃的な内容だったが、
維月は更にもう一つ夢を見たと告げる。
「高天原先輩が樹の頂上へ辿りついた頃、誰もいない寂れた建物で、
紅音先輩が男性と出会う夢を見たんです。それで――」
続く言葉を切り出せない維月の様子が、答えを暗に示していた。
「私は死ぬんだね」
「……はい」
相手の男に見当は付いている。
ルシエを置いて他にはいないと、リヴィーアサンは確信していた。
戦わずして敗北を告げられたようで気に入らないが、
だからといって逃げたり諦めるつもりは毛頭ない。
凪と共にルシエと戦えば、勝算は充分あるはずだと考えた。
そう思ってはみたが、少し考えてみて凪がなぜ樹の頂上という場所に
向かうのかを推測するうち幾つかの可能性に気づく。
夢姫が樹の頂上にいるとした場合、凪はそこへ行くだろうか。
イヴを見つけていない状況で、そんな行動を取るのは少しおかしい。
ならば、理由づけとして適切なのはイヴがそこにいるという可能性だ。
この話を凪に伝えれば、彼もその可能性に気づくかもしれない。
未来を担保にして現在の意志決定をするというのは、
因果関係としては実に奇妙だ。
夢見から凪の行動原理を予測し、イヴの場所を推測するのだから。
到底、信頼できる発想とは言えないものだ。
「先輩……すみません。こんな話――」
「ううん、教えてくれてありがとう。でも一つ聞いてもいいかな」
「はい。勿論です」
その言葉は、リヴィーアサンが発したものではない。
紅音が彼女の気づかぬうちに、表面へと出てきていた。
「凪ちゃんをひきとめることって出来る?
例えば私が死ぬ夢のことを凪ちゃんに話したとしたら、
未来は別のものになるのかな」
「私が知る限り――結果が変化することはありません。
仮に高天原先輩が何処へも行かないよう、色んな手段を講じても、
私の見た結果は変わらないはずです」
「そっか……」
過程と結果、線と点。それらがどの出来事に当たるのかは不明確だ。
ただ、維月の口ぶりから察するに、
彼女の見た事象そのものが結果に当たるのだろうと紅音は推測する。
「ごめんなさい。私の夢見はいつもこうなんです。
決まった結果をなぞるだけ。なにも変えられない」
「そんなことないよ。維月ちゃん、この話を凪ちゃんにも教えてあげて」
「わかりました」
夢見が変わらない未来の結果で、イヴが樹の頂上にいると仮定する。
その場合、維月が何も話さなかったとしても、
恐らく別の形で凪はイヴの居場所を知ることになるはずだ。
だとするならば、話さない理由もない。
死の未来予知を凪に話すことには、それとは別の考えがある。
黙っていても結果は同じなのかもしれないが、
せめて材料を一つでも多く凪に持っていてほしかった。
きっと凪は絶望せず、生きる道を探すはずだ。
或いは、それが未来を変えるかもしれない。
「ただ、私が死ぬ夢のことは話さないでもらっていいかな。
例え同じ結果でも、凪ちゃんに心配かけたくないから」
紅音の言葉に、維月は少し驚いてえっと声をあげる。
結果を変えられないとしても、せめて少しでも辛くない経過を望む。
自分のためならば、理解できない発想ではない。
しかし、紅音はそれを凪のために望んでいる。
二人の関係を知らない維月にとって、それは強い絆を思わせた。
「先輩は高天原先輩のことが、本当に大好きなんですね」
「ええっ!?」
びくっと身体を震わせて驚く紅音。
「あれ――そんなに驚くようなことでしたか?」
「う、ううん。維月ちゃん鋭いよねぇ」
「いえ。紅音先輩が解りやすいだけです」
「そうかな……?」
考え込む紅音の様子を見て、維月は立ちあがって窓の方へ歩く。
「私、自分で不思議だったんです。変わらない結果だって思うのに、
なんで紅音先輩にこのことを話そうと思ったのか。
話さなければ、不確かな未来に希望を持てるのに。
でも――先輩と話していてはっきりと解った。私は信じたいんだって。
この予知は、未来は変えられるものなんだって信じたいから、
先輩たちなら変えられるって信じたいんだ」
「うん。がんばるよ、わたし!」
まるで学校行事か何かのように、紅音はにこやかな顔でそう言う。
つられて維月も顔をほころばせて、その言葉にうなずいた。
維月の夢見の通り、ルシエは再びリヴィーアサンのもとへ現れる。
ルシエの気配を察知した彼女は、人を巻き込まぬよう
人気のない廃病院へとやってきたのだ。
一定距離を維持しながら、リヴィーアサンは紅音に言う。
「いい? 奴は、私たちが連携してイメージを練れることを知らない。
このアドバンテージで奴に致命の一打を与える」
リヴィーアサンの予測では、紅音のイメージを上乗せした現状でも、
まだルシエの持つ想像力のほうが大きい。
加えて、二人同時にイメージを具現化する作業には危険が伴う。
コンフリクトを起こせば、二人の精神が崩壊する可能性もあるからだ。
連携したイメージが出来ることを知られ、警戒されることも考慮すると、
長期戦に勝機を見出すことはできない。
そのためには、どこで連携したイメージ作業を行うかが重要だ。
(ならば――初動で有無を言わさず決める)
黒い炎と竜巻のイメージをリヴィーアサンが練り始める。
それと同時だった。ルシエは目の前から姿を消す。
すぐそばの壁が破砕した。彼が跳躍してその壁を蹴ったのだ。
(しまった、これは――!)
超高速での跳躍移動。以前も見せた動きだ。
エントランスからガラス張りの動かない自動ドアを破壊し、
リヴィーアサンの眼前へと迫ってくる。
左側へと避けると、そのまま近くの部屋へ窓ガラスを破って侵入した。
(甘かった……有無を言わさず襲ってきたのは奴の方だった)
飛び込んだのはどうやら診察室のようで、彼女は走って
目の前のドアから待合所へと移動する。
背後では、ルシエが壁ごと破壊してこちらへ向かっている。
振り返らずに、リヴィーアサンは待合所からまっすぐ階段へと向かった。
この病院の階段は折り返し階段と呼ばれる形状で、
踊り場を境に折り返して上がるタイプになっている。
そんな階段を、彼女は一足飛びで踊り場正面の壁まで跳躍した。
壁を蹴ると階段の一番上までまた跳躍する。
無駄のない動きで二階へと上がってくると、長い廊下を駆けようとする。
だが、少し先の床が大きな音を立てて砕けて飛び散った。
砕けた床と共に、ルシエが笑みを浮かべて現れる。
彼が二階廊下の床に着地するのと同時、
リヴィーアサンは階段を更に上へと昇っていった。
「もういいだろォ? 諦めて俺に食われちまえよ」
小馬鹿にするような声が階下から聞こえてくる。
返答はせず、彼女は心の中でつぶやいた。
(諦める、ですって? 無理な相談ね。こっちには紅音がいるのよ。
私よりずっと諦めの悪い、タチの悪い女がね)