俺の記憶において、ルシファーとは決して驕れる堕天使などではなかった。
そう――このベルゼーブブの記憶において、
彼は何者よりも気高く天使らしい天使だったように思う。
神の代行者たる天使の中で最も高位に位置する熾天使。
あの日、彼らと共に神の声が全ての天使に木霊した。
ルシフェルという天使は存在しなかったのであり、
堕天使ルシファーこそが形としての真実であると。
数えるほどしか聞いたこともない神の声ではあるが、偽りなどと疑う必要がないほどには覚えている。紛うことなき、神の粛清だ。
ルシファーはそれを不服とし、神と全面的に争うことを決意する。
その意志に賛同し集った多くの天使たちと共に、彼はまずアルカデイアに攻撃を仕掛けた。当時、俺はその戦いには参加しなかった。
如何にルシファーが偉大な天使だとはいえ、神に逆らうことは畏れがある。
彼らが悪魔と呼ばれ、神と熾天使の力によりインフィニティという領域に落とされてからも、俺はまだ天使という肩書を残していた。
友人であるウリエルたちを裏切ろうとも思わなかったし、
例えルシファーに正義を感じようとも黙っているしかなかった。
そう、あの日――彼女の正義が打ち砕かれるまでは。
血だらけで構えるウリエルを、ベルゼーブブは蔑むような目で見つめる。
かつての友人であり、仇敵となった男が崩れ落ちようとする姿を。
「あっけないな。一対一で戦えば、こうも簡単なものか」
「何を、勝った気になっている……!」
ウリエルは声を振り絞るが、すでに雌雄は決しようとしていた。
傷一つないベルゼーブブに比べ、全身に手傷を負っているウリエル。
じりじりと死が近づいているのを、本人も自覚している。
「前哨戦争の折、貴様らは四大熾天使として動いていたが、
あれは実に厄介だったよ。互いの隙をフォローする良いチームだった」
四大熾天使。その言葉を聞いてウリエルは懐かしさすら覚える。
今、天使の軍勢として参戦しているのは彼とミカエルのみだ。
そのミカエルも、ルシファーと共にセフィロトの樹へと消えてしまった。
「さあ、断罪の時だ。イスラに対し懺悔しろ」
悔いることなどない。そう口元まで出かかって、ウリエルは口ごもる。
彼の中に、そう言葉にできるほどの強い意志がなかったからだ。
自らが納得できていないことを、口に出したところであまりに空虚。
彼女の顔を思い出すたび、ウリエルは胸の奥に痛みが走る。
「――己の意志で過ちを認め、自浄しようとすら思えないのか。
俺をどこまで失望させるのだウリエル」
「私は……」
ウリエルは、出血で意識が朦朧とし始めていた。
聞こえてくるベルゼーブブの言葉が、
遠い過去を思い出させるようで耳を塞ぎたくなる。
あの時も今も、ウリエルは神の正義の御旗を信じてきた。
この苦境も神の正義を行使するための試練なのだ、と。
イスラを思い出すとき、その信心は揺れてしまう。
ベルゼーブブ、イスラ、ウリエル。彼らは友であった。
家族や恋人などという発想が希薄な天使にとって、
彼らを定義する言葉は友であり同胞というものになる。
定義はなんであれ、その結束は確かに彼らにとって大事なものだった。
ルシファーが天使としての資格を失ってから、幾らかの時が流れた頃。
天使としてアルカデイアに残ることを選んだ天使にも、
彼の残光を求めるように揺らぎが見られた。
神の代行者として、そういった信心の揺れは許されない。
老賢者や智天使は彼らを堕天として扱い、天使裁判にかけた。
三分の一を失った天使の中から、堕天使と疑われた者が裁かれ消えていく。
疑心を生むような裁判も多く、それに異を唱えた天使もまた裁かれた。
そのため、一部の天使たちは疑いを抱きながらもそれを心に隠し仕舞いこむ。
閉塞したアルカデイアの空気を、ウリエルは苦々しく思いながらも、
悪魔と戦うことが天使の定めであれば仕方がないと納得しようとした。
ベルゼーブブも同じく、アルカデイアで生きるため気持ちを押しこんでいた。
だが、イスラは二人と違いその状況に納得ができなかった。
一見おっとりとした容姿で、髪が長く気弱そうな顔つきの彼女だが、
思ったことを口に出さずにはいられない性格で昔から損をしている。
ある晩、彼女はウリエルとベルゼーブブを呼び出して心中を話すことにした。
イスラの部屋にやってくると、最初は他愛のない話題が続く。
「昔に俺とウリエルが贈ったペンダント、未だに毎日つけているのか」
「ええ。三連の十字架は、私たちの友情の証だもの。外すわけにはいかないわ」
そう言ってイスラは、胸元に輝くペンダントを手で触れてみせた。
ウリエルはその仕草を見ると、少しだけ微笑んで彼女に言う。
「義理がたいことだ。贈った側としては嬉しいが、別のものを贈らないと
君はそのペンダントしか持っていないのだと誤解を受けそうだな」
「あら、ウリエルがそんなこと言うなんて」
「朴念仁も少しは成長するようだ」
「ベルゼー、私のどこが朴念仁だというんだ」
そんな会話が続いた後、息をすっと吐くとイスラは決意した表情で口を開く。
「私は――今のアルカデイアはおかしいと思うわ。
意見を違えた者を裁判にかけ、それに異を唱えることも許されないなんて」
「……止せ、そんなことを言ってお前まで裁判にかけられたらどうする」
「今のままでは、悪魔と戦う前に疲弊していくだけだわ。
確かに悪魔とは武装蜂起した以上、会話で解り合えるなんて幻想よ。
だけど、天使同士でまで理解を放棄して裁くなんて……」
「だが――私たちは、その正義の上で生きている。
悪魔に理解を示すような輩を、天使として認めるわけにはいかないだろう」
「ウリエル……もし私が悪魔に理解を示したら、貴方は私を裁くの?」
「何を言ってるんだ! そんなことを口にするんじゃない!」
「――悪魔に同調し、彼らと共に闘うという者は敵よね。
けれど、その判断を極端な振り子に任せて良いのかな。
私たちは天使であるのだから、その者が本当に敵なのか
きちんと見極めなければいけないと思うのよ」
「君の言っていることは……理想――いや、許されない思想だ」
ウリエルは、理想という言葉を使いかけて慌てて訂正する。
彼女の考えに一定の正しさを感じていたのだ。
それを認めてしまうと、裁判の――天使の在り方に疑義を持つことになる。
裁かれ死ぬことも恐ろしいが、ウリエルは神の正義を疑い
天使としての資格を失うことが何よりも恐ろしかった。
「許されないことかしら。私は、自分の正義を見つめたいだけなの」
友人だからこそ話したその思想は、イスラもまだ確信があるわけではない。
こうして俎上に載せることで、その考えを固める切っ掛けが欲しかった。
「俺は――はっきりとは何も言えない。だが、その意思には敬意を表する」
同調したい気持ちを抑え、ベルゼーブブはイスラに曖昧な返答をする。
もし彼がはっきりとイスラに賛同すれば、ウリエルが意見上で孤立するからだ。
議論での対立と友好関係は別。そう割り切ることが出来る者はそういない。
ほんの少しでもわだかまりやしこりが残ったりすれば、
将来それを切っ掛けに亀裂が生まれるかもしれないのだ。
ベルゼーブブがそういう性格だと、イスラは当然理解している。
それゆえに、強く彼の賛同を求めることはしなかった。
ただ、彼女がその場で意思を表明したことは結果的に過ちだった。
それから少しの時を経て、彼女は堕天使の疑惑を持たれ、
取り調べを受けることになる。
何一つ恥じることなどはなかったが、ありのままを言えば死刑は免れない。
自分は神への信仰を捨ててはおらず、天使として恥ずべきことはないとだけ述べて後は黙秘した。
決定打に欠ける彼女への疑いは、裁判に発展しないままこう着する。
だが、そこで取り調べを行っていた天使は彼女の交友関係に目を付けた。
すぐにウリエルとベルゼーブブに対する事情聴取が行われる。
エウロパ宮殿の一室に呼ばれ、二人はそれぞれ個室でイスラの素行などを話すことになった。
取り調べを務める天使が何をどうたずねても、
ベルゼーブブは曖昧な答えだけを口にする。
友人であるイスラを売るつもりなど毛頭なかったからだ。
一方、ウリエルは同様の気持ちでいながらもう一つの気持ちに苛まれる。
「あの女は、貴方に何か言っていませんでしたか?」
当時すでに親密であったシウダードの働きかけもあり、
天使らはウリエルに対し丁重な対応で聴取を行っていた。
と言っても、嘘の苦手なウリエルにとってはある種厳しい問いかけと言える。
言葉を発さず黙り続ける彼に対し、天使は定型の文句で揺さぶりをかけた。
「貴方は真実を告げなくてはならない。あの女から何かを聞いたり、何らかの行動を見たのなら、それを隠すことは神への裏切りとなるからです」
「な、なにを」
「虚偽は天使として恥ずべき行為です。黙秘もまた、虚偽に近い行動です。
正しい行動ならば、何一つ隠すことはないはず。
貴方がもしも彼女を庇っているのなら、それは結果として
彼女が神より赦しを得る機会を奪っているとは思いませんか?」
「それは……」
神への信仰を問われたなら、正義を問われたなら、
ウリエルがイスラを庇うことは難しい。
何よりも天使が優先すべきは、神の意思であり神の正義なのだ。
――そしてウリエルは、神を信じ真実を話すことを選ぶ。
彼の証言を論拠とし裁判は開かれ、イスラの有罪は確定した。
シウダードの取り計らいか、表向きウリエルは
イスラを告発した勇気ある者として報じられる。
天使たちは彼の行動を讃え、競うようにイスラの批判を口にした。
下手に彼女を擁護すれば、その思想に同調したと取られかねないからだ。
ベルゼーブブはイスラを庇いはしたものの、高位の天使であることと、先の会話で彼女に同調しなかったとウリエルが証言したことで罪を免れる。
イスラに科せられたのは、死刑の次に重いとされる羽切刑だった。
堕天使疑惑を持たれた者が羽を切られるか命を奪われることは、
天使ならば誰でも解っている。
だからこそ、ベルゼーブブはウリエルの行動が理解できなかった。
彼に義があるとは思えないし、聴取に屈したとも思えない。
取り調べを受けた日、ウリエルはベルゼーブブに何も話さなかった。
何も聞いていないまま、彼の証言が決め手となって
ベルゼーブブはイスラが有罪になったことを知る。
ウリエルに対する怒りはあったが、それより彼女を助けたい気持ちが強かった。
例え天使を裏切るとしても、自分の信念と友人を裏切りたくはない。
これ以上、自分を殺したままじっとしていることはできなかった。
エウロパ宮殿が手薄になる日を待って、ベルゼーブブはイスラの元へ向かう。
(覚悟は既に決めている。イスラを助け出し、後はそれから考えればいい)
当然だが、地下にある羽切刑室への一般天使の立ち入りは禁止されている。
もし見つかれば、ベルゼーブブも重罪を科せられるだろう。
それでも諦める気はない。彼女を救うことは自らの信念を救うことでもあった。
いざとなれば、腰の神剣を抜く覚悟もある。
幸いなことにその機会がないまま、ベルゼーブブは天空の牢獄へと辿りつく。
羽切刑を待つ者が投獄される場所だ。
管理はされているはずだが、すえたような臭いが鼻をつく。
とても天使の名に似つかわしい場所とは思えなかった。
手早く牢獄を調べるが、奇妙なことに何処にもイスラの姿がない。
(どういうことだ? 別の場所に移されたのか?)
訝しむベルゼーブブの目に、牢の向こう側で伏せる一人の罪人が映る。
みすぼらしくやつれ、倒れたように横たわるその天使には羽がない。
胸元には、三連の十字架が鈍く光っていた。
それがイスラ本人であると気付いた時、我を忘れたように
ベルゼーブブは声を上げて彼女の名を呼ぶ。
叫び声に彼女が応えることはなく、ただぴくりと身体を動かすだけだった。
全身が震え、滲むように脂汗が浮き上がってくる。
目の前で横たわる姿にかつての面影はなく、尊厳すらも残されてはいなかった。
失翼症候群による症状で抵抗力が落ちたためか、
皮膚は所々爛れたように膨れ変色している。
恐らく記憶も大部分が失われ、人格が保たれている可能性は低かった。
呆然自失のまま立ち尽くすベルゼーブブに対し、
幻聴かと思うようなかすれ声が聞こえてくる。
声にならない吐息に近いものだが、彼はそれを必死に聞きとろうとした。
殺して。たった四文字の言葉を、何度もイスラは呟く。
繰り返し繰り返し、呪詛のように彼女の口から同じ言葉が発せられる。
果たして、それは意識と言えるのか。
発狂した意識の残滓が、最後の意思を発しているだけなのか。
言葉の代わりに、ベルゼーブブは神剣ハーディ・エイミスを構え牢の格子を破壊すると、彼女の近くへと歩いていく。
「――遅くなってすまなかった」
一刀の下に彼はイスラの首をはね、その姿を残さぬよう
炎をイメージして遺体を焼きつくした。
その瞬間に、天使としてのベルゼーブブも同時に死を迎える。
復讐者として、悪魔として、彼は新しく生まれ変わった。
ベルゼーブブが見たイスラの姿を、ウリエルは知らない。
彼女の尊厳のため、教えるつもりもなかった。
あの光景を思い出すのが苦痛だということもある。
胸に焼きついたイスラの姿は、冷たい炎のイメージを彼の内に残した。
「意思なき貴様には解るまい。このイメージの根源は」
神剣を媒介に、ベルゼーブブはイスラの炎を具現し始める。
ただの炎ではない。嵐のような風を纏った炎だ。
攻撃のイメージを優先するため移動速度は落ちるが、
それでも傷ついたウリエルに回避はまず不可能と言えるだろう。
(私は神の代行者たる天使として、誇りと意思を持っている。
だが――何故だ。奴やルシファーの言葉に、私にはない何かを感じるのは)