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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter185
「パラダイム・シフト -03-」

   

 凪が振り上げた拳は、人間では到底不可能なほど強力な衝撃を放ち、
 アザゼルを後方へと吹き飛ばす。
 明らかに異常な状況に、じっと様子を見ていたルシードも声を上げた。
「そうか、そうなったか」
 表情や声色からは伺えないが、何かを察したのだろう。
 彼女は歩きながら彼らの元へと近づいていく。
 倒れているアザゼルに向かって、凪は声を張り上げた。
「もう争う必要はないだと? 戦う意志はないだと?
 あんたらになくても、俺にはある。闘う意志も、理由も!」
 久しく使っていなかったようにさえ錯覚する、強い語気と荒い言葉。
 他の何一つ目もくれず、ただ激しい怒りに身を任せたいという衝動。
 アザゼルに一撃を与えても醒めるどころか、
 なお身を焦がすような黒い感情が湧き上がってくる。
 追撃のため凪が一歩踏み出そうとすると、アザゼルが無造作に起き上がった。
 重力を無視した不気味な立ち上がり方に、思わず凪は強い警戒を抱く。
「フフ……いやいや、まさかね。
 僕達の――僕の計画を大きく狂わせてくれるとは。
 本当に、君たちは僕をうんざりさせるのが上手だよ」
 先程とは異なり、アザゼルは凪に対して強い敵意を抱いていた。
 理由は明白。凪の変化を彼が理解し、敵であると認識したからだ。
 同じく、ルシードもそう考え攻撃のためのイメージを想像し始めている。
「その芯まで暗黒に染まった心像、間違いない。
 高天原凪。君は器として、私にとって有用な存在だった。
 まさか、その君が最大の障害――ディアボロスとして立ちはだかるとはね」
「ディアボロス――」
 事実を淡々と受け止めるように、凪はその言葉を反芻する。
 夢姫の内に転生し、破壊の象徴として忌み嫌われてきた存在。
 内から湧き上がるイメージ、強く湧き上がる破壊への衝動と怒り。
 それらが、凪に確信を持ってその存在を受け入れさせていた。
 ルシードとは異なり、ディアボロスが凪に語りかけることはない。
 ただ心の奥底で彼が抱いている感情を、激しく揺さぶり続けていた。
 拳を握り込むと、込めた握力が膨大なイメージとして集約されていく。
 アザゼルはそんな凪へと剣の切っ先を向けた。
「えーっと、ふふ……君にはあるんだっけ? 闘う理由。僕には無いんだよ。
 何もないのに、よくもこういうことをさせてくれる。
 君は本当に、煮ても焼いても始末に悪い……出来の悪い器だ」
 彼――アザゼルが手にしている剣は、黄昏の八神剣の一振りだ。
 片刃が黒く染められたその剣は、名をエンデュロスと呼ぶ。
 正式な熾天使の中で神剣を扱うのはアザゼルただ一人であり、
 その点において彼は熾天使の中で特異な存在と言える。
 膨大なイメージを込め、アザゼルは凪へと跳躍した。
 対する凪は、ただ相手の顔を凝視しながらイメージを蓄えていく。
 全てを黒で塗りつぶすようなイメージ。
 自らがディアボロスであると認識した瞬間から、
 アザゼルに対して何をするかは決まっていた。
 両手ではなく背中の翼にイメージを広げていく感覚。
 かつて、凪が何度も味わった恐るべき想像が形を取ろうとしていた。
 イメージを固めるその隙を逃さず、アザゼルは凪の首めがけて剣を向ける。
 彼の剣が凪に届くより早く、そのイメージは光の束となって具現された。
「ワンセカンド・ドラコニアンタイム――」
 あらゆる方向から、様々な線を描いて標的に突き刺さる多量の光。
 アザゼルと言えどそれを回避、防御することは不可能だ。
 全身に大量の穴が空き、一瞬遅れて血や体液が吹き出す。
 それを目にした凪が、気を緩めようとした瞬間だった。
 周囲から幾つものイメージの奔流が、アザゼルの元へと集まり始める。
 本能的に凪はその現象から不穏さを感じ取ったが、
 同時に、神剣エンデュロスの刃がひとりでに動き凪を目掛けて飛んでいく。
 その動きに合わせ、ルシードがイメージした翠玉の光が凪の身体を突き抜けた。
 凪にとって見慣れたエメラルド・グリーンのイメージだ。
 その光のイメージにあてられ、一瞬身体を硬直させた凪は剣に肩の肉を抉られる。
「ぐ、うッ――!」
 切っ先を血に染めた剣は、ゆっくりとアザゼルの元へと戻っていく。
 そして、そこには傷一つ無いアザゼルの姿があった。



 確かに致命傷だったであろう傷は、どこにも痕跡すら存在しない。
 何が起きたのか解らず、凪は一定の距離を取って警戒を強めた。
 すると、ふいにアザゼルは優しげな口調で語りかけてくる。
「フフ、不思議だろう。何故、僕は傷一つ負っていないと思う?」
「うるせえよ……答える気なんかないんだろ」
「いいや、君には特別に教えてあげるよ。
 よーく集中して見れば、僕に集ってくるイメージのラインが見えるだろう?」
 自分から種明かしをするというアザゼルに、凪は強い違和感を覚える。
 眼の前の天使は愚かではない。
 手の内を明かすのなら、そうするだけの理由があるはずだ。
 だからこそ、凪は今までアザゼルの掌で踊らされていたのだから。
 アザゼルへの警戒を怠らぬように、彼の周囲にも気を配ってみる。
 確かに、ほんの僅かな細い線のようなものが六本、彼に流れていた。
「これはヘプドマスという者たちが、僕に送っているイメージさ。
 僕の直属となる七体の愛しいアルコーンたちが、ね」
「七体の、アルコーン?」
「アルコーンというのは、天使と悪魔が交配した際に生まれる存在だよ。
 天魔とも呼ばれ、天使からも悪魔からも忌み嫌われている。
 当然だよね。元より天使は子を宿す機能を持ちながら、
 それを使用することは禁じられている。神が繁殖を求めなかったからね。
 加えて、純粋な天使が一度悪魔にさらわれただけでも、
 もはや堕天使同然の扱いを受けるのが現実だ。
 そう――イヴのように、ね。彼らはそのイヴに似た境遇の者たちさ。
 生まれたときから烙印を押され、多くは生まれる前か出生時に始末される。
 実に哀れで、憐憫を誘うと思わないかい?
 だから僕は彼らのうち生き残った七体を救い、僕の直属の天魔として
 これまで子供同然に愛を与え育ててきたつもりさ」
「……何が言いたい。そのアルコーンがなんだっていうんだ」
「簡単なことさ。今は六本のラインが僕に流れ込んでいる。
 いい加減君もわかってきただろう?」
「アザゼル、貴様……まさか」
 想像は容易に真実へと答えを巡らせる。
 目を背けようとしなければ、その答えはあまりにもシンプルなものだった。
「七星羈絆線形(セブン・インダストリアル)。
 君から受けた傷は、このラインを通して彼らに移動する。
 僕は後六回、君から致命傷を受けても死なないってことさ」
「何が愛を与え育てた、だ……そんな真似をしておいて!」
 凪は怒りのままにそうアザゼルへと叫んだ。
 その情を意に介することなく、彼は笑みを絶やさずに続ける。
「ふと思ったことはないかい?
 自分に心を許し愛してくれている相手を殺してみたい、と。
 自分が心から愛しく思う相手が苦しむ姿が見てみたい――と。
 きっと相手は驚き絶望に顔を歪めるだろう。
 それを見た自分の心は辛く傷つくかもしれない。
 だけど、愛がそこにあることを感じられる。実在感を伴って浮かび上がる。
 僕にとって、その行為こそ愛の存在証明と言えるんだよ」
 そう語るアザゼルの表情は、まるで愛玩動物を愛でるような優しいものだった。
 理解の範疇外。
 既知の外にある彼の言動に、凪は僅かな恐怖と強い怒りを感じる。
「最低のクズ野郎が――」
「フフ、フフフ。君は僕を悪だと一面から断じて
 義憤を抱いているようだけど、勘違いしているよ。
 ほんの少しも、僕は彼らアルコーンを害していない。
 彼ら七体のうち一体を殺したのは、君なのだからね」
 人差し指を凪に向け、アザゼルは責めるような声色でそう言った。
 起きた出来事だけを見れば、それも一つの事実と言えるのかもしれない。
 しかし、それは一方的なものの見方でもある。
 迷うことなく、凪はそう断じアザゼルを睨みつけた。
「お前がそう仕向けたんだろうが」
「死んだものの前でも、同じことを言えるかい?」
 そう言うと、アザゼルは右手を挙げた。
 彼の行動に合わせ、ヘプドマスは周囲で隠れ待機しているのを止め、
 凪が視認できる範囲まで近づいてくる。
 一人は、ズタズタになった大柄の男の死体を抱えていた。
 眼前の光景が意味することを理解すると、凪は左肩を反対の手でぐっと抑える。
 生まれでた罪悪感で、凪は唇をぎゅっと結んだ。
「彼らアルコーンは死んでも灰にはならないんだ。
 天使と悪魔、両者と違って彼らは肉に近い性質を持つからね」
 アザゼルが能力を凪に話した理由は明白。
 その構造そのものが、凪にアザゼルへの攻撃を躊躇させるからだ。
 如何にディアボロスの影響下にあるとはいえ、
 何の感情もなくアザゼルに攻撃を仕掛けることはもうできない。
 それによって傷を負うのが、イヴと似た境遇の者だと知れば尚更。
 彼の言葉を嘘だと断じようにも、
 現れたアルコーンの姿は真実味を帯びていた。
 恐怖をその瞳に讃えながら、アザゼルへの信頼も伺わせる。
「万が一に備える、なんてことは狂うほどやってきたさ。
 こうして計算外のことは幾らでも起こるのだからね」
 フェイントを交え、恐るべき速度でアザゼルは凪の元へと飛びかかってきた。
 その無駄がなく前後感のない動きは、
 以前の凪なら間違いなく反応すら不可能なものだ。
 だが、今の彼にとっては違う。
 ディアボロスの影響によるものなのか、
 アザゼルの動きを捉えることも、それに対応することも不可能ではない。
 だというのに、彼は攻撃するという選択を選べなかった。
 横薙ぎの一撃を飛び上がって回避し、
 返す二撃目は空中を蹴って後退することで空を切らせる。
 考える暇を与えないよう、アザゼルは凪との距離を詰めていく。
 更に後方へと下がり、凪はヘプドマスたちを視界に収めた。
「一度だけ、忠告する!」
 大きな声で、凪はそう彼らに呼びかける。
「今すぐにアザゼルとのリンクを拒絶しろ!
 あんたたちに恨みはないが、奴を庇うのなら俺は遠慮しない!」
 それを聞いたヘプドマスたちは、一様に俯いていた。
 代わりにアザゼルが嘲笑うような笑みで凪に答える。
「素晴らしい偽善意識だ。けど、彼らが君の言葉に耳を貸すことはないよ。
 ヘプドマスは僕のために存在する。僕でさえその信仰心は壊せない。
 あーっと、念の為言っておくけどイメージを破壊しても無駄だよ?
 七星羈絆線形は難しい創造力を必要としないからね。
 ただ僕のために死ぬ覚悟だけでいい。故にリンクの再生成も容易いのさ」
 ヘプドマスたちを凪に視認させたことも、遺体を見せたのも、能力の条件を自ら話しているのも、それが有利に働くからだ。
 ディアボロスという絶対的な力の象徴を前にして、
 力の発露自体を妨害するという対抗策だ。
 しかし、この袋小路とも呼ぶべき状況を前に、
 凪の内にある暗く冷たい意志は一歩踏み出すことを決断する。
「そうかよ……だったら、仕方ない。
 結局俺がやらなくちゃいけないことは同じだ」
 先程と同じく、光の束をイメージし、殺意でそれを固めていく。
 六度。必要ならアザゼルにワンセカンド・ドラコニアンタイムを放つ。
 その覚悟を目に宿し、凪は真っ直ぐにアザゼルを睨みつけた。
「参ったな、さすがはディアボロス。他人の生命なんてどうでもいいわけか。
 このままじゃ僕に勝ち目はなさそうだ」
 口ではそんな事を言いながらも、彼の表情にはまだ余裕が残っている。
 邪悪を象徴するような笑みを作ると、アザゼルは予想外の言葉を紡ぎ始めた。
「ところでさあ――君は何故ここまで来てしまったのかな?
 君が大切に思っている如月紅音を置き去りにして、
 イヴを助けて君は何がしたいんだい」
「お前には関係ない」
 動揺を誘うための問答にすぎない。
 そう考えた凪だったが、胸がざわつくのを抑えきれなかった。
 なぜ、今この話をするのか。必ずアザゼルには意図があるはずだからだ。
「関係ないか、確かにそうだね。でも僕は知っているんだよ。
 君の選択が結果として如月紅音を死なせたということをね」
「は――?」
「彼女は今ルシエと戦い、そして敗北しようとしている」
「……嘘だ」
 予想だにしていなかった言葉に、凪の鼓動が嫌な音を立て始める。
「犯され殺され肉と骨の一欠片まで貪られるだろう。
 急いで戻ったところで、君はもう彼女の痕跡すら見ることはできない」
「嘘をつくな!」
「フフフ、確かに言葉だけで信じるのは難しい。
 それじゃ――こう言うのはどうかな?」
 アザゼルはそう言うと、右手をくるくると回し始める。
 描かれた円の形は、少しずつ大きく渦のようなイメージに変わり始めた。
 渦は鏡面のようにつるつるとした質感に変化し、
 遠く日本にいる紅音とルシエの姿を映し出す。
 負傷した紅音とそれに近づくルシエの姿。
 廃病院で繰り広げられる戦いは、今正に終幕を迎えようとしていた。
「高天原凪君。これは君が選んだ選択の結果だ。
 事実をどう受け止めるかは君の自由だけど、
 仮にも天使たる僕は――君に一度だけやり直しの機会を与えようじゃないか」
「なにを、言ってる」
 眼の前の映像に釘付けになりながら、凪は絞り出すように声を発する。
「言葉の通りさ。これはただの映像投影ではないということだよ。
 このイメージは彼女たちの場所へと繋がっている。
 つまり、君が望めば如月紅音を助けに戻ることが出来る」
「き、さま――!」
「おやおや。感謝するならばまだしも、そんな目を向けるのはおかしいね。
 別に僕は今すぐこのイメージを消してもいい。
 君が彼女を見殺しにして、僕を殺すことやイヴを助けることを優先するのは自由だ」
「ぐ……うああああああああ――ッ!!」
 咆哮。それは彼の意識と本能の背反によるものだ。
 今すぐにでも紅音を助けに行きたい。全てを放り出してでも。
 そうすれば、恐らく二度とこの場所に戻ることは出来ないだろう。
 イヴを助けるという目的を果たすことも、出来ないかもしれない。
 何のデメリットもなく、アザゼルがこんな提示をするはずはないからだ。
 ディアボロスは目の前の天使を殺せと本能に訴えかけている。
(あの映像――そもそも、あれは本当のものなのか?
 アザゼルがイメージした全てが偽物の――だとしても、
 もしも、本当に紅音が危険なのだとしたら、考えてる時間は――)
 高速で思考を巡らせる凪に対し、アザゼルは優しく語りかけた。

「君にとって、如月紅音というのはどういう存在なんだい?
 ほんの少しでも、助けるのを躊躇するような相手なのかい?」

Chapter186へ続く