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黒の陽炎
−4thSeason−

著作 早坂由紀夫

パラダイム・シフト

Chapter187
「Diabolos -ディアボロス-」

   


【diabolos】
 『敵対者』、あるいは『偽りの告発者』『悪口を言う者』などを意味する。
 他に糾弾者や中傷する者といった意味もある。
 共通するのは敵意、憎悪、叫び、咆哮である。



 獣は黒く、しなやかな動きで宵闇に溶け込む。
 その瞳は夜でも標的をはっきりと捉え、
 相手の些細な動きさえも認識する。
 カシスの一撃を受け、警戒したのか距離を取り息を潜めていた。
 瞬間的な姿の捕捉から、カシスが推察するに体長は一メートル強。
 イメージを肉体の強化に使用しており、
 それ自体はさほど脅威ではない。
 問題は、カシスが始末する気で放った一撃が通じていないことだ。
 耐久力の高さ、あるいはそれ以外の何かが作用しているらしく、
 獣は傷一つ負ってはいない。
 いかに任意具現による活動体とはいえ、致命傷は存在する。
 耐久限界を超えれば、その体躯は四散するはずなのだ。
(そう、本来ならば恐るべき相手。逃げて対策を練るのが上策。
 でも私はそんな消極策はしないの)
 維月を背にすると、カシスは周囲に水の膜をイメージし始めた。
 二人を覆うように水のがドーム状に形成されていく。
「今から犬が飛びかかってくると思うけど、
 動かないでじっとしてるの。いい?」
「わ、わかりま……した」
 状況がつかめないまま、維月は危機に備え身体を強張らせた。
「さあ――来るならこい」
 目を閉じて集中力を高めていくカシス。
 周囲に作り出した水と一体になっていくイメージで、
 彼女の意識は鋭く澄み渡っていく。
 ガラスの割れた窓から、風を切る音と共に獣が跳躍してきた。
 身じろぎ一つせず、カシスは獣が水の境界に触れるのを待つ。
 獣の前足が伸び、水のイメージを弾き飛ばす。
 その瞬間、カシスは意識するよりも早く獣に向けて反応した。
 イメージを水の塊に具現し、相手の身体をそれで包み込む。
「そのタフな身体がどこまで持つか、ためしてあげるの」
 カシスが拳を握り込むと、獣を包んでいるイメージの
 水圧が上がっていく。
 ギリギリという音とともに、
 獣の身体は折りたたまれ小さくなっていった。
 限界を超えたそれは、イメージを保てなくなり四散する。
 余裕の表情で、カシスは消滅した獣の居た場所に視線を向けた。
(衝撃には強いけど、圧力には弱い――?
 まだそう判断するには早い、か)
 誰がこの獣をイメージしているのか。
 外でカシスたちを狙う獣の頭数を考えても、
 それが並の使い手でないことは明白だった。
 任意具現としての命令はシンプルなものと推測できる。
 だが、イメージそのものの強固さと頭数の多さは異常だ。
 今のカシスには不可能に近く、間違いなく想像者は格上と言える。
(脅威ではある――でも、恐らくここには来ない。
 目的が維月なら、そいつが直接来ればすぐに終わりだ。
 そうしないということは、近くにそいつはいないということ。
 だとしたら、私は犬ころだけを始末すればいい)
 彼女が思考を巡らせているとき、窓から三匹の獣が飛びかかってきた。
 反射的にカシスは先程と同じ圧縮する水の塊をイメージする。
 まとめて水で包み込むと、圧殺を狙い右手で握り拳を作った。
 獣のうち、一匹は耐えきれず水中で潰れ肉塊と化したが、
 残る二匹はある一定のところで耐えたままカシスを睨みつける。
(なるほど――こいつらは別のイメージで生まれたもの。
 弱点が異なっているってことか。ややこしい真似をするの。
 でも、これを具現した奴は全能ではないし万能でもない)
 左手を獣に向けて伸ばすと、カシスは水で無数の槍を形作った。
 彼女の意志に従い、槍は高速で獣の体を貫く。
 形状を保てなくなった獣二匹は、すぐにその場から消滅した。
 ふいにカシスは、獣がいたあたりと自分の手を見つめる。
(なんだろう。なにか、不思議な感覚だ。
 ピントが合っていくような、自分を理解したような――)
 彼女がその感覚に浸る間はなく、即座に無数の獣のイメージが部屋の周囲を取り囲む。
 壁を破壊して侵入される危険を考え、カシスは自ら窓から外へ出ていった。
 外にはまだ、十匹ほどの獣が維月を狙って獰猛な表情を見せる。
 数的には不利とはいえ、先程の戦闘でカシスは確信していた。
(丁度いい相手なの。私の実力、今立っている位置を確かめるのに、
 弱すぎず強すぎず――)
 獣が障害となる相手と認識し、カシスへと突進してくる。
 カシスは水をイメージし、その突進の速度を和らげつつ獣たちの視界を塞いだ。
 そのまま、その水に触れた獣たちを飲み込み圧殺する。
「噛ませ犬として申し分ない」



 知覚できる範囲すべての獣を始末した後で、カシスは維月の部屋に戻る。
 彼女は状況が終了したことを理解し、安堵で床にへたり込んだ。
「あれ、一体何だったんですか……?」
「あんたを狙ってたのは間違いないの。けど――」
 壁にもたれかかりながら、カシスは考える。
 この獣たちを生み出した存在は、再び襲撃に来るだろうかと。
 そうであるならば、自分が任されたのはそれを捌き続けることだろう。
 追撃が来るという前提で周囲に意識を巡らせていると、
 そんなカシスに維月が伏し目がちに話しかけた。
「あ、あの……話しておくべきことが、あります」
「……あんたが、私に?」
 維月が言葉を紡ぐ直前、カシスは大きなイメージの胎動を感じる。
 学園内ではなく、隣の街あたりの距離で彼女の既知なる者がイメージを膨らませていた。考えるまでもなく、それが誰かをカシスは理解する。
「リヴィ様――!」
「あ、え……?」
 なぜリヴィーアサンが学園を離れ、イメージを展開しているのか。
 恐らくは戦いのためのイメージを。
 奇妙というよりも、いくつかの悪い予感がカシスの頭をよぎっては消える。
「悪いけど、話は後に……いや、違う。そうじゃない。
 あんた、もしかして紅音が何をしてるのかを知ってるの?」
「……はい」



 リヴィーアサンが一人、ルシエとの戦いへ赴いた事実。
 カシスにそれを話すということは、維月にとって自死にも近しい言動だ。
 現時点で獣の追撃はまだないとはいえ、
 それはもう現れないということを意味しない。
 もしカシスがリヴィーアサンに加勢するためこの場を離れ、
 そこに獣が現れれば維月は確実に死ぬ。
 それでも、彼女は黙っていることに耐えられなかった。
 かつて死がよぎる経験をし、恐怖に怯えたことがあっても、だ。
 公平感や正義感。そういった感覚なのかもしれない。
 自分が生きるため、紅音を見捨てるという選択がじわじわと彼女の心を締め付け続けていた。
 紅音から頼まれたからと、そうやって痛みを弱めようとしただけだ。
「お願いです。紅音先輩のところへ行ってあげてください」
「……言われるまでもないの」
 カシスは逡巡する。
 リヴィーアサンのため、一刻も早く現場へ向かうべきだ。
 維月のことなどどうでもいい。昔ならそう思っただろう。
 人間の暮らしに慣れすぎたせいで、今はそれを決断するのに少し気が重い。
 選択肢は他にないのかと、彼女は頭に手を当てる。
「維月。命を諦める覚悟は出来てると思っていいの?」
「覚悟は……これから決めます」
「そう。じゃあ――ギリギリまで足掻いてみるのも悪くないの」
「え? ぐえっ」
 カシスは維月の首根っこを掴むと、そのまま一足飛びに窓から外へと出る。
「い、一体なにを」
「あんたも連れて行って、近くで待機してもらうの。
 いざというとき、もしかしたら助けられるかもしれない。
 これは次善の策――だけど、ここにいるより可能性はあるの」



 廃病院の二階で、カシスはそんな事の顛末をリヴィーアサンに話す。
「そんなわけで維月は、一番近くにあるコンビニで待たせてあるの」
 少し驚きながらも、リヴィーアサンは笑みを浮かべ彼女の頭を撫でた。
(リスクはある。でも0か100じゃない、合理的な判断だ。
 あるいは全てを失うかもしれないけど、カシスはこの道を選択した)
 胸に手をあて、彼女はあらためて自らの心を奮い立たせる。
「いいわ、こうなったら二人で戦いましょう」
「リヴィ様――」
「まずは落ち着いて考えましょう。奴のイメージは鉄壁。
 真正面から攻撃が通るとは思えないし、こちらには決め手がない」
「はっきりいって、リヴィ様が駄目なら私のイメージが通るとは思えないの」
「……なにか、奴のイメージを突き破る強固な何か」
 アイデアを巡らせてはみるが、最初からリヴィーアサンには一つそのイメージがあった。
 なるべくなら避けたいリスキーな発想。
 この土壇場ではそうも言っていられないと、彼女は覚悟を決める。
「一つだけ、あるわ。かつて、アルカデイアでの戦いで
 偶発的に起こしたもの。紅音と私が同時にイメージして具現する際、
 イメージの総量は膨れ上がる。それを意図的に狙ってぶつければ、
 ルシエの防壁を突き破ることも可能なはず」
 そう語る彼女の表情から、すぐにカシスはそれが意味するものを理解した。
「私達悪魔と人間が同時にイメージを抱くことはあるけど、
 外部へ放つ――具現化することは紅音に可能なの?
 あと、それってお互いのイメージで精神がコンフリクトするんじゃ――」
「その通りよ。普段はお互いが表出する際に席を譲ってる状態だけど、
 私が表に出てるときに紅音がイメージを具現するということは
 精神を無理矢理に表出するという行為に近い。
 互いの精神を削り、最悪は対消滅する可能性もあるわ。
 一つ目の疑問の方なら、可能ね。
 紅音のイメージを私が引っ張り上げる形にはなるけど、
 結果としては同じだし……それに実証済みよ」
「……他に、方法はないんだね」
「ええ。ルシエに殺されるか、賭けに出るか。どちらかしかない」
「わかったの。私はリヴィ様を信じる」



 ほぼ同刻。
 エリュシオンでの戦闘は互いに想定外の方向へと進んでいた。
 その違和に気付いたのは、かつての修練によるものと言えるだろう。
 凪にとって、戦いは相手の呼吸や思考を伺うことが大きなウェイトを占めていた。多くの者にとってそれは同じことかもしれない。
 それを知ったり推定することで、戦いの流れは形作られる。
(でも、明らかに違う。アザゼルとルシード。
 こいつらは、流れというものに信じられないほど頓着がない。
 まるで、やりたい行動を取っているだけだ。
 重厚なイメージを練ったり、搦め手を使ってきた奴とは思えないほど、
 戦いに読みというものが介在していない)
 今までの言動も、凪の動揺を誘うためなのは間違いなかった。
 だが、それはすべてアザゼルが一方的に打ち出したものに過ぎない。
 凪の思考を推測して、それに先んじて対応したというものではなかった。
(わからない――が、それをわざとやるメリットも浮かばない。
 意図して戦いの読み合いを放棄して、俺の攻撃を受けても意味がない。
 だとするなら、アザゼルは……理由は不明だが、
 戦闘における勘がほとんどない素人ってことになる。
 創造力がでかいことは脅威だけど、ただの素人――。
 俺がルシードに力を抑えられても戦えてることの答えにはなるけど、
 あまりにちぐはぐすぎないか――?)
 推測を確かめるため、凪はアザゼルに対してフェイントを仕掛ける。
 視線、動き、殺気といったものを使った複数のフェイクを混ぜたものだ。
 アザゼルは凪の動きを無視し、小さく構えて剣を振りかぶる。
 彼の振り抜きより早く、凪は回転して蹴りを腹部に一撃。
 そこから反動で距離を取りながら、
 瞬間的な斬撃のイメージを肩口へと振り下ろした。
 一連の動きは、凪の想像通りの形でアザゼルに叩き込まれる。
 その生命を奪う形で。
 思わず笑みが零れそうになり、凪は自らの唇に手を当てた。
「楽しいかい、誰かを傷つけることは」
「――!」
 少し離れた位置にいたルシードが、凪に対してそんな言葉を投げかける。
「楽しいんだろう。命を奪うこと――思い通りに相手を屈服させることが。
 それがディアボロスの影響の一旦さ。君には決して抑えられない破壊衝動であり、君の真実を書き換えすべてを終わらせるものだ」
「なにを、いってる」
「私とアザゼルは、君の蛮行を止めるために戦っているということだ。
 もうじき世界を滅ぼすその衝動、繰り返し続けるディアボロスの蛮行をね」
「……ふざけたことを!」
「だが事実さ。本来の君にとっての望み、願いは君が死ぬことで完成する。
 君がディアボロスに取り込まれるまで、もう幾ばくもないだろう。
 この世界を滅ぼし、君の愛するものすべてを滅ぼすその衝動が抑えきれなくなるまでね。それまでに私達は君を始末しなくてはいけない」
「俺が、そんなことをするなんて信じると思うか?」
「今の君はしないさ。だが、数分後の君はどうかな?
 理解しているのかい? 君の口調、どれほど荒くなっていると思う?」
「要するに、露骨な搦め手を使うほど追い込まれてるってことだろうがよ」
 ルシードの言葉を聞き入れる価値がないと判断し、凪は一笑に付す。
 口元を歪ませながら、しかし凪は怒りがふつふつと湧き上がるのを感じた。
 なぜかわからない。些細なあらゆる出来事に苛立つ。
 夢姫を喪ったことを悲しむより先に怒りが先に立ち、
 その感情は時間経過と共に際限なく強まっていた。
 紅音の無事を願い、祈るよりアザゼルへの憤りが沸き立つ。
 未だアザゼルたちが生きていることへの、自分への怒りもだ。
 あらゆるものへの怒りが、イメージの流れとなって迸る。
(心地よくはない。不安さと焦りがどこかにあり続けている。
 これは、何だ? これは――これは、
 夢姫がずっと抱いていたものなのか?
 こんな獣のような、感情ですらない本能のようなものが――)
 思考と怒りが並走するような状態で、もはやアザゼルの命はおろか、
 ヘプドマスたちのことも凪にとって頭の隅へと追いやられていた。

Chapter188へ続く

 

 アバウトに次回予告なのです。