Back

真夜中、少女は孵化した闇を衝く
midnight,she is push to hatched dark

著作 早坂由紀夫




 私の瞳に映るセカイ。日溜りと、光と影と、私の母親。
 幾つか見た風景の中で最も退屈なものだ。
 温かくて、何に不自由する様子も見受けられない。
 恵まれた環境というものは、ある種の貧困と同義。
 日本人のほぼ全てがそれに当てはまると思う。
 ジサツという自由に手を伸ばすのは、私たちだけだ。
 ゆとりある私たちが許された生命を弄ぶ権利。
 母親が私の手を取って、渋谷の街を歩く。
 まだ幼い私の身体に御洒落をさせようというのだ。
 ブラジャーさえしばらく必要ないというのに、
 服だけは馬鹿みたいに増えていく。
 一年ほど着られれば良いほうだろう。何せ成長期だもの。
 ああ――――母親が嬉々とした顔で私の服を選んでいる。
 自由になりてー。そう小声で呟いた。
 俗物が相手なのだから、多少の乱暴な言葉遣いも辞さない。
 私の言う自由とは前述したジサツのことだけど、
 死ぬことは自由なんて――――愚かな言葉の遊戯だ。
 本気でジサツを考えるはずもない。
 裕福なお嬢さんは人目を引くために死を口にする。
 だから私も真似してみただけだ。
 なんのことはない。文字通り、児戯に等しい。
 こういった私の葛藤も知らずに母親は服を買い終えた。
 帰ったら、また趣味丸出しの服を着せられるのだろう。
 確かに私は可愛い。主観的に言えばそうは思わないが、
 事実を主観的に述べても仕方なかった。
 肩より長い艶のある髪。
 歳相応のピチピチした肌の張り。それに顔の形。
 数百年前ならともかく今なら皆が私を褒め称える。
 母親が私の為に服を買う理由も少しは理解できた。
 ただ、そんな個性は必要ない。服に対する欲もない。
 個性的な服? 人とは違うもの? 無価値にも程がある。
 何故なら個性とは自分の内面で表すものだからだ。
 それも出来ずに服で何かを主張するなんて、
 中身が無いといってるようなものじゃないか。
 自分の価値を貶めるような真似、私には出来ない。
 駅へと歩く途中で私は母親に聞いた。
 ――――貴女の名前、なんだっけ?
 冗談を言っているわけではない。
 母親の名を呼ぶときに、母さんと呼称している故だ。
 本来、彼女に付けられた名を失念してしまった。
 すると母親は諭すような声で名前を告げる。
 凡庸で記憶の中に留められそうに無い名前だ。
 仕方なく私はその名で彼女を呼ぶのを諦める。
 代わりにもう一つ、母親に疑問を投げかけた。
 もし私がジサツしたらどうするか。
 この年頃だ、死に興味が湧くのは仕様の無いこと。
 それなのに彼女の言葉は機械的な返答だった。
 変なこと言うんじゃありません、と。
 機械が私の疑問を抹殺する。これもまた仕様の無いことだ。
 人間は一人一人が別個の生命体で、
 お互いがお互いを認め合うゆとりなどない。
 そう考えると、私は酷く母親がいとおしくなった。
 繋いだ手の冷たさがいっそうその気持ちを高める。
 ゆとりの無い心が私を必要としているのを感じるからだ。
 暮れなずむ夕日は母親の顔を寂しく照らしつける。
 ジサツしたいと言う子供が考えることなど、
 親の理性ある頭では理解できないのだ。
 少し――――ほんの少し、頭が痛い。
 それを母親に訴えようとしてやめた。
 もうすぐ駅へと辿り着く。
 電車の中で座る頃には痛みも取れるだろう。

 ――――私の瞳に映るセカイは――――真夜中だ。
 人間が暮らすサイクルの内、退屈で非活動的な時間。
 楽しげな場所を眺めることしか出来ない。

 電車に乗り込んだところで私は頭を押さえた。
 ああ……また、頭痛――――だ――――。
 今度は波のある痛みを伴い、意識が途切れそうになる。
 間違いない。これは身体が死ぬ準備を始めているのだ。
 死ぬことばかりを脳が――――私が考えつづけることで、
 何時の間にか身体もそれに引きずられている。
 痛みを母親に訴えると、彼女は醒めた顔で私に言った。
 家に着くまで我慢できる?
 我慢できないなら病院へ行きましょう。
 さすが、頭痛程度では顔色一つ変えない。
 この丁度良い温度の優しさが心地よかった。
 電車の規則正しい揺れが、頭痛とリンクする。
 緩慢になる痛みが少しずつ気を狂わそうとした。
 別にこの場で吐いてもいいのよ?
 小声でそう呟いて、私は電車を脅してみる。
 脅しに屈した電車はその動きを止め、
 私と母親を解放する素振りを見せた。
 電車は私たちを下ろすと逃げるように去っていく。
 所詮は機械なのに――――時には優しさを見せるのね。
 哀れな電車に私は手を振ってやった。

 家に帰ると母親が体温計を持ってくる。
 私の体温は――――39度5分。
 平熱というには些か無理のある温度だ。
 すぐに私は安いが冷たくて気持ちのいい布団に寝かされる。
 それだけで身体から死は抜け出ようとしていた。
 ふふ――――案外、私の身体は生きようと必死らしい。
 横になりながら私はブザマな身体を笑ってやった。
 隣では母親が濡れたタオルを絞っている。
 それを私の額に当てる気なのだろう。
 額が熱を帯びているから、熱を冷ますつもりなんだ。
 心の伴わない優しさの具現としては最適と言える。
 ――――けど、買ってきた服なんてそっちのけで――――。
 追いやられた服には悪いが、その光景は新鮮だった。
 ストン、と畳へと落下した服を入れた紙袋たち。
 それを置いて母親は台所へと向かう。
 夕飯の材料がその手には握られていた。
 紙袋は行き場を失って私の前へひざまずく。
 ふん、貴方たちは丹精こめて作られたのでしょう。
 恐らくは随分と誇らしい待遇を受けてきたのでしょう。
 それも私のところでは通用しない。
 何故なら貴方たちは所詮、人間を飾る服に過ぎない。
 どんな高値だろうと私の前では意味をなさないのだ。
 さあ私はこの退屈なセカイを切り裂くモノとなろう。
 ここへ産まれ出でた貴方たちには可哀想だけれど、
 価値観という隠れ蓑――――広大な闇でさえ――――
 私は怖れることなく前へ進めるのだ。
 食事を取り、数時間して母親も布団をしいて横になる。
 規則正しい呼吸音で彼女が睡眠に入ったのは解った。
 そして――――私は闇へと行動を起こす。
 時間はすでに真夜中。しんとした無音が逆に煩かった。
 ゆっくりと気だるい身体を布団から出すと、
 母親に気付かれないようにして紙袋を掴む。
 明日のことを考えると――――少し気が重かった。
 それでも躊躇はしない。

  ――――暗い闇黒へと私は、無価値な花束を投げる。

 バサバサという哀れを誘う落下音が、黒色の空に攪拌した。
 まだ身体は平常より少しだるい。
 熱さましにと、私はしばらく夜空を見上げることにした。
 冷たい風が頬を気持ちよくなぞっていく。
 馬鹿な私はそうして母親が寒さで起きて来るまで、
 身じろぎもせずに風と戯れていた。

END

 

 

 

 

 

〜後書き〜

シュール・シュール・シュール。
悪戯に言葉を弄って遊んだ結果の小説です。