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煙草と痛みのマイノリティ

著作 早坂由紀夫

 

 
 例えば空気がなくなったとする。
 無論の惨劇が起こる事だろう。
 それで例えばそれと同じように、
 人間にとって決定的な物が欠けた時。
 人は何を失うのだろうか。何を得るのだろうか。
 本質的な所で人は何かを傷つけている。
 それも自分が気付かない所で、平然と、残酷に、
 人を傷つけながら生きている。
 無意識的な痛みは誰も止める事が出来ない。
 全てが手遅れになった後で、
 ようやく人はその愚かさに気付くのだ。

*1*

「私に近寄らないで」
 最初の一言はそれだった。
 まるで汚いものでも見る様に彼女は僕にそう言う。
 少し荒れてしまっている肌。
 でもそれは彼女の魅力を落とす要因にはなっていない。
 彼女は口をハンカチで覆っていた。
 だから綺麗な容姿に惹かれかけていた僕は、
 思わず彼女に対して耐性の様な物を作ってしまう。
 そして戸惑う僕を一瞥すると彼女は去っていった。
 彼女と僕は大学一年生。
 海が近いのがその大学の唯一の利点だ。
 入学してすぐに僕はそう思った。
 なぜなら特に面白い分野もない。
 救いは食堂で吸える煙草だけだ。
 彼女は決して食堂に来る事はない。
 それどころか人の集まる所には決まって彼女はいなかった。
 人見知りする子なのだろうと、僕は思ってみる。
 次の日も明くる日も僕は彼女が気になって仕方なかった。
 別にただ綺麗だからじゃない。
 何処か彼女には人が持ち得るレベルを超えた儚さや脆さ。
 そういったものを持っている気がした。
 僕にはそれがどうしても気になって、
 いつも遠くから彼女を見つめる事にする。
 けどストーカーに近いかも知れないので
 僕はちゃんと話す事にした。
「こんちわ」
「……こんにちは。それ以上近寄らないで」
 彼女に会うとそんな風に言われた。
 相変わらずハンカチを口に当てたままで。
「どうしてそんなに僕を避けるんだ」
「別にあなたを避けてるワケじゃないわ……」
 そう言うと彼女は外へと歩いていった。
 僕はそれについていくとさらに疑問を連ねる。
「じゃあ、どうしてハンカチなんか口に当ててるんだよ」
「……これは私が生きる為に必要な事なの」
「生きる……為?」
「そう。もういい?」
 彼女は少し咳き込むと何処かへと去っていった。
 まるで僕の事なんて相手にしてない。

*2*

 しばらくして彼女に彼氏がいると言う事を知った。
 そのせいで僕に近寄らないのかもしれない。
 だが彼女の様子を見ていると、
 男性と付き合っている様には見えなかった。
 まあ僕がお節介だというのは解っている。
 それに彼女の事が気になっていると言う事も。
 だから僕はある日、彼女に聞いてみた。
「君に彼氏がいるって話を聞いたんだけど」
「……ええ、いたわ」
「いた? 別れたの?」
「そうよ。ねぇ、なんのつもりなの?
 人のプライベートに口を挟むつもり?」
「いや……そうじゃなくて、君の事が気になったから」
 その後で僕は少し唐突だったかも知れない、と思った。
 なぜなら彼女は俯いた後すぐに帰ってしまったからだ。
 僕は考え無しだった。そう思った。
 だけど夏の暑い日差しを横目に僕は再び彼女に出会う。
 今度の出会いは彼女からのものだった。
「一応、話しておこうと思って」
「……え?」
「化学物質過敏症って知ってる?」
「まあ、一応はね」
 シックハウス症候群とか、そう言うのだった気がする。
 科学物質の含まれたものに身体が反応して、
 苦しんだりしてしまうって聞いた事があった。
 もしかして彼女もそうなのだろうか。
「その症状の中に、ニコチンやタールに
 過剰反応する症状があるのよ」
「……ニコチン、タール」
 僕は口に出して言ってみた。
 ニコチンは煙草の主成分になっているもので、
 直接接種すれば死の危険もあるアルカロイドの一種。
 タールはよく知らないけど煙草に含まれてる成分だ。
 という事は……と、いう事はだ。
「私はその中でも結構末期の症状で、
 煙草の煙を吸えば……死んでしまう」
「死……ぬ? そ、そんな馬鹿な話聞いた事無いよっ」
「そうね。聞いた事無いでしょうね。でもホントの事。
 この肌だってそれのせいなんだよ」
 確かに彼女の肌はぶつぶつしたものが出来て荒れている。
 でも僕はそれが病気のせいだなんて、
 欠片も思ってなかった。
 動揺してしまった僕は思わず胸ポケットから
 煙草を出しそうになってしまう。
 彼女はその仕草を見てため息を一つついた。
「私……彼と別れたのよ」
「そうなんだ……って、もしかして」
「煙草吸う奴だったの。彼は私の病気の事を、
 過剰反応を示す嫌煙者くらいにしか思ってなかった」
「…………」
「彼の事好きだったから、出来るだけ
 我慢しておこうと思ったんだけどね。
 最後には身体が悲鳴を上げてしまった……」
「それっ……て」
「昏睡状態で病院に運び込まれたの。
 その後、彼の事を思いっきり殴ってやったけどね」
「そいつは凄い」
 僕は少し笑ってしまった。
 でも彼女はそんな僕を見て心外そうな顔をする。
「別に冗談じゃないわよ。だってあいつは
 自分の快楽の為に私を殺そうとした。
 いわば無意識下の快楽殺人者よ」
 さすがにその表現は過剰な気がした。
 煙草を吸う側の人間だからかも知れない。
 たかが煙草を吸うという行為が、
 そこまで悪くいわれる筋合いはないと少し思った。
「そう言う事。気が済んだら、もう私に関わらないで」
「……それは困ったな。僕は君の事益々気に入ったのに」
 時折僕は自分で恥ずかしい事を言うらしい。
 彼女は困った様な戸惑った様な顔をしてしまった。
「と、友達としてなら別に構わないけど……」
「充分。ものには順序が必要な時だってある」
 そんな風にして僕らは出会った。
 けれど僕は彼女の事を本当の意味で解ってはいなかった。
 本当に彼女の事を思いやってはいなかったんだ。

*3*

 彼女とつきあい始めて三ヶ月。
 僕は付き合う条件として、
 煙草を止める事を挙げられている。
 考える必要もなく僕はそれに従った。
 大切な人を傷つけてまで煙草を吸いたくはない。
 だからきっと楽勝だと思っていた。
 そう……一応今の所は守っているのだが、
 人が吸っているのを見ると無性に吸いたくなる。
 特に食後は地獄に近かった。
 まるで麻薬中毒者の様だ。
 知り合いが煙草を勧めてくると殴りたいとさえ思う。
 彼女は外食が出来なかったからいつも僕は
 友達の煙草への誘いを一人で断る必要があった。
 それはとても甘美で魅惑的な誘いだった。
 だがその度、彼女の顔が浮かんでくる。
 まあ……可愛いからに他ならなかったが、
 おかげで煙草の誘いを断るには充分な活力だった。
 時折、彼女は自分の家に僕を招く事がある。
 決して彼女が僕の家に来る事はなかった。
 なぜなら僕の家は僕と父が喫煙者で、
 彼女にとっては地獄の様な場所だったからだ。
 そうして彼女は自分の部屋の窓から僕と夜景を見ている。
 特に僕にはそれが美しいとは思わなかった。
 でも彼女はどこか不思議な表情でそれを見つめる。
「ねぇ……私って人より人生を損してるんだと思う?」
「そうだなぁ、確かにそういう部分はあるだろうね」
 決まって彼女はそんな風に自分を卑下する事があった。
 けど僕はそれに模範的な答えを返す事はしない。
 しっかりと本当の事を言う事にしていた。
「うん。でも精神的な所で損しちゃ駄目だよね」
「そりゃそうでしょ」
 そういうと僕は彼女を背中から抱きしめる。
 すると彼女は首に回した僕の腕に
 そっと手で触れてくれた。
 僕はその瞬間が一番好きだった。
 しばらくそんな風に僕らは時間を重ねていく。
 その内、煙草なんて吸おうとも思わなくなっていた。
 けれど一度だけ彼女と喧嘩をしてしまう。
 理由は凄く些細なものだ。
 だけどその時確かに彼女は怒ってしまって、
 僕も彼女の顔なんて見たくないと思ってしまった。
 ただ、互いに謝るきっかけを失ってしまう。
 それは僕が一番避けたい事だった。
 だからなるべく僕は早く仲直りがしたいと思っていた。
 でも彼女を呼び出すのは結構難しい。
 なぜなら外には歩き煙草が溢れているし、
 レストランなどでは喫煙者の煙で一杯だからだ。
 そうやって考えている間に、
 ふと僕は煙草を何本か吸っている事に気が付く。
「しまったなぁ……」
 煙草って気付くと買って吸っちゃってるんだよなぁ。
 やっぱり数ヶ月くらいじゃ油断するべきじゃなかった。
 それに自分自身の決意がまだ弱かったんだろう。
 ……もう一度、僕は自分が
 煙草を止める確固たる理由がほしかった。
 考えた末、僕は彼女の家に向かう事にする。
「すいませ〜ん」
 僕はそうやって彼女の事を呼び出して貰った。
 すると困った表情をして彼女が出てくる。
 一体何を話せばいいのか解らないと言った表情だ。
「この間の事だけど……どうしても一言、謝りたくて」
「ああ、ううん。私こそごめんなさい。
 貴方の気持ちを考えてなかった」
「いや……僕だってそうだよ。
 君との約束を破って、たば……」
 僕の声はそれから先を彼女に伝えられなかった。
 彼女が僕に抱きついてキスしてきたからだ。
 けどすぐに彼女は僕から離れる。
 無言で僕の事を悲しみの表情で見ていた。
「あな、た……煙草……吸ったの?」
「……そうなんだ、ごめん」
「っ……ぅっ」
 急に彼女は苦しみだした。
 倒れそうになる彼女の身体を僕は支える。
 だけど彼女は僕を無理矢理に離した。
「ど、どうして……?」
「煙草を吸っている人には触れないの。
 キスなんてしたら……私、死ぬかも」
 強い口調ではない。
 うわごとの様でもあった。
 ただ、彼女は明らかに僕を責めていた。
「なんで……煙草、吸ったの?」
「……それは……それ、は」
「見えない所なら吸っても……良いと、思った?
 人に迷惑、かけないと思った?」
「……ごめん」
 確かにそう思った所があると思う。
 だから僕はそうしたんだ。
「ま、いいや……いいよ、うん」
「すぐに救急車呼ぶからっ!」
 僕は急いで彼女の家に入ると電話で救急車を呼ぶ。
 本当にそこまで酷い症状なのかは解らなかった。
 でも逆に言ってしまえば、
 そうでないのかも僕には解らない。
 けれどその時、彼女の容態はさらに悪くなっていた。
 ドアを開けた所で力尽きたのか、
 挟まれる様に玄関のドアの所でしゃがみ込んでいる。
 慌てて僕は走って抱きしめようとした。
 でも彼女は青ざめた顔で僕から離れようとする。
「ど……どうして」
「近寄ら……ないで。あなたの身体に……付着してるから」
「付着って、煙草の匂いの事……か」
 彼女は涙目でハンカチを出して口元を押さえた。
 それは明らかな拒否だった。
 辛そうな顔してなおも彼女は僕に言う。
「最低よ、こんな馬鹿な躰も……あなたも」
「ごめん……でも僕は」
 彼女は不意に空を見上げた。
 少し彼女から離れて僕も同じ空を見上げる。
 なんだか涙が出てしまいそうだった。
 今口をついて出そうになったのは……言い訳だ。
 どれだけ彼女が苦しんでいるのか僕は知らない。
 どんな時に彼女が苦しんでしまうのかさえも知らなかった。
 本当に彼女の症状を懸念してたとしたら、
 僕はきっとそれを調べるくらいするべきだった。
 三ヶ月も付き合っていて……そんな事もしてない。
 彼女の苦しみを知ろうともしなかった。
 どこかで僕は、それを他人事として見てたんだ。
 不意に彼女が掠れた声で呟く。
「ずっと前にね……子供の頃よ?
 空を飛びたいって思ってた時があったの」
「へぇ……僕もあるよ」
「でもあの青い空へ消えていく煙を見るたびに思うの。
 今の私は思う事さえ叶わない……って」
「精神的な所で損しちゃ駄目なんじゃないかな」
「そんなの……強がってるだけだよ。全然、駄目だもの」
 ハンカチを広げると彼女は顔を隠す様に覆った。
 それを両手で押さえ、肩を振るわせている。
 本当なら僕は彼女を抱きしめるべきだった。
 けど……それさえも出来ない。
 彼女を支える事も、慰める事も……出来はしない。
 触れる事さえ僕には赦されていなかった。
 遠くから救急車のサイレンが木霊する。
 手遅れにならない内に僕は言った。
「もう一度だけ……チャンスが欲しい」
「……なにそれ」
「君の唇に、ちゃんとキスしたいんだ」
 僕は彼女の家の玄関前にある地べたに座る。
 救急車はすぐそこを走ってきていた。
「一つだけ……方法がない事もないよ」
「充分さ。なに?」
「後で、一発殴らせて」
「……OK。我慢する」
 少しだけ彼女は元気になってる気がする。
 救急車で運ばれていく時も、
 彼女は薄く笑顔を覗かせていた。



 それから調べていく内に、
 僕は彼女が色々な事に我慢していた事を知る。
 僕に言った条件じゃ払いきれない痛みが幾つもあった。
 彼女はずっとそれに耐え続けてきたんだ。
 日常の些細な行動が彼女を傷つけている。
 だからこの際僕は腹をくくる事にしていた。
 勿論、煙草も吸っていない。
 それに彼女に会いに行く時は
 新しく買った服で行く事にした。
 幾つかの準備をして僕は彼女に殴られに行く。
 下手したら前の彼氏は病院送りかとさえ思ったが、
 確かにそれから僕らの時間はまた回り出した。
 意識する様になった痛みなら僕自身で防ぐ事が出来る。
 きっとそれは彼女を思っているという証でもあった。
 そんな事を、僕は彼女の笑顔を見るたびに思う。

完