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インフィニティ・インサイド

著作 早坂由紀夫

Chapter50
「Non vegliara」


10月12日(日) PM13:00 晴れ
万魔殿・上空

それは数ある選択肢の内の一つだった。
いや、恐らく可能性の一番高い選択肢。
だからそれは当たり前の結果ではある。
結局は紅音がリヴィーアサンの精神を
押し返す事など出来はしなかった。
何があったのか詳しくは解らない。
それでもイヴは凪にその可能性を話していた。
無論、紅音が死ぬ可能性を考えていなかった訳じゃない。
だがイヴはなぜかこうなってしまう事が耐え難く苦しかった。
凪が自ら紅音を殺す事が間違っている事に思えた。
万魔殿の屋上からありったけの声でイヴは叫ぶ。
「凪っ! 本当にっ・・・それでいいのか?
 お前が望んだのは本当にこんな結末なのか!?」
その声に振り向く凪。
「・・・イヴ」
リヴィーアサンの瞳にもイヴの姿が映った。
瞬間、彼女を縛っていた紅音の意識が途切れる。
「凪・・・少しおイタが過ぎたわねっ!」
彼女は溜めていた力をすぐさま解放し、
先ほど放った様な眩い光を凪めがけて放出した。
すかさず凪は両手に宿る緑色の光で防御する。
だが至近距離での一撃には耐えられなかった。
「ぐぁあああぁっ!」
凪は物凄い勢いで弧を描きながら、
万魔殿の屋上に叩きつけられる。
倒れている凪はゆっくりと立ちあがった。
だがもう立っているのも精一杯の表情だった。
「凪っ!」
イヴは凪の落下地点へ向かいながら苦い顔をする。
(どうして私は・・・あんな事を言ってしまったんだ)
勝てるはずだった。
紅音を殺す事は出来たはずだった。
そしてそれが彼女の救いになるはずだった。
しかし今の状況は最悪。
リヴィーアサンを倒す最後のチャンスは消え去ったのだ。
それもイヴがチャンスを断ち切ってしまった。
そんな二人の元に音もなくリヴィーアサンが降りてくる。
「やれやれ・・・どうにか私にとって最良の結果になりそうよ。
 凪を殺す事もなく、ルージュも帰ってきた」
「私は・・・あなたの元に戻る気は無い」
イヴはリヴィーアサンを睨みつけながらそう言った。
そんな言葉や視線も気にせずに、
リヴィーアサンは悠然と凪の元へと歩いていく。
「待てっ! 私が相手・・・」
「ルージュ、あなたとやり合う気はないわ。
 それに闘う力も残っていないでしょ?」
「くっ・・・」
冷笑を浮かべながらリヴィーアサンは
イヴの眼前を通り過ぎていく。
その威圧の前に身動きする事すら出来ないイヴ。
意識を朦朧とさせながらも立っている凪を、
リヴィーアサンは包み込む様に抱きしめた。
「さあ、もう終わりよ。じきに現象世界への進軍が始まる。
 貴方にはその先頭に立ってアルカデイアを探して貰うわ」
「嫌だ・・・ね」
柔らかな紅音の胸に包まれながらも凪の心は折れなかった。
だがそんな態度はすでにリヴィーアサンには関係ない。
「男らしくないわね・・・ふふっ。
 でもそんな人にも方法はあるのよ」
リヴィーアサンは凪の首筋をぺろっと舐めた。
「そう、すぐに私無しじゃ生きていけなくなる。
 喜んで私の言う事を聞く忠実な犬に仕立ててあげるわ」
「く・・・おん」
凪は不意にリヴィーアサンの身体を強く抱きしめる。
いきなりの出来事に少しだけリヴィーアサンは戸惑った。
「紅音のフリでもしてほしいのかしら?
 お望み通りずっと紅音の代わりに・・・」

   「――――俺、お前の事を・・・騙してた」

そんな風に凪は告白を始める。
それが凪には気持ちを伝える最後のチャンスだと思えていた。
強い風が吹き荒れ凪の髪がさらさらと横に流れる。
紅音の肩に顔を乗せながら凪はそっと言葉を紡いだ。
「出会った時からずっと・・・騙してた。
 ごめんな、ホントにごめん・・・」
リヴィーアサンにしてみればそれは茶番に過ぎない。
だが凪はなおも紅音に話しかけた。
「でも・・・紅音を抱いた事、後悔してない。
 だって俺はお前の事・・・好きだったんだ」
それは恐らく凪にとって最後の告白。
本物の紅音に聞こえているのかは解らない。
それでも紅音に向けて放った言葉だった。
「そんな事今更言ったって遅いわよ。
 紅音はもう貴方の声なんて聞こえてな・・・」
彼女の言葉が途中で切れる。
最後に凪は紅音の唇にそっと口づけをしたのだ。
二人は少しの間、そうやって静に接吻をかわす。
不思議な感覚をリヴィーアサンは抱いていた。
まるで凪の紅音への感情が流れ込んでくる様な感覚。
凪が紅音を思う気持ちが溢れてくる様なキス。
不意にリヴィーアサンは自分の身体が動かない事に気付く。
もはやそれは彼女を縛っているとかいう次元ではなかった。
そして急に彼女の瞳から涙が零れ始める。
リヴィーアサンは戸惑いながらそれを拭おうとした。
しかし身体は動かない。
「こ、これは・・・まさか紅音の・・・!?」
その光景を不思議な表情で見つめる凪。
なぜリヴィーアサンは泣いているのか、と。
しかしイヴは違った。
それが紅音の精神の解放を意味すると知ったイヴは、
すぐさま黒い炎をリヴィーアサンに放つ。
防御する事も避ける事も出来ずに彼女は黒い炎に包まれた。
「かあ様・・・やっぱりあなたを殺す事は出来ない。
 だから、ずっと紅音の中に眠っていてくれ・・・」
「ルージュ、あなた・・・」
それを呆然と見つめる凪。
リヴィーアサンはイヴに何かを言いかけてそれを止める。
代わりに凪にそっと語りかけた。
「カシスは・・・生きてるのよね」
「・・・ああ」
「なら、あの子の事任せるわ・・・。
 私は・・・これ以上紅音の意識には抗えない」
薄く微笑みさえ浮かべるリヴィーアサンの表情からは、
それまでの打算や妖艶さは微塵も見えない。
ただ目の前の世界に名残を惜しんでいる様な表情だった。
そう、美しくも儚く残酷な万魔殿からの情景に。
「リヴィーア、サン」
「二人の仇を取る事とか全部・・・貴方に任せるわ。
 ふっ、ふふっ・・・願わくば再び私が目覚めた時、
 この世界が今以上に美しく見えません様に・・・」
黒い炎は奇妙な程に何も焼こうとはしない。
リヴィーアサンの精神に負荷をかけるだけで、
紅音の身体を傷つけようとはしなかったのだ。
そう、イヴがそんな風に黒い炎を使うのは初めての事だ。
誰も滅さない黒い炎。
イヴは自分がそんな力を使った事に軽い感慨さえ抱く。
それに少しばかりの感傷というエッセンスを加えて。
程なくしてふっと倒れ込む紅音。
それを凪はなんとか抱きかかえる。
「・・・紅音っ」
気を失っているがそれは正しく紅音だった。
凪にはそれが解った。
だから涙を流しながら最高の笑顔を紅音へと向ける。
イヴはそんな二人を見て思った。
(私は・・・きっとこの結果を望んでいたんだ。
 そう、こんな凪の笑顔を取り戻したかったんだな・・・)
だがイヴはふと彼が男だと言う事を思いだす。
自分を長い間騙していた凪。
なぜか怒りよりもため息が先についた。
(考えてみれば私をも騙していたんだったな。
 ・・・紅音の半分くらいは私にも謝って欲しい物だ)
そんな事を考えていると地面が揺れ始める。
爆発した様な轟音も聞こえてきた。
すぐにそれが天使による物だとイヴは気付く。
紅音を凪に任せると二人はすぐさま上空を飛び始めた。
だが凪は疲労が強くあっという間に落ちていきそうになる。
イヴは必死に凪と紅音を抱えるのだが、
二人分の体重はさすがに無理でゆっくりと落下していった。
地上へと降り立つと二人はすぐさまエレベーターへと向かう。

10月12日(日) PM13:24 晴れ
インフィニティ第一階層・コーサディア・灼熱の丘

そして、俺達はなんとか第一階層まで戻ってきていた。
ある意味懐かしくさえある黄土色の地層。
多分もう二度と来る事はないだろうけどな・・・。
するとそこで急にイヴが止まる。
「どうしたの?」
「・・・あの迷走回廊をどうやって抜けようかと思ってな」
「・・・・・・」
言われてみればここに来た時、クランベリーが言っていた。
知らない者があそこに入ったら二度と出られないと。
でも俺達がそうやって迷っていると、
遠目から悪魔の軍勢が向かってくる。
数十とか言う単位ではないのが遠目から充分に解った。
「イヴ、あれって・・・俺達がお目当てかな」
「考えたくはないが・・・リヴィーアサンが
 封印された事に気付いたのだろう。
 なにより、お前がルシードというのが大きい」
どうやら考えてる暇はないみたいだった。
無い体力を振り絞って俺達はまた走り始める。
そうやって迷走回廊の入り口にやってくると、
俺達の前に意外な人物が現れた。
「カシス・・・」
「リヴィ様はまた封印されたの?」
「・・・ああ」
俺もイヴも闘う力は残っていない。
正直、今カシスと闘えば負けるのは目に見えていた。
だがカシスは翻ると迷走回廊のドアを開ける。
「さっさとついてくるの」
「え・・・良いのか?」
「だって・・・ルージュまで居なくなったら、
 私・・・独りぼっちなの。寂しいのは嫌いなの」
カシスは悲しそうな目をしてイヴを見つめた。
するとイヴはカシスの頭をなでながら軽く抱擁する。
「ありがとう」
簡単な言葉ながらイヴはカシスに礼を言った。
少し照れながらカシスは歩き始める。
それに習って俺達も後を着いていった。

10月12日(日) PM13:35 晴れ
インフィニティ第一階層・迷走回廊の一室

「ここが現象世界とのリンク点なの」
そう言って案内されたのは、最初に来た部屋。
しかし俺達が移動する様な仕掛けは何処にもない。
カシスも現象世界への行き方は解らないらしかった。
「冗談じゃないぞ・・・ここまで来て、
 帰り方解らなくて終わりなんて」
「凪・・・一つお願いがあるの」
「・・・なに?」
「私も現象世界に連れて行って欲しいの」
そんなカシスの言葉にイヴと俺は顔を見合わせる。
「どういうつもりだよ」
「これ以上インフィニティに居ても仕方ないの。
 ・・・ルージュや凪と、一緒にいたい」
イヴに抱きつくカシス。
その表情は本気だ。
だけど・・・あっちに行ったら誰かに取り憑くんだよな。
そんな事、イヴが許すのだろうか。
「私は賛成しないが・・・だが、解らない。
 お前が正しいと思う道を進めばいい」
どこか仕方なさそうにイヴはそう言った。
きっと、あの光景が頭をよぎっているんだろう。
イヴはカシスを一人ここに置いていくのは辛いんだ。
少しそうやっていると近くから嫌な気配を感じる。
「イヴ、これは・・・」
「ああ・・・ミカエルだ。どうやら奴らもここに来ている」
インフィニティから脱出するつもりなのだろうか。
もしもここに来るつもりなんだとしたら、
選択肢は物凄くシンプルなものに変わる。
「カシスを置いていくわけにはいかなくなったね。
 このままじゃ天使と鉢合わせだ」
俺は誰よりも先にそう話した。
絶対カシスと天使を闘わせるわけにはいかない。
「そう・・・だな。一旦、現象世界へ来るのが良い」
そこで俺はふとここに来た時の事を思い出した。
あの時は確かポスターに吸い寄せられたんだよな。
だとすると・・・ここにもそんなものがあるはずだ。
俺はすぐさま辺りの怪しそうなものを探し始める。
するとそれはすぐに見つかった。
壁に描かれた小さな絵だ。
不気味な形をしているが、感覚でそれが出口だと解る。
瞬間、後ろのドアから足音が聞こえてきた。
「イヴ、カシス・・・俺に掴まって!」
「・・・解ったの」
「仕方ない」
もしも外れだった時の事を考えると、
少し汗が出てきてしまう。
けど背中に背負っている紅音が勇気をくれる気がした。
意を決してその壁画に触れる。
と、それは俺達の身体を飲み込み始めた。
来た時とは逆の、昇っていく感覚。
それを感じながら俺は意識を失っていく。

10月12日(日) PM13:38 晴れ
学校野外・プール施設内

気付いたのは日の光。
明らかに感じの違う辺りを満たす空気。
遠い旅路から帰ってきた様な感覚。
そう、その場所はプールの施設内だった。
辺りを見回すと紅音が倒れている。
あれ・・・イヴとカシス、は?
辺りには俺と紅音の姿しか見あたらない。
戸惑いながらも俺は紅音を起こした。
「起きて紅音っ!」
「んにゅ〜? あれ、ここどこ?」
がばっと起きあがると紅音は辺りを見回す。
「紅音・・・紅音だよな」
「うん。えと、どうしたの?」
俺は思わず紅音の事を抱きしめていた。
永遠の様に長い時間だった。
悪夢の様な日々だった。
でも・・・紅音を助ける事が出来たんだ、俺・・・。
戸惑っているのか紅音は、
どうしたらいいのか迷っている様だった。
「なんか凪ちゃんと会うの、久しぶりな気がする」
紅音は不思議そうな顔をして俺の事を見る。
だがすぐにあっと驚いた顔をした。
「そっ、そういえば凪ちゃん・・・」
急に後ずさる紅音。
多分、俺の性別の事を思い出したんだろう。
それにあの時の事も。
身体を抱きすくめながら視線を下に落としていた。
やっぱり・・・もう一度、はっきり謝るべきだよな。
「今まで騙してて・・・ごめん」
「・・・うん」
戸惑った顔をして俯く紅音。
それ以上何も言えなくなってしまって、
俺も一緒に俯いてしまう。
「これからも凪ちゃんは・・・女の子のフリするの?」
「それは・・・出来れば、そうしようと思ってる」
「なにか、事情があるんだよね・・・」
「うん。まあ、あるにはある」
そう俺が言うと紅音は意外にもにっこりと笑った。
ただ・・・それは今までの『私』に向けられたものじゃない。
親友ではなくて、顔見知りの『俺』に対する笑みだった。
「じゃあ今まで通りでいいよ」
「・・・え?」
「凪ちゃんが女の子のままだったら、
 私も今まで通りにする」
「な、なに・・・言ってるんだ?」
冗談だろ?
紅音の言ってる事は到底正気とは思えない。
俺がした事を流して今まで通り、
ルームメイトとして一緒に暮らす気なのか?
「だって俺、お前の事抱いて・・・」
「凪ちゃん」
紅音は諭す様に俺の名前を呼ぶ。
いや、どちらかと言えば自分に言い聞かせる様に。
「その事は忘れようよ。ね?」
「・・・そんな事出来るかよっ!」
思わず俺は叫んでいた。
紅音を抱いた事を忘れるなんて出来るはず無い。
あの時、紅音に抱いた思い・・・消せるはずがない。
「俺は紅音の事が好きなんだ」
ありったけの気持ちを込めて告白したつもりだ。
でも紅音は黙って俯いてしまう。
「・・・わからない」
「え?」
そう呟く紅音の表情は俺の事を直視していなかった。
戸惑っている様でもある。
だがその態度は明らかに俺の事を避けていた。
「私は・・・凪ちゃんの事どう思ってるのか解らない。
 だって今までずっと女の子だって思ってたから・・・
 だから・・・ごめんね、友達としてしか見れないよ」
取り繕う様に紅音は友達でいようと言う。
俺はよっぽどそれをはねのけてしまいたかった。
けれど、そんな事すら・・・俺には出来ない。
「・・・解った」
だって側にいる事を許してくれたんだ。
それ以上を望むなんて出来るはずない。
「悪いけど紅音、先帰っててくれる・・・?」
「うん・・・」
紅音は足早に去っていった。
その後で俺は倒れ込む様に座ってしまう。
さすがに涙までは出てこなかった。
これ以上を望まないでいられるか?
今まで通りにいられるのか?
・・・無理に決まってるだろ。
俺は・・・もう紅音の事、友達だと思えない。
でも恋人として見ては貰えない。
考えてみればそれは当たり前なのかな。
今までずっと友達だと思ってた、しかも女同士。
それが男だって解っても恋愛対象にはならないだろう。
結局の所、振られたって事だ。
泣けてしまえばどんなに楽なんだろう。
ただ、涙の代わりとでも言う様に
胸が張り裂けるほど痛んでいた。
フラれてみて改めて解ってしまう。
紅音の事がどれだけ好きだったかって事に。
それから・・・あいつがどれだけ
俺の心の大きな部分を占めてたかって事に。


  どうして今更・・・紅音との思い出が頭を掠めるんだろう。

  足取り重く、俺は寮へと歩き出していった。

 それから幾つかの時間が流れた。
 クリスマス、冬休み。
 色々な行事が駆け足で過ぎ去っていった。
 そして2009年。
 波乱に満ちた年が終わり新しい年が始まる。
 凪は少しずつ失恋の痛みを克服していった。
 時間は彼の痛みを薄く消していく。

だが、気持ちまでは消す事が出来なかった――――――。

黒の陽炎
『インフィニティ・インサイド編』

Chapter51へ続く