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朱の翼

著作 早坂由紀夫

Chapter13
「永遠にあなたのモノに・・・」

6月21日(土) PM21:27 雨
学園・校舎内1階・昇降口

ゆっくりと紅音の手から崩れ落ちていく凪。
まるでスローモーションの様に、
紅音はその凪を見つめていた。
何か信じられないモノを見る様に。
「・・・な、凪さん! ・・・啓人、あんた・・・」
芽依が驚きの瞳で凪と啓人を交互に見つめる。
その目は少しずつ怒りを秘めて啓人を見ていた。
「邪魔は消えた。ゆっくりと紅音と遊べるぜ」
「啓人、あんたを殺すわ・・・!
 私の凪さんを・・・よくも・・・!」
芽依が啓人を睨みつける。
啓人は余裕の表情で芽依を見ていた。
自分が育てた物になど負けるはずがないと考えているのだ。
その時、意外な所から声が響く。
「その必要はない。私が殺す事に決まったから」
「・・・え?」
一人の女性が、ゆっくりと立ち上がりながらそう言う。
その声に啓人と芽依は本能で恐怖を感じていた。
恐ろしいまでの美しい声。
何故か脳に直接響く律動の様な感情。
それは生物が直感的に抱く、
勝てない相手に対する畏怖だった。
「下銭な悪魔風情が、舐めた事してくれたわね」
「・・・あ、あ・・・」
芽依は声もなくその場に立ちつくしていた。
相手はさっきまで自分達が見下していた相手。
啓人が蹂躙しようとしていた女の子だった。
「紅音、お前・・・やっぱり、ただの人間じゃ」
「消えろ」

瞬間――――――――――――――

黒い炎が啓人のいた場所で燃えさかる。
危機一髪、啓人はそこから飛び移って逃げていた。
「これは・・・貴様、まさかイヴか?」
「・・・ふっ、ふふふ・・・あははははっ」
紅音はただ純粋に、無邪気に笑っていた。
それだけ見ればいつもの紅音に見えてしまうくらいに。
「知らないのも無理ないか。一つ教えてあげるわ。
 この炎は・・・こう呼ばれてる。矛盾する黒炎」
「・・・ど、どういう意味?」
芽依の質問には答えずに笑っている紅音。
そして次の瞬間に紅音の姿は消えた。
いや、正確には移動していたというのが正しい。
だがあまりのスピードの為に、
芽依も啓人も目測する事すら出来なかった。
そして啓人の身体が唯霞が倒れている方向に飛ばされる。
紅音は次の瞬間には元いた場所に戻っていた。
「啓人が・・・あんなに、あっさりと」
芽依はただ呆然とするしかなかった。
それもそのはず、啓人がまるで子供扱いされているからだ。
イヴとも互角に渡り合えると言っていた啓人が。
今の紅音は、啓人とは遙かに次元の違う力を持っていた。
「ぐっ・・・馬鹿な、信じられねぇ」
「無理もない。何しろ私は・・・」
そう言いかけて、紅音の様子がおかしくなった。
辺りを探る様な素振りで自分の身体を確かめている。
「時間か。遊びはもう終わりだ」
「なんだと? 貴様、一体・・・」
啓人が何かを聞く前に紅音は何かを唱え始めた。
「血は赤くなく、身体は人ではなく。
 去りゆくモノよ、別れの祝詞に耳を澄ませよ」
呪文か何かだろうか。
確かにその言葉には物凄い念が込められていた。
直感的に啓人は唯霞を盾にして叫ぶ。
啓人はまだそう言った事が通用する相手だと思っていた。
「やれるものならやって見ろ! この女を犠牲にしてな!」
「・・・け、いと・・・」
唯霞は少しだが意識が戻っていたのだろう。
彼女の瞳から僅かばかりの涙が流れた。
それは悲しみから来る涙か、
盾になれる喜びか・・・そこは解らない。
ただ、紅音にとってそんな物に興味はなかった。
「くだらん。まとめて散れ」
「・・・!」
物凄い光が啓人と唯霞に押し寄せる。
二人ともそれを避ける様な体力は残っていなかった。
なにより、人間に避けられる様なスピードじゃない。
その時咄嗟に啓人が唯霞の前に出た。
そしてその光に包まれかけた所で啓人は光を抑える。
「・・・啓人、どう・・・して」
「誰かを失うのが怖かった。
 だから全てを自分だけのモノにしたかったんだ。
 ・・・結局、全てに見放されてたのかもしれないけどな」
それは今更ながらに言う事の叶った懺悔だった。
啓人は少しずつ崩れていく自分の身体を、
向きを変えて唯霞に見せない様にする。
「私は・・・あなたのモノだった」
流れ続ける涙を拭いもせずに唯霞はそう告白した。
それは啓人にとっては意外すぎる告白。
無理矢理手込めにして、傷つけるだけ傷つけた。
人間らしい事は何もしてやらなかった。
それなのに啓人を愛している唯霞。
恐らくそこに他人の理解できる理由などは存在しないのだ。
「はっ、お前には酷いコトしたのにか・・・?
 馬鹿だな俺。なんで、お前と同じ人間じゃ・・・
 人間じゃなかったんだろうな」
「啓人っ!」
唯霞は、崩れ去ってゆく啓人の身体に抱きつこうとする。
しかし啓人はそれを目で制止した。
自分に近づけば唯霞も危険にさらされる。
そう思ったのだろう。
「イギリス・・・いつか行こうぜ。一緒に・・・」
「うんっ、けい」
啓人の思いに動かされたのか、
元々そう言う軌道だったのか光の方向がそれていく。
それが唯霞に当たる事はなかった。
その代わりに啓人の身体は砂の様に崩れていく。
彼が唯霞の言葉を最後まで聞く事はなかった。
それと同時に紅音の身体が糸が切れた様に床へと倒れ込む。
「啓人・・・? けい・・・と・・・何? どこに行ったのよ・・・」
さっきよりも大粒の涙を流して、
唯霞は啓人を抱きしめる。
しかしそこにはただ、灰の山があるだけだった。
しばらくの間唖然とその二人の姿を見つめる芽依。
その硬直した雰囲気の中で一人の女性が現れた。
その女性はあっさりと校舎全体に張られていた結界を破り、
昇降口の様子に気付いて走ってきたのだ。
女性は凪に気付くとその傷を治療する。
暖かな光と共に凪の傷が癒えてゆく。
そして凪は、女性に支えられながらゆっくりと立ち上がった。

6月21日(土) PM21:42 雨
学園・校舎内1階・昇降口

「・・・凪」
誰かの声が聞こえる。
俺はまだ生きてるのか?
紅音は・・・下駄箱の脇に倒れてる。
よく様子が掴めない。
俺は・・・なんでこんな怪我で立ってるんだ?
違う、立っているんじゃない。
誰かが俺を起こしてくれているんだ。
「久しぶりだな、凪」
隣にいるのは・・・誰だろう。
良く顔を見てみる。それに全身も。
長い黒髪、ぶしつけな喋り方、
それにトレードマークの黒いマント。
端正な顔立ちにどうどうとした余裕の表情。
長い間待っていたその姿に、
俺は流しすぎた涙をまたこぼしそうになる。
「・・・待ちすぎて、疲れたよ」
「済まない、色々と立て込んでいてな。
 お前の方も相変わらず無茶ばかりしている様だな」
なんとか目の前の相手に輪郭を合わせる。
とても久しぶりに見た葉月の表情だった。
なんとか女言葉を思い出しながら喋る。
「また葉月に取り憑いたのね」
「嫌な言い方だがその通りだ。
 葉月の身体は思ったほか順応力が強くてな、
 あっという間に元気になってくれたんだよ」
久しぶりに会ったっていうのに普通の顔してる。
全く、もう少し感動してくれても良いのにな。
俺は充分感動してるって言うのに。
「・・・でも、良かったぁ。
 危ない所を助けてくれて・・・ありがと」
「何を言っている。私は何もしてはいないぞ」
「え・・・?」
「私は今ここに来た所だ」
どういう事だ?
紅音達はどうやら無事みたいだけど・・・
だとしたら一体誰が俺達を助けてくれたんだ?
まさか芽依ちゃん?
「どうやらまだ悪魔が残っている様だな」
イヴはそう言って芽依ちゃんを睨みつけた。
彼女はさっきまで茫然自失の様子だったが、
俺達を見てはっとした顔をする。
「凪さん、生きてたんですね。それと・・・あんたは?」
「お前を滅する者。神の尖兵でもある」
その言葉を聞いて彼女は敵意をむき出しにした。
どうやらイヴの事を知っているらしい。
「ふん・・・あんたがイヴね。闘う気なら・・・」
「二人とも止めて!」
俺は声を荒げて二人を止めようとするが、
お互い殆ど話を聞こうとはしなかった。
次の瞬間には芽依ちゃんがイヴに向かっていく。
そのスピードは普通の女の子と変わらないものだった。
すぐさまイヴは右手を芽依ちゃんに向ける。
あの状態じゃ芽依ちゃんは殺されるぞ・・・。
そう考えた時に、俺はすでに叫んでいた。
「芽依ちゃん、避けて!」
俺の声で彼女は横へと飛び退けた。
芽依ちゃんはその状態から例の球をイヴに投げつける。
すると軽くイヴはそれをはねのけた。
「・・・お前、手を抜いているのか?」
「あんたにはこれじゃ駄目か・・・」
そう言うが早いか、凄いスピードで俺へ向かってくる。
もしかして俺を人質に・・・?
と、そう考えた時には芽依ちゃんは俺に抱きついていた。
「イヴ。私に攻撃してみなさいよ。
 そしたら、凪さんも道連れにしていくから」
「貴様・・・」
イヴは手を出しあぐねている様だった。
ったく、俺って奴はいつも助けられてる・・・。
いい加減嫌気が差してくる。
抱きしめられている体勢のままで俺は言った。
「芽依ちゃん、殺していいよ・・・。
 私はそれぐらいしか償えないから。
 謝っても足りないけど・・・ごめん、殺そうとして」
「そうですよぉ、本当に痛かったんですから。
 ・・・でももういいです、許してあげます」
そう言うと俺から離れてイヴへと歩いていく。
何やってるんだ? 自殺行為だ!
俺は芽依ちゃんを止めようと走ろうとした。
・・・足が、動かない。
まさか芽依ちゃん・・・!
「何だ? 死を選ぼうというのか・・・潔いな」
「さあ、さっさとやってよ」
「そうだな」
そんな短い会話の後、黒い炎が芽依ちゃんを包み込む。
彼女はもう死を決意していたんだ。
「どうしてっ・・・芽依ちゃん!」
俺がそう言うと彼女は俺の方を振り向いた。
周りに黒い陽炎を滲ませたままで。
「・・・朱い翼、あんまり凪さんには見られたくなかった。
 だって人間っぽく無いじゃないですか。
 抱き合ってても、ちっとも普通に見えないでしょ?」
「え・・・?」
「本当は凪さんに殺されたかった。
 あの時、あのまま凪さんに殺されてれば良かった。
 苦しい・・・苦しいよ、凪さん」
とびきりの笑顔で微笑みながら涙を流す芽依ちゃん。
どうしてこんな顔を見なきゃいけないんだ。
彼女はただ進むべき道を間違えただけなのに・・・
人間じゃないだけ、悪魔になってしまっただけなのに。
「あは・・・こんな事言っても遠回しですよね。
 私、きっとあなたの事」
瞬間・・・彼女の身体は消えて・・・散っていく。
それは今まで見た死の中でもっとも鮮明に、
もっとも・・・後味の悪いものとして記憶に残った。
結局俺が辿り着いたのは、
違う形での絶望の未来だったんだ。
歪んだ形の愛だったけど・・・俺を愛してくれた人。
そんな彼女に俺は一言、別れを告げた。

さよなら――――――――

6月22日(日) AM09:32 雨
寮内自室

あの後、泥の様に眠った。
そして・・・芽依ちゃんの夢を見た。
彼女が笑っていて、愛依那が笑ってた・・・。
思い出さない様にしてたんだ。
毎日の中に埋めようとしてたんだ、愛依那の事も。
それでも俺は生きてる。
色んな想いの中で俺は生かされているんだ。
だからやっぱり俺はこんな風に
ふさぎ込んでちゃいけないんだと思う。
・・・でも、今くらいはこうしててもいいよな。
紅音には夜殺と芽依ちゃんが消えた理由を説明してない。
だけどどこか解っている様だった。
水連の時と同じように二度と会う事はないのだと。
そんな紅音はと言えば、
いつもの様にぐっすりと眠りこけていた。
幾ら日曜だからって寝過ぎだな。
俺は二段ベッドに上がって紅音の寝顔を見つめる。
・・・ぐっすり寝てるな。
かと思ったらがばっと起きあがって、
辺りをうかがい始めた。
なんだろう。
もしかして昨日夜殺に襲われたのがトラウマに・・・?
「紅音っ、大丈夫だよ!」
「わ〜んっ」
泣きそうな笑顔で俺に飛びつく紅音。
ちょっと恥ずかしくはあるけど、まあ仕方ないと思う。
「凪ちゃんが居なくなる夢をみたんだよ〜っ。
 あんな・・・事があったから、すっごい怖かった〜」
そう言ってしがみつく様に俺の胸で泣きじゃくる。
自分の事じゃなくて、俺の事を考えてたのか・・・。
少し胸パットがずれないか考えている自分が嫌になる。
「大丈夫だってば、私は・・・ここにいるから」
「うんっ! 凪ちゃんが居れば元気出てくるよ〜」
感謝したいのは俺の方なんだよ。
こんなに危ない目にあったのに俺を信じてくれる。
そのいつもの笑顔で笑ってくれる。
それだけで・・・俺は救われるんだ。
「ありがとう、紅音」
「凪ちゃん、ありがとっ」
「え?」
「それで・・・これからもよろしくねっ」
「あ、うん」
そんな時にふと思った。
夜殺・・・あいつは一体どうなったんだろう。
イヴの話だともうあの時悪魔は
いなくなったと言っていたけど・・・。
だとすると夜殺を倒したのは誰なんだ?
やっぱり芽依ちゃんなのか?
だけど彼女を悪魔にしたのが奴なら、
勝ち目があるとは若干考えにくいんだよな。
そう考えているとドアのノック音が聞こえた。
「は〜いどうぞ〜」
紅音がそう答えると、
入ってきたのは葉月ちゃんだった。
おどおどした様子で俺達を見る。
「あ、あの・・・もしかしてまずい所を見ましたか?」
「え? あ」
考えてみると俺と紅音は抱き合ったままだった。
俺は慌てて身体を離す。
危なくとんでもない誤解を受ける所だった・・・。
「で、どうしたの? 葉月ちゃん」
「それが、何ででしょう・・・
 ここに来なくちゃいけない気がしたんです」
直感的に感じた。
用があるのは葉月ではなく、イヴの方だ。
俺は紅音を置いて葉月ちゃんと部屋の外へと出た。

6月22日(日) AM09:47 曇り
寮内エントランス一階

寮の中央階段までやってくると、
俺と葉月ちゃんは近くの腰掛けに座る。
外はどうやら雨が止んだみたいだった。
チラッと彼女の方を見てみる。
もう葉月ちゃんではなくイヴの表情をしていた。
「気になる事がある・・・」
「え? それって、悪魔が残ってるとか?」
「・・・解らない。だがあの時、私が来る前に物凄い力を感じた」
イヴが来る前って言うと俺が倒れてからだから、
そんなに長い時間じゃないだろう。
「力同士のぶつかり合いが放つ感覚だった。
 恐らく、凪の言う夜殺と言う悪魔と誰かの闘いだろう」
「それって芽依ちゃんじゃないの?」
「違う。あれはそんなものじゃなかった。
 生粋の悪魔と、何か得体のしれない者の闘いだ」
得体の知れない者?
そんな事を言っても、あの場にそんな奴はいなかった。
可能性で考えるとあの中の誰かと言う事になる。
が、真白ちゃんの力はもうないし、
紅音にそんな力があるとは思えない。
勿論俺が無意識に倒したなんて事もあり得ない。
「正直、片方の圧倒的な力は恐怖すら感じたよ。
 私でも勝てるかどうか怪しい・・・いや、
 まともな闘いになるかどうかすら怪しいな」
そこまで強い力を持つ者が居るって事か。
だけど・・・。
「そんな奴が、私達を助けてくれたの?」
「さあな・・・結局私が助けに来た意味は無かったわけだ」
イヴはすねているのか?
俺から視線を逸らして逆方向を見てる。
とりあえず俺はイヴをからかってみる事にした。
「イヴはさぁ、悪魔を払いに来たんじゃないの?」
「そっ、それはそうだが・・・! 〜〜全く、酷い奴だな」
「うそうそっ。ありがとう」
結局誰が夜殺を倒したのか解る術はないのか。
・・・待てよ。
そうだよ、唯霞ちゃんがいたじゃないか!
俺はそう思いつき、一人唯霞ちゃんの部屋へと向かった。
「凪・・・? 変な奴だ」

6月22日(日) AM10:03 曇り
寮内・大食堂

唯霞ちゃんの部屋を探していた。
しかしどこの部屋なのか解らない。
とりあえず通り過ぎた食堂に目をやった。
と、そこに唯霞ちゃんを見つけてそこまで走っていく。
彼女は昨日からずっと沈んでいた。
・・・きっと、奴の事が好きだったんだろう。
「唯霞ちゃん。隣いい?」
「・・・あ、凪さん」
こちらを少し見るものの、すぐに視線を外す。
「ごめん、こんな事話すべきじゃないと思う。
 あえて聞くけど・・・夜殺と闘ってたのは、誰なの?」
そう聞くと彼女は少し辛そうな顔をしたが、
すぐに普通の顔で答えた。
「私が気付いた時には、
 啓人は光に包まれてて・・・良く解りませんでした。
 でも、彼女が・・・紅音さんが、その後倒れたんです」
「紅音が?」
「はい。倒れてたって事は、立ってたって事ですよね。
 ・・・やっぱり私には解りません」
「そっか。ごめん」
「いえ・・・気にしてませんから」
紅音にそんな力があるはずはない。
でもその奇妙な事実は少し俺の胸をざわつかせた。
俺は会釈して食堂を出ようとする。
「・・・私、イギリスに行く事にしたんです。
 いつか・・・あいつと一緒に行くって約束したから」
そういう彼女の手には、灰の入った小瓶が握られていた。
あの子もこんな風に前向きに生きられたら、或いは・・・。
止めよう。
時は二度と戻ったりはしない。
だからこそ全ては大切なんだし、
彼女を思い出すと切なくなるんだ。
あの時ああしていればとか、こう出来たはずだとか・・・
それは絶対に出来はしない事。求められない事だ。
そう・・・前へ向かって歩こう。

6月22日(日) AM10:13 曇り
学園・校舎前

休みだって言うのに校舎へと向かっていた。
すると前から深織が歩いてくる。
こいつは昨日の事を忘れようとしていた。
そりゃあ、恥ずかしい事を幾つか言ってたからな・・・。
俺の方を見ると顔を真っ赤にして目を逸らした。
「・・・私、振られちゃったんだよね」
「え?」
「凪が紅音ちゃんを命懸けで助けようとしてるのを、
 薄れゆく意識の中で少しだけ見てた・・・妬けたよ、凄く。
 あの子の事、あんなに思ってるんだもん。
 私なんて論外だったんだね」
う・・・確かにあの時は俺も咄嗟に紅音を助けようとした。
なんかとんでもない事を言った気もする。
今は反論できねえな・・・。
「だからさ、恋人は諦めた」
「そっか・・・ごめんな」
「いいのよ。その代わり、愛人目指すから」
「・・・は?」
なんか今、凄い単語が聞こえた気がした。
気のせいか? 気のせいだ・・・。
そんなまさか・・・な。
「まずはラマンから始めて、その内寝取ってやるんだから」
「あのな・・・妻帯者が相手じゃないんだから」
「じゃあ手始めに・・・」

ちゅっ。

「わっ、わあっ!」
「これで二度目。紅音ちゃんとは何回したの?」
「・・・してないよ」
一回した様な気がするけど、あれは事故だしな。
それをカウントに入れるのは止めよう。
そんな事を言ったら今のも俺的には、
カウントしてはいけないのだが。
「じゃあ今は勝ってるんだ。
 そっか、考えてみたら今は女なんだもんね〜」
「・・・だからっていきなりキスするなんてなぁ・・・」
「凪の性別をバラすのはやめにする。
 その方が凪に虫がつくのを防げるしね」
それは有り難くはあるが・・・。
結局諦めてはくれないみたいだ。
「はぁ・・・」
俺は不意に空を見上げた。
どんよりした雲が広がっている。
まるで、後味の悪さを消し切れていない俺の心を映す様に・・・。
この空のどこにも居なくなってしまった人。
忘れる事なんてきっと無いだろう。
君は・・・俺の中にいる。
彼女にこんな事を話したらどう思うだろう。
笑ってくれるだろうか・・・?
それとも怒ってすねてしまうのだろうか・・・。
けど、俺の中には笑っている彼女しか居なかった。
ずっと・・・ずっと、とびきりの笑顔で笑っている彼女しか。

 

大切な人を失い人は歩き出す。
その胸に残る少しの悲しみを過去に変えて。
それが正しいか正しくないかは自分で決める。
人の死を背に人は前へ向かっていく。
後ろにはもう道は残っていないから。
そうやって凪はまた歩き出した。
前進する事が悲しみではなく、希望へ向かう事だと信じて・・・。

――――そして彼の受難の日々はまだまだ続いてゆく。

黒の陽炎「朱の翼編」END

Chapter14

嬰児はこれへねむり