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閑話休題(W)

著作 早坂由紀夫

Chapter54
「エクスキューター」


雲が幾つも点在する。
果てのない空には宇宙が映っている。
辺りは霧が出ているわけでもなく、
陽炎が出ているわけでもない。
なのにイヴが知覚できる景色はそれだけだった。
他の景色は全て霧散する様にイヴが認識する事は出来ない。
例えるならばそれは夢だ。
捉えようのない景色は微睡みの中にいる様な気にさせる。
そこに存在するのは一つの宮殿だけ。
その宮殿は艶のある黒の石らしきもので作られた建造物で、
東京ドーム何個分という大きさだった。
途方もない大きさ。
そんな不思議な空間でイヴは目を覚ました。
宮殿の入り口に倒れていた彼女は立ち上がり辺りを確認する。

奇妙な事に彼女の前にある門は音もなく、
誰の手も借りずに勝手に開き始めた。
イヴはその場所、その宮殿を知っている。
殆どの者がそこを夢物語としてしか知らなかった。
神の棲む世界、エリュシオン。
彼女は現象世界からアルカデイアへ向かう途中、
神の意志によりここへ呼ばれたのだという事を理解した。
ただ、イヴは自分の召喚された理由が解らなかったが、
とりあえず神の元へと歩き出す。
宮殿の内部は水が通路の周りを囲む幻想的なものだった。
中心には滝の様に水を落としている壺がある。
部屋はそこを中心として四つの方向に分かれていた。
ふいにイヴは自分がやってくる前の事を思い出す。
(そう言えば凪に何も言わずに来てしまったな・・・。
 まあ、それで少しは心配でもして欲しい物だ)
彼女はふいにそうやって凪の事を考えていた。
考えている内容は些細な物だったが、
確かにイヴは凪を意識し始めている。
勿論それは色恋などという物とまではいかなかった。
だが彼女の中で凪という人間が少しずつ大きくなっている。
それだけは確かな事実として彼女の中にあった。
そんな風に宮殿内を歩き続けてイヴは神の元へと辿り着く。
神と言っても人間と形態が大きく異なるものではなかった。
しかしその身体から発する輝きは確かな神だという証。
イヴは片膝を床に着けると神に語りかけた。

「・・・神よ、私を召喚されたのは何故ですか?」
「何故? お前は解っていない様だね。
 お前がすでに私の与えた任をこなす事すら出来ない事に」
「それ、は・・・」

イヴはあまりの神々しさにまともに目を向けて話せなかった。
だがそれに気も止めずに神は言う。

「かつてお前に与えた魂を裁定する権限は、
 誰だろうと平等である者にしか与えられない。
 しかし・・・今のお前はどうだ?」

その意味をイヴは充分に解っていた。
いつからか彼女には憎むべき者と赦すべき者の
フォーマットが組みあがってしまっている。
イヴは容赦なき裁定が下せなくなっていたのだ。

「仰る通り・・・なのかもしれません」
「・・・イヴよ。時に君は・・・かつて
 転生した吸血鬼を相手取った事があったね」
「はい」

それは真白の事だった。
もしも彼女を始末しろと言われたとしたら、
間違いなくイヴは躊躇ってしまう。
だからイヴはその事を言われるかと思った。
だが神が口にしたのは全く別の事だ。

「ならば、君は自分の転生について考えた事があるかい?」
「私の・・・転生?」

自身が転生するなどとイヴは思いもしなかった。
なぜなら輪廻転生という物は、
理由が無ければありえないからだ。
それに天使として誕生したイヴには無縁のはずでもある。

「君がその記憶を取り戻した時、
 全てに平等である事が出来るかも知れないね」
「どういう・・・事ですか?」

疑問符を浮かべるイヴに神はその御手を差し伸べた。
それがイヴの頭に触れた時、
彼女の中に秘められた全ての記憶が躍動を始める。
脳を走る全ての組織が活動を始め、過去の呼び水となった。
語りかける自分。自分とは異なる自分。
だがそれは彼女だ。
失われていた事象の欠片が彼女を駆け抜けていく。

 視界 暗がり 不明瞭 男   笑顔
 痛み 胸   やわらかい場所 狂欲
 感情 破滅  自虐  快楽  炎症 別れ
 欲求 埋没  奴隷  愛   郷懐 死縁
 絶望 相反  自腐  不動  残躯
 死ぬ事への恐怖 自虐するプライド 腐り落ちる身体

 さよなら。別れ。幕切れ。

 沈んでいった沈みきっていった心。

 ツライ、ツライ、ツライ・・・死ンデシマイタイ。

 デモ死ネナイ。約束。状況。全テガ私ノ邪魔ヲスル。

 壊して・・・! 完膚無きまでに、跡形もなく・・・!

 けレど壊レテくれナイ。頑丈なダけの私。

要らない。要らないのに・・・!


どこまでも碧い空と 打ちのめされる様に綺麗な光

別れ際、告げられた告白
生まれてきた意味
失われる失ってしまう喪われてしまった感情


――――――目に染みるのは・・・碧い月。


あおいあおい・・・月――――――


「うぁっ・・・あぁああぁあああっ!!」

すぐさまイヴの中に内包されていた全ては彼女に還った。
それと同時にイヴの頬に涙が伝っていく。
イヴは立っている事も出来ず、ただ糸が切れた様に座っていた。

「わた、しは・・・わたしはっ・・・ああっ・・・」

言葉を紡ぐ事も難しそうな程に涙を流す。
そんな事はイヴにとって初めての経験だった。
いや、その女性はもうイヴではなくなっていた。
転生前の人格との統合により、彼女の頭は一杯になっている。

「そう。耐えられない。
 お前はお前の記憶に耐える事が出来ない」

するとゆっくりと神は彼女の手を取った。
その後すぐにイヴだった女性はふっと立ちあがる。

「だが・・・その上で全ての記憶を押さえ込んでしまえばいい。
 そして、残った憎悪だけを糧として生きればいい。
 さすればお前は全てに平等な死を与えられるだろう」
「・・・はい」

今まででイヴは一番感情の無い声を上げる。

「さて、お前の任を言ってみなさい」
「神の尖兵として、全ての悪を討ち滅ぼす事・・・」
「上出来だ。こちらに来なさい」

その言葉に歪んだ笑みを漏らすと、
イヴは神の元へと駆け寄っていった。
そんなイヴを抱きしめると神は言う。

「今宵はお前に更なる力を授けよう。
 明日から彼の者と共に・・・もう一つの任に付くのだ」
「はい」

神がそう言うと柱の影からゆっくりと男が現れた。
全身黒ずくめのローブを来ている。
そのせいで顔もよく見えなかった。
ただ、彼の右目には奇妙な刻印が施されている。
翼の形に似た刻印で、中心に三桁の数字が刻まれていた。
彼はその目をすぐに黒い眼帯で隠す。

「これはインサニティと呼ばれる男で、
 天使と悪魔を裁定するエクスキューターの一人だ。
 そして、これからはお前もその一人となる」
「・・・はい」

そう言うイヴの表情を見てため息をつくインサニティ。
イヴの表情はまるで全てが払われた様に感情がない。
彼としてはそれが神の悪趣味な行為にしか見えなかった。

「エクスキューターとしての任は簡易なものだ。
 このエリュシオンを嗅ぎつけようとする者達を始末する。
 それと・・・紛失した冥典の回収だ。いいな、イヴよ」
「はい」

しばらくすると神とイヴは別の部屋へと消えていく。
それを見送るとインサニティはまた、ため息をついた。
彼は神という存在がこの上なく嫌いだ。
だが従っている。その寝首をかく為に。
例えそれすらが神の手の内だとしてもだ。
常にその憎悪を固く結びつける為に彼は神の名を口にする。

「・・・ヤハウェよ、いつか貴方を裁定して見せよう。
 それまではせいぜい・・・児戯に没頭するが良いさ」

Chapter55へ続く