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セピア色のクレイドル

著作 早坂由紀夫

Chapter17
「SHALLOW SLEEP」


***

とりあえず自室にまた戻ってきた俺は、
一息つく為に二段ベッドに座ってみる。
このまま俺はこの生活に慣れていって良いのだろうか。
でもどう考えても俺は凪だ。
それは間違いない。
よく考えるんだ・・・あの凪は一体何者だ?
普通に考えれば奴こそが一番怪しいんじゃないか?
その時、ベッドの隅に何かベトっとしたものがある事に気付く。
「・・・なんだ? こりゃ」
俺はそれを恐る恐るティッシュで拭き取ってみた。
なんだかそれはどこかで見た事がある物に思える。
・・・それもごく最近、何処かで見たような・・・。
あれ?
俺は酷い頭痛が始まった事に気付いた。
この痛み、なんだ?
俺の頭は・・・どうなってるんだ?
「始まったみたいね」
「っ・・・誰だ!?」
振り向いてみるとそこには凪が立っていた。
なぜか無断でドアを開けて入ってきたみたいだ。
こいつ、ついさっき女子寮に戻ったんじゃないのか?
それに俺にキスした時の表情とは打って変わって、
恐ろしいくらいに不気味な顔をしている。
不気味、いや・・・どこかそれは悲壮な顔にも見えた。
でも今はそんな事はどうでもいい。
目の前の凪が言った一言の方が気になっていた。
「始まったって・・・いったい何の事だよっ!」
「・・・ったく、何も思い出してないみたいね。
 まあいいわ。もうすぐあなたの記憶は全て失われる。
 私がこの世界での凪になるのよ」
俺の記憶が全て失われる・・・だと!?
それに・・・この世界?
嘘のような真実。
でも信じようと信じまいと俺の記憶は失われる。
凪の顔、俺の頭の痛みがそう言っていた。
「この世界は、俺が今まで暮らしてた世界じゃないのか?」
そう言ってみたものの、頭痛が酷くなってきた。
本当に記憶を失ってもおかしくない程の激痛。
それをよそに凪は俺に近づいてきた。
目の前までやってくると俺の事を見下ろして言う。
「いいじゃないそんな事。
 どうせあなたからは全て失われていくのよ」
凪はそのまま膝をついている俺を抱きしめた。
なぜかその抱擁は優しくて・・・嫌じゃない。
このまま気を失ったら記憶が全て無くなってしまう気がした。
・・・それでも、構わない気さえした。
「いいのよ。私に身体を預けて、目を閉じて・・・。
 そしてお休みなさい・・・かつて凪だった人――――――」
「あ、あぁ・・・」
自分の意識が少しずつ薄れていく気がする。
凪の声が優しく頭に響いている。
少しずつ彼女と自分の関係があやふやになってきた。
このまま、終わっても・・・いいかな。
諦めようとすると頭の痛みが薄れてくるんだ。
全て忘れてしまえばもう何も辛い事なんて無い。
目の前にいる凪の事だって・・・普通の女に見えるはずだ。
彼女のこの温もりはとても温かい。
少しずつ、何もかもが薄れていく・・・。
ああ、もう皆の事忘れてしまうんだろうか。
ごめんな・・・お前の事、忘れてしまうかもしれないよ。
ホントに、ごめん・・・紅音。
そう思った時だった。

「凪ちゃん――――――――――――」

紅音の声が、聞こえた気がする。
気の・・・せいか?
でも今ので思い出した。
俺はやっぱり凪だ。高天原凪なんだ。
紅音と過ごした記憶を忘れたくない。
紫齊の事も、真白ちゃんの事も・・・葉月ちゃんの事も。
そしてイヴの事も――――――。
それに忘れちゃいけないんだ。
芽依ちゃんが、愛依那が死んだ事。
あの時感じた事を・・・。
「凪・・・あなたは可哀相な人。
 でもこれからは私が居るから・・・ずっと・・・えっ!?」

ザクッ――――――――!!

「失っちゃ・・・いけないんだよ・・・!」
俺は優しい嘘に騙されそうになってた。
でも幻想は幻想なんだ。
どんなに暖かい温もりが目の前にあっても、
これ以上逃げるわけにはいかない。
きっと紅音達が待ってる・・・待ってるんだ。
「何を・・・あんた、まさか自分の腹を・・・!?」
「そうすりゃ・・・おちおち寝てられないだろ」
俺は自分の腹を近くにあったカッターで切り裂いていた。
勿論浅く切ったつもりだが結構痛い。
「なに馬鹿なコトしてるのよっ! 精神が死んだらあんたは・・・」
「精神が? 何言ってるんだよ」
「・・・いいわ、もういいわよ。よっぽど現実に戻りたいのね」
「ああ。でも・・・現実?」
ここが現実じゃ、ないのか?
それに精神が死ぬってどういう事だよ。
頭痛はまったく引いていない。
でも腹の痛みでそんなのは全然気にならなかった。

***

「がはっ・・・!」
口から血が吹き出る。
上手く息が出来なくて死にそうになった。
夜殺の奴と闘った辺りから俺って結構ついてない気がする。
自分の血を見てばっかりだ。
まあ今回ばかりは自分自身のせいだが。
そんな俺をさらに強く抱きしめる凪。
一体・・・こいつはどういうつもりなんだ?
「誰もあんたを助ける事は出来ない。
 ううん、この世界に生きる人は皆・・・」
「それは・・・だからどういう事なんだよ」
「でも、私なら・・・凪の相手として生まれた私なら、
 あんたを助ける事が出来るかもしれないわ」
こいつは人の話を聞いていないのだろうか。
俺にはまったく意味が理解できない。
助けるって、俺のこの頭と腹の痛みを直すって事か?
「ワケ・・・解らないんだけど」
「いいのよ。その代わり、後悔しないでね」
「・・・こう、かい?」
よく解らないけど元の世界に戻れるなら後悔なんてしない。
後悔なんて・・・するもんか。
目が霞む。立っている事もままならない。
だけど、まだ死ぬわけにはいかないんだ。
「ただ・・・私だけじゃダメなの。
 向こうの世界からも凪を押し戻す為の力がいる」
押し戻す為の力・・・?
どうしろっていうんだよ。
向こう側にこっちから干渉できるのか?
それに向こう側ってそもそも・・・。
「今は多くを語る事は出来ないわ。
 ただあっちじゃもう凪を助ける為に頑張ってると思う」
そうか。
あっちが現実だとするならイヴが居る。
これが悪魔の仕業ならばあいつが何とかしてくれるはずだ。
でも、やっぱりいつもあいつを頼っちまうんだな、俺・・・。
「なら、俺は・・・さ、どうすれば・・・いいんだ?」
「・・・・・・」
凪の様子がおかしい。
心臓の辺りを押さえて苦しそうな顔をしている。
と思えば俺の方に倒れかかってきた。
「お、おい・・・!」
「ごめ・・・わた、し・・・ちょっと、休ませて」
凪は凄い汗をかきながら俺にもたれかかっている。
俺より酷い状態とさえ思えた。
なんでいきなりこんな事に・・・?
「あいつ、あいつを・・・殺さないと」
あいつ・・・誰の事だ?
それに殺すなんてまた物騒な言葉だ。
「・・・まさか悪魔か?」
「そ、そうよ。インキュバス・・・」
・・・インキュバス?
聞いた事がある。
その名前を俺は聞いた事がある。
それも、つい最近だ。
どんな記憶よりもきわめて最近だ。
外はもう暗闇に包まれている。
どうしたらいい?
そんな間にも腹からは血が流れ続けていた。
俺も凪も満身創痍だ。
この状態で・・・何かが出来るはずもない。
「私はあんたを助ける事にしたっ・・・だから、私に任せて」
「・・・な、おい! お前その身体で・・・」
そう言いかけて俺は激痛に言葉を止められた。
はは・・・『その身体で』なのは、俺の方だな。
立っている位が精一杯だ。
歩き始めた凪を追う事なんて無理に決まってる。
「待て、よっ・・・」
「凪・・・絶対助けてあげるから、感謝しなさいよ」
胸を押さえたままで凪は部屋を出ていってしまった。
俺は腹の痛みで満足に動く事すら出来ない。
這って凪の後を追うのが精一杯だ。
どうする・・・あいつ一人で悪魔を倒せるのか?
無茶だ。
格闘技も何も出来ないあいつ一人じゃ・・・。
くそっ!
腹の痛みなんて気にしてる場合じゃないだろ!
もう沢山なんだよ・・・!
これ以上、誰も死なせてたまるか!
「こんな物・・・俺は腹なんて痛くないっ!
 頭なんて痛くないっ!」
痛みなんて気にしてたら凪を追いかけられない。
俺は気合いで部屋を走って飛び出した。
おびただしい血も無視してそのまま凪を追う。
凪は廊下の手すりに捕まりながら、
必死になってどこかへ向かっていた。
「凪っ、待てよっ!」
「・・・凪」
気合いが元から抜けてしまいそうな呼び合いだが、
気にしないように凪の元へ駆け寄る。
「あんた、傷は?」
「え?」
気付いてみると腹の傷は消えていた。
どうしてだろう。
その時俺は思いがけない考えが浮かぶ。
・・・まさか。
でも可能性は高いんだ。
実際、俺の腹の傷は消えている。
こんな不思議な出来事が起こりうるのは・・・。
そうだよ。
なんで今まで気付かなかったんだ!
この世界は・・・。

***

ふと凪が俺にもたれかかってきた。
「解っちゃったみたいね。そう、ここは・・・」
「俺の夢の中なんだな」
「・・・当たり。でも今はその事より悪魔よ」
確かにそうだった。
俺の頭痛や凪が今苦しんでいる原因は悪魔にあるに違いない。
なんらかの理由で凪は悪魔に関わるとこうなるとか。
今更だけど・・・やっぱり凪って言う事に違和感なくなったな。
俺ってもともと順応力が高い方なんだろうか。
それにしても凪の様子は一向に良くならないようだった。
「おい、インキュバスの居場所を教えてくれ。俺がブッ倒す」
「駄目。あんたに恩を売れないじゃない」
「はぁ?」
「おほんっ・・・とにかく! 行くなら私をおんぶして」
そこまでして俺を助けてくれる気なのだろうか。
でもいざという時にこいつは絶対足手まといになる。
けど、凪がいなくちゃ悪魔の所へ行く事すら出来ない。
「仕方ねぇな」
俺はそう言うと凪の前に腰を落とした。
少しして背中に体重がかかる。
自分の体重より全然軽い。
確か俺は55kgくらいあった気がするんだけど・・・。
「なぁ、もしかして体重俺より軽いのか?」
「あのねえ・・・あんたって失礼な奴ね」
自分の体重を聞く事が失礼に当たるのだろうか。
っていうか、背中に柔らかい感触が当たっている。
歩き出すとそれは余計に俺をドキドキさせた。
「もしかしてお前は、ホントに女なのか?」
「そうよ。あんたが勝手に男だと思っただけでしょ。
 ・・・人の胸触っておいて、よく言うよ」
まあ確かにそうなのかもしれないが。
だってあの時は絶対パットだと思っていた。
まさか本当に女だなんて思わなかったからな。
「あ、寮出ちゃって良いよ」
そう言われて俺は男子寮を出てきた。
少しは先生の目があるかと思ったけど、誰にも会わなかった。
外はもう星が出ている。
夕日も沈んでしまった。
この暗いのに、一体どこへ向かうつもりなんだろう。
まあそんな事を言ってる場合じゃないか。
「あの森林へ向かって」
「森林って・・・学園の正門から横に逸れた所にあるやつ?」
「そうよ」
夜空の月が俺達を見下ろしていた。
月の下で自分をおぶって散歩をする事になるなんてな・・・。
でもなんだか悪い気はしなかった。
それどころか俺にとって凄く大切な何かを思い出せた気がする。
何だろう・・・多分この状況とは関係ない事だな。
森林へと足を踏み入れるとそこは真っ暗闇だった。
ただ月の光だけを頼りに奥へ奥へと進む。
そのせいか森は凄く幻想的な雰囲気を漂わせていた。
このまま二度とここから出られないような気さえする。
そんな不安が俺を襲っていた。
「凪・・・恐れる事はないわ。私を信じて」
「・・・ああ」
その一言で自然と不安は消えていく。
なんだよ・・・この感情は。
こいつと居ると凄く安らげる気がする。
当たり前だろ? 俺自身なんだから。
でも俺は解っていた。
背中の彼女はすでに俺じゃない。
俺の顔はしてるけど、全然別の・・・女の子だ。
「どうしたの?」
「や・・・なんでもない」
「私、貴方の事なら何でも知ってるわ」
ふと凪はそう呟いた。
そして俺の肩に顔をこつん、と乗せる。
「私は誰よりも貴方に近くて・・・でも遠い存在」
「え・・・?」
それ以上は何も言わずに進む方向を告げる。
進んだ先の開けた所にはとても大きな樹があった。
それは・・・何処かで見た事のある光景だった。
その樹はとても歳を取っていて、凄く大きい樹だ。
周りには湖と呼ぶには少し小さい水たまりのようなものがある。
「奴の残した半身が・・・ここにいるはずよ」
「半身?」
よく解らないけれどここにインキュバスがいるらしい。
当たりに気配はないが相手は悪魔だ。
油断すれば背後からやられかねない。
それにしても不思議な雰囲気の場所だな。
なんかこの樹・・・。
「来たわ・・・!」
凪はゆっくりと背中から降りるとそう言った。
それと同時に辺りの樹がざわめき始める。
明らかに何かのうごめく音だった。
そして凄いスピードで何かが飛び出してくる。
俺は凪を抱きかかえるとその場を飛び退いた。
と、俺達がいた場所に何かが現れる。
「・・・お前、何裏切ってるんだよ」
それは初めて見る悪魔の形だった。
人じゃない。
・・・そんなの、反則だろ。
不気味な触手を何本もうねらせている。
目は一つしかないのに口が幾つもある。
俺は本能的にそいつを恐れていた。
何で・・・人の言葉を喋ってるんだよ!
合成音声みたいな声しやがって・・・。
「あんたの仲間なんて誰が言った? 反吐が出るわ」
「・・・そんな俺から生まれたのは誰だ?」
凪がこいつから生まれた・・・だと?
じゃあ俺の相手をする為に生まれたって・・・。
インキュバス。それに関する記憶を引き出していく。
確かインキュバスという悪魔の行動は・・・。
まさか、まさかっ・・・!

***

「お前は俺の・・・」
こいつを信じてないワケじゃなかった。
それでも衝撃的だったんだ。
凪は俯いたまま俺の方を見ないで答える。
「そうよ。私はあなたの理想像。
 あなたが私を好きになるよう仕向けて、
 エッチして・・・悪魔の子供を授かる役」
そう・・・。
インキュバスはそう言う・・・悪魔だ。
俺はそれを、知ってる。
凪の言葉を聞いたインキュバスは俺達を睨みつけた。
「解ってるじゃねえか! ならお前は今、何してる」
「あんたを殺すのよ。凪を解き放つ」
「ほぉ? てめえ、意味解って言ってるんだろうな」
インキュバスの顔が卑しく歪む。
顔って言うものがあるのか解らない。
とにかく顔がある辺りだ。
「もうお喋りは終わりよ」
「ふん。いいだろ、お遊びに付き合ってやるよ」
そう言うと触手が凄い勢いで辺りを飛び交い始める。
しなる鞭といった感じだろうか。
凪はそれを微動だにせずに佇んでいた。
「何してんだ!」
「どうやってあいつを倒せばいいのかなぁ・・・って」
「作戦か何かあったんじゃないのかよっ」
「あは、ははは・・・」
駄目だ。
この女を信じた俺が馬鹿だった。
こんな調子じゃ差し違えるとかも考えてなかったな。
ただ漠然と俺を助けようと・・・。
ったく、本当の馬鹿だな。
「実は俺に考えがあるんだ」
「え・・・?」
さっき自分の腹が治った時に気付いた事がある。
ここは俺の夢の中だ。
だとしたら・・・俺が強く思えば
それは実現するんじゃないだろうか。
そうなんだとすれば一つ、使いたい必殺技がある。
悪魔が俺達に狙いを定めた所で俺は奴に手を翳した。
出てくれ・・・黒い炎っ!
手の先にいるインキュバスの所へ向けて・・・。
いけ・・・いけ、いけっ!

真っ黒に沈んでいく・・・炎――――――

インキュバスの身体が黒い炎で包まれる。
うめき声のようなものを上げて苦しんでいた。
「やった・・・すげぇ!」
「な、なにあれ」
「黒い・・・炎さ」
ちょっと格好良く決めてみた。
確かあの炎にかかれば悪魔なら消滅するはずだ。
夢ならではの必殺技だぜ。
だがその瞬間、奴を覆っていた黒い炎はかき消される。
インキュバスは傷一つ負っていなかった。
馬鹿な、嘘・・・だろ?
「ふん・・・忌々しい技だが所詮お前の中の記憶だ。
 それにお前の夢は半分、俺が支配してるんだよ」
その刹那――――――――奴の触手が俺の両腕を貫いた。
貫いた腕を触手が駆けめぐっていく。
内部で骨が砕けて、ぐちゃぐちゃに破壊される。
「うあぁっ!! ああぁああぁあっっ!」
痛い、痛い・・・。
唐突に現れる痛み。
それを頭が認識した時俺は地面に崩れ落ちていた。
「な、凪っ!」
「だっ・・・大丈夫っ」
あいつは俺を心配してるみたいだけどもう忘れたのか?
自分の傷は自分で治せる。
すぐに痛みなんか消え失せて・・・両腕も動くようになる。
そう、すぐに・・・すぐに。
「気付いてないみたいだから教えてやるけどよぉ。
 夢はお前だけのものじゃないんだぜ?
 いや、今は俺が掌握してる。お前の両腕は治らない」
「なん・・・だって?」
痛みが気を狂わせようとする。
動かない。
両腕はだらしなく俺の身体に垂れ下がったままだった。
意識が途切れそうな激痛。
凪はどうしようか迷ってるみたいだ。
バカ野郎・・・さっさと逃げてくれよ。
でもインキュバスの触手が凪の身体を捕まえた。

***

「なぁ、この偽物を触手で犯すのかなんて考えてないか?
 残念ながら俺自身に性欲ってものはないし、
 こいつは俺が作り出したもんだ。
 だとしたら・・・価値のない失敗作は消すべきだと思わねぇか?」
「今、な・・・なんて言った?」
失敗作だと?
あいつが価値のないただの物だっていうのか?
「こいつは自動じゃなくて任意なんだよ。
 だから消すには同等量の具現力をぶつけるか、
 それを消去する圧力をかける必要がある」
こいつの言っている事がイマイチ解らない。
ただ、目の前の凪を殺そうとしている事は解った。
触手が凪の身体を締め付けていく。
ぎりぎりという音がして凪の身体に触手が食い込んでいった。
「かはっ・・・!」
「止めろっ! くそっ・・・」
俺は凪の触手を引きはがそうと駆け寄る。
だが両腕が動かなかった。
それに激痛のせいで目の前が朦朧としている。
「・・・凪」
そんな声も少しずつ遠のいて行く気がした。
インキュバスはそんな俺を小馬鹿にして言う。
「貴様もおかしい奴だな。こいつは俺が作ったただの物だ。
 そんな物に何哀れんでるんだよ。まさか、惚れたか?」
「悪いかよ・・・そいつは物じゃない!
 抱きしめられた時、暖かかったんだ・・・物なんかじゃない!
 ちゃんと生きてるんだよ!」
そう、俺は自分自身を好きになり始めていた。
外見だけが俺なだけだ。
中身は別人の・・・女の子なんだ。
馬鹿だし、むかつくし、全然俺に似てない。
けどそんな奴だからこそ・・・好きになったんだと思う。
「ばか・・・私を助けたりなんかしないでよ。
 私はあんたを、騙す為だけに生まれてきたのに。
 もう意味なんて無い存在なのにっ!」
そんなのいまさら関係あるかよ。
俺を助けてくれたじゃないか。
強く抱きしめてくれたじゃないか・・・。
「自身持てよ。それだけの存在なんかじゃない。
 お前は・・・お前だよ。俺の偽物なんかじゃないさ」
「・・・凪」
どうしたらこいつを助けられるんだろう。
俺の両腕が動いても多分駄目だ。
こんな時に俺は・・・また、また助けを待つだけなのか?
「もう、嫌なんだよ・・・そんなの、格好悪いだろっ・・・!」
目の前のインキュバスを睨みつけた。
こいつをブッ倒す事が出来たら俺はどうなっても構わない。
頼む・・・頼むから、こいつを倒すだけの力をくれ!
誰でも良い、悪魔だって構わない!
好きな女が目の前で苦しんでるのに、
何もしないで指をくわえて見てるだけなんてたまるかよ!
俺はインキュバスに向かって突進していく。
まったく意味のない行動だとは解っていた。
でもあいつの為に出来るのは、多分これくらいだ。
「うぉおおおぉおおおおおぉぉっ!」
片腕ごと思い切り叩きつけたせいで死にそうな激痛が走った。
だけど奴も少しは痛そうな顔をしてる。
・・・というより驚いた顔をしていた。
「解らねぇな・・・ほとほと人間のばかさ加減は愛想が尽きる。
 痛いのは俺って言うよりお前だろ?
 そんな意味のない事をするほど、この女が愛しいか」
「ああ、そうだよ!」
俺のその告白にあいつは驚いてこっちを見ていた。
結構恥ずかしい事を言ってしまったかもしれない。
けどこの状況で、今言わなかったらいつ言うって言うんだよ。
そしてあいつは目に涙を溜めて俺に言った。
「・・・その気持ちだけで、充分。嬉しいよ、凪。
 もう・・・いいから。これ以上無理しないで」
その言葉で、その涙で・・・俺の中の何かが動き出した。
奴への殺意・・・それも極めて鋭い殺意――――――――――
・・・殺してやりたい。
全てを壊してやりたい。
こいつに涙を流させるなんて許せないんだ・・・!
消してやる・・・壊してやる、滅してやる、殺してやるっ・・・!
「・・・なんだ、と? この思念・・・人間のレベルを超えてやがる!
 夢の力が掌握される・・・バカな、こんなバカなっ・・・!!」
瞬間――――――――――――――――。
全てのモノがモノクロになった気がした。

グシャァアアッ!!

物凄い音がしてインキュバスの身体がはじけ飛ぶ。
一体・・・何が起こったんだ?
触手から解放されたあいつに駆け寄っていく。
身体にはしっかりと触手の後が残っていた。
だけど骨に異常は無いみたいだ。
「凪、あなたの力が徐々に奴を追いつめてたのよ」
「え?」
「奴を憎む事で・・・奴の身体を内部から破壊してたみたい。
 そして夢を掌握できなくなって、砕け散ったのよ」
「そ、そうなのか?」
奴はすでにぐちゃぐちゃになっていた。
それ以上見るのも耐えられないような醜い最期だ。
それにあっけない最期でもあった。
俺は解放された凪を強く抱きしめる。
両腕が折れていたので抱きしめられたというべきか。
「良かった・・・ホントに、よかった」
「・・・凪、あの・・・私の事」
「えぁ!? いや、あれは・・・」
確かにそれはホントの事だった。
でもはっきりこいつにそういうのは恥ずかしい。
だって・・・見た目はやっぱり俺自身なんだ。
自分に告白するなんて・・・俺ってナルシスト?
そうだよ、なぁ・・・。
でも涙を流して微笑んでる女の子は、俺の顔だけど・・・。
だけどそれは、その表情は・・・違う。
普通の女の子だ。
「嘘・・・だったの?」
そんな風に急に不安そうな、拠り所無さそうな顔しないで欲しい。
凄く、抱きしめたくなるじゃないか。
・・・自分の顔なのにな。
やっぱり表情次第で全然違う人間に見えるもんなんだなぁ。
「ホントだよ。おかしいと思うなら笑え。俺はお前が好きだ」
「笑わないよっ・・・泣いちゃいそうだけど」
もう泣いてるだろ、と言うのは止めておく。
なんだかそんな微笑みを見てるだけで
痛みなんて消えてしまいそうだった。
実際の所、全然消えてはくれないけど。
「でも俺はこれで・・・戻れる、のか?」
「・・・え、ぁ・・・うん」
戻れるって言う事は・・・俺はこいつと離れるって、事だよな。
こいつと二度と会えないって・・・事だよな。
そんな俺の思惑を察したのか目の前の女は言った。
「大丈夫だよ。夢の中で何度でも会えるから」
「そう・・・なのか?」
「勿論っ。凪が・・・私の事好きでいてくれたらね」
「絶対に・・・っていうのもおかしいけど、大丈夫だと思う」
そういうと静かにそいつはキスをした。
もうそれに戸惑う事はない。
ごく自然に受け入れられた口づけ。
「また、夢の中であおうね」
「ああ・・・夢の中でな」
それが離れた時・・・そいつの足下が消えている事に気が付いた。
「お、おい・・・どういう事だよ、これ・・・」
「はは・・・あんたとまた会う時までお別れって事。
 出来れば、あっち向いててくれないかな。
 なんかこういうのって見られたくないから」
「あ、ああ・・・」
俺は仕方なく背を向けて座った。
それに習ってあいつはお互いの背中をあわせるように座る。
なんだかそれは嫌な予感だった。
もう二度と会えないような・・・。
夢の中で会えるんだろう?
でもなんで俺じゃなくてこいつが消えてるんだ?
まさかインキュバスを殺したから・・・か?
「もしかして・・・お前の言ってた、後悔って・・・これか?」
「・・・さあ、ね」
「だってお前の身体は・・・」
「こういう時はね、何も言わないで居てくれるのが
 一番格好良いんだよ・・・凪」
そんな事言ったって・・・。
少しずつ俺の身体も認識が甘くなってきた。
自分がそこに居ないかのような浮遊感。
でも隣の女の腰辺りの感覚が無くなった事に気付いた。
「待ってくれよ、俺・・・どうすればいいんだっ」
「そんな事言ったってさ、あんたはやっぱ現実の人。
 私は凪の為に生まれた幻。結ばれないんだろうね・・・」
その声が涙ぐんでいる気がして、
俺まで涙が目元に溜まってきた。
嫌だ・・・こんなのって酷すぎるだろっ・・・!
帰る為にはお前が消えなくちゃいけないなんて・・・。
「格好良く笑ってさよなら出来れば良かったのに。
 あ〜あ・・・凪のせいだから。あんたさ、現実より涙もろいよ」
「うるせぇ。お前だって、俺に全然似てなかったぞ」
「それはさ・・・あんたが私に興味を持つようによ。
 でもさ、初めてキスした時・・・
 逆に私が凪が好きになっちゃったんだ」
「・・・あ、ああ・・・そう」
「でも私はもう充分幸せ。ただの物だった私が幸せを手に出来た。
 だから凪は絶対に私に同情しないで。
 私は胸を張って言えるから。今、最高に幸せだって」
「お前・・・ったく、同情なんかしね〜よ!
 そんな幸せそうな声が聞こえてる内は・・・さ」
「・・・・・・」
「まあお前は気が強いからな、
 自分の弱さを隠したりはするなよ」
「・・・・・・」
「何か・・・言えよ」
俺は寝転がっていた。
背中の支えを失って・・・。
目の前には星空の海に浮かぶ黄色い船が浮かんでいる。
・・・なんて。
お前はもう居ないんだな。
また涙がこぼれてたけどもう気になんてならない。
だって、あいつは居なくなってしまったんだから・・・。
俺はなんとか腹筋を使って起きあがる。
・・・あれ?
「どうして・・・」
俺の目の前に立ってるんだ。
なんだよ、消えたんじゃなかったのか・・・?
そこで俺は涙顔を正面から見られてる事に気が付いた。
「なんで足が?」
「・・・わかんない。でも、消えないみたい。
 多分、私自身の力がインキュバスに勝ったんだと思う」
「なんだよ・・・脅かしやがって」
その笑顔は本物だ。
だったらついさっきまでの別れは何だったんだよ・・・。
でも、そんな事どうでもいいよな。
こいつがこうして笑っているのなら、
俺は最後の瞬間まで笑っていられるはずだから・・・。
「また、夢の中で会おうね」
「ああ・・・夢の中でな」
静かに瞼が閉じていく。
俺は現実の世界に戻るんだ。
全てを取り戻す為に・・・。
辺りが光に包まれると、俺は意識を失った――――――

「ちょっと頑張ってみたけど・・・これが限界かぁ。
 凪・・・嘘付いてごめんね。好きだったよ、凄く・・・すごく」

Chapter18へ続く