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黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫

祀られた蟲、毒を持った羊−relationship,incest−

第六話
「願いの果てまで」

 届かない為の願いじゃない。
 それは、叶うと信じるから願いになる。
 願いの果てには何がある?
 望んだ物があるのか、絶望に堕ちるのか。
 遠くの曇り空や月を眺めた時にいつも僕は思う。

 

 変な夢。
 とぎれとぎれの記憶。
 忘れてはいない。ただ薄れてしまっただけ。
 どうしようもなく怖かった時に縋っていたモノ。

「なぁ君。今日はゆりお姉ちゃんこないの?」
「う〜ん・・・お姉ちゃんは今度から小学校に行くんだって」
「小学校?」
「お勉強する所だよ」
 私はとりあえず肯いていた。
 相変わらず『なぁ君』のお顔は綺麗ですべすべ。
 ふっと私はその綺麗な肌に手を乗せてしまう。
 その内我慢できなくなってほっぺた同士ですりすりするの。
「ゆ、ゆめちゃん・・・くすぐったいよぅ・・・」
「だってすべすべしてるんだもん。
 なぁ君の肌って気持ちいい」
「それよりオママゴトとかしない?」
「なぁ君がお嫁さんになるなら良いよ」
「やだ」
「じゃあ、ゆめもやだ」
 ぷいっと私はそっぽを向いた。
 あの頃はどうして自由だったのだろう。
 なぜいつまでもお遊戯が続くだなんて思ってたんだろう。
 幻よりも現実の方がずっと長かったのに。
「ゆり姉ちゃんがあんまり遊びに来れなくなったら、
 僕達二人だけで遊んでるしかないね」
「ゆめはそれでもいいよ。お姉ちゃんが居ないと寂しいけど、
 なぁ君が居ればゆめはそれで楽しいよ」
 私達はずっと一緒だった。
 御飯食べる時も、お風呂はいる時も、寝る時も。
 だからいつまでも笑っていられた。
 いつだってなぁ君の横で、笑っていられた。



「華月様、お目覚めになる時間ですが」
「うん・・・」
 目を覚ました時、華月は大きなベッドの上にいた。
 辺りの様子から彼女はそこがリフィリアの寝室だと気付く。
 そう、昨日はリフィリアの寝室の隣にある、
 予備用のベッドで睡眠を取ったのだ。
 目の前には一動もせず佇むシュリアの姿がある。
 その姿は朝という時間帯のせいか精悍だった。
「おはよう」
「おはようございます、華月様」
 外の景色はシュリアとは対照的に見える。
 それは夜とさほど変わらない明るさで華月を迎えた。
 太陽の姿はどこにもない。
 まるで見えない様に隠れてしまった様だった。
 ふいに華月は音が零れてくるのに気付く。
「なんか音楽が聞こえる」
「ああ、リフィリア様が音楽鑑賞をされているのです」
 流れている音楽は歌劇『イーゴリ公』。
 ロシア国民楽派としてしられるボロディンの曲だ。
 彼はその歌劇を完成する前に亡くなっている。
 それを彼の弟子などの音楽家が歌劇として完成させた。
 不思議な空気感を持って主旋律を奏でるオーボエ。
 そこから不意をつく様に大きくなる弦楽演奏。
 リフィリアはそんなロシアの舞曲が好きだった。
 何しろ彼女には目が見えないと言うハンデがある。
 その為に音楽を人よりも強く感じる事が出来た。
 耳が良い、という理由も因するだろう。
 五感の内の視覚が存在しない彼女には、
 他の感覚からそれを補う必要があるのだ。
 故に彼女が聴く音楽は、普通の人間のそれとは違う。
 それだけはリフィリアにとって強く誇れるモノだった。
 じっと聴き入る様に観賞を続けるリフィリア。
 そこへ足音を立てずにシュリアがやってきた。
「リフィリア様。華月様がお目覚めになりました」
「失わなければ得る事の出来ないモノもある」
「は?」
「うん。例えばシュリアの声を聴く為には、
 私は音楽を聴く事を止める必要があるよね」
 そんな風にリフィリアが言う。
 てっきりシュリアは彼女が気分を害したのだと思った。
 音楽を聴いている最中に些少な話をしたからだ。
 だからシュリアは深く礼をして詫びようとする。
「・・・申し訳在りませんでした」
「あ、別に遠回しにシュリアを責めてる訳じゃないよ?
 ただね、そう考えると私は不幸じゃないかもって思えるの」
「リフィリア・・・様」
「ごめんなさい。誤解を招く様な言い方だったよね」
 彼女の強さにシュリアは尊敬すら抱いていた。
 シュリアから見て決して彼女の境遇は恵まれてはいない。
 それでも全てを納得した上で前を向いているリフィリア。
 その姿を見るたびにシュリアは思う。
 自分の主がリフィリアという人で良かった、と。
 だからシュリアは彼女の言葉に深く礼をした。
「いえ・・・察する事が出来なかった私が悪いのです」
 そんな二人の姿を遠目に見ると、
 華月はそっとベッドから起きあがる。
 そして窓辺へと身体と視線を移した。
「あ・・・今、鼻にポツッてきた」
 程なくして華月が窓を閉めるほどの雨が降り始める。
 それも、ざあざあと音を立てて凄い勢いで降り始めた。
 すぐにシュリアが他のメイドを呼び、
 慌ただしく動き始める。
 リフィリアも音からなんとなく
 雨が降っているのは解っていた。
 華月はふと空を見上げる。
 白く、曇っていてその窓からはよく見えなかった。



 午後に入ると雷鳴が轟き始める。
 それは千李にしてみれば激しいダンスの様だった。
 彼は屋敷の中を当てもなく歩きながら、
 メイドの女性に片っ端から声をかけている。
 するとそこでシュリアに捕まった。
「千李様、何をなさっているのですか」
「君を捜してたのさ」
「・・・その割に手当たり次第に声をかけていたようですが」
 少し千李は困った顔をしてシュリアを見る。
 そして辺りを見回すと千李は指で彼女の唇に触れた。
 彼女の表情は軽く微笑んでいる。
「一つ聴いてもよろしいでしょうか」
「君の唇が動くのを見ていられるのなら、構わないよ」
「メイドという存在を誤解してらっしゃいませんか?」
 千李の手をそっと取るとそれをゆっくりと下ろす。
 だが千李はその言葉の後すぐにシュリアの唇を奪った。
 目を見開いて困惑するシュリア。
 あっと言う間に千李はその唇を離すと言う。
「ごめん。君の唇があまりに魅力的だったから」
「こ・・・心にもない事を仰らないで下さい」
 そう言うシュリアだがそれは自分の事だった。
 彼女はいきなりの出来事に戸惑っている。
 そんなシュリアに千李は構わず耳元で囁いた。
「俺はこれでも正直者だぜ。ここが廊下なのが残念だ」
 シュリアを壁へと追いやるとそこでまた千李はキスする。
 今度は情熱的に、舌を絡めて口づけた。
 少しずつシュリアは自分の顔が火照っている事に気が付く。
 彼女の瞳はまるで千李を誘う様に潤んでいた。
 そのまま千李はシュリアの乳房に触れようとする。
 しかし遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。
 思わずシュリアは千李の顔を離してしまう。
 二人の間には一筋の糸が作られていた。
「ん〜、惜しいな。今度、またゆっくりとしよう」
「・・・・・・」
 立っていられずに座り込んでしまうシュリア。
 足早に千李はそこから立ち去っていった。
 シュリアは頭がぼ〜っとして何も考えられない。
 仕事中。
 だから余計に彼女にとって背徳的に感じられる。
「千李、様・・・」



 華月はリフィリアの部屋から一階の廊下へと来ていた。
 辺りを見回しながらチェッカーを起動する。
 反応は無かった。
 だがふいに華月は予感めいた物を感じる。
 それが冥典に対する物なのかは解らなかった。
 ただ、何かへの感覚。
 自分が見知ったモノへの嗅覚。
 華月は誘われる様に廊下を歩きだした。
 通り過ぎるメイド達に挨拶も交わさず歩き続ける。
 廊下の先には窓、右側に階段があった。
 左側には何もない。
 しかし華月はそちらに向かおうとしていた。
 その壁に面した部屋に入り辺りを窺う。
「・・・この壁じゃない」
 彼女が感じた何かはその壁からではなかった。
 壁の近くにある本棚。
 それを華月はカルチャースティックを具現し、
 跡形も残らないほどに粉砕する。
 するとその奥には隠し階段があった。
 躊躇いもせずに華月はその階段を下りていく。
 明かりの届かないジメジメした地下。
 それでいて最近に人が入った形跡があった。
 少しずつ柑橘系の強い香りが辺りを支配していく。
 華月が階段を降りきるとそこは暗い部屋だった。
 目の前に何があるかさえも解らない。
 試しにチェッカーを見てみるが反応はなかった。
「この屋敷じゃないのかな・・・」
 辺りの壁を探って華月は明かりを付けようとする。
 だが彼女がスイッチを見つける前に電球がついた。
 振り返るとそこにはシュリアが居る。
「華月様。何故・・・ここに居られるのですか」
 少し震えた声で彼女は華月を見据えていた。
 それを気にせずに華月は辺りを見回す。
 明かりがついた部屋には、
 数十という肉塊が転がっていた。
 それらは腐敗が進んでいて原型を留めていない。
「これは何?」
「人だった・・・モノです」
 俯いてシュリアはそう言った。
 その視線は決して肉塊へは向けられない。
「あなたが殺したの?」
「違います」
「じゃあ、誰?」
「ご主人様・・・レイノス様です。
 あの方はいつからか、不思議な能力を得ていました。
 それからレイノス様は触れる者を全て、
 その能力で殺す様になったのです」
 華月はそれを聞いてがっかりした。
 ここには冥典はない。
 そう思ったからだ。
 この屋敷にあるのは華月の慣れ親しんだ死臭だけ。
 彼女の興味を引くものではない。
 だが階段へ歩こうとする華月をシュリアが止めた。
「残念ですがここを知ってしまった以上、
 あなたを外へ出すわけにはいきません」
 そう言って華月を睨みつけるシュリア。
 何処かそれは怯えの混じった表情だった。
「私を殺すの?」
「・・・・・・」
 黙ってシュリアはポケットから刃物を握りしめる。
 無論、彼女は今まで人を殺した事はなかった。
 しかし主人の秘密を外部に漏らしてはならない。
 そんな意識が、戸惑いを絡めながらも彼女を動かしていた。
 実際に殺すつもりなどはない。
 ただ華月が怯えて秘密を護ってくれる様仕向けたかった。
「ならその前に私があなたを殺すよ」
「えっ・・・?」
 シュリアの顔が驚きの色に染まる。
 刃物で威嚇できると思っていた華月が、
 無表情にそう言い放ったからだ。
 それはシュリアの様な半端な意志ではない。
 これからの行動を示すのに似ていた。
 華月の瞳に不安や戸惑いは無い。
 そんな予想外の反応にシュリアは戸惑ってしまった。
 思わず彼女は華月に刃物を向ける。
 手は小刻みに震えていた。
 すると華月は平然とカルチャースティックを具現する。
 何もない所から存在した棒状のモノに、
 シュリアは恐怖を感じずには居られなかった。
「そ、それ・・・何時の間に・・・」
「これカルチャースティック。具現したの」
「ぐ・・・具現?」
 流れる様な動きで華月はシュリアへそれを向ける。
 間合い、破壊力、共に圧倒的な差があった。
 まるで勝ち目がない。そうシュリアは直感する。
 大きいハンデとしては殺意という感情だった。
 生命活動を終わらせるという事に対する慣れ。
 二人の間にはその点で大きな差異がある。
 そうして華月がカルチャースティックで、
 シュリアを攻撃しようとした瞬間。
「そこまでにしておいて下さい」
 丁寧な口調で少年が現れた。
 その瞳には何の感情もない。
 現状把握する様な瞳だった。
「些かシュリアがやりすぎたみたいです。
 すみません、華月さん」
「レ・・・レイノス様っ!?」
「僕の罪を被ろうなんて、しなくて良いんだ。
 これは僕が贖うべきなのだから」
「で、ですが・・・」
 微笑みでその言葉を止めるレイノス。
 彼はシュリアを一歩下げさせると、
 平然と肉塊の山を見て言った。
「ここに来る階段、おかしいと思いませんでしたか?
 そう、階段と言うより平坦な地面だったはずです」
「・・・そう言われれば確かに」
 それはシュリアも知らない事だった。
 レイノスはその事をまだ誰にも話した事がない。
「車椅子でも来られる様に、です。忌まわしい場所ですよ。
 過去、僕が父に虐待されていた場所なのだから。
 それも姉さんの前でね」
「なっ・・・!?」
 彼の言葉にシュリアは言葉を失う。
 シュリアはレイノスの父親の代から仕えていた。
 リフィリアと彼の父親の事はよく知っていたし、
 その吐き気のする様な人間性も知っている。
 だが虐待と言う事を考えた事はなかった。
「・・・シュリアにも話した事はなかったね。
 あの男は僕に昔から性的虐待を強いていたんだ」
「せ、性的虐待なんて、そんな・・・」
「・・・今でも奴が残した傷痕は僕の中に残ってる。
 奴のせいで僕はいつも死ぬ事ばかり考えてた。
 姉さんが居なかったら、きっと僕は自殺してたよ」
「ふ〜ん。で、お父さんは?」
 華月は少し興味を引いたらしくその事を聞く。
 シュリアからしてみれば彼女はこの上なく無礼に見えた。
 しかしレイノスは気にする風もなく衝撃的な告白をする。
「あの男は・・・僕だけでは飽きたらず、
 姉さんにまで襲いかかろうとした」
「あの方が、リフィリア様を・・・?」
「そう。だから僕があいつを殺した」
 レイノスの口から出た言葉にシュリアは静かに目を閉じた。



 予想していた事ではある。
 ある日、彼女がレイノスに呼び出された時だった。
 廊下に散らばっている『ゴミ』を
 片付ける様に言われた事がある。
 赤い血の様なものと沢山の奇妙な肉片。
 シュリアはその独特の匂いに嫌な予感を感じながら、
 なんとかそれらを片付けた。
 その後で彼女はレイノスにそれが何なのかを聴く。
 僕の母親だ。
 彼はそう答えた。
 一瞬、彼女はそれがどんな答えなのか理解できなかった。
 その単語とさっきの光景が符合しない。
 だが少しして彼女の脳が先に理解した。
 耐えられない程の吐き気が彼女を襲い、
 すぐさま洗面所へと駆け込んでしまう。
 シュリアは内容物を吐き出していく最中に考えた。
 その出来事は理解の範疇を超えている。
 思考を乱す様に脳裏を掠める赤と桃色。
 いつの間にか彼女の瞳には涙も浮かんでいた。
 理解できる事はある。
 自分が使えていた主人の奥様が死んだという事。
 その時彼女はそれを主人がやったものだと思った。
 しかしシュリアはそれから主人を見ていない。
 何故か代わりにレイノスがグループを統括し、
 屋敷の新しい主へとなっていた。
 それからしばらくは何の変哲もない。
 いつも通りの生活だった。
 シュリアがレイノスに聴きたい事は沢山あったが、
 彼女はレイノスに従属する使用人に過ぎない。
 だから彼の母親が死んだ理由も聞けずにいた。
 無論、父親の行方も。
 普段通りに仕事を続けていたシュリア。
 いつしか彼女は奇妙な事に気付く。
 レイノスは決して人に自分の身体を触れさせないのだ。
 軽いスキンシップですら彼はさけてしまう。
 それを見かねたシュリアの同僚が、
 冗談半分で彼に抱きついた事があった。
 彼女はシュリアと同期で使用人としても良い仕事をする。
 即ち彼女にしてみればそれは軽い気持ちだったのだ。
 それが死の抱擁だとも知らず。
「僕に触ったら・・・殺す」
 あっと言う間の出来事だった。
 彼女の姿は悲しいほどに醜く膨れあがり、
 骨ごとズタズタに弾け飛んでいった。
 シュリアはそれを目の前で見てしまう。
 ぶちぶちっという音と共に真っ赤な血が迸った。
 友人だった女性の身体は人形を裂く様に千切れていく。
 分離する様に血と肉片へと変わっていく。
 自分のメイド服が血で染まるのも気にせず、
 彼女は友人だった肉塊に縋りついた。
 そんなシュリアにレイノスは言う。
「それ、片付けておいてください」
 彼の言葉は恐ろしいほどに冷ややかだった。
 不思議な事にシュリアには怒りの感情は浮かばない。
 レイノスへの怖れ、友人の死への悲しみ。
 相反しながらもレイノスを憎む事は出来なかった。
 主人だからと言うわけではない。
 言葉は冷ややかだったものの、
 彼の瞳は凄く悲しげに見えたからだ。
 何か大きなものに捕らわれたかの様に。
 そしてそれはシュリアもそうだった。
 その時彼女はレイノスに心から怯えていたのだ。
 友人の死さえも霞んでしまうほどに。



 だが華月はそんな二人の葛藤に全くといって興味がない。
 人を殺すコト。生みの親を殺すコト。
 必要と在れば彼女はそれを躊躇いなく出来るからだ。
「私、もうここには用無い」
 そう言って華月は階段へと歩いていく。
 途中レイノスの肩に彼女の肩がぶつかった。
「あっ・・・」
 思わず声を上げるシュリア。
 しかしレイノスは華月を殺そうとはしない。
 それは彼にとってリフィリア以外では初めての事だった。
 どこかへと去っていく華月を余所に、
 シュリアはレイノスに言う。
「・・・似ているから、なんですか?」
「かもしれない。不思議な人・・・ですよね」
 少しだけシュリアは彼の事を憎いと思った。
 彼がその気持ちをもう少し他の人間に抱いていれば。
 そうすればシュリアの友人は死なずにすんだかもしれない。
 今更になってそんな気持ちが彼女にもたげていた。
「冷徹であるならば、残酷なままでいて下されば・・・。
 きっと私は圧倒されたままでしたのに」



 華月の方はリフィリアの所へと来ていた。
 自分と似た顔をする彼女を不思議そうに眺める。
 何をしているか解らないリフィリアは、
 ただそれを笑顔で受け流すしかなかった。
「私ね、冥典っていう本を探しに来たんだ」
「めいてん?」
「そう。でもここには無いみたい」
 言うが早いか華月はドアへと歩き出す。
 リフィリアはそれを惜しむ様に話しかけた。
「夢姫ちゃん」
「・・・なに?」
「また、遊びに来てね」
「うん。お姉ちゃん」
 自分で言っておきながら、
 華月はその言葉に不思議な響きを感じていた。
 心の中にそっと何かを生み出そうとする様な感じ。
 抽象的に過ぎるイメージ。
 故に彼女はそれが何かはっきりとは解らなかった。
 そのまま華月は歩いて部屋を出る。
 ドアの向こう側には千李が立っていた。
 珍しく彼は笑顔を浮かべるコトなく、
 余裕も気取りもない表情で佇んでいる。
「なにしてるの?」
 そんな華月の言葉を聴くとその表情はすぐ元に戻った。
 というよりもいつも通りの笑顔、だ。
「君の瞳に見つめられて動けなかったんだよ」
「ふ〜ん。じゃあ見ない様にする」
「そ、そりゃ困るなぁ・・・」
 千李は笑顔を浮かべながら華月に付いていく。
 だが華月は少しむっとした顔で千李の方を向いた。
 彼女としては何となく一人になりたい気分なのだ。
 その為、千李に対して殺意さえ湧いている。
「解ったよ。また今度ね、華月ちゃん」
「・・・私、もうこのお家から出るよ」
「それでもさ。君とはまた必ず会う、必ず・・・ね」
 華月は不思議そうな顔をしながらも屋敷を歩いていった。
 特にそれを追うわけでもなく、千李は壁に背を付ける。
 しばらくすると華月は見えなくなっていた。
「冥典、ね。やれやれ・・・あの子がね。
 俺・・・結構気に入ってたんだけどなぁ」
 少しするとそこへ一人の少年がやってくる。
 レイノスだ。
 彼と千李はいつからか不思議な友人となっていた。
 同じ様に酷い傷を持つ者同士だからかもしれない。
 多くの言葉を交わさずとも、
 それだけで彼らには強い絆があった。
「千李さん。彼女・・・」
「ああ、レイも気付いちまったか」
「一瞬・・・彼女が具現した物を見たんです」
 二人は華月の去った廊下をただじっと見つめる。
 重苦しい。苦々しい。だが逃げられない。
 それが選ばれた者への枷。
「あの子がインサニティの言ってた女の子なら、
 警告は終わってるってコトだよな」
「・・・ですね」
 しばらく押し黙った後でレイノスが言った。
「世は正にしても負にしても儘なる事など無い。
 かといって、他の人に任せたくはないです」
「オフェリーちゃんとかに任せると、
 レイにはトラウマになりかねないからな。
 まあ、あの子は引き受けたがらないだろうけど」
「ええ」
 二人の側から覗く窓からの景色は何処か病んでいる。
 外は耳を澄まさなければ聞こえないほどの、
 乾いた音の小雨が降っていた。
 さざめく様に、つらつらと、つらつらと。

第七話へ続く