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黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫

百絶百死
−Thousand Red Eyes


第十一話
「なげき」


 黒い衣服に身を包んだ女性が、
 ゆっくりとデパートから離れていく。
 無関係を装うかの様に。
 口元には僅かな笑みも無かった。
 ただ無表情にデパートとは正反対の方向へと歩いている。
(早くあの人の元へと帰りたい・・・
 そして何も考えられなくなる様に抱いて欲しい。
 早く・・・早く、早くっ・・・)
 女性の心理はすでに誰の理解をも超えていた。
 憎いのだ、この世界が。
 恐ろしいのだ、全ての事が。
 恐怖が憎しみに代わり、それが際限なくループする。
 不安定な感情を全て無くしてしまいたかった。
 その為の手段が、彼女にとって神への忠誠なのだ。
 だが彼女は重要な事実に気付いていない。
 或いは、そこから眼を伏せている。
 自分の信じるものは本当に正しいのか。
 彼女は考えない。



 私達は屋上でエレベーターを待っていた。
 しばらく時間を潰している内に、
 辺りはもう夕暮れになってる。
 両親が帰りを待っているワケじゃない。
 でも早く帰るのが好きだった。
 なんでだろう。
 もしかすると誰かに待っていて欲しいと
 思ってるのかも知れない。
 意外に私は寂しがり屋の様だ。
 と、ふいに隣に居た夢姫が歩き出す。
「どこ行くの?」
「階段。その方が早いよ」
「・・・それもそうだ」
 さっきから来ないエレベータを見放すと、
 私達は階段を下りていった。
 あまり人が使ってるわけでは無さそうだ。
 とはいえ清掃のおばちゃんが綺麗にしてるらしい。
 そんなに汚い階段ではなかった。
 やがて私達が6階に差し掛かった時、
 妙な声が聞こえる事に気付く。
「・・・悲鳴?」
「悲鳴が聞こえるね」
 なんだか妙な事を思い出してしまった。
 音古さんの言っていた事。
 おぞましいもの。
 何を馬鹿な事を・・・と、前の私なら考えただろう。
 でも最近は妙な事はたくさん起こっている。
 どんな事が起きたって不思議じゃなかった。
 そして、だ。
 そう言った場合に置いて、判断は重要になる。
 否定よりも仮定。
 事態が目に見えて異常になる前に先んじて動く。
「夢姫、走ろう」
「うん」
 二人して階段を走り降りていった。
 5階。
 特に異常はない気がする。
 けれど階段からは出ない様に下を目指した。
 4階から3階に降りようとして私達は事態に気付く。
 聞こえる悲鳴が強くなっている。
 つまりここより下の階から聞こえているのだ。
 私は階段を下りようとして戸惑ってしまう。
「ゆみな、早く降りよ」
「待って・・・なんか嫌な感じ、しない?」
「する。でも降りよ。お腹減ってきた」
 緊張感のない子だなぁ・・・。
 仕方ない。
 何が起きてるのかは知らないけど降りてみようか。
 そう思った時だった。
 強い振動と共に何かが崩れる様な音がする。
「なっ・・・なに!?」
 どうしてこう、物事は私の想像を超えるのだろうか。
 気味の悪い摩擦音と共に何かが階段を上がってきた。

  ずるっ・・・ずるっ・・・。

 頭が真っ白になる。
 思考を停止したくなった。
 目の前のアレは、なに?
 気味の悪いディテール。
 例えるのならミミズの様な姿。
 身体に横のラインが幾つも入っている。
 少し質の悪い青色。
 それでもって大きい。全長で数mはあるのだろうか。
 とにかく私は呆然としてしまいそうになった。
 だけどすぐに気を取り直して4階を走る。
 階段から売り場の方へと夢姫を連れて走った。
「あれ、気持ち悪い」
「そっ・・・そんな冷静な事言ってる場合じゃないわよ!」
 頭はとっくにパニックを起こしている。
 酷い。冷静でいられるはずがないじゃないか。
 あんな気味の悪い生物、見た事無い。
 走りながら私は後ろを振り返る。
「え・・・!?」
 全長数m? どうみてもそんな程度じゃない。
 私達を軽く飲み込んでしまいそうな大きさがあった。
 実際に呆然としている人達が飲み込まれそうになってる。
 思わず私は前に向き直った。
 その光景を見たらもう走れなくなる気がしたから。
 動きは遅いので突き放して、逆側の階段へ向かう。
 そこから下へ降りようとしてさらに私は愕然とした。
 3階へ降りる事が出来ない。
 なぜなら階下は何か、ぶよぶよしたもので埋まってる。
 まさか・・・まさかあの化け物?
 とすると、あれは3階と4階にまたがってるの?
 下手したら階下を全て埋め尽くしてるのかもしれない。
 そう考えるとまさに化け物だ。
 すぐに方向転換すると、私達は階段を登っていく。
「あのミミズ邪魔だね」
 脳天気にそんな事を言う夢姫。
 ふと疑問が沸き上がっていた。
 何が原因でアレが発生したのか。
 普通に考えて、まず自然にはあり得ない。
 なら故意に誰かが?
 あんなのをどうやって手に入れたとか、
 そういうのは気にしないようにしよう。
 とにかく問題はあのミミズがここにいる目的だ。
 土の浄化、というワケではないだろう。
 人間を無差別で襲っている。
 通常のミミズよりはるかに獰猛だ。
 そもそも人を食べるミミズなんて聞いた事がない。
 ふと私は都市伝説の事を思い出した。
 考えてみると、巨大ミミズの噂っていうのがあったなぁ。
 アフリカで目撃されたミニョコンとかいうミミズのUMA。
 あれみたいなのが、つい最近日本でも目撃されたって。
 つまり都市伝説の目撃者になってしまったわけか。
 もっとロマンティックなのが良かった。
 全長数十mの巨大ミミズとデパートで追いかけっこなんて、
 私の人生で三本の指に入る最悪の体験だ。
 これも、夢姫のおかげなのだろうか・・・。
「夢姫ってさ、やっぱり誰かに命狙われてるの?」
「たぶん」
「これもその誰かがやってるのかな」
「わかんない。でも、ミミズは嫌い」
 今までは気にとめるほどじゃなかったけど、
 おかげで私も嫌いになりそうだ。
 あの形状、よく見ると気持ちが悪い。
 私達は全速力で階段を駆け上がっていた。
 階段を登る足が疲労で痺れる様な感覚になる。
 背後からはミミズがずるり、ずるりと
 這う様にして私達を追いかけて来ていた。
 尖端には口だけしかない。
 ただ、その口には円状に鋭い牙がたくさんついていた。
 人間と違って奥歯とか言う概念は無いみたい。
 確か人の場合、口は圧力を一番かけられる場所だ。
 その圧力は70kgくらいだとか。
 ならばあのミミズの場合は?
 あんなので噛み付かれたらどうなってしまうのか。
 自分の腕が骨ごと砕ける想像。
 怖くなるのが解ってるのに、
 そんな事を考えてしまっていた。



 床を這いずって階段を探すオフェリー。
 デパートの地下に居る彼女は、
 まだ階上での惨劇を目にしていなかった。
 自分の撒いた種。
 なのに彼女にはそれを止める術がない。
 今そうしてミニョコンの元へ向かっても、
 オフェリーには何も出来ないのだ。
 切迫した感情が彼女を動かしていた。
 悪いのは自分。けじめは自分で付けなければ。
 そんな感情だ。
 力の入らない身体を無理矢理に動かす。
「くぅっ・・・!」
 こんな時、役に立たない身体が恨めしかった。
 強く拳を握る様に力を込めようとする。
 悔し涙が僅かに流れ始めていた。
(あの子達がもし、本当に私の醜い心の象徴ならば・・・
 私が死ぬ事であの子達も消えるかも知れない)
 手前に見える試食コーナーに包丁が見えた。
 そこまで這っていくと、彼女はそれを手に取る。
 彼女はその負の感情に追いつめられていた。
 死んでしまう事で全てを放棄しようとする。
 本当に彼女が死ぬ事でミニョコンが消えるのか、
 彼女の中にその確証は無いというのに。
 小さな手に包丁の柄が収まる。
 そして刃を自分の左手の平からすぐ下に向けた。



 どんどん上へと逃げていく私達。
 けれど、それは結果的に逃げ場を無くす事にもなる。
 私は音古さんの言ってた言葉をまた思い出した。
 有効な手段は一つ。逃げる事。
 彼女はそう言っていた。
 何故、彼女が予知めいた事を言えたのか、
 それは私が生きてデパートを出られたら考えればいい。
 今はそれよりも逃げる手段を考える方が先決だ。
 ハリウッド映画だと屋上でヘリが待ってたり、
 両隣のビルに飛び移ったり出来るんだけど・・・。
 日本人は基本的にアクション駄目なんだよね。
 背後のミミズはのたうち回る様に、
 身体を辺りの壁や天井に打ち付けている。
 一体、何してるんだろう・・・。
 そう思った直後、振動で天井が崩れてきた。
「きゃあっ!」
 思わず夢姫にしがみついてしまう。
 彼女は冷静な表情で右手を前に伸ばした。
 その手に収まる様にして、不思議な棒が現れる。
 ・・・どういう原理なのだろうか。
 とても気になるけど、それよりも
 頭上から落ちてくる天井が気になった。
 夢姫はそれには目もくれずにミミズへと向かおうとする。
 私は半分引きずられる様にして、
 彼女の隣にくっついていた。
 っていうか、天井の壁で私達は潰れそうだった。
「夢姫、上・・・上っ」
「大丈夫」
 言うが早いか、それらの崩れた天井は
 全て私達の周囲から跳ね返る様に飛んでいく。
 まるで磁石の同極を向けた時のように。
 不思議だと思う暇もなく夢姫が棒をミミズに突き刺した。
 だけどその身体に傷の様なものは見あたらない。
「やっぱり駄目か。ミミズ、大っ嫌い」
 夢姫はさっさと攻撃を諦めると階段を走り始めた。
 それにつられる様にして私も走り始める。
 この子は無鉄砲なのか、それとも計算づくなのか・・・。
 ふいに彼女といるとこの状況でも助かる気がしてきた。
 根拠なんて何処にもない。
 可能性という点でも解らない。
 でも夢姫は生きる事を諦めていなかった。
 全く持って素晴らしいかな人生、という奴だ。
 この間まで普通の高校生活を送ってたはずなのに、
 なぜか今は巨大ミミズとデッドヒートを繰り広げてる。
 馬鹿馬鹿しいというか・・・ある意味で楽しかった。
 多分、異常すぎる状況下にいる自分を、
 何処かで客観視してるから楽しい。
 主観としては怖いしさっさと家に帰りたかった。
 とは言え映画や小説の見過ぎだろうか。
 頭の何処かで現実を受け入れてない。
 今の怖さはホラー映画を見ている時の恐怖に似ていた。
 自分が喰われたとしても痛くない様な気さえするのだ。
 ちょっと危険かも知れない。
 これは現実。
 噛まれたら痛いし、食べられたら死ぬ。
 そんなの当たり前なのだから。



 デパート前では、多くの人がその奇妙さに気付いていた。
 轟音や悲鳴が辺りに木霊して異常性を物語ろうとする。
 人々はそれを聞きながらも気付かないふりをしていた。
 日常の中にある非日常を、意識的無意識でうち消す。
 ある者は噂しながら通り過ぎていく。
 ある者は意図的に近くを通らずに歩く。
 無論、野次馬と呼ばれる人達も沢山居た。
 少しして騒ぎを聞きつけて警察がやってくる。
 だがデパート内に入ろうとした時、
 奇妙なものに気が付いた。
 入り口が大きくぶよぶよとした何かに塞がれている。
「なんだ、こりゃ」
 恐る恐る警棒で触れてみると、それはびくっと動いた。
 こんなもので埋め尽くされたデパートは見た事が無い。
 そう警官は思った。
 中は空洞になっているのだろうか。
 客はどこから出入りするのか。
 さらに警官はそう考える。
 ずるずると動き出すそのぶよぶよとした物体。
「せ、生物なのか?」
 よく見ているとそれには横にラインが入っていた。
 そうだ。こんな生物を見た事がある。
 警官はその事に気付いた。
 見た事のない程大きなサイズではあるが、
 それは全くミミズと同じ形容をしている。
 しかし、だ。
 その警官は今年で45になるが、
 交番勤務を20年近くやっている彼にとって、
 それは初めての事だった。
 さらに言えば人生に置いても前例がない。
 理解が追いつかなかった。
 彼には10歳になる子供と5つ年下の妻がいる。
 そう考える事で努めて彼は現実に引き戻そうとした。
 決して特筆するほど彼の妻は美人ではない。
 だが彼はその見飽きない顔が好きだった。
 貞淑で明るく笑顔を絶やさない性格が好きだった。
 そんな妻の顔を思い浮かべる。
 ほんの少し彼の頭は冷静になった。
「これは、ミミズ・・・いや、そんな馬鹿な」
 どんなに考えてもそんなものは無い。
 あってはならないのだ。
 特に、現実が全てを支配する日本国においては。
 仕方なくミミズらしき生物、そう仮定する。
 そうしなければ彼は次の行動を起こせなかった。
(これは・・・営業妨害に相当するのか?)
 デパートを占拠しているこの巨大生物。
 排除するとしてどうすればいいのか、
 皆目見当が付かない。
 その警官の背後に一人の女性が立っていた。
 気配もさせずにただデパートの上層を見つめている。
 後ろを振り返った警官はその女性に驚きながら、
 とりあえず注意を促す事にした。
「君、ここは危険かも知れないから・・・」
「知っています」
「え?」
「あの二人に・・・伝えられなかった」
「・・・は?」

  「翼は片翼になる。傷ついた羽根は、もう帰らない」

第十二話へ続く