Back

黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫

百絶百死
−Thousand Red Eyes


第十二話
「プリテンダーズ」

 粉砕音。
 背後から聞こえるカオスな音が心臓の鼓動を急かす。
 ゆっくりとだけど確実に私達は逃げ場を失っていた。
 隣の夢姫と共に今は歩きながら走ってる感じ。
 スピードを出さなくても、追いつかれるほど早くはない。
 多分、色々な場所に身体をぶつけてるせいだ。
 私達は考えなければならない。
 屋上に逃げるしかなくなっている状況で、
 最終的に私達が逃げ切る方法を。
 音古さんの言っていた事を信じるならそういう事だ。
 背後からはその幾つもの赤い瞳がこちらを睨んでいる。
 あの化け物を殺してはいけない。
 ・・・っていうより、殺せるはずがなかった。
 こっちは女の子二人。
 夢姫は不思議な力を持ってるみたいけど、
 腕力は普通の女の子と変わらない。
 どう転んでも闘う事すら無理だ。
 隣の夢姫は全く動揺さえしていない。
「どうやって殺そっかなぁ」
「夢姫、なんて恐ろしい事を考えてるのよ」
「だってあのミミズ邪魔だもん」
 そうは言っても、相手は化け物だ。
 さっき夢姫の不思議な力も通用しなかった。
「今は逃げる事だけ考えよう」
「うん。わかった」
 階段を駆け上がっていく私達。
 もうじき私達は屋上にたどり着いてしまう。
 心なしか後ろのミミズのスピードは上がっていた。
 どうやら周りにある壁が足止めしている。
 おかげで私達を補足しきれないみたいだった。
 出来れば屋上までに助かる手段を考えておきたい。
 私は走りながら呼吸を整えていった。
 まず、屋上に逃げ場は無い。
 そうとすれば私達は屋上に逃げる前に、
 ミミズを振り切る必要があった。
 上手く階下に逃げる事が出来れば良いのだ。
 屋上へ逃げるという流れを変えてしまえばいい。
 けれど、それは不可能とも言えた。
 背後のミミズは周りの壁を巻き込みながら進んでいる。
 そこには一部の隙間も存在しなかった。
 あっという間に7階に辿り着いてしまう。
 ぐるりと7階フロアを迂回した。
 人はまだ沢山いる。
 子供から女の人、お爺さん、店員さんも。
 私は耐え難い罪悪感に襲われていた。
 ミミズが追いかけてくる事で私に責任はないのに。
 私達とミミズが走ってくるのを見て、
 人々は顔色を変えて走り出した。
 唖然としている人が何人かミミズに飲み込まれていく。
 やっぱり・・・どうしても助けられないのだろうか。
 自分の無力さに吐き気がしそうだった。
「そうだ、アレは効くかも」
「え?」
 ふいに夢姫が腰の辺りから何かを取り出した。
 切れ味の良さそうな鋭いナイフだ。
 両手に一本ずつそれを握ると、ミミズの方を振り返る。
 左手のナイフが直線を描いて飛んでいった。
 さらに夢姫は回転する様に右手を回してナイフを放つ。
 二つのナイフはミミズの口の中に突き刺さる。
 すると流れる様な仕草で夢姫はまた走り出した。
 ミミズは苦しんでいるようだけど勢いは変わってない。
「あれ、もう無いや・・・」
 女の子がナイフを二本もってる時点で上出来だ。
 しかしその攻撃はミミズの怒りを高めただけらしい。
 唸る様な地響きと共に辺りに身体を打ち付けるミミズ。
 私は駄目元で夢姫に聞いてみた。
「屋上からどうやって逃げるか、考えてる?」
「ううん」
 ああ、神様。
 お願いだからどうにか私達を助けてください。
 こんな時くらいしかお願いしないんだから、
 助けてくれたって良いじゃないですか。
 そんな時、逃げ惑う人達の中の一人が煙草を投げつけた。
 ミミズはそれを見て物凄い戸惑いを見せる。
 ・・・どういう事だろうか。
 次の瞬間には問題なくその煙草を踏みつぶしていた。
 反射的に毒物を避けたの?
 もっと早く気付かせて欲しかった。
 さっきから階段の踊り場にあるトイレの前に、
 煙草やジュースの自販が幾つもあるのを見てる。
 まあ、買ってる暇なんて無いけど・・・。
 私達は8階への階段を昇り始める。
「夢姫、この先にもし煙草の自販があったら・・・」
 そこまで言って私は気付いてしまった。
 8階への階段に、踊り場はない。



 デパートは完全に封鎖されていた。
 それもたった一匹の生物によって。
 騒ぎは収拾がつかないほどに大きくなりつつあった。
 どうにか中へ入ろうとするものの、
 維月はどうすればいいのか想像もつかない。
「・・・ちょっと手遅れ気味だな」
 気付くと維月の隣には一人の男が立っていた。
 Yシャツをラフに着こなし、苦笑いを浮かべている。
 彼は維月に気付くと近づいてきてにこりと笑った。
「やあ、お嬢さん。このデパートに入った事あるかい?」
「え? ええ、まあ」
「じゃあさ、ここ以外で中に入る場所知ってる?」
「そうですね・・・裏手にあった様な気がします。
 ただ、関係者用の通用口だと思いますけど」
「そっか。ありがとう、美しいお嬢さん。
 念のため、お名前を聞かせて頂いてもいいかな」
「はぁ・・・音古と言います」
「音古ちゃん。可愛い名前だね」
 馬鹿にしてる素振りはまるでない。
 だが維月はそんな男の態度に不審なものを感じた。
「あなたは、一体・・・」
「君の魅力に取り憑かれた哀れな男さ」
「なっ・・・!?」
 言葉を返す前に男は裏手へと走っていく。



 手首に当たる鋭利な刃。
 オフェリーはそうする事で、
 自分より出でた者を消滅させようとしていた。
「ぐっ・・・」
 歯を食いしばる。
 だが、それ以上包丁は彼女を傷つけようとしない。
 動脈へ届くかどうかの距離で刃は止まっていた。
(これだけ人を殺して・・・それでも私は、
 浅ましくも生にしがみつこうとしてる)
 そんな時、彼女の手に握られていた包丁に何かが絡みつく。
 包丁はあっという間に何処かへと飛んでいってしまった。
 糸か何かが包丁に絡まったのだ。
(けど、これは・・・)
「千李・・・さん?」
「ぜはぁ〜。間に合ったみたいだな」
 オフェリーの前には汗でシャツを濡らす千李の姿があった。
 彼の視線はその笑顔とは裏腹に彼女の事を射抜いている。
「ちょっとばかり気が早いぜ、オフェリーちゃん。
 君は世界を花で覆い尽くすのが夢じゃなかったのか?」
「でも私、もう・・・」
 何かを言おうとしたオフェリーの口が塞がれる。
 千李は有無を言わさずに彼女を抱きしめてキスしていた。
 彼女は困惑してそれに抗う事もしない。
 ゆっくりと千李の唇が離れた後、
 思い出した様にオフェリーは言った。
「な、なにをするんですかっ・・・」
「悪い子にはキスをする。これ、俺流のお仕置き」
「誰にでも、こういう事できちゃうんですね」
 何故かオフェリーは自分の行為が馬鹿らしく思えていた。
 もし千李がまともに説得しようとすれば、
 彼女はさらに自分を追いつめていたかもしれない。
 それを意識しているのかしてないのか千李は言う。
「俺は女性全てに敬意を払ってるから」
「それって・・・女の人なら誰でも良いって事ですか?」
「なんて事を言うんだよ。君だけに決まってるだろ」
 恥ずかしげもなく千李はそんな言葉を口にする。
 おかげでオフェリーは余計におかしくなってしまった。
(私は、どうして死のうなんて考えたんだろう)
 自分で自分の行動に笑いが込み上げてくる。
 ただそれは、自嘲では無かった。
「おし。もう大丈夫そうだな」
「・・・はい。あの子達を止めなきゃ」
「そうだな、俺達の愛に支障が出ちまう」
「くすっ・・・」
 決して二人の立場は笑って済まされるものではない。
 だが落ち込んでいればいいという物でもなかった。
 それが必ずしも死者への弔いになるわけではないからだ。



 私達のスピードについてこれなくなったのだろうか。
 いつの間にか、ミミズの姿は背後から消えていた。
 程なくして私達は屋上へとたどり着く。
「はぁ、はぁ・・・」
 考えてみれば走り通しだった。
 運動部でもない私の足はもうガクガク言っている。
 「もう限界だよ、動かないでマミー!」という感じで。
 夢姫の方はそれほど疲れはなさそうだった。
 見かけに寄らず体力があるみたいだ。
 屋上にはまだ子供がちらほらと遊んでいる。
 さっきの巨大ミミズがこんな所に来たら大パニックだ。
 信じて貰えるかは解らないけれど、
 巨大ミミズの事を話して非難して貰おう。
 だけど肝心のミミズ自体の姿はどこにも見あたらなかった。
 ・・・何か妙だ。
 どうしてミミズはすぐに私達を襲ってこないのだろう。
 屋上という逃げ場のない空間だというのに。
 ミミズがそこまで頭が回るかは別だが、
 明らかに今の状況は不気味に感じられた。
 仕方なく辺りを注意深く見渡してみる。
 つい先ほど居た時とあまり変わっていなかった。
 遠くの方に子連れの夫婦の姿が見える。
 100円で動く機械に子供を乗せて、
 幸せそうに笑っていた。
「マ〜マ〜、これ面白いっ」
「そう〜。私も乗って良い?」
「駄目だよぉ、重いもんママ」
「な〜んですってぇ〜?」
 微笑ましい。
 ついさっきの惨状が嘘の様だった。
 そんな風に私がぼけっとしていると、
 ふいに足下の床がぐらぐらと揺れ始める。
「な・・・なんなの、これ!?」
 次の瞬間だった。

   私の目が信じられない光景を映し出す――――

 あまりにも唐突なその光景。
 認識する事を頭が拒否したがっていた。
 だって・・・たった今まで、目の前で子供連れの夫婦が・・・。
「きゃぁぁあああああぁっ!」
 誰かがそう叫んでいた。
 私は唖然としてそれを見つめる事しかできない。
 巨大ミミズがいきなり床下を突き破って現れていた。
 あの子供は、どこ? あの夫婦は?
 何が・・・起こったっていうの?
 目の前に現れた巨大ミミズの口は、
 何かを咀嚼する様に蠢いていた。
 その口元から何かが零れ落ちてくる。
 少し遠くの床へと・・・子供の腕が、無造作に、零れ落ちた。
 身体中がガタガタと震えている。
 すぐに巨大ミミズはまた首を引っ込める様に消えた。
「・・・ゆ、ゆめ、今の・・・」
「うん。食べられちゃったね」
 平然とそう言ってのける夢姫。
 違う・・・そんな言葉で片付けて良いはずがない。
「人がっ、目の前で・・・夢姫!」
「どうしたの?」
「そうじゃないっ! 夢姫、何も感じないの!?」
「解んない」
 彼女は精神に異常があるから。
 そんな風に納得は出来なかった。
 だけどそんな事を考える間もなく、またミミズが頭を出す。
 逃げようとしていた人がその腹の中へと消えていった。
「くっ・・・」
 頭がどうにかなりそうな気がする。
 目の前であまりにもあっさりと、無情に人が死んでいた。
 私にはどうする事も出来ない。
 それどころか、自分にも危機が迫っていた。
 自分に迫る危機のせいで人の死が霞む。
 たまらない気分だった。
「夢姫、あのミミズをどうにかしなくちゃっ・・・」
「他の人達が食べられてる間に逃げられると思うよ」
「そんな事・・・絶対に駄目!」
 そう言った時、近くに煙草の自販が目に付く。
 煙草を使えば巨大ミミズの動きを止められるかもしれない。
 思わず私はそこへと駆けていた。
 私は夢姫ほど利己的には生きられない。
 クールな外見とは裏腹に、というのが魅力なんだ。
「・・・ゆみな、そっちは危ないよ」
「え?」
 足下が震え始めていた。
 まさか、私の足下に・・・いる?
 必至に走るけど大した意味があるのだろうか。
 地面が割れ始めて私は足を取られた。
 まさか物の動きを感知してる?
 私が走り始めたから?
 今更その迂闊さを悔やんでも遅かった。
 いやだ、私・・・こんな所で・・・!
「ゆみ・・・なっ」
 夢姫の声が聞こえた。
 誰かに私は突き飛ばされる。
 身体ごと自販機の所へ倒れ込んでいた。
 目の前の視界が霞みそうになる。
「・・・ゆ、め?」
 誰かが私に覆い被さっていた。
 夢姫だろう。
 認識がはっきりしてくる。
「夢姫っ!」
「痛い・・・わたし、なにしてるんだろ」
 彼女は右肩に酷い怪我を負っていた。
 あのミミズの鋭い牙に引っかかれたらしい。
 真っ赤な血が服を通して流れていた。
 困った様な顔で夢姫は私にもたれかかる。
 ある意味でそれは彼女らしくなかった。
 誰かを助けるなんて、そんな事初めての様に思える。
 代わりに彼女は酷い傷を負ってしまっていた。
「どうして、私の事を・・・」
「わかんない。身体が動いてた」
 巨大ミミズはそのトリッキーな動きを止めると、
 私達へとゆっくり迫ってくる。
 煙草の自販を警戒しているのかすぐには襲ってこなかった。
 けどそんなのは一時しのぎに過ぎない。
 どうしたらいいの? どうしたら・・・。
 考えるけど有力な答えは見つからなかった。
 身構える。無駄だとは解っていても。
 私は夢姫の事を抱きしめて目を瞑った。
 自殺行為だというのは解っている。
 それでも身体は恐怖でガタガタと震え、
 視覚による恐怖を遮断する為に目を閉じていた。
 その時、バタンという扉の開く音が聞こえる。
「ラピ達! もうやめてっ!」
 強い口調で女性の声が聞こえた。
 目を恐る恐る開けてみる。
 階段の側の方に二つの人影があった。
 男性に抱きかかえられる様にして女性が立っている。
「私ならもう平気だから・・・消えて頂戴、お願いよ」
 女性の声に反応する様にしてミミズの動きが止まった。
 そして女性の身体へと吸い込まれていく。
 風も何も無いのにミミズは吹き飛ばされるかの様に、
 その女性の胸へ向かって消えていく。
 全てはあっという間の出来事だった。
 一転して辺りが静寂に包まれる。
 信じられない事にミミズは女性の中へと消えてしまった。
「あ、あなた方は・・・」
 そんな私の疑問に答える事もせず、
 彼女たちは何処かを見つめる。
 そこには・・・。
「どうやらしくじったようだな」
 黒いコートと黒い眼帯。
 いつか夢姫を襲った男の人が立っていた。
 でも一体どこから来たのだろう?
 エレベーターは使えないし、
 階段を登ってきたわけでも無さそうだ。
「後は俺がやる。あの女の始末は任せろ」
 黒い眼帯をした男は無表情にそう言う。
 それを聞いた女性は意外な顔で私達を見た。
「あんな・・・高校生くらいの女の子を、
 よってたかって殺そうというの・・・?」
「俺だって嫌さ。でも止めるわけにはいかない。
 止めたきゃ神に直談判でもしてくれ」
「っ・・・それは・・・」
 ワケの解らない事を言い合っている。
 理解できるのは、夢姫の事を殺そうとしてる事だけだ。
 私達へと歩いてくる黒い眼帯の男。
 咄嗟に私は構えたけど、どうしようもない。
 あの光に二人とも殺されるのがオチだ。
 けど、その時だった。
「ゆみなは・・・友達」
「え?」
「友達、だよね」
「・・・うん。私達は、友達」
 私がそう答えると夢姫は私を突き飛ばす。
 彼女は翻ると階段へと走り始めた。
「逃がすか・・・!」
 それを黒い眼帯の男が追う。
 二人の姿はすぐさま階段へと消えていった。
 唖然とそれを見守っていたけど、
 それを追う為に私は走ろうとする。
 けれどそれはYシャツを着た男の人に止められてしまう。
「・・・あの子は、君を護ろうとしたんだ。
 君は彼女を追いかけちゃいけない」
「でも、でもっ・・・!」
「所で君は夢姫ちゃんの友達・・・かい?」
「・・・はい」
 迷わず私はそう答えていた。
 夢姫は私の友達。
 友達の中で一番残酷で子供っぽくてわがままな子。
 それなのに私は彼女を放っておけない。
 あの子の事を放っておけないんだ。
「そっか。なら・・・また、会えるさ」
「・・・・・・」
 どうしてか男の人の言葉は慰めにしか聞こえない。
 真実味を帯びていなかった。
 せっかく、友達になれたっていうのに・・・。
 私はへたり込む様に座ってしまう。
 自然と私は気付き始めていた。
 恐らく二度ともう、あの子と会えないっていう事に。



 閃光が夢姫を襲う。
 彼女の身体が叩きつけられる様に地面を転がった。
 それでも素早く体勢を立て直して路地裏を走る。
 夢姫は走る途中ふと考えた。
(ゆみな、もう会えないのかな。ちょっとだけ・・・寂しい)
 足がもつれてまた倒れそうになる。
 すぐ背後にはインサニティの姿が迫っていた。
 右腕は使い物にならない。
 かといって利き腕ではない左手が、
 何かの役に立つとは考えられなかった。
 距離を狭められ、思わず夢姫はナイフを出そうとする。
 左手で腰の辺りをまさぐった。
(・・・そっか、あのミミズと闘った時にナイフは・・・)
 それに気付いた時にはもう遅い。
 彼女の身体を光が包み込んでいく。
 四肢がバラバラにされる様な痛みが彼女の身体を襲った。
「あぅっ・・・」
 さすがの夢姫もうめき声を漏らしてしまう。
 インサニティの放った光が、身体中を駆けめぐった。
 常人なら気絶してもおかしくない様な痛み。
 夢姫は倒れ込む様に地面を転がっていく。
 それでもまだ走ろうとした。
「く・・・はぁ、はぁ」
「もう、幕を引け。疲れただろう」
「・・・わたし、は・・・死なないよ」
 身体中の力を振り絞って足を動かす。
 信じられないほどの傷を負いながら夢姫は走った。
 周りの景色など、目には入っていない。
 ただ目の前だけを見つめて走り続ける。
 止まればインサニティに殺されるから。
 両足をもつれさせながら、
 惨めな姿で彼女は何度も倒れた。
 そのまま意識を失ってしまえばどんなに楽だっただろう。
 立っているだけでも辛い傷だ。
 ぽたぽたと足や地面に血が零れる。
 背後にはまだインサニティの気配があった。
 つかず離れず、夢姫を追いかけている。
 夢姫は路地を抜けて歩道橋を登っていく。
「まだ、死にたくない・・・なぁ君、会いたいよ・・・」
 うわごとの様にそんな事を呟く。
 彼女はふと歩道橋から下を見た。
 地面まではある程度の距離がある。
 落ちればまず無事では済まない高さだ。
 大型のトラックが真下を通過しようとしている。
 それは常人を卓越した運動神経を持つ夢姫でも、
 今の状態では一か八かの賭けだった。
 歩道橋をインサニティが登ってくる。
「往生際が悪いぞ・・・!」
 急いで夢姫は歩道橋の手すりに足を乗せた。
 インサニティが気付いた時には止める手だてはない。
 それは夢姫にとって時間が止まった様な感覚だった。
 静かに落ちていく。
 落下速度に身を任せる。
 スカートだったせいで下着は見えていたが、
 それを気にする余裕などは無かった。
 途中で横向きに身体が流れていく。
 失敗すれば間違いなく夢姫は死ぬ。
 それでも彼女は迷ったりしなかった。
 風の流れに身を任せる様に、歩道橋から落ちていく。
 落下する途中。
 僅かな時間の間に夢姫はふと考えた。
(そういえば夕飯食べてないなぁ・・・)



 その夏は本当に不思議な事でいっぱいだったと思う。
 人生において貴重な体験だったとも思う。
 でも・・・思い出として薄れてしまうのが少し悲しかった。
 仕方ない事だとは解っていても。
 私は夢姫が居なくなった後に、
 音古さんとデパートの下で会った。
「すいません。私が上手く伝えられなかったばっかりに・・・」
「ううん、音古さんの所為じゃない。
 それに・・・またきっと会える、そう信じてるから」
 どこかその言葉は虚しく午後の夕焼けに消えていく。
 何かを言い足そうに音古さんは私の方を見たが、
 躊躇ったのか何かを言っては来なかった。
 二人して風情のある夕焼けを背に歩く。
 商店街の方では風林の音がしていた。
 夢姫は今頃どこで何をしているのか。
 きっとあの男から逃げ切れてると思う。
 心配じゃないか、と言われれば凄く心配だ。
 けれど・・・あの子は諦めない。
 だから夢姫はなぁ君という人にいつか会える気がした。
 そうじゃなきゃ報われない。
「あの、こういう事を聞いて良いのか解りませんけど・・・
 汐原先輩と夢姫さんって、一体どういう関係なんですか?」
「・・・うん。夢姫は、私の友達」
「友達・・・ですか」
「そう、大切な友達」



 ――――――夏が、過ぎていく。

 私にとって特別な夏が。

 思い出となって風化する前に、私はちゃんと言えた。

 これだけはどんな事があっても忘れないでね、夢姫。

 私は、貴方の友達だから。

 貴方は私にとって大切な、友達だから・・・。

第十三話へ続く