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黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫

色彩の無い筺庭
−Guia do Pecador−


第十五話
「リミット(T)」


 ルキフグ=ロフォケイルは一つの事実を知っている。
 彼がルシファーより華月夢姫の事を任された時、
 華月の事について重要な事を伝えられていた。

「いいかいロフォケイル。彼女には僕の力を与えた。
 ただ、それは人間が持つには少々大きすぎる。
 だから彼女の身体が変調をきたしたら、
 すぐに力を使うのを止めさせて欲しいんだ」
「もしもその華月って女が、
 それでも使い続けたらどうなるんです?」
「・・・身体が耐えきれずに崩壊してしまうだろう」

 彼は自分の愚かさを呪いたくなる。
 その時が来るまではと、伝えあぐねてしまっていた。
 今、ロフォケイルは彼女を探している。
 デパートでの一件以来その消息は途絶えていた。
 冥典の探索を打ち切ってまで色々な場所を探し回っている。
 だが彼の情報網を持ってしても、
 彼女がどこにいるかはまだ掴めていなかった。
(華月さん・・・あんたの身体は、
 もうその力に耐えられないかもしれない。
 あんたにもしもの事があったら・・・)

11月05日(木) AM07:20 晴れ
自宅・二階・大沢武人の部屋

「う〜ん・・・」
 寝返りをうちにくい。
 無理矢理寝返りを打つと、
 なんだか変な感触が手に当たった。
 それに顔にさらさらしたものが当たっている。
 とてもむずがゆい。
 目覚めるにつれ、俺は血の気が失せていくのが解った。
 手で何かを握っているのです。
 それも・・・滅茶苦茶柔らかい。
 歌詞風に言うと『やらかい』。
 俺はがばっと上半身を起こすとそれを見てみた。
「・・・やべえ」
 触っているのはそりゃあもう素敵なもの。
 華月さんの胸だ。
 しかもガシッと握っちまっている。
 気付いてしまったらもう下半身はスタンドアップ。
 悲しきかな盛りのついた高校生って事だ。
 いや待て、朝だからか?
「おはよう」
 彼女の瞳がゆっくりと開く。
 俺の手は彼女の胸を握ったままだった。
「ご、ごごごごめんっ」
 慌てて手を放すが彼女は動揺する仕草も見せない。
 こっちを向くと上半身を俺の方に倒してきた。
 寝ぼけてるらしい。
 手で受けとめようとするが、
 それより先に彼女の顔がアレに当たる。
「・・・なんか固いのがある」
「うぉおおっ!」
 速攻で俺は彼女をどかすと立ちあがった。
「いや〜今日は良い天気だっ!」
「そうだね」
「あ、そうだ。着替え持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ用意するからちょっと待ってて!」
 彼女の服は出会った時のまま。
 俺は自分の部屋を出ると妹の部屋へと歩いていった。

11月05日(木) AM07:31 晴れ
自宅・二階・大沢桜の部屋

 何気なく入ってきてしまったわけだが、
 あいつの服なんてあさっていいのだろうか。
 この部屋に来る事自体久しぶりだった。
 別に入るのが嫌だったワケじゃない。
 いつかは誰だって過去になるんだ。
 大事なのはそれをどう俺が感じて生かしていくのか。
 吹っ切れたワケじゃないけど、
 涙を流すほど悲しくなる事も無くなった。
 意外と人間って言うのは利己的に出来ている。
 どんなに悲しい事があっても、
 それを過去に変えられるんだ。
 でもきっとそれは俺の為でもあり桜の為でもある。
 今だから俺はこの部屋を懐かしんで居られるんだ。
 あんなに後悔して、泣いたっていうのに。
 クローゼットを開いてみると、
 あいつの好きだった肌色の服が並んでいる。

 
 「肌色は、優しくされたいっていう気持ちの色なんだ」

 もう記憶の中にしかない桜の声。
 それも少しずつ風化していく。
 良いんだよな桜、これで・・・。

11月05日(木) AM07:36 晴れ
自宅・二階・大沢武人の部屋

 部屋に戻ってくると彼女に服を渡す。
 すると無言で着替え始める華月さん。
 上着に手を伸ばして頭をくぐらせようとする。
「ちょ、ちょっと待った!」
「なに?」
「お、俺は部屋の外に出てるよ」
「わかった」
 危なくブラジャーが見える所だった。
 ・・・いや、見ても良かったんだけど。
 でも彼女のお腹はバッチリ見えた。
 痩せてるんだけど質感がある肌だな。
 って何を考えてるんだ俺は!
 下半身に再び気合いが入る前に外へと出ていった。

11月05日(木) AM07:51 晴れ
自宅・一階・リビング

 朝飯を作ると俺と華月さんは席につく。
 パンと目玉焼きという簡素なものだが、
 それは仕方がないと言う物だ。
「華月さん、美味しい?」
「違う」
「え?」
「華月さんじゃなくて、夢姫が良い」
 昨日から薄々気付いていた。
 彼女は相当な不思議ちゃんだ。
 しかも話の内容が子供に近い。
 だが・・・これもアリだね!
 彼女のどんな要因も俺にとっては魅力的に見える。
 つくづく外見は重要だと痛感させられた。
「じゃあこれから夢姫って呼ぶよ」
「うん」
「それでさ、夢姫。御飯美味しい?」
「凄く美味しい」
 微笑んだか微笑まないかの微妙な線。
 そんな微妙な笑みを彼女は浮かべた。
 こんな朝が迎えられるとは・・・神様ありがとう!
 と、そこで妙な声が聞こえてきた。
「ぴんぽ〜ん。入って良いぞ〜。おうっ」
 一人芝居か?
 直後、禊が勝手に人の家に上がってくる。
「たっつー、来てやったぞ」
「待て。なんだ今の一人芝居は」
「面倒だから手順を略してみたっ」
 とんでもない事をしやがるな・・・。
 不法侵入で訴えてやるか。
 くそ、折角夢姫と二人きりだったのに。
「それはそうとたっつー。あたしにも御飯」
「はぁ?」
「親父とママンが喧嘩して御飯食べられなかった」
「・・・ったく、仕方ねえなあ」
 禊の両親は基本的に仲むつまじい夫婦だ。
 しかし一度喧嘩が始まると大変な事になる。
 なにしろ元が暴走族だからな。
 相当な喧嘩になると予測できる。
 俺は禊にパンと目玉焼きを作ってやった。
「たっつーの手料理か」
「ま、手料理って言うほどのもんじゃないけどな」

11月05日(木) AM08:09 晴れ
自宅・二階・大沢武人の部屋

 禊の喰うスピードが遅い所為で思わぬロス。
 俺は戸締まりと火の始末を確かめると夢姫に言った。
「それじゃ俺達は学校だから」
「うん。学校か・・・良いなぁ」
「あはは、じゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「・・・・・・」
 なんか凄く良い気分だ。
 久しぶりに行ってらっしゃいなんて言われたぜ。
 しかしにやけていると禊にリバーブローを決められる。
 苦しみに悶えながら俺は家を出る事になった。

11月05日(木) AM08:22 晴れ
丞相学園・エントランス

 いつもより少し早く起きたのに結果はギリギリ。
 全ては禊がいきなり俺の家に来たせいだ。
 おまけに俺達が一緒に登校しているのを、
 同級生とかがさりげなく見ている。
 まさか何か勘違いされてるのか・・・?
「これからもあたしの為に上手い朝飯を作れよ」
「・・・ばかやろっ」
 その口調はまるで、昨日お前が
 俺の家に泊まったみたいじゃねえか!
 額に手を当てて「やれやれ」な感じを演出してみた。
 すると前の方にヤバい人影が見えてくる。
 エントランスの自動改札の所に冬子先生が立っていた。
 どうして自動改札があるかというと、
 もうハイテクな学校だからとしか言いようがない。
 そこで部外者の侵入防止に生徒確認を行うわけだ。
「お二人さん、今日はまるで夫婦の様ですなあ」
 冬子先生が思いっきり茶化してきた。
 俺はそれを無言でスルーしようとする。
 だが残念ながら隣には禊が居る。スルー不可だった。
「冬子、ぐ〜てんもるげんっ」
「もるげん。禊、大沢の家で朝飯を食べてきたのか?」
「おうっ」
「・・・そうか」
 妙に神妙な顔で先生は俺の肩に手をやる。
「大沢、ゴムは着けろよ」
「は、はぁ?」
「まさかナマが良いなんて駄々をこねちゃいないよな?」
「根本からして全然間違ってますが・・・」
 っていうか、朝から下品な冗談は勘弁してくれ。
 冬子先生はどうしてこんなに色恋沙汰が好きなんだろう。
 何気なく俺は冬子先生を見てみた。
 髪は長くて後ろで一つに束ねている。
 胸はそこそこある方だと言って差し支えない。
 少し短いスカートから覗く太腿は、
 成熟した女性の色香とでも言うべきか。
 スタイルは良い。
 出過ぎという事はなく出なさすぎという事もない。
 顔だって目つきは鋭いけど、
 優しい人なので問題なかった。
 そうやってジロジロ見ていると冬子先生が俺を睨む。
「人を見る時はもっと自然体で見なさい。
 かなりいやらしい目つきだったぞ」
「いや、その・・・」
「まあ良い。男子生徒の偶像になる事も仕事の一環だ。
 その迷えるパトスを私にぶつけてきなさい」
 なんか危ない事を言ってる様な気もする。
 だがこっちが本気になろうモノなら、
 冷たくあしらわれるのは明白だった。
「どうした大沢。まさか本気で考えてるんじゃあるまいな」
「いえいえいえっ! も、もう行きます」
 俺は急いで改札に生徒証をくぐらせる。
 慌ててるせいか上手く改札に生徒証が入らなかった。
 後ろでは禊が冬子先生とまだ話している。
 ああ、変な事を言ってなけりゃ良いけど・・・。

11月05日(木) PM15:42 晴れ
丞相学園・音楽室前

 その日の放課後、俺が音楽室に来ると扉が閉まっていた。
 鍵がかかっているらしい。
 中を見ようとしてみたが、
 扉の窓にはカーテンが掛かっていた。
 まさか俺を閉め出し・・・?
 そんなアホな事を考えてると後ろから肩を叩かれる。
「今日は無理やて」
「夏芽か・・・」
「なんや、冬子先生が知り合いと話しとるみたいやで。
 と言うわけでプライベートの侵害はしたらあかん」
「まあそうだな・・・帰るか」
 帰って夢姫の様子を見なきゃいけない。
 俺達は仕方なく音楽室から去っていった。

11月05日(木) PM15:34 晴れ
丞相学園・音楽室

 武人が来る数分前。
 冬子はピアノの椅子に、黒澤は音楽室の机に座っていた。
 彼は黙ったまま冬子のピアノを聞き始める。
 曲は彼女の十八番、『主よ、人の望みの喜びよ』だ。
 煙草を口にくわえながら、一心不乱に弾き続ける。
「・・・冬子」
 黒澤が彼女の名前を呼ぶが彼女は答えない。
 無言でピアノの鍵盤を叩いていた。
 少しして曲が終わる。
 いつの間にか口元の煙草の灰は彼女の足下に落ちていた。
「私が最後まで弾けるかどうか、確認したかったんだ」
「そうですか」
 彼女は黒澤との別れ以来、
 曲を弾ききる事に抵抗を感じていた。
 それを吹っ切る意味で彼女は最後まで曲を弾く。
 何処か冬子は古傷の痛みの様な疼きを感じていた。
「一体、今更何を言いに来たんだよ。
 お前は私に理由も言わず別れを告げた。
 今更・・・何の話があるっていうんだ?」
 静かに、だが確実に強い口調で冬子はそう言う。
 黒澤はため息をついて眼鏡の位置を直した。
 ゆっくりと冬子に近づき、
 ピアノの上にあったティッシュを取る。
 彼は冬子の足下に落ちた灰をふき取り始めた。
「あの時の私は・・・せっぱ詰まっていたんです。
 君が悲しむという事も考えず、非道い事をした」
「何を言うかと思えば・・・謝りにでも来たの?」
 少しだけ冬子の瞳が揺れる。
 それを黒澤は見逃さなかった。
「謝る資格があるかは解りません。
 私はあの時、違う女性を見ていたのだから」
「っ・・・!」
 乱暴にピアノの蓋を閉めると冬子は手を握りしめる。
 深呼吸する様に目を閉じた。
 その黒澤の言葉はあまりに彼女を苦しめる。
 これほど愛せる人がこの先に現れるだろうか。
 これ以上に自分を解ってくれる人が現れるだろうか。
 かつて彼女はそう思う程に黒澤を愛していた。
 今ではもう過去の事。
 そう思えるはずだった。
 だが久しぶりに黒澤の顔を見た時、
 奥底に押し込めたはずの感情が蘇る。
「どうしてそうやって平気で私を傷つけるのかな。
 霧生はいつもそう。優しい顔して心の底を見せない」
「・・・手厳しいですね」
「その人と、今付き合ってるのか」
「彼女の事を追いかけていたんですが、
 どうも行方がしれなくなってしまいましてね」
「なるほど。で、都合良く私と
 ヨリを戻そうってワケか・・・ふざけるなっ」
 バン、とピアノを叩いて立ちあがった。
 そのまま鍵を掴むと帰ろうとする冬子。
 黒澤は彼女の左手を取ると自分にむき直させる。
「確かに許されない事をしたと思っています。
 生まれて初めて、こんなに悩みましたよ」
「手を・・・放して」
「やっと貴方の大切さに気付いたんです。
 どうしてこの手を放したのか・・・。
 この数年、君の事ばかり考えていました」
「き、霧生・・・」
 冬子は思わず俯いてしまった。
 それもそのはず、付き合っていた時でさえ、
 黒澤は彼女にそこまでは言っていない。
 始まりが自然な流れだったので告白の言葉はなかった。
 愛を交わした夜も多くの言葉を語り合ってはいない。
「私は君に言おうと思っていた言葉があるんです。
 宜しければ聞いて頂けますか?」
「・・・ああ」
「君は私にとって唯一の天使だ。
 これからは、私だけの為に輝いていて欲しい」
 そんな言葉の後で黒澤は冬子を抱きしめた。
 強く、決して離さない様に。
 陳腐な文句ではある。
 だが彼女が黒澤にそこまで強く求められたのは、
 付き合っていた頃を含めて初めての事だった。
(年甲斐もなく照れてしまってるよ、私は・・・。
 ったく、やっぱりこいつには勝てないのかもな)
「その言葉・・・嘘じゃないって、信じても良い?」
「ええ。嘘などではありません」
 抱きしめたまま冬子の耳元でそう囁く。
 確かに黒澤は嘘は付いていなかった。
 その瞳にはいっぺんの揺らぎもない。
(そう、嘘は付いていません。
 ただ・・・全ての言葉は、ジブリールへのものですがね)
 そっと黒澤の背に添えられる冬子の手。
 彼女にとってそれは黒澤を受け入れるという事だった。
「ちっ、本当はもっと言いたい事もあったんだ。
 良い女になって見返してやるつもりだったんだ。
 それなのに・・・台無しだよ」
「・・・そうでもありません。後悔していますよ。
 こんなに素敵な女性を何故手放したのかと、ね」
 思いがけず冬子の瞳から一筋の涙が零れる。
 悔しくもあったが、彼女は素直に嬉しかった。
 どうしようもなく冬子の気持ちは正直になっている。
 それだから嬉し涙が流れてしまったのだ。
 しかし彼女は安易に笑ったりはしない。
 恨みがましい顔で黒澤を見つめていた。
「格好悪いな・・・一応、教師になったのに」
「お互い様ですよ。私だって教師の身で、
 少しばかり恥ずかしい台詞を言ってしまいました」
 黒澤はそんな言葉の後で冬子の頬に触れる。
 瞳を閉じて、抱き合ったまま唇を重ねた。

11月05日(木) PM16:02 晴れ
自宅・二階・大沢武人の部屋

 帰ってくるとすぐに自分の部屋へと歩いていく。
 しかし夢姫の姿がなかった。
 俺は辺りを見回してみるがどこにも居ない。
「ゆめ?」
 あの身体で何処かに行けるはずがなかった。
 嫌な予感がする。
 きっとすんげー馬鹿な事を考えてる、俺って奴は。
 でも俺が馬鹿なだけならその方が良い。
 去年の事を思い出していた。
 鞄を乱暴に投げ捨てると一階へ駆け下りていく。

11月05日(木) PM16:05 晴れ
自宅・一階・リビング

 一階にも夢姫の姿はなかった。
 この感じだとこの家の中に彼女は居ない・・・くそっ!
 一体あの身体でどこへ行くって言うんだ!?
 それとも誰かがあの子を連れて行った?
 いや、あり得ない。
 恐らく夢姫は一人で何処かへ行ったんだ。
 だとしたら・・・どこへ?
 着るモノを適当に選ぶと俺は外へと走っていった。

11月05日(木) PM16:10 晴れ
自宅・玄関前

「あ」
 居た。
 夢姫は家を出てすぐの車道の、
 向こう側にある壁に寄りかかっていた。
 少し辛そうに見える。
 俺が駆け寄ろうとすると彼女はこちらに気付く。
 するとそのまま俺の方に向かって歩いてきた。
「ばっ・・・!」
 目の前は車道だ。
 車の通りだってこの時間少なくない。
 それなのに彼女は車が全然見えてなかった。
 地面を力の限りに踏みつけて走り出す。
 近づいてくる軽自動車。
 彼女の身体をなんとか抱きしめると、
 そのまま俺は歩道へと走った。
 だが間に合わない。
 軽自動車が通り過ぎるスピードの方が早い・・・!
 瞬間、急に身体が軽くなった気がした。
 何かに後押しされてる様な感覚。
 おかげで俺達はなんとか歩道に逃れる事が出来た。
 俺の方は軽く身体を打ったが、
 彼女は俺が抱きしめていたので怪我はない。
「この・・・馬鹿野郎!」
「え・・・」
 俺の言葉で夢姫が一瞬びくっとする。
「もし車にはねられたらどうするつもりだったんだよ!
 それとも死んでも良いとか、考えてたのか?」
「ちが・・・」
「生きてる内は・・・死ぬ事は考えんな。
 どんな時でも、生きてるって事は幸せなんだ」
 夢姫を抱きしめて俺はそう言う。
 少しして、俺は自分の言った事に気付いた。
 俺はなんて恥ずかしい事を・・・。
「私、死ぬ事なんて考えてないよ」
「あ・・・そ、そうなんだ」
「そうだよ」
 俺は抱きしめてる事にも気付く。
 慌てて夢姫の身体を引いた。
 彼女は少し落ち込んでいるらしい。
 肩を落として俯いてしまっていた。
「・・・あ、あの・・・ごめん」
「ううん。私もごめんなさい」
 夢姫は俺の胸に額をこつん、と乗せる。
 それはかなり可愛らしい光景だった。
 無防備な背中が俺の目に映っている。
 だ、抱きしめてしまおうか・・・。
 しかし俺は重要な事に気付いた。
 ここは歩道だ。
 辺りの人達に好奇の視線で見られている。
「夢姫、とりあえず家に帰ろう」
「うん」
 奇妙な事に気付いた。
 彼女の背中が普通より明らかに早く上下している。
「夢姫?」
「・・・うん」
 今までで一番、夢姫の表情が辛そうだった。
 傷口が開いたのか?
 どちらにしても歩く事も無理そうに見える。
「よし、背中に乗っかれ」
「うん」

11月05日(木) PM16:18 晴れ
自宅・二階・大沢武人の部屋

 彼女を自分のベッドに寝かせると、
 俺はすぐに病院に連絡を入れようとした。
 するとそれを夢姫が止める。
「病院やだ」
「やだって言っても・・・」
「あいつに場所がバレるかもしれない」
「・・・あいつ?」
「わたしを殺そうとした人」
「は、はぁ・・・!?」
 どうにも彼女が嘘をついてる様には見えなかった。
 信じがたい話ではある。
 だけどそれが本当なら、病院へ運ぶのは少しまずい。
 いや、本当にまずいのかは解らなかった。
 ただ夢姫がそう言ってる。
 この調子じゃ無理に連れては行けなさそうだ。
「解った。でもこれ以上辛くなる様なら、
 無理矢理にでも連れてくからな」
「うん」
 病院が駄目なら禊しかないか。
 あいつの携帯の番号を入れると俺は電話をかけた。
 3コールで禊は電話に出る。

「たっつー、どうした?」
「ああ、ちょっと家に来てくれるか?」
「なにをっ! それは大人なお誘いか!?」

 うわ・・・なんか妙な勘違いしてる。
 禊は今にも怒り出しそうな声だった。

「違うよ。夢姫の容態が悪くなったんだ」
「・・・そうか、解った。晩飯を用意して待ってろ!」

 確実に俺の家で夕飯を食う気の発言をすると、
 一方的に禊は電話を切った。
 仕方ねえ・・・飯くらいは作ってやるか。
 振り返って夢姫の方を見てみる。
 彼女は辛いのを我慢していたのか、
 気を失う様にして眠っていた。
「ったく・・・本当に大丈夫だろうな」
 俺は外に出ている彼女の腕を布団の中に入れてやる。
 その時、彼女の腕が俺を強く引っ張ってきた。
「っ・・・!?」
 唇と唇が重なる。
 つまりキス? これ、キス?
 なんて嬉しい不意打ち・・・!
 と思ったのもつかの間、
 慌てた俺は後ろに倒れてしまった。
 無意識の内に唇を押さえる俺。
 対照的に夢姫は無表情に眠っている。
「なぁ君・・・」
「え?」
 今の寝言はなんだ?
 もしかして、俺の事を誰かと間違えてたのか?
 キスをした相手が『なぁ君』とか言う奴のつもりだった?
 重要な問題が発生してしまった。
 『なぁ君』って誰だ!?
 まさか彼女は、彼氏持ちなのか!?
 やばい・・・へこみそうだ。
 どうやら俺って奴は彼女にマジになり始めてるらしい。
 誰なのか気になる。
 そいつの事を口にした瞬間、
 彼女の表情が凄く柔らかくなってた。
 う・・・夢姫を見ていると変な気分になりそうだ。
 ひとまず俺は一階に下りる事にする。
 途中でふと奥にある桜の部屋に目がいった。
 幽霊って奴がもしいるのなら・・・教えて欲しい。
 この気持ちに従って良いんだよな。
 最後の一線を越えて、お前を忘れてしまっても・・・。
 なんて・・・俺は何を考えてるんだろう。
 無理に忘れなくたっていい。切り離さなくたっていい。
 自然に桜は俺の中から散ってしまうのだから。

第十六話へ続く