Back

黒の陽炎
−2ndSeason−

著作 早坂由紀夫

断章.持たざる者、その終幕
−Schwanengesang−


第二十五話
「持たざる者」


11月16日(月) AM11:47 晴れ
丞相学園・二階廊下

 階段を駆け上がって二階へと辿り着く。
 携帯を取り出して時間を確認してみた。
 後十分ちょっとか・・・慎重派の俺としては怖い時間だな。
 周りは生徒でごった返していた。
 さっきの放送で皆、とりあえず逃げるらしい。
 まあ、避難訓練の要領だろう。
 咎める先生達も居ないみたいだし・・・。
「ん?」
 居ないっていうのはおかしい。
 今は丁度授業中のはずだ。
 誰もいないはずがない。
 それなのに辺りに教師の姿はどこにも無かった。
 なんだか妙な雰囲気を感じる。
 雰囲気のせいか本当にヤバい気がしてきた。
 急ぐに越した事は無いので、俺は夏芽の姿を探す。
 周りの生徒を見渡してみるがそれらしいのはいなかった。
 とっくに外に出てるようなら良いんだけど・・・。
 そこで、俺の方に走ってくる人影に気がついた。
 淳弘と禊。緊急時という顔はしていない。
「タケ、学校来たんだ」
「ああ。それより夏芽見なかったか?」
 その質問に答えたのは禊だった。
「夏芽・・・10分くらい前に、片山と音楽室に行ったぞ。
 そういえば、まだ戻ってない」
「は? なんで?」
 確か片山というと数学の教師だったような気がする。
 追試とかだろうか。
 それにしては、今この状況で?
 さすがにもういないとは思う。
 でも一応見てきた方がいい気はした。
「ちょっと見てくる。二人は先に、外出てろ」
「うん。でもあの放送ってホントなのかなぁ」
「嘘ならそれで良いじゃんか。とりあえず避難しとけ」
「・・・たっつー、死ぬなよ」
 そう言って親指を立てると、
 禊は淳弘と一緒に走り出す。
 あいつは間違いなく楽しんでるな・・・。

11月16日(月) AM11:49 晴れ
丞相学園・音楽室

 音楽室は二階の端にある。
 俺は急いでそこまで走ると、扉を開けようとした。
 と、中から小さく声が聞こえてくる。
「これ以上、先生のっ・・・手を、煩わせるんじゃ、ねぇっ」
 机がぶつかるような音。
「いやっ! 来ないでっ!」
「・・・・・・」
 今のは誰の声だ? 夏芽?
 関西弁を話してない。
 それくらいせっぱ詰まってるって事か?
 慌てて俺は扉を開ける。
 中には机を持ち上げて構えてる夏芽と、
 凄い形相で夏芽を睨む片山が居た。
 思わず俺は片山に飛びかかっていく。
「ぐっ」
 そのままタックルを決めて片山を床に倒した。
「よくも人の幼なじみに変な事しようとしやがったな・・・」
「ぎひっ・・・ボク、解らな〜い」
「ボク、解らな〜い。じゃねえよこのタコ!」
 片山はとんでもなく醜い顔で笑う。
 あまり頭に来たもんだから、
 俺は相手が教師だという事も忘れて片山を殴っていた。
 だが片山は物凄い力で俺の首を掴み、身体を持ち上げる。
「謝らないと、ぶっ殺しちゃうよ」
「気持ち悪過ぎるで! この変態!」
 夏芽が机を片山の顔面に直撃させた。
 こりゃあ間違いなく、鼻の骨折れたな・・・。
 まあ、おかげで俺は片山の手を引きはがす事が出来た。
 奴はぴくぴくと痙攣してるが、
 ここは万事OKとしておこう。
「とりあえず学園から出るぞ、夏芽」
「・・・せやな」
 そう言うものの、夏芽は腰からへたり込んでしまう。
「何してんだよ」
「アホか! たっつーが来るまでずっと頑張ってたんやで!
 ウチはな、こういうのは・・・笑い飛ばせへん子なんや」
 珍しく泣きそうな顔で夏芽は俺を見つめてきた。
 幾らレズと解ってても、こういうのには弱い。
「しゃあねーな・・・」
 はんば無理矢理に俺は夏芽を背負った。
 少しばかり何か言いたげな顔をしているが無視する。
 今は早く片山の居るこの音楽室から去りたかった。
 後で暴力事件とかに発展しません様に・・・。

11月16日(月) AM11:51 晴れ
丞相学園・二階廊下

「いきなりやで。用があるから言うて呼ばれて、
 音楽室来たらいきなりゴアーっと襲ってきたんや。
 ありゃ尋常じゃない言うか、むしろ気違いやったな」
 ゴアーの意味はよく解らないが、状況は飲み込めた。
 さっきの電話は正にその最中だったわけだ。
 なんで温厚で有名な片山があんなになったかは不明だが、
 それを気にしても答えは出ないだろう。
「でも、よく俺に電話する余裕があったな」
「ウチをナメんといて。机片手に電話してたわ」
 だから息が荒かったのか・・・。
 それなら逃げる余裕もありそうな気もする。
 ・・・とはいえ、だ。
 背中の夏芽の身体はがくがくと震えている。
 こいつ、よっぽど怖かったんだな。
「どうして電話で来るな、なんて言ったんだよ」
「ま、あの時は・・・たっつーまで危ない目に遭うと思てな」
 思いがけず笑みが零れてしまった。
 自分自身が危ない時に人の心配なんて、
 夏芽らしいっていうかなんていうか。
「何を笑っとんのや。人が貞操の危機やったのに・・・」
「いや、でもさ。無事だったわけだし」
「・・・まぁな。たっつーが来てくれたおかげや」
「もっと誉めてくれ」
「嫌や。すぐにお前はつけ上がるからな。
 せやけどな・・・ホンマに、感謝はしとる」
「あ、ああ」
 妙に夏芽が素直な気がする。
 これを機に男へと目覚めてくれれば良いんだけどな。
 何を隠そう俺の初恋の人は夏芽だ。
 桜を意識し始めたのは中学の半ばからだったし、
 それまで夏芽は俺の中では恋愛対象だった。
 そう、夏芽がレズになったのはその頃だった気がする。
 アレは凄いショックを受けたよなぁ。
 好きな人が女しか愛せないって公言した時。
 俺はホント、人生の狂った歯車の音が聞こえた気がした。
「ん? そういえば夢姫はどうしたんや? 家か?」
「それは・・・」
 ここまでの経緯を軽く夏芽に説明する。
 と、いきなり夏芽は俺の背中から降りて怒り出した。
「あんたって男は、夢姫を放り出して来おったんか!?」
「いや、とりあえず夏芽達の無事を確認しに来たんだよ」
「なら早よあの子の所へ行くで!」
「は?」
 今のは明らかに自分も行くという発言の気がする。
「夢姫の事、大切やんか」
「そ、そりゃ・・・な」
「ウチもや。大事ならなんで離れるねん。
 ずっと側で、守ったらんかい!」
「んな事言ったって、俺らが行ったって邪魔だって」
「だからなんや。それでも行く、それが漢やろ!」
 何故か俺は夏芽に漢論を語られていた。
 けど、一理ある気もする。
 あの時きっと俺は自分に自信がなかった。
 まあ今でも守るとかの自信はない。
 ただ・・・本当に大事なら、離したりしちゃいけなかった。
 そうだよな。
 俺は夢姫の事を好きなんだろうか。
 好きなのかもしれない。
 あの子は『なぁ君』一筋だってのにな。
 ホント馬鹿だな、俺って奴は。
 好きになるのは厄介な人ばっかだ。
「夏芽、俺・・・あの子の所に行ってくる」
「せやな。ウチも行くで」
「やっぱりかよ・・・」
「何してるのか興味あるやんか。
 それに、あの子への気持ちやったら誰にも負けへん」
「あ、そ」
 なんというか、夏芽と一緒にいると場が締まらないな。
 初恋の人と自分が同じ相手を好きになる。
 こんなシチュエーション、いらねえよ・・・。
 ひとまず爆発するという予定時までは後5分少々。
 俺達は急いで一階へと走り出した。

11月16日(月) AM11:52 晴れ
丞相学園・校舎裏

 校舎裏を走るベリアル。
 彼の程良い長さの前髪が揺れる。
 左腕を元に戻したファサードは、すぐ先を走っていた。
 二人の距離は微妙だが縮まってきている。
 直にベリアルが追いつく公算は高かった。
 そこで彼は自分を狙う何かの存在に気付く。
 気付いた時にはすんでの距離だった。
 黒い刀が彼の首ギリギリを掠めていく。
 校舎の窓から飛ぶようにしてイヴが跳躍したのだ。
「さすがに見破ったか・・・」
 ベリアルの眼前にイヴは立ちはだかる。
 その射抜かれるような冷たい瞳。
 先ほどの状況で黒澤を裏切る要因となったのはそれだ。
 彼が知っていたイヴではない。
 別の誰かのようにさえも見えた。
 以前より高い状態にあるベリアルの実力でも、
 彼女の前では微かな違和感を感じる。
「チィ・・・貴様如きが、よくも我に挑んでくるものだ」
「如きなのは貴様では無いのか?
 さあ、私がインフィニティへと送り返してやろう」
 イヴは黒い刀でベリアルに切り込んでいった。
 すかさずベリアルはその太刀筋を見極めて冷静にかわす。
 思わず彼は怒りで表情をゆがめた。
「貴様如きには勿体無いが、
 本来の我が肉体で仕留めてやろう」
「ふん、面白い。悪魔の中でもルシファーにつぐという力。
 それを粉砕してこそ完全な勝利と言える」
 ベリアルを挑発するようにイヴはそう言う。
 彼女からすればそれは自信でもあった。
 今の自分であれば、本来のベリアルを倒せる。
 そう感じたのだ。
 実際、力の差は大きい。
 ただ彼女には大きなアドバンテージがあった。
 具現された能力は意味を為さない。
 それは悪魔や天使との闘いでは実に重要だった。
 想像補強、いわゆる具現強化と呼ばれるものでさえ、
 強い力を具現する事による作用。
 本来の殺傷能力で彼女を傷つける事は難しい。
 つまり現実の武器を使うなどしなければ、
 イヴを傷付ける事は不可能に近いのだ。
「エル・フェル・ム・ポアス・イヨフ・ザグ。
 シグ・ネェロ・アル・フィエロ・ソルティ・ディアータ。
 汝の封より汝の肉体を、過負荷による損失を」
「エイシェント・・・それほど巨大な力を込めた本体か」
 通常、悪魔の本体が受肉する為には、
 生贄となる人間の肉体が必要になる。
 多くの場合それは自らの奪った肉体で補う事が可能だ。
 だが強大な力を持つ本体の場合、
 自分以外の肉体も必要になる。
 それもある程度の先天性魔動力を秘めた肉体が。
 殆どの悪魔がエイシェントと呼ばれる呪式を使う事はない。
 現象世界で本体を現す必要はまず無いし、
 なにより手順が込み入っているからだ。
「貴様が相手だ、簡易呪式による短期解放でいい。
 正午までに決着をつけてやろう」
 ベリアルの姿は七色に光る霧で包み込まれていく。

11月16日(月) AM11:54 晴れ
丞相学園・職員室

 職員室で黒澤は自分の愚かさ加減に辟易していた。
 何故、手の平を返すように冬子を助けたのか。
 見捨てるつもりだったにもかかわらず、
 彼は冬子の事を助け自分を犠牲にしてしまったのか。
(愚かすぎる。悪魔としてあるまじき行動ですよ、本当に)
 ふと黒澤は自分の身体がまだ立ち上がれる事に気付く。
 あれだけ黒い刀で刺されたにもかかわらず、だ。
 致命傷に至ってない事は奇跡に近い。
 腹部ばかりを狙われた為に、臓器は酷い事になっていた。
 だが肉体の痛みが完全にリンクしているワケではない。
 耐える事は出来た。
「くっ・・・」
 何とか身体を起こす。
 近くには殆ど下着姿で倒れている冬子の姿があった。
 思わず黒澤は自分の血で染まったスーツの上着を被せる。
(この期に及んで、私は何故こんな事を・・・)
 一つだけ彼には思い当たる事があった。
 それは身体の本当の持ち主である、人間の黒澤だ。
 彼の意志に身体が引きずられている。
 そう考える事が今の彼にとって妥当な線だった。
(完全に消えたように思えて、
 人間の意志とは時に怖ろしいものです)
 酔狂に付き合ってやるのも悪くない。
 黒澤はそう考えた。
 傷の事を考えればディスクを追う事も出来ない。
 それならばと、彼は意識を失っている冬子を抱き上げた。
「ふっ・・・人間らしい感情は、これで最後です」
 そのまま彼は一歩一歩を踏みしめるように歩く。
 腹部の傷からその度、赤い血が流れていった。
 職員室の扉を開けると、ゆっくり廊下を歩いていく。

11月16日(月) AM11:55 晴れ
丞相学園・エントランス

 一人で学園の入り口までやってくるファサード。
 そこから外へと出るわけにもいかない。
 彼は夢姫を始末するように言われているからだ。
 冥典を守る事など容易い。
 そう考えると、彼は学園内へ戻ろうとした。
 するとそこで夢姫と鉢合わせする。
 学園入り口から少し逸れた校舎の前で彼らは向き合った。
 位置的には校舎内に生物室が見える場所だ。
「・・・見つけた」
「OH、神はやはり私の味方デース」
 爆発までの残り時間は約三分。
 それだけあれば充分だとファサードは考えた。
 ちょうど彼の思惑のままに、
 教師達がエントランスからやってくる。
 夢姫が振り向くと教師達が彼女を睨んでいた。
「彼らはデスねー、シードの実験台なのデス。
 シードという神より預かりし種を身体に埋め込み、
 本能と私にのみ従う人間を作れるか試してみました」
「ふ〜ん」
「若干、私の命令よりも本能優先で動く辺りは失敗デス」
 それが合図のように教師達は夢姫へと飛びかかっていく。
 躊躇わずに夢姫は一人目をカルチャースティックで、
 ぐちゃぐちゃの肉の塊にしてのけた。
 彼女は怯んだ教師達を無視するとファサードへ向き直す。
「君は人を殺す時になんて素敵な目をするんデス。
 ゾクゾクしてしまいマスよ・・・」
 ファサードの話を大して聞かずに、
 夢姫は彼の元へと走っていった。
 少し向こう側では生徒達が学園を見ている。
 位置的に死角なのか、夢姫達に気付いてはいない。
 気付いたのはエントランスから出てきた武人達だった。
「ゆめ・・・うわああぁああっ!?」
 武人は目の前にある教師の死体を見て叫び声を上げる。
 ついさっき夢姫がぐちゃぐちゃにしたものだ。
「しゃ、洒落にならへん・・・」
 思わず夏芽と武人は顔を背ける。
「こ、これ・・・夢姫、そいつがやったのか?」
「ううん、私がやった。邪魔だったから」
「え・・・な、何言って」
 彼女の隣にいるロフォケイルは額に手をやった。
「今はそんな事はどうだっていい。黙ってて下さい」
「は、はあっ!?」
 人が死ぬという場面に直面しても、
 ロフォケイルはその事実をどうでもいいと言ってのける。
 武人はその発言が許せなかった。
「人が死んでるのに、どうでもいいってどういう事だよ!」
「私や彼女にとって重要なのは、冥典を手に入れる事。
 早急の場合、それ以外に構ってなどいられない」
「そんな馬鹿な事、あるかよ・・・」
 いまいち武人は夢姫が人を殺したとは信じられない。
 だがそんな彼らをみてファサードは教師達に命令した。
「あなた方の存在など、どうでも良いのデス。
 実験台共よ、さっさと行きなサーイ!」
「ふ〜ん」
 教師達が夢姫へと襲いかかっていく。
 武人は止めようと夢姫と教師の間へと走っていった。
 そんな武人の行動を気にせず、
 夢姫はカルチャースティックを振るう。
 肉のちぎれる音がして教師が二人肉塊と化した。
 辺りには出来の悪い絵の具のような赤が散乱する。
 返り血を浴びた夢姫は、顔や髪が真っ赤になっていた。
「あ、あ・・・」
 間近でそれを見て武人はへたり込んでしまう。
 夏芽も少し距離があったものの、
 吐き戻さないのが不思議なほどの酷い光景だった。
「夢姫、こんなの・・・こんなのあかん。
 こんな風に人が死んで良いはずがあらへん」
 青ざめた表情のまま、苦しそうに夏芽は言う。
「なんで? だって邪魔だから・・・」
「そんな理由で人を殺したらあかんのや!」
「どうして・・・殺しちゃ駄目なの?」
 きょとんとした表情で夢姫はそう夏芽に尋ねた。
 意識せず夏芽の瞳から一筋の涙が零れる。
 それはあまりに自然で本人も気付かないほどだった。
 すぐにそれは大粒の涙へと代わっていく。
「そゆコトするとな、ウチが悲しいんや」
 あまりに辛そうな表情で夏芽はそう言った。
 何故、人を殺してはいけないのかと問う。
 それは夏芽にとって涙が出るほど悲しい事に思えた。
 他の人には当たり前の事が彼女には当たり前ではない。
 本当に彼女は解っていないからだ。
 開き直りでも、馬鹿にしているわけでもない。
 どうして人を殺してはいけないのか。
 そんな事さえも知らないのだ。
「・・・夏芽は、私が誰かを殺すと悲しいんだ」
 夢姫はそんな夏芽を見て、
 何かを掴んだような感覚に囚われる。
 大切なもの。
 自分が今まで持っていなかったと思っていたもの。
 長く考えている時間はない。
 他の教師達も夢姫を襲おうと構えていたからだ。
 だが夏芽の言葉がちらついて離れない。
 仕方なく、夢姫はナイフの柄の部分を使い、
 教師の後頭部を強打して気絶させる事にした。
 その様子を見てファサードはため息をつく。
「いきなり殺サズですか・・・興ざめデスね。なにを今更」
 そんなファサードの顔すれすれに、
 彼女のナイフが飛んでいった。
 すると彼は歪んだ笑みを浮かべる。
「そうデシタ。私に対しては違いますね。
 私とYOUとは美しく殺し合う運命デス。
 ククッ・・・そこの実験台どもでは失礼でシタネ」
 その言葉の後で教師達は皆、何処かへと消えていった。
 ゆっくりと右手で辺りにある小石を一つ拾う。
 するとそれで左手の甲を思い切り叩いた。
 それも何度も、血が出ても、肉が見えても。
 壁に手をついてひたすらにその自虐行為を続けた。
 武人も夏芽もそのおぞましい光景に目を背ける。
「ふっ・・・クク、これこそ至高デス!
 究極とはひと味違う大人のパワー!
 美しきレフトハンド・タッピングなのデース!」
 彼の左手から異常な形をした腕が形作られていった。
 先ほどのように、それは醜い形で夢姫の前に現れる。
「はははははははははっ!
 夢姫サン、貴方の肉を抉り、潰してあげましょう!」
「く、狂ってる・・・夢姫、逃げようっ!」
 ファサードの異常さを目の当たりにして、
 武人は思わず夢姫の手を取ろうとした。
 だが夢姫はそれに肯きはしない。
「それは駄目。あいつが持ってる冥典の手がかり。
 私はずっとそれを探してきたから」
「けどっ・・・!」
「なぁ君ともう一度会う為に、私は生きてるから」
 少しだけ困った顔で夢姫はそう言った。
 武人もそれ以上は彼女を止める事が出来ない。
 改めて夢姫の意志を武人は認識した気がした。
 それは誇張でも何でもない。
 確かに彼女は、なぁ君と会う為に生きていた。
 そこでロフォケイルが武人に言う。
「もう一分ほどしか時間がありません!
 あんた方は避難した方が良い!」
「な、なに言ってんだ! 夢姫を残していけって事か!?」
「私と夢姫さんなら大丈夫。安心してください」
 納得できない表情の武人。
 夏芽もそれには賛成できないという顔をする。
 そんな時、ふいに夢姫は言った。
「たっつーと夏芽、二人とも死んで欲しくない。
 たぶん・・・ほとんどいない、私の友達だから」
 彼女は自然に零した笑顔を浮かべてそう口にする。
 それから夢姫はロフォケイルに言った。
「おじさんは居ても邪魔。たっつー達と一緒に行って」
「あ、あっしには変わらず痛烈なんですね・・・」
 渋々ながら武人達は彼女の言う事を聞き、
 学園の入り口へと走り出す。

11月16日(月) AM11:57 晴れ
丞相学園・校舎裏

 ベリアルは霧の中からゆっくりとその姿を現した。
 程良い長さのオールバックの髪に、
 肌に張り付くような奇妙な出で立ち。
 それに美しく気高いその顔は、到底悪魔には見えない。
 背はイヴが見上げるほどに高かった。
 だが人間の時と比べてそこまで大きな差はない。
「驚いたな。それが本体か」
「確かに我が本体は悪魔らしくはないかもしれんな」
 その表情には大きな余裕が伺えた。
 イヴは構えるとベリアルを睨む。
 ベリアルはそれを見ても微動だにしなかった。
「構えないつもりか?」
「この身体ならば、その必要もない」
「・・・舐めるな!」
 刀身を軽く引いてイヴはベリアルに斬りかかる。
 その速度は人間がかわせるものではなかった。
 鋭い刃がベリアルの顔へと近づいていく。
 直前までそれが来てようやく彼は回避の動作を取った。
「なっ・・・!」
 流れるような動きで彼はイヴの一撃をかわす。
 彼の身体と刀の間には紙一枚ほどの隙間もなかった。
 イヴは刀を横にしてベリアルの身体を切り裂こうとする。
 それも彼の身体の寸前で流れていった。
「解るか? 回避する意志を伝え、それを実行する肉体。
 人間とはその速度が根本から違うのだよ」
「さすがはベリアル・・・ミカエル級の実力というワケか」
「馬鹿を言え。例え奴がレーヴァテインを使ったとしても、
 まだ充分すぎるほど我に分があるわ!」
 ベリアルの真の実力を目の当たりにしたイヴは、
 自分の考えを改めなければならなくなった。
(忌々しいが、奴の本体は私よりも遥かに強い・・・!)
 攻撃を当てる事も出来ない。
 それでイヴに勝ち目などあるはずがなかった。
「そろそろ、貴様の顔も飽きてきた・・・死ね」
 仰々しい動作でベリアルは左手で空を切る。
 すると彼の背後から炎の車輪を持つ馬車が現れた。
 馬車は激しく揺れながらイヴへと突き進んでくる。
 明らかにそれは具現だ。
 だからイヴは警戒もせずに構えを解く。
「その勘に障る態度・・・なんのつもりだ?」
「貴様の攻撃は私に通用しない」
 その宣言通り馬車はイヴをすり抜けてしまった。
 軽い驚きの表情でベリアルはイヴを睨む。
「馬鹿な・・・すり抜けただと?」
「神の理だ。貴様にはどうする事も出来まい」
 見下したような表情でイヴはベリアルを睨み返した。
 ベリアルはそれに意外な反応を見せる。
「それはどういう意味だ。
 まさか貴様、エリュシオンへ・・・!?」
「ふっ・・・だったらどうする」
「なるほどな・・・冥典。私の探し物とは違うようだな」
「なに?」
「盟主様の本体へ渡る糧かと思っていたが・・・
 どうやら違うようだな。無駄な時を過ごしたようだ」
「貴様、ルシファーを復活させようというのか?」
「当たり前だろう。それは悪魔全ての悲願だ。
 貴様と闘う理由は消えた。我は去るとしよう」
「待て!」
「そう急くな。時が満ちれば、いずれ・・・な」
 ベリアルは本体のままで大きく跳躍した。
 咄嗟に止めてはいたが、それはイヴにとって都合が良い。
 このまま闘っていても勝ち目が薄かったからだ。
 一息つく間もなくイヴはファサードの元へ走り始める。
 しかしその足はすぐに止められる事になった。
 目の前にある少年の姿が映ったからだ。
「な・・・お前、どうしてココに・・・」
「ふふ。君の役目はもう終わりだと、告げに来たんだ」
 少年は優しげな微笑みを浮かべる。
「どういう・・・意味だ?」
「君は冥典が誰の元へ渡るべきか知らないよね」
「・・・ああ」
「なら下手を打つわけにはいかないだろう?
 神様に見捨てられたくないなら、
 ボクの言う事は聞いた方が良いよ」

11月16日(月) AM11:59 晴れ
丞相学園・エントランス

 夢姫は深呼吸するとファサードの方を睨んだ。
 少しの間二人は距離をおいて沈黙する。
 初めて夢姫は自分の意志で感覚を研ぎ澄ませていた。
 肌でファサードの危険さを感じているからかもしれない。
 知らずの内に彼女はつま先立ちで立っていた。
 彼女は考える。
 目の前に居る男が自分の未来を持っているのだと。
 もう一度なぁ君と出会う事が出来る。
 そこにはいっぺんの曇りもない未来があった。
(ずっとなぁ君と私、二人でずっと・・・ずっと笑って。
 そういうのが後少しでホントになるんだ)
 正午直前。
 職員室の方角が眩く光り、爆発音が木霊した。
 その方向では大きな火の手が上がっている。
 職員室からエントランス辺りまでは跡形も無くなっていた。
 ぽっかりとその周辺の壁は巨大な穴が空いている。
 二人は身じろぎもせずお互いを見つめていた。
「その目、曇りない純粋な瞳デス。
 神の僕である私が蹂躙するに相応シイ・・・!」
 先に仕掛けたのはファサードだった。
 腕を回すように振り、管を激しく回転させる。
 夢姫の周りの土をそれが巻き上げていった。
 それと同時に夢姫は真っ直ぐ走り出す。
 直線の動きでファサードへと走っていった。
 両手にはナイフを持っている。
 ファサードは威嚇する様に、腕を夢姫へと伸ばした。
 意外な事に夢姫はそれにたじろぎもせず、
 逆に自分の左腕を前に出す。
「なっ・・・」
 彼の腕は勢いをつけて夢姫の左腕を抉った。
 それは肉どころか骨を削る程の一撃。
 夢姫は顔を歪めながら右手のナイフを握りしめる。
「じゃあね」
 ナイフでファサードの胸部を突き刺した。
 左胸部を浅く抉り、そこから右へとナイフを滑らせる。
「かっ・・・げぇええあっ!」
 目を見開いてファサードは自分の胸部を見つめた。
 そこへ刺さったナイフの刃は深くは刺さっていない。
 胸骨の表面をなぞった程度のモノだった。
(なんで・・・!?)
 自分の意志とは違う結果に動揺する夢姫。
 おまけに彼女の手は震えていた。
「ぐう・・・ふ、フフッ・・・畏れ、デス。
 貴方は今・・・人を殺す事を畏れたのデス」
 ファサードは左手で乱暴に夢姫を持ち上げた。
 そのまま彼は夢姫の左腕を思い切り握りしめる。
 静かな破砕音と共に、彼女の腕の骨が粉砕して砕けた。
「あっ、う、ああああああぁぁっ」
 あまりの痛みで夢姫は叫び声を上げる。
「ん〜〜〜っ! 素晴らしい、素晴らしい悲鳴デス。
 ゾクゾクとしてきましたよ・・・」
 左手で夢姫を持ち上げたまま、
 思い切り彼女に右のボディブローを放った。
 夢姫の身体がくの字に折れ曲がる。
「ぐっ・・・は、あっ・・・」
 その反応が気に入ったのか、
 彼はさらに夢姫の腹部を殴った。
 苦痛で夢姫の表情が歪んでいく。
「ふは、はははっ! 良いデスネー、貴方は実に良い!」
 殴り飽きると、彼は乱暴に夢姫を地面へ叩きつけた。
 ぐったりしたまま夢姫は立ちあがらない。
 いや、立ちあがる事が出来なかった。
 息する事も苦しいくらいに身体が悲鳴を上げている。
 ふいに彼女の目から涙が出てきそうになった。
(私、なぁ君にはもう会えないのかな・・・)
 ゆっくりとファサードは夢姫へと左手を向ける。
 思わず夢姫は目を閉じていた。
 目を閉じて、唇をぎゅっと噛みしめる。
 諦めたわけではなかった。
 しかし、彼女の身体がいう事を聞かない。
「このまま貴方を永遠としましょう。
 美しいモノはすぐに醜くなってしまいマス」
 その瞬間、くすくすという笑い声が聞こえる。
「そういう君は・・・初めから醜いね」
「!?」
 一人の少年がその場の空気を変えていた。
 笑いながら彼は二人の前へとやってくる。
 何処から現れたのか、誰なのか。
 ファサードには解らなかった。
「貴方は・・・一体なんデス?」
 少年の背中には小さな四枚の羽根がついている。
 それは現象世界においては信じられない事だった。
 悪魔で言えば本体で存在しているようなものなのだ。
「運命とは全て神様の都合通りに動かなきゃいけない。
 でもたまにいるんだよね、君みたいな人が。
 自分が世界にどう作用するかも知らずに、
 身勝手に運命を変えてしまうような人が」
「何を・・・言っているのデス」
「解らない? 君のような神の意志を汲み取れない人は、
 死んでって言ってるんだよ」
「私は神の言われたとおりに動いていマス」
「神様は君が彼女に殺されると踏んでいたんだ。
 ほら、さっさと殺されなよ」
「・・・何を、馬鹿な」
 幾らファサードがカトリックだとは言えど、
 神の意志だと言われむざむざ殺されたくはない。
 大体にして少年が誰かも知らなかった。
「貴方は一体誰なのデス!」
「ボク? ボクは熾天使、アルバンティン。
 ミカエル達とは違うちゃんとした熾天使だよ」
「せ、熾天使!? 馬鹿な、有り得まセン!」
 ファサードが驚くのも無理はない。
 上位天使である熾天使はまず、
 人間界には降りないと言われているからだ。
 降り立つのは下位天使。
 中位天使も殆どやってくる事はない。
 到底、それを信じられるはずがなかった。
「信じられないのか。とても信仰者とは思えない。
 くふっ・・・ねぇ、ボクが君を殺してあげるよ。
 それからこの子がディスクを手に入れれば問題ない」
「な、私がそう簡単に・・・」
「簡単に?」
 気付いた時、すでにファサードは少年を見失っていた。
 背後に気配を感じた時にはすでに遅い。
 彼の腕が直線を描いて胸部を貫いていた。
「やっぱりボクって強いなぁ〜」
「ガボッ・・・馬鹿、な・・・」
「ええ、なに? がぼっ・・・だって。あは、あはははっ」
 夢姫は朦朧としながら誰かの笑い声で我に返る。
 ファサードのものではない事は解った。
 しかし聞き覚えがない。
 重く感じる身体をなんとか起こして立ちあがった。
 すると、そこにはファサードしかいない。
 よろついている彼の胸部には拳ほどの穴が空いていた。
 胸部からは激しい量の血が流れている。
 立っていられずに、彼は前のめりに倒れ込んだ。
 そんなファサードの近くに落ちているバッグを拾うと、
 なんとか夢姫は武人達のいる場所へと歩いていく。
「・・・バッグに羽根が付いてる」
 ふと夢姫は辺りを眺めてみる。
 何故かその場には、幾つかの羽根が散らばっていた。

第二十六話へ続く