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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Dark Brown Reunion

Chapter101
「Dear Friend」


01月05日(火) PM22:16 曇り
寮内

 思いの他、この学園は広い。
 暗い部屋の中で私はキーボードを叩いていた。
 ディスプレイに映し出されるのはオンラインRPG。
 ネクロノミコン・オンライン。通称、NO。
 徐々に人口を増やしつつあるオンラインゲームの一つだ。
 物語らしい筋書きといえば魔術書を集める事、それだけ。
 他のゲームとの特徴は役割が決まっている事だ。
 魔術書の内容は魔術師系の職業しか解読できず、
 非力な魔術師系がそれを集めるには人手がいる。
 そこで騎士などの職業が役に立つわけだ。
 プレイヤーは最初に魔術師系かそれ以外かを選ぶ。
 勿論、魔術師以外の職業にも冒険をする旨味はあるのだ。
 ゲーム中に登場する魔術書は非常に多く、
 それらを解読する度にパーティの職業レベルは大幅に上がる。
 また冒険者としてのクラスも上がるという寸法だ。
 冒険者のクラスが上がる事で信頼は高まり、
 他人とパーティを組みやすくなるなどの利点がある。
 そんな仕組みでゲームは成り立っているわけだ。
 無論、それは基本的なプレイなワケで楽しみ方は沢山ある。
 私の場合はチャット形式の会話が楽しみなのだ。
 クエスト、つまり冒険を楽しむワケではなく、
 仲間との会話をゲーム目的としている。
 相手は実際に会った事の無いプレイヤーだ。
 ネット上である故に男か女かもわからない。
 そういった要素も楽しさの一つだ。
 仲間の一人は女性プリーストではあるが、
 女性が女性キャラを使う必要などはないのだから。
 現在、私は街の広場で女性プリーストと話している。
「例の学園にやってきましたよ〜」
 メッセージを打ち込む。
 吹き出しが自キャラの頭上に現れて文字が反映された。
 相手の女性プリーストもすぐにメッセージを返してくる。
「お疲れ様ですー。それじゃ、近い内に会いましょうか」
「そうですね。学園のエントランスなんかどうでしょう」
「OKです。ようやく悪魔を召喚する話が、
 具体的な方向へまとまりそうですねー。嬉しい限りです」
 そうやって詳しい事を相談していると、
 もう一人の仲間がオンラインになった。
 この話は女性プリーストとだけ話している。
 だから自分達以外の仲間が来たら話は一時中断だ。
 ややあって男性ナイトが走ってやってくる。
「どうもです〜。ベリアスさん、石楠花さん」
「こんちわー、アッシュさん」
 彼の名前はアッシュ。
 男かどうかは不明だが便宜的に彼、としている。
 レベルは仲間内で彼が一番低かった。
 彼の話だとそれはゲーム経験がまだ浅いだけらしい。
 基本的にこのゲームは三人か四人で行動するので、
 私達は街の中央部からクエストへ移動する事になった。
 そうやってテレポート用の台座へ上がる直前。
 不意にベリアスさんのキャラがメッセージを発した。
「私達でモンスターを根絶やしにしてやりましょうね」
「頑張るぞー。えいえいおー(w」
 ベリアスさんのメッセージにアッシュさんが反応する。
 なんともほのぼのしたネットらしい返事だ。
 けれど私は知っている。彼女が隠語を好んで使う事を。
 モンスター。
 それはベリアスさんにとっては人間を指す言葉だ。
 つまり彼女は人間を根絶やしにしようと言っている。
 よくも上手い事、私とアッシュさんで意味を分けたものだ。
 ディスプレイを見ながら私は思わず微笑んでしまう。
 ウィスパー機能を使って私だけに話す事も出来るのに。
 もうすぐ、この人と会えるのか。実に楽しみだ。
 まずは本物の悪魔を召喚できなきゃ話にならない。
 会うまでにもう少し魔術関係の本を読んでおこう。
 少しして私の思考はゲームの中へと移行していった。

01月08日(金) AM09:18 雨
2−4教室内

 ここ最近の天気は当てにならない。
 石原さんが今日は晴れるって言ってたのにコレだ。
 レインメーカーが暗躍してるとしか思えない。
 雨男の俺もびっくりな降水確率だ。
 そういえば中学生の頃に行った修学旅行も雨だったよなあ。
 思い出しただけで少し切ない気分になる。
 雨男と言われてるせいで変に責任を感じてしまうし。
 皆で風呂に入った時はもっと切なかったな。
 一部の奴が妙に風呂場で近寄ってきたり、
 いつもより変な視線で周りから見られたり。
 期待されても俺は男だっての。
「ふはー」
 当時は強くそう否定できたんだっけ。
 今の姿をあいつらに見られたら何も言えない。
 もうじき女装生活も三年目に突入だ。
 一年の頃よりずっと女らしくなってる自分が怖い。
「さあ、みんな席についてっ」
 担任の久那山総子(くなやま ふさこ)先生の声だ。
 ポニーテールの髪にフォーマルなスーツ姿。
 知的な女教師といえば久那山先生が代名詞になっている。
 顔は綺麗より可愛いタイプで、
 学園内ではやはり人気が高いらしい。
「始業式の日だから授業はありませんけど、
 キチッと気を引き締めないと駄目ですよ」
 ざわざわとするクラスを先生が可愛らしく戒めた。
 それで幾らか教室内は静けさを取り戻す。
「えっと、今日はこの後ホームルームなんですが、
 その前に転校生を一人、紹介しようと思います」
 ああ。例の二年生の二人か。
 誰がこのクラスになったのかちょっと楽しみだな。
 先生が手招くと一人の男子生徒が教室内へと入ってきた。
「ん?」
 あの二人のどちらでもない。
 俺は後ろ側の席なのでよく顔が見えないが、
 背丈も髪型も上埜や姫菱のそれではなかった。
 前方に座ってる女子が少し色めき立っている。
 どうやら結構格好いい奴みたいだ。
 遠目から見て身長は175くらいだろうか。
 転校生は先生の隣にやってくると、こちらに会釈をした。
「紹介しますね。彼は関凌高校から転校してきた、
 神鏡鴇斗(かがみ ときと)君です」
 あれ? なんか聞き覚えがある。
 ちゃんと見てみると見覚えもある顔だ。
 嫌な汗が背中にじっとりと伝っていく。
「ども〜。このクラスは可愛い子が多いねぇっ!」
 以前にどこかで聞いたような台詞を吐いて、
 転校生はずかずかと俺の方へ歩いてきた。
 慌てて俺は顔を机に埋めて寝たフリをする。
 と、近くで足音が止まった。
 このパターンは・・・実にヤバイ。
「ねえ君。ちょっと顔を上げてくれないかな」
 だらだらと冷や汗が出てきそうなほどピンチだ。
 学園に来てから一番怖れていた事が起こっている。
 すなわち、中学生の同級生とこの姿で再会する事態だ。
 どうする? どうすればいい?
「先生、この子なんか様子が変なんですけど」
「あら? 高天原さん、具合でも悪いの?」
 名前は駄目だろ! 呼んじゃまずいんだよ!
 心の中で久那山先生にそう叫ぶ。
「高天・・・原?」
 鴇斗の奴も疑念を抱き始めたみたいだ。
 悲しい事に俺の苗字は珍しすぎる。
 友達なら気付かないはずが無かった。
 さて。いつまでも机にしがみついてるわけにはいかない。
 こうなったら、アイ・コンタクトだっ!
 大丈夫。数年前とはいえ、俺たちは親友だった仲。
 俺はゆっくりと顔を上げて鴇斗と対面を果たす。
「ひ、久しぶりだね」
 軽く引きつった笑顔で俺は片目をパチパチさせた。
 変な事をこの場で言うなよ、という合図のつもりだ。
 驚きの表情で鴇斗はこちらを見ている。
 まあ普通驚くよな。男友達が女子高生になってたら。
「・・・お前、この学園に来てたのか」
「うん。まあ、色々と理由があって」
 鴇斗は俺の姿をまじまじと見て徐々に笑い始める。
 俺達の様子を見てクラスがざわめき始めた。
「あの転校生って高天原さんの事知ってるのか?」
「なんか知り合いっぽいな」
 やばい。周りが俺達の親密さに気付き始めてる。
 知り合いだというのはオッケーだ。
 それよりも性別をなんとしても隠さなくちゃいけない。
 もう一度、鴇斗に目でサインを送ってみた。
「どうしたの? 二人とも」
 久那山先生が俺達の方へと歩いてくる。
 ココだ。頼むぞ鴇斗、俺の性別をバラさないでくれ!
「いや、知り合いがいたもんだから驚いちまって」
「まあまあっ。高天原さんと知り合いだったの?」
 どうやら鴇斗は解ってくれていたみたいだ。
 やはり持つべきものは親友と言うべきか。
 変な所で意地悪い奴だから少し不安だったけど、
 それは杞憂に終わりそうだ。
 そうやって俺がほっと胸を撫で下ろした瞬間。
「ええ・・・まあ。元カノです」
「はぇ?」
 唖然とするあまり否定する事も忘れてしまう。
 今、この男は何を言いやがったのですか。
 あっという間にクラス中がワッと湧き上がった。
 満面の笑みを浮かべて鴇斗は俺の方を見つめる。
 なんて底意地の悪い笑顔だ。今すぐ首を締めてやりたい。
 殺意を堪えると俺は顔を引きつらせながら鴇斗に聞いた。
「何を、言ってるの?」
「キスまではしたよな」
 身体中の力が抜けて俺は頭を机に激突させてしまう。
 その爆弾発言がクラス中の人間の耳に届いていた。
 否定しようにも、ある意味事実ではある。
 騒ぎは先生でも収拾つかないほど大きくなっていた。
「皆さん、静かにして下さいっ。
 神鏡君も余計な事まで言わなくて良いのよ」
「こりゃまた、すみませんね〜」
 信用すべき人間を俺は大きく見誤っていたらしい。
 そういえば鴇斗は口を開くたび、
 何か面白い事を言わないと気がすまない奴だった。
 後の事なんてこれっぽっちも考えてない。

01月08日(金) AM09:58 雨
学園内・1階

 ホームルームが終わると、
 俺は鴇斗を連れて一階へ降りてきた。
 悪びれもせずに鴇斗は笑っている。
 明らかにこの状況を楽しんでやがるな。
「いや、それにしても驚いたぜ〜。
 まさかお前がココまで女らしくなるとはねぇ」
「くっ・・・色々と事情があるのよ」
「ふ〜ん。女言葉も板に付いてるじゃん」
 それを言われると何も返せなかった。
 笑いながら鴇斗は俺の肩を借りる様に手を伸ばす。
「ま、いいけどな。こういうのも面白いし」
 俺が鴇斗に抱かれるような形になってる所為か、
 近くを歩いている生徒達が俺達を変な目で見ていた。
 やばい、誤解されてる。
 親友と話してるだけでカップル扱いというのは切な過ぎだ。
 自分の容姿が原因なのが解っていても切ない。
「悪いけど、ちょっと離れてくれない? 誤解されるから」
 わざと大きい声で俺は鴇斗にそう言った。
 やはり女だと思われている以上、
 あまり男と親密に話すわけにはいかない。
「誤解、ねえ。くくっ・・・可愛い事言うな、オイ」
「うっ・・・と、とにかくっ。私はもう寮に帰るわよ」
 久しぶりに会ったのに前みたいに話せないのが辛かった。
 だって俺はやっぱりこの学園では女で、
 俺が男の転校生と仲良く話してたら注目を浴びてしまう。
「おい凪っ」
「え?」
 寮に向かって歩き出した俺を鴇斗の声が止めた。
 振り返ると鴇斗は優しい顔で笑っている。
「また後で、色々話しようぜ」
「・・・うん」
 久しぶりにあいつの良い所を思い出した。
 軽薄な一面で霞んでしまう事もあるけど、
 どんな時でも鴇斗は人に対して優しい。
 相変わらずそういう所が不器用な奴だな。
 気付くと俺は自然に笑みを零していた。

01月08日(金) PM13:54 雨
寮内・凪とカシスの自室

 食後に帰ってくると、部屋には俺一人の姿しかない。
 いつもなら暇そうにしているカシスの姿が無かった。
「もしかして・・・」
 あいつにも遂に新しい友達が出来たのか?
 今までは俺か真白ちゃんとしか遊んでなかったからな。
 友達が増えるのはいい事だし、そうならいいけど。
 その分、俺が余計に暇だ。
 どうせだからこの機会にお汁粉を奢ってもらうか。

01月08日(金) PM13:54 雨
冥福堂

 というワケで俺は今、黒澤と冥福堂に来ていた。
 生憎の雨だが黒澤が車を出してくれたので問題ない。
「わざわざ車出させちゃって、なんか悪いなあ〜」
「いえ、構いませんよ。それにしても機嫌が良いですね」
「そりゃあもう」
 冥福堂に来ればどんな時でも心は弾むのだ。
 えへへ、と俺は自分でも気味悪いくらいの笑みを浮かべる。
 席に案内された俺達はお互い椅子に座った。
 テーブルに置かれたメニューを流すように見てみる。
 この店はお汁粉にも何種類か選択肢があった。
 例えば、アイス入りのお汁粉とか白玉入りのお汁粉とか。
 そこで通は当然の如くデフォルトのお汁粉を頼む。
 つまり餅入りのスタンダードタイプだ。
 コレにこそ冥福堂25年の歴史は凝縮されている。
 店員を呼ぶと俺はそれを注文した。
「あ、後、玉露を一つ」
 セットなどという安易な選択はしない。
 余計な物は頼まずにお汁粉と玉露。これが最強だ。
「私にもそれと同じ物を」
「かしこまりました」
 店員は一礼をして厨房へと去って行く。
 俺は少しだけ後悔があった。
 どうせ奢りなら、もっと頼んでおくべきだったと。
 目の前の黒澤をチラッと見てみる。
「ふっ・・・こうしているとルシードにはとても見えませんよ」
「それは、まあ・・・私は人間のつもりですから」
「確かに君は現時点で人間でしょう。
 何故なら人間であり、ルシードでもある。
 それが今の君という存在だからです」
「どちらでもある、って事ですか」
「今の時点ではそうですね。まだ因子は固着していない。
 固着できなかった、というべきでしょうか。
 近くで見ていれば解りますよ。君が力を使えない事は」
「っ・・・」
 気付かれていたのか。仮にも相手は悪魔だ。
 あまり力を使えない事は知られたくなかった。
 とはいえ黒澤は俺に何かする意志は無い気がする。
「私にとってそれは瑣末な事です。
 ただ君にとって、後々困るのではないですか?
 あのバハムート・・・正式にはベヘモトですが、
 彼が現れた際に君は如月さんを助けたいでしょうからね」
「まさか、ルシードの力を使う方法を知ってるんですか?」
「ふふ・・・残念ながら知りませんよ。私は一介の悪魔です。
 ルシードの覚醒を促す術は知っていますが、
 今の君ではもう意味は無いでしょう」
「じゃあ何で・・・」
 何でこんな話をするのだろうか。
「私は君に今一度聞きたいんですよ。
 君にとっての幸せとは・・・何なのかを」
「え?」
 幸せ。確か、以前にも同じ事を聞かれた。
 あの時は皆が楽しく過ごせる事だと答えた気がする。
 どうしてその話を蒸し返すんだ?
「薄々解っているはずです。君の幸せは模範的な所には無い。
 それどころか一個人として、ある種傲慢な物のはずだ」
「そんなワケ・・・無い」
 答えに説得力が無い。俺は同じ答えを出せなかった。
 今の俺は、確かに黒澤の言う通りかもしれない。
 紅音が欲しい。あいつと居た時間を取り戻したい。
 考えはどうしてもそういう所へと動いていた。
 あの時と比べて確かに個人的で傲慢かもしれない。
 けど、それはいけない事なのか?
 紅音と居たいって望む事はいけないのか?
 解ってる。それ自体は悪い事じゃない。
 黒澤が言っているのはそういう事じゃないんだ。
 幸せという曖昧なものを前にして、何を一番に考えるか。
 そういう事だ。
「もうじき君の口から聞かせてもらえそうですね。
 君が自分の為に出した幸せの結論を。
 その時までこの話は保留しておきましょう」
 何も言えない俺に黒澤は淡々とそう言った。
 こいつが何を考えているのかさっぱり解らない。
 こんな事を聞いて、どうするつもりなんだ?
 俺を混乱させる意図があるとは思えない。
「ところで黒澤先生。私の好みを何処で知ったんですか?」
「ああ。それは今受け持っているクラスの古雪さんからです」
 紫齊の奴、よりによって黒澤に俺の弱点を教えるとは。
 そこで店員が注文したものを運んできた。
 黙ってやってきたお汁粉を眺めてみる。
 香りを楽しみつつ箸を手に取った。
 ・・・ありがとう、紫齊。

01月08日(金) PM14:46 雨
学校野外・開放エントランス

 依然として雨は止まない。
 冥福堂から黒澤の車で帰ってくると、
 傘を手に持って外へと出掛けた。
 部屋にカシスが居なかったからだ。
 なんていうか、誰も居ない部屋に居ても楽しくない。
 雨は元々それほど好きじゃなかった。
 ただ嫌いというほどのものでもない。
 色々な事を思い出して胸が疼くだけだ。
 耐えられない事は無いから、別に問題は無い。
 俺はゆっくり学園の開放エントランスへと歩いて行く。
 すると中央の辺りにカシスの姿があった。
 あいつ、傘も差さずに何してるんだ?
「カシスッ」
「あ・・・凪」
 振り返ったカシスの顔は怖いくらい張り詰めている。
 それはすぐにいつも通りの笑顔へと変わったが、
 さすがに俺も気にならないはずが無かった。
「何か、あったの?」
「ううん。何も無いの」
 カシスは妙にふんわりした笑みを浮かべる。
 上手く表現できないが、優しい笑みに近い感じだ。
 こんな顔をされると尚更気になってしまう。
「風邪引くよ」
「うん」
 いつに無く素直な返事だ。
 そう思っていると不意にカシスは俺に寄り掛かってくる。
「ど、どうしたの?」
「凪は温かいの。ぽかぽかしてて、布団みたいなの」
「・・・な、何かあんまり嬉しくない比喩なんですけど」
 目を閉じてカシスは俺に身を任せていた。
 何故か胸騒ぎがする。
 このままカシスが居なくなってしまうような、不安。
 そんな事は起こりえない。カシスは俺の傍に居てくれる。
 カシスだけは、どんな時でも俺の隣に居てくれるんだ。
 そう考えれば実態のない不安は頭の隅に消えていく。
「雨に濡れた所為で風邪を引いたら、凪が温めるの」
「あ、あのねえ」
 俺とカシスがそうして話していると、
 エントランスに女の子がやってきた。
 思いがけず現れたその女性に俺の目は釘付けになる。
 相手もこちらに近づいてくると俺をじっと見ていた。
「凪ちゃん・・・」
「紅音・・・」
 雨音が耳鳴りの様に響く。
 お互いの名前を呼んだきり、俺達は止まってしまった。
 昼過ぎだと言うのに辺りを陰鬱な空気が支配していく。
 意思表示のようにカシスが俺に強く抱きついた。
 これが、今の俺と紅音の距離なのか。
 だとしたら酷く遠い所まで来ちゃったんだな、俺は。
 言葉をかける事も出来ない。触れる事も出来ない。
 きっと俺は一人で紅音から離れてるだけなんだ。
 紅音は雰囲気を察して話し掛けられないでいる。
 悪いのは多分、俺。
 気持ちに嘘をつけるなら笑って話す事も出来るのに。
「お〜い、凪〜」
「あ、鴇斗」
 声が聞こえた方を向くと、鴇斗がこちらに歩いていた。
 傘を差しながらのん気な顔でやってくる。
 どうせだから紅音やカシスにも紹介した方がよさそうだ。
 俺が二人に鴇斗を紹介しようとすると、
 鴇斗の奴は何かに気付いて真剣な顔つきになる。
「凪、お前その子・・・知り合いなのか?」
「え? 紅音の、事?」
「当たり前だろ」
「そ、そうだけど」
「紹介してくれッ!」
 こいつのシリアスは女の為だけか。
 ため息をつきながら俺は紅音を紹介してやった。
 どうせ、名前を聞いて軽い事を言って終わりだろう。
 大体いつもそんな感じで、本気だった事なんて無かった。
「へえ〜。如月紅音ちゃんねぇ。名前まで激可愛いな」
「え、そ、そんな事は無いですよぉ〜」
 頭に手をやって照れる紅音。
 こういう紅音の姿、久しぶりに見たなあ。
「えっと・・・それじゃ私、もう行くね」
「あ、うん」
 まだ俺と紅音の関係はぎこちなかった。
 あれから一年が過ぎているってのに。
 今はバハムートの件があるから、紅音を護るつもりだ。
 けど、それが終わったら?
 上手く紅音を護る事が出来たら・・・そこから先はもう、
 俺の役目じゃあないんだよな。
 あいつの事を護る他の男はいつか現れる。
 それは多分確かな事で、それは俺じゃないんだ。
 紅音は背中を向いて歩き出す。
 いつかまた俺達、友達として笑い会える日が来るかな。
 その時はお互い違う誰かを好きになっていて、
 今を笑って話せるのだろうか。
「あの紅音って子・・・」
 不意に鴇斗が独り言の様にそう呟いた。
「あの紅音って子、マジで気に入ったぜ。俺の女にしよう」
「な、何言ってるんだよ。本気か?」
「ああ。なんだ、お前・・・あの子が好きなのか?」
「えっ?」
 唐突にそんな質問をされて俺は答えに困ってしまう。
 すると俺に抱きついていたカシスが俺の顔を見た。
「違うよね」
 怒ってるのか。拗ねてるのか。
 カシスの表情は無くて、何を考えてるか読み取れない。
 俺は雰囲気に押されるようにしてゆっくりと肯いた。
「なら、問題ないな。幾ら俺でも親友は裏切れないからさ」
 にっこりと笑って鴇斗は俺の肩を叩く。
 少しずつ心臓の鼓動が早まっているのが解った。
 鴇斗は俺の表情には気づかず、紅音の方へと走っていく。
「紅音ちゃん、キスした事ある?」
「え?」
 その背中を叩くと振り向きざま鴇斗は紅音にキスをした。
 驚きのあまり紅音は抵抗もしない。
 紅音は一瞬俺の方を見て、すぐに目を逸らした。
「っ――――!」
 止める事も、咎める事も出来ない。
 ただ俺はその光景を見ているしかなかった。
 キスの後すぐに鴇斗は離れて紅音に微笑む。
「いきなり、何するんですかぁっ」
 顔を真っ赤にして紅音は可愛らしく怒った。
「俺、君に惚れたよ。俺と付き合ってみない?」
「え・・・ええぇ〜っ?」
 困惑する紅音に鴇斗はあっさりと告白する。
 心臓の鼓動はさらに早鐘を打っていた。
 紅音は視線を落とし、時折俺達の方を見ている。
 衝撃的な光景を前にして、
 俺は無意識にカシスの肩を掴んでいた。

  ――――先延ばしにされていた俺達の関係は今、
         ゆっくりと変質し始める。


Chapter102へ続く