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黒の陽炎
−3rdSeason−

著作 早坂由紀夫

Dark Brown Reunion

Chapter103
「淡い殺意」


01月14日(木) AM07:24 雨
寮内・高天原凪とカシスの部屋

 激しく降り続ける雨の音で俺は目を覚ました。
 ベッドから身体を起こすとテーブルの方を見てみる。
 そこは正に惨状と呼ぶべき状態にあった。
 昨日飲んだまま散らかりっぱなしで、
 床に色んなものがぶちまけられている。
 それにしても頭がガンガンして視界もまだ揺れていた。
「う〜・・・」
 軽く吐き気もある。
 今までこんなになった事なんて無かったのになあ。
 いつのまにか俺は酒が弱くなってたみたいだ。
 ふと俺は洗面台の方に人の気配を感じる。
 時間はまだ七時半。いつもならカシスはまだ寝てる時間だ。
 不思議に思い、俺は立ち上がって洗面台の近くに行ってみる。
「うあぁ〜。駄目だよ、私もう」
「もう少し我慢するの紫齊。多分、私の方がいきそうなの」
「そんなあっ、私だってっ・・・」
 聞いてる分には官能的にも聞こえる気はした。
 けど何をしてるかはすぐに予想がつく。
 連鎖しないように俺は洗面台から離れる事にした。
 しばらくの間、そこからは嫌な音が聞こえつづける。
 やばいな。俺まで喉元に上がってきそうだ。
 頭痛に耐えながら俺はなんとか着替えを始める。
 カシス達はそれから数分して、
 ようやく洗面台からこっちへ戻ってきた。
 二人とも断食したが如くげっそりしてる。
「はぁ、はぁ・・・こんなに気分悪くなるとは思わなかったの」
「し、仕方ないって。私だって久しぶりだよ。
 ここまで気持ち悪いのは・・・うぅっ」
 突然紫齊は口元を押さえて洗面台へと戻っていった。
 そりゃあ、あれだけ飲めば当然だよな。
 まだ俺たちは酒の臭いが抜けきらなかった。
 仕方なく俺は棚からアナスイを取り出す。
 これで酒の臭いを誤魔化すしかない。
 少し多めの量を手首に吹きかけて首に擦りつけた。
「はふぅ・・・お酒は二十歳になってからにするの」
 気分悪そうな顔でカシスは俺に寄り掛かってくる。
 どうやら気持ち悪くて寝不足みたいだ。
 この調子だと寝息を立てかねない。
「カシス、制服に着替えなきゃ」
「休みたいの」
「駄目だよ。ちゃんと学校は行かないと」
 頭を撫でながら俺はカシスをたしなめた。
 後で困るのはカシスじゃなくて、公野さんだからな。
 学業を疎かにするわけにはいかない。
「・・・凪、あれからラファエルは何か言ってた?」
「ん? どうして?」
「ディムエルの事、少し気になるの」
「あ、ああ・・・」
 昨日アザゼルから聞いた事を話すべきだろうか。
 いや、駄目だ。
 ディムエルへの憎しみをカシスが抑えられるとは思えない。
 それこそ、一生忘れられなくても仕方ないものだ。
 俺はカシスに誰かを殺させたくなかった。
 だって今のカシスは凄く自然に笑ってる気がする。
 だからカシスとディムエルを会わせたくなかった。
 この笑顔を失いたくないから。
「今のところ、何の手がかりも無いみたいだよ」
「そうなの・・・」
 この嘘はカシスの為だ。
 それでも俺は彼女に心の中で謝る。
 本当の事を伝えないのはある意味で裏切りだ。
 紫齊が洗面台から帰ってくる前に俺とカシスは離れる。
「ねえ、カシス。一つだけ約束して欲しい」
「・・・うん」
「絶対に・・・誰も殺さないって、約束して」
「当たり前なの」
 珍しく澄み切った笑顔を浮かべてカシスはそう言った。
 口約束に過ぎないのかもしれないけど、
 俺はカシスを信じようと思う。
 その笑顔を見ていると、信じられる気がするから。

――月――日(―) AM――:――
アルカデイア・エウロパ宮殿・大天使長室

 アルカデイア、大天使長室。
 そこに座るミカエルは、珍しく表情を強張らせていた。
 向かいのソファーに座る少年の所為に他ならない。
「お前がココに来るなんて、随分と久しぶりじゃねえか」
「そうだねぇ。元気そうで安心したよ。
 相変わらず忙しそうだけど・・・くすくすっ」
「で、用件はなんだ? お前の事だ、何かあるんだろ?」
「君の探してる天使の居所を教えてあげようと思ってね」
「・・・ディムエルか」
「その通りっ」
「ちっ・・・相変わらず趣味の悪い野郎だ、てめえは」
「ふふっ、そう言わずに聞いてよ。
 実はちょっとしたイベントを用意したんだ。
 どう転んでも面白い結末が待ってるイベントをね」
「なるほど。ディムエルはその為の駒ってワケだな?」
「まあね。でもボクは彼を捕まえる為に泳がせてるんだよ。
 現状じゃ天使裁判に持ち込む材料が無くて、
 どうにもならないのは解ってるんでしょ?」
「ふん。結果的にお前の身が危うくなる事はない。
 犯罪を犯した天使を逃がしたにも関わらず、な。
 完璧すぎて反吐がでるぜ」
「あはははっ。別にボクは自分が可愛いワケじゃないけどね。
 決まってる事なんだ。全ての事象は」
 ひとしきり話すと二人は静かになる。
 相手の心を探ろうとするような瞳で互いを見つめながら。
 だが少ししてミカエルは手元の書類に目を落とした。
 それを見ると少年はソファーから立ち上がる。
「さ〜て、ボクはもう行くよ」
「ああ」
 そっけない挨拶でミカエルは少年を見送った。
 少年は窓から四枚の羽根を広げて飛び去っていく。
 ちょうど入れ替わりに、ドアをノックする音が聞こえた。
「主天使長ラグエル、入ります」
「おう」
 ラグエルは緊張した面持ちで室内へとやってくる。
 彼女はミカエルの前まで来ると足を止めた。
「例の件ですが、やはり決定的な証拠は掴めませんでした」
「そうか・・・俺はお前に期待しすぎてるな」
「・・・申し訳ありません」
 深く頭を下げて詫びようとするラグエル。
 それを見てミカエルは軽くため息をつく。
「いや、違うんだ。お前を責めてるワケじゃない。
 俺の命令が無理なものだっただけだ」
「そんなことは・・・」
「よくやってくれたな、ラグエル。礼を言う」
 ミカエルは微笑んで彼女をねぎらった。
 そんなミカエルの姿にいつもラグエルは思う。
 微笑みの奥にあるやりきれないもの。
 塵ほどにも見えてはこない彼の心情。
 ただ彼女はミカエルの全てを知ろうとは思わない。
 手を伸ばそうとは思わない。彼女は知っていたのだ。
 ミカエルの一番大切な存在にはなれない、と。
 すでにそこは埋まっているから。
 だからラグエルは彼に近い場所で、
 彼の役に立てればそれで充分だった。

――――その想いは、咲かない花の様に彼女の奥底で眠る。

01月14日(木) PM15:44 雨
2−4教室内

 酷く頭が痛い。吐き気は少し引いてきた。
 さっさと帰ってすぐに横になろう。
 布団の感覚が俺を呼んでいた。
 幸いにしてもう授業は終わっている。
 いつでも横になれるんだ。
 と、そこで聞きなれない声が聞こえてくる。
「先輩。今日は香水つけてるんですか?」
「・・・あれ、君は確か蓮未ちゃん」
 顔を近づけて俺の臭いを嗅いでいるみたいだ。
 そういえば今朝、アナスイをつけたんだっけ。
 彼女は俺の肩に手を添えて微笑んだ。
「ふふ、覚えててくれたんですね。嬉しい」
 馴れ馴れしいというと酷い言い方ではあるが、
 そんな感じの態度で蓮未ちゃんは俺に寄り添ってくる。
 う〜ん。俺の勘違いって可能性もあるよな。
 幾らなんでも同性愛者なんてそうそういるもんじゃない。
 辺りを見回してみるとすでに教室は閑散としていた。
 外も陽は落ち始めて、夕日が世界を満たしている。
「そうだ。今日、一緒にご飯でも食べませんか?」
「別に構わないけど・・・」
 なんとなく嫌な予感はした。
 けれど蓮未ちゃんの事がよく解らない以上、
 会って数日なのに変な目で見るのは酷い気がする。
 スキンシップの多い普通の女の子かもしれないじゃないか。
「じゃ、帰ろうかな」
 ゆっくりと俺が椅子から立ち上がった時だった。
 教室の扉をガラガラと乱暴に開けて誰かがやってくる。
 無造作でワイルドな短髪の髪型に、俳優の様な立ち振舞い。
 大概の女の子だったら格好いいと思う男だ。
「よ〜凪。俺と飯でも食いに行かねえか?」
「鴇斗」
 たった今、蓮未ちゃんとご飯食べる約束をした所。
 なんてタイミングの悪い奴なんだ。
 苦笑いを浮かべて俺は蓮未ちゃんと鴇斗を交互に見る。
 こういう場合、やっぱり先に約束した方と行くべきだよな。
「悪いけどさ・・・」
「あのぉ、先輩って凪先輩と付き合ってるんですか?」
 俺が鴇斗の誘いを断ろうとした刹那。
 蓮未ちゃんは鴇斗にそんな質問をする。
 無論、俺は何も答える事が出来なかった。
 代わりに鴇斗は満面の笑みで答える。
「前は付き合ってたけど今は違うぜ。
 まあ、今でもこいつは俺の、大切な女だけど」
「とっ・・・鴇斗!」
 誤魔化すにしちゃ言いすぎだ。
 聞いてるこっちが恥ずかしさで真っ赤になる。
 悔し紛れで俺は鴇斗の肩を軽く叩いた。
「・・・なんか邪魔しちゃ悪いみたいですね。
 凪先輩、さっきの約束は忘れて下さい。それじゃっ」
 軽い笑みを漏らすと蓮未ちゃんは走って教室を出て行く。
 気のせいだろうか。
 彼女の横顔が少しだけ悲しそうに見えたのは。

01月14日(木) PM18:08 雨
寮内一階・大食堂

 俺が思い違いをしてたらしい事が一つある。
 前々からカシスは人見知りするタイプだと思ってたのだ。
 よく考えてみればそんな様子なんて全然無い。
 真白ちゃんと打ち解けるのも早かったし、
 今も目の前で鴇斗と親しげに話していた。
 まあ俺の性別を知ってるという繋がりも手伝ってると思う。
「凪とキス以上はいかなかったの?」
「・・・ははは、凪って意外と隙が無いんだよなあ」
「鴇斗、それはカシスの発言に乗ってるだけだよね?
 まさか本気じゃあ無いよね?」
 こんな事を聞く時点で毒されてる気もした。
 けど鴇斗の奴、さも当然といった顔で答えやがる。
 俺の恋愛観が掻き回されそうで怖いのだ。
「本気だったら楽しいの」
 鴇斗より先にカシスがそんな事を答える。
 答えになってないような気もするが。
「ま〜俺の設定は元彼だからな。もしかすると、
 昔の気持ちが蘇るかもしれねえなあ」
 仮にも親友だった奴が元彼。改めて考えると酷い設定だ。
 どうにも俺の周りにはアブノーマルな世界が待っている。
 せめて、嘗ての親友が敵に! とかだったら格好良いのに。
「そういえば鴇斗」
「ん?」
「なんでこの学園に来たの?」
「ああ・・・なんでだろうな。家の都合だと思う。
 ウチの親はいつもそういう事言わねぇんだ」
「・・・そっか」
 転校するのに理由を教えない親って凄いな。
 まあ恐らくは転勤に伴って、みたいなものだと予想は付く。
 それでも鴇斗は転校の理由をあまり気にする風でもなかった。
 相変わらずこいつって、そういう所が能天気だな。
 自分の事に関しては無頓着。
 その癖、他人の事は首を突っ込みたがるんだ。
 ふとカシスの方を見てみる。
 性格的になんとなく似てるかもしれない。
「さっきから全然ご飯が進んでないの。食欲ないの?」
「あ、いやそういうワケじゃないよ」
「ちぇっ、なの」
 どうやら自分の分だけでは足りないみたいだ。
 カシスの頼んだミート・スパゲティは、
 ミートソースだけが皿に残っている。
 微妙な配分を間違えた所為だ。
 それに比べ、俺の海老カツ丼は半分も残っている。
 カツの中に海老が入っているコイツは、
 結構胃にもたれる料理だった。
 鴇斗は生姜焼き定食を頼んでいる。
 とはいえその定食はすっかり鴇斗の胃の中だ。
 二人とも食べるの早いな。
「食べる?」
 俺はカシスの物欲しそうな視線に負けてそう言ってみる。
 すると仕方ないな、という顔で丼を持っていった。
「太るよ〜」
「女の子に向かってそれはタブーなのっ」
 両手で食べているので頭を俺の肩にぶつけてくる。
 それはそれでかなり痛かった。

01月14日(木) PM18:52 雨
白鳳学園・一階・エントランス

 カシス達と食事をした後、俺はラファエルを呼びだす。
 場所は学園校舎のエントランス。
 開放されてる側と違って天井がある。
 あそこはエントランスというより中庭だからな。
 俺が近くのベンチに腰を下ろして待っていると、
 数分してからラファエルが姿を表した。
「やあ、凪君」
「どうも、こんばんわ」
 軽い挨拶をすると俺は早速用件を話す。
 というのは、この間紅音に聞いた天使の事だ。
 アゼルというのは別名で本当の名前はアザゼル。
 そう話すと途端にラファエルは顔色を変える。
「まさか、そんな・・・」
「どうしたの?」
「彼は・・・アザゼルは、正式な熾天使なんだよ。
 現象世界に赴くなんて事はまずありえない。
 あるとすれば僕や他の天使の耳に必ず入るはずなんだ」
「じゃあ彼は、秘密で私に会いに来たって事?」
「そう、なるね。熾天使なら不可能じゃないかもしれない」
「かもしれない?」
 なんとなくだった。語尾にひっかかりを覚える。
「熾天使の殆どが人前に姿を表す事が無いんだ。
 だから、熾天使の姿はおろか能力も全く解らないんだよ」
「そうなんだ・・・」
「でも、一つだけ解ってる事がある。
 それはね、熾天使の行動には必ず変革が伴うって事」
「変革?」
「・・・昔から熾天使が表に出る時はそういう時だった。
 天使と悪魔が対立するようになった時も、
 その戦争が冷戦状態へと変化した際にも、
 僕やみっき〜が四大熾天使に任命された時もね」
 つまり天使の歴史において何か大きな事が起こる時、
 キッカケは熾天使が作り出しているって事なのか?
 下手したら人間の歴史にも影響してるんだ。
「彼らは普段決して現象世界に姿を表さない存在。
 それが君の元へ降臨したって言うなら、
 歴史が動き出そうとしてるのかもしれない」
「あ、あはは・・・なんか、いまいちピンと来ないかも」
「うん。実は僕も言ってて解らなくなってきたトコ」
 俺とラファエルはお互いを見て軽く笑う。
「そういえばアザゼルってラファエルに少し似てる」
「え? そうかな、僕はあそこまで天才じゃないよ」
「天才?」
「彼はいつでも間違いを犯さない。
 アザゼルは、どんな時でも正しい答えを知ってるんだ。
 もし彼が間違いを犯したように見えた時があっても、
 それは結果的に見れば間違いじゃなくなる」
 本当にあの少年がそこまで天才なのだろうか。
 う〜ん。そうは見えなかった。
 どっちかっていうと姿相応に見えた気がする。
 俺が怒ったら素直に謝ってきたし、
 それにどんな時でも正しい答えを知ってる、
 というのは少し信じがたい話に思えた。
「僕は少しだけ苦手なんだけどね」
「・・・へぇ。ラファエルも苦手な相手がいるんだ」
「あはは・・・アザゼルは昔からダントツで強くてさ。
 今の四大熾天使が束でも敵わないくらいなんだよ」
「そうなの?」
 全然そんな風には見えなかった。
 今度会う機会があったら、言葉には気をつけよう。

01月14日(木) PM23:08 雨
某、新宿

 雨音が木霊する。エコーでもかかっているように。
 エコーはそこで起こる出来事を覆い隠している。
 その空間には一組の男女が居た。
 激しく降りしきる雨など気にする様子もない。
 近くを通る人間も彼らは気に留めない。
 逆に他の人間が気付く事も無かった。
 例えるなら、其処だけ極端に人の興味を殺ぐ。
 そこで行われている事とは裏腹に、
 周りの反応はそういうものだった。
 ふと、女性を愛撫する少年の風貌をした男が言う。
「・・・自分なりの主張を持つ奴ってどう思う?
 例えば心に正義を持ってるみたいな奴。
 ボクはそういうの駄目なんだよねぇ。
 特に人間は薄い正義感と同情でお互いを助けたりする。
 知らない人間が殺された事に怒り、悲しむ。上辺でね。
 ニュースって奴をこの間見たけれど最高だったよ。
 遠まわしな偏見、差別、薄ら寒い『平等な意見』とか」
「そんなもの・・・興味、ない・・・あっ・・・ぐぅ・・・」
 アダムのイヴの情交。
 おぞましさを抱えながらイヴは壁に手をついた。
 股の付け根辺りをアダムに掴まれ、
 彼女は尻を突き出す格好をさせられる。
 男根を深く挿入されたイヴは声を漏らした。
 常人なら気絶していたかもしれない。
 それ程にアダムは異常な快感を女性に与える事が出来た。
 さすがのイヴも返事をするだけで大変そうに見える。
 路上での行為だからか、彼女はいつも以上に愛液を零した。
「ふふっ、格好良いなあイヴは」
「くだ・・・らない、お前は・・・そうして、相手を試す・・・のか」
「試す? 誉めてるだけなのに心外だな〜。
 ボクにはとても出来ないんだよ、放っておくなんてさ。
 だって譲れない何かを持ってる奴って楽しくないんだ。
 楽しくない奴は楽しくしてあげたいと思わない?
 ああ、そういえばルシードなんか少しそれに近いね」
 激しい後ろからの責めにイヴは息も絶え絶えになっている。
 それでもルシードという言葉を聞き逃しはしなかった。
「あいつを、凪を・・・どうする、つもり・・・だ」
「醜く汚い肉の塊にしてやる」
 イヴの耳元でアダムはそう呟く。
 くすくすという笑い声と共に。
 なんとかイヴは振り向いてアダムに言った。
「貴様ッ・・・あっ」
 不意をついて彼は乳頭を指で摘む。
 同時に胸を揉む事も忘れてはいなかった。
「冗談だよ。君が怒る所を見てみたくてさ。
 まあ、仮にそれをボクがするとしても、
 ボクの玩具に過ぎない君に何が出来るのかなあ?」
「それ・・・は」
 何も言葉が返せない。
 悔しさでイヴは両手の拳を力強く握り締めた。
 と言っても大した力は入らない。
 びくびくと震える身体と、ガクガク震える両足。
 彼女の身体は快感でまともに動きさえしなかった。
「可愛いねぇ。身体を支えるだけで精一杯?
 そんなにボクとするのが気持ち良いんだね」
「ちが・・・違うッ・・・! 誰が、誰がお前などっ・・・!」
「身体と心、ボクはどっちを信じればいいのかなあ」
 残忍な笑みを浮かべるアダム。
 彼の言う通りイヴの身体はアダムを受け入れている。
 イヴはアダムという天使がこの上なく嫌いだ。
 しかし彼女の身体は自らの思い通りにならない。
 それは涙が零れそうなほどに屈辱的だった。
「ふふっ、ルシードはねぇ・・・ボクにとっては君と同じだよ。
 退屈しのぎに使う玩具に過ぎないんだ」
「まき、こむな」
「えぇ〜?」
「私はどうなっても・・・どう言われてもいい。
 だがルシードを、凪をお前の遊びに・・・巻き込むな」
 視線を落としてイヴは辛そうな顔で言う。
 彼女は凪がインフィニティから帰ってから、
 どうしているのかを詳しく知らなかった。
 ただ幸せなのだと信じている。
 遠く昔のように感じる凪の笑顔が、
 今も彼を彩っているのだと信じている。
「君のルシードに対する感情は不思議だなあ。
 恋愛感情っていうよりは友情に近い。
 それでいて母性愛の様でもあるし、憧れの片鱗も見える。
 まるでボクには解らないよ。君にとって、
 ルシードがどんな存在として位置付けされているのか」
 アダムが不思議に思うのも無理はなかった。
 何故なら其処に明確な位置付けはされていない。
 言葉では説明できない微妙な存在なのだ。
 明確なのは、大切な存在であるという事。それだけだ。
「ルシードを巻き込みたくないならさあ・・・ふふっ。
 それを君の口から神様に言ってくれるかな。
 神様に見捨てられてもいいなら、の話だけどね」
「それ、は・・・」
「見捨てられるのは怖いかい?
 寄る辺を失うのは怖いよねぇ?
 君は一人じゃ何も出来ないんだから、
 誰かを護ろうなんて気持ちは似合わないよ。
 だってイヴは誰も救えないし、助けられない。
 出来るのはそうやって強がる事だけなんだ。
 意志の伴わない言葉を口にする事だけなんだよ。
 ならボクに口答えしちゃ駄目でしょ。
 他人の事なんかに気を配っちゃ駄目でしょ。
 ふふっ・・・さあ、顔をこっち向けて」
 身体は繋がったまま、イヴはアダムの方を見る。
 その表情は僅かに困惑し、怯えていた。
 目尻にはあまりの悔しさにうっすらと涙も浮かんでいる。
 そんな彼女にゆっくりアダムは口付けた。
 舌を滑り込ませ唾液を送り込んだ。
 拒もうとするイヴだが、圧倒的な快感が邪魔をする。
 何もかもが融けてしまいそうなほどのキス。
 嫌悪感を快感が押し流すと彼女はアダムの唇を求めた。
 貪欲に、あたかも恋人にするそれのように。
 忠誠の証。奴隷の儀式。
 そう呼ばれる物の様に、イヴは彼の唾液を飲み込んだ。
 喉を通り胃へと落ちていくのを感じる。
 その時、何かが壊れたような音が彼女には聞こえていた。
 絶望を孕み、何処か甘美で、暗く淀み、見上げる空のない音。

  ――――また少し綺麗になったよ。

 笑い声と共に聞こえるその言葉が、
 イヴの耳にステレオで聞こえてくる。
 確かにまた一つ。イヴの何かが壊れた。

Chapter104へ続く